神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 110 茶々姫の告白

2022年12月31日 18時57分33秒 | 貧乏太閤記
 聚楽第での天皇に対する接待の数々に天皇はすべて満足された、誰も体験したことが無いほどの贅が尽くされ、調度品、襖絵まで天下第一の物が用意されていた
十四夜の月を愛でながらの祝宴に謡曲も催され、帝も琴の曲を公家らと披露なされるほど上機嫌であった
その御気分は唐の玄宗皇帝が絶世の美女、楊貴妃を伴っての月見を思い浮かべたほどであった。 帝は聚楽第で3日間逗留の予定であったが、気分の良さは格別だと見えて5日間に延長された。
そして最後の日に、帝に対して秀吉より誓詞が渡された
京都市中の土地税、銀5530両を宮中費用として毎年治める
米800石、内300石を正親町上皇に、500石を六宮関白に
近江の国、高島郡の8000石を諸皇族、公家に差し上げる

 後陽成天皇の聚楽第行幸がつつがなく終わると、さすがの秀吉も疲れが一気に出てきて1週間ほど床から起き上がることができなかった
政所ねねをはじめ、愛妾たちも次々と見舞いに来たが、秀吉は口をきく元気もなかった
ようやく疲れも取れて、床から起き上がれるようになったころ、茶々が見舞いにやって来た
「もうそろそろお元気になられるかと思いやってまいりました」
「おお、さすがは茶々様じゃ、利発であられる、実は寝込んで苦しい時に、次から次へと見舞いが来るで、ますます具合が悪うなって困ったのじゃ」
 秀吉は布団の中で起き上がってにこやかに茶々と歓談した
そして茶々の顔を見ているうちに、ふと思い立った
「茶々殿、妹の姫が相次いで嫁いで寂しくなったのお、許してくれ
儂もようやく暇ができたゆえ、今度は茶々殿の天下一の婿殿を探すとしよう、どのような男が茶々殿は好みかの?」
「ふふふ まえに申したではありませぬか」間もなく19になる茶々姫の顔には、大人の色気が見え隠れしている
「さて? どんな男であったろうか」
「お忘れですか、私は伯父上(信長)のように強い男が好きだと申したではありませぬか」
「おお、そういえば、そのように聞いたような気がする、さてそうなれば誰じゃ」
「さあ? 私にはわかりませぬ」
「おお、徳川殿の跡取り秀忠殿は・・・うん? まてまて、まだ童であるな」
「・・・」
「蒲生氏郷はどうじゃ、今や松ヶ島12万石の主じゃ、いやいやもう30にもなる、奥方もおったわ、さて、これはゆっくり考えねばならぬのう」
「私は、10万石や20万石の殿方では満足できませぬ、50万石、100万石であらずば嫁ぎませぬ」
「おお、さすがは信長様の姪御じゃ、大きく出たのう、さて50万石といえば、そうそうおらぬ」
「それから草深い田舎、雪深い北国、畿内や尾州、濃州から遠いところも大大名であっても嫌です、北条家、上杉家、毛利家などはなりませぬ」
「ほほう、これは難問じゃ、畿内や伊勢、尾張、美濃、摂津あたりで50万石とは織田信雄、いやいや、これは叔父であるし奥もおるしのう」
「わかりませぬか殿下」
「なに? だれぞ心当たりがあるのか、申してみよ、儂が必ず嫁がせてやろう」
「本当に嫁がせてくれますか」
「もちろんじゃ、お市様に託された姫であるからには儂が責任をもって、幸せになってもらわねばならぬ」
「それでは申します、武士に二言はありませぬな」
「ははは、怖いのう茶々殿は、申してみよ驚かぬ」
「では申します、私の目の前におられるではありませぬか」
茶々が秀吉の目をまっすぐに見た、真顔になっている
秀吉は一瞬、冷や汗が出るような気持がした、そして茶々の目を見返した
その眼には炎と突き刺すような熱がこもっている、秀吉も真顔になった
「茶々殿、それはなるまい」
「二言は無いと、申されました」
「それとこれとは違う、儂には、ねねがおる」
「正室になるとは申しておりませぬ」
「だが、主の姪御を側室にもできぬ」
「正室でもない、側室でもない、茶々のままで良いではありませぬか」
「なんと」
「私は申しました、強い男でなければ嫌だと、昨年よりそう申しております
なぜ気が付きませなんだ」
「それは・・・儂は50になるのじゃ、親子より孫ほども茶々殿と齢が違う」
「ほほほ、そのような例はいくらでもあることは殿下がご存じでありましょう
私が聞いただけでも、松永弾正様、宇喜多直家さま、徳川大納言様も」
「茶々殿、本当によろしいのか」
「私は北の庄を出る時から殿下のことが気にかかっておりました、なぜなら母は,ことあるごとに『羽柴秀吉様こそ、誠実で頼りがいのあるお方だ』と申しておりました、また北の庄を出るときも『羽柴秀吉様を頼りなさい』と申しました」
「なんと、お市さまは、それほどまで儂を信じて下されていたのか」
「殿下、どうか私をお守りください、もはや天下に私を守れる殿方は、殿下だけでございます、私が必ず殿下のお世継ぎを産んで見せまする」
「世継ぎじゃと! まことか、まことに産んでくれると申すのか」
「きっと、きっと産みまする、愛情深ければ必ず産めまする」
秀吉は、茶々のかたくなさ、市の面影に負けた、その夜、茶々と秀吉は激しく結ばれたのである。
そして秀吉は、それを隠そうともしなかったし、むしろ人々に見せつけるような感じであった、かって「ふじ」を懐妊させてどのように隠し通すかと処置に困って、信長の知恵を借りた頃の恐妻家ではなかった
もはや日本中、誰一人として怖いものが居ない天下人なのだ
ねねも、そのあたりはとっくに承知していた、今更、悋気(りんき=焼きもち)を起こしても始まらないことはわかっている
しかし茶々は今までの側室とは全く違う、信長の姪をすでに側室にしているが、それは信長さえ会ったこともないような庶子弟の娘で、身分や実績から言っても、秀吉より遥かに劣る家格であった
しかし茶々は違う、近江の大名、浅井長政と、信長がもっとも愛した同腹の妹、市姫の娘、しかも長女である
その気位の高さは、他の側室たちを寄せ付けないものがある、もし彼女が男であれば織田信雄などより遥かに立派な武将となったであろう
そう思わせるほどの気品と迫力をもつ茶々である
彼女が言った通り「正室でもなく、側室でもない茶々」そのものであった。
ねねでさえ、他の側室には遠慮なく「**殿」と目下の呼び方をしたが、茶々には「お茶々様」と敬語を使うのであった。
もちろん、茶々も心得ていて、ねねには「政所様」と敬称で呼ぶが、他の側室には、ねねと同じく「**殿」と呼び捨てた。
ある側室が「茶々殿」と言った時など「無礼者!」と𠮟りつけた
秀吉も、側室たちには「茶々に対しては信長公同様に敬うように」と申し渡した、但し京極の局だけは別扱いである
京極の局は、格式で言えば織田家より上であり、しかも茶々とは従姉であったからだ、それは茶々も一緒に暮らしたこともあるので承知していて、姉のように親しんだ。




空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 109 後陽成帝の行幸

2022年12月30日 17時27分07秒 | 貧乏太閤記
 秀吉の側室は、ほとんどが大名の娘か公家の娘である
そのことを大坂や京の富裕層の町人たちは知っている、そしてこう陰口をささやく
「関白も、元をただせば百姓であったそうな
卑しき身分ゆえ、高貴な身分で生きてきたお公家や大名にはたいそう憧れていたそうじゃ、それでも信長公が存命のうちは、その欲望を隠して居った
だが、信長公が死んで、天下が転がり込んできて一気に抑えていた欲望が爆発したのじゃ、信長公の姪さえも側室にしたとか」
「なるほど、そうかもしれぬ」
「今、関白が望むことでできぬことはないであろうよ、関白もそれに気づいたのじゃ、下賤な育ちゆえ、その気持ちは信長公などとは雲泥の差じゃ」
「そうじゃのう、努力しなくても当たり前に得ることができる者と、力を誇示しなければ得られない者の違いじゃの」
「その通りだ、関白は力で押し通す、一方関白に狙われた姫は逃げる術がない、その親にしても蛇に睨まれたカエルじゃ、一族皆、自害の覚悟がない限り拒むことはできない、だがそれは高家の者にとって屈辱でしかないからのう」
「関白から見れば、それは喜びじゃのう」
「いかにも、そうじゃよ、かっては自分を虐げていた気位が高い相手程、関白にとっては楽しいはずじゃ」「嫌な性格じゃのう」
「仕方あるまい、田の泥にまみれて生きてきた関白だからこそ、高貴な者を汚すことで溜まっていた鬱憤を晴らすことになるからのう」
「わかる気もする、儂ら庶民にはのう、儂もそんな身分になれば何をしでかすかわからぬからのう」
「まさに、その通りじゃ、高貴な姫君と一夜を過ごしてみたいものよ、ぬかみそ臭い女房とは雲泥の差であろうのう、何とも言えぬ香木の香が全身から薫るのであろうか・・関白様が羨ましいわ」
「ははは、我らには無理な話じゃ、ぬかみそを味わうしかあるまい」

 徳川家康. 三河の小大名の嫡男として産まれた家康は、20代まで人質として育った、これも苦労人である
人質時代に今川家の中堅武将の娘を正室として娶らされた
その正室、築山殿はずっと家康を見下し、家臣に接するような態度を貫いた、最期は謀反の疑いで家康が斬り捨てた、それ以後、秀吉の妹、朝日を押し付けられるまで正室は持ったことがない
もちろん側室は秀吉に負けぬほどいる、秀吉との違い家康には男子だけで11人産まれた、その母親たちは何人かいるが、ほとんどが身分が低い武士の娘であった、中には出産経験があった者や、百姓の娘も居たという
だから秀吉の妹、朝日も昔は百姓の娘であったから、家康には何となく合う部分があったのだろう。
秀吉と家康の側室の好みが対照的で面白いから、時々、小説でも取り上げられる。

 聚楽第の生活もようやく落ち着くと、秀吉はかねてから考えていた天皇の聚楽第への行幸を実現させようと動き出した
そして来年の4月に行うことを正式に決めたのである。
織田信長が献身的に保護した106代正親町(おおぎまち)天皇は昨年、古希を一期に皇子の誠仁(さねひと)親王に譲位するつもりであった
親王は34歳であったが戦乱が続き、親王宣下を受けることなく、昨年薨御(こうぎょ)なされたのであった
その為、親王の皇子、15歳の和仁(かずひと)親王が107代後陽成(ごよううぜい)天皇となられたのであった、

ところが秀吉は聚楽第完成の喜びを来年まで待つことはできなかった
10月に北野天満宮で野点(のだて)の茶会を開催することにした、
松原美しく北野松原とも呼ばれる自然あふれ渓谷美も備えたここは、全国12000天神社総本社、村上天皇947年に夢お告げから造営された
ご祭神は、学問の神様菅原道真公(北野天満宮HPより)
京だけではなく畿内および周辺、博多までも触れを出した
秀吉が駿河以西の平定を成し遂げ、北条、伊達など全国の大名に戦争をやめるよう命じた国家統一を祝った催しなのだ
町人、庶民まで誰でも自由に参加して良いという歴史始まって以来の大盤振る舞い、しかしさすがに平民は恐れ多くて参加する者はなかった
だが一定の財を成した者、名声を得た者、公家、大名、大商人などがご機嫌伺いも兼ねてやってきた
社殿には中央に豊臣秀吉が黄金の茶室を構え、堺の大商人で茶の道の大家、千利休、津田宗及、今井宗久がそれぞれに茶室を構えて来客をもてなした。
境内では茶道に名高い名士も思い思いに茶室を設けて、茶をふるまった
この日、来場した人々は1000名ほどだったという
秀吉主催にしては拍子抜けの少ない人数であった、気難しい京都ならではかもしれない、それにメインメンバーが堺の商人と言うのも気に召さなかったのかもしれない
大成功とはならなかったが、秀吉の威厳を示したことは間違いなかった
来年には本番の正親町天皇の聚楽第行幸を控えている

 足利義昭が毛利領から京に戻ったのは、それからしばらく後であった
茶会に間に合わなかったことを彼は大いに悔しがったが、秀吉が義昭の為に新築した京屋敷にたいそうな満足を示した
秀吉は更に隠居料として義昭に1万石を与えた、義昭の手足にあった鋭い爪は跡形もなくなっていた、生涯義昭は秀吉のお伽衆となって穏やかに暮らした
翌年1月には征夷大将軍を自ら朝廷に返上して入道した、名前も昌山道休とした。 朝廷からは道休に公家の中でも最高位の准参を授けた
また秀吉も道休を家臣の最高の地位を贈った、それは徳川家康、前田利家ら五大老よりも上の地位であった。

 4月、後陽成天皇の行幸の行列は、都に住む人々にとっても、これほど大掛かりなものは初めて見る
甫庵太閤記によれば、華やかなる行幸と言えば延喜(えんぎ)年間の醍醐天皇、天歴年間の後村上天皇、室町幕府三代足利義満への後小松天皇、六代義教の時の後花園天皇の行幸より凡そ二百八十年ぶりである

 行幸、その豪華で華麗なる大行列は、滅多に驚かぬ京の人々を感嘆させた
烏帽子の武士団が先駆けで、続いて華やかな輿の天皇の生母と、輿に乗った高位の女官たち、さらにお車や輿の左右に警護の武士たち、既に通りの左右には6000人の警固の武士たちが並んでいる
そのあとを前関白と右大臣、内大臣、大納言ら高位の公家、皇族の行列、さらに護衛や傘持ちなど御付きの従者ら、その後には中将、少将、大将などの公家衆が50名ほど、そのあとを楽人が安城楽を奏でながら続き、後陽成天皇の輿が見えた、それに次いで左大臣近衛公、内大臣織田信雄公、続いて烏丸大納言、徳川大納言など大納言、中納言が20名ほど、そのあとに関白豊臣秀吉の輿が見えた。
そのあとを石田三成ら馬上の武士が70名ほど続く、その後には随身など様々な、お役目の者たちが500名続き、そのあとからは加賀少将前田利家など主だった大大名が二列に並び50名ほど、それに従う武士たちの数しれず
馬上の武士のきらびやかな装いは京の景勝地の春の新緑、秋の紅葉を見るような見事さであったという。
その行列の長き事は、天皇の輿が聚楽第の門をくぐったとき、関白の輿はようやく御所を出たばかりであった



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 108 九州大名とキリスト教と海賊

2022年12月29日 17時08分34秒 | 貧乏太閤記
 秀吉には気になっていることが残っている、石田三成ら奉行衆を呼んだ
「九州征伐の時、博多や肥前の商人から様々な話を聞かされた、その中でバテレンたちがポルトガル商人と繋がって、我が国の民を奴隷としてルソンやゴアなどに売りさばいていると聞いた、これについて佐吉(石田三成を未だに秀吉は幼名で呼んで可愛がっている)は何か聞いておるであろう」
石田三成は九州攻めでは、島津との交渉を引き受けており、戦後処理のため長く現地に残っていたから、現地事情には詳しい
「殿が言われたとおりでございまする、拙者も独自に調査しましたが間違いありません、有馬や大村はイエズス会が領内にやって来た時からそれを保護し、自らも信者となっております、長崎の内に教会の土地を提供して信徒は肥前だけでも10万も居るとのことです、その有馬、大村はポルトガルとの交易のため、奴隷の売買に目をつぶっているような噂もあります
それにポルトガル船やスペイン船は商船でありながら、実は海賊船でもあるそうです、我が国の近海では行いませぬが、琉球より南の海上ではしばしば海賊行為が横行しているそうです、一般の商船を襲うばかりでなく、異国の海賊船同士が積み荷や奴隷の奪い合いを行うこともあるそうです、油断も隙もありませぬ」
「やはりのう、商人どもが申していた通りか、よしわかった、佐吉はこれより儂が申すことを書いてバテレンの教会がある領主たちに伝えよ、そして即刻これを実行させよ」
その内容は、バテレンの追放(秀吉が許可する商人は除く)、長崎のイエズス会教会がある土地は没収して秀吉の直轄領とするなど、キリスト教の禁止に等しいものである。
「バテレン追放令」発布した秀吉はいよいよ九州の情勢に興味を持った
元は堺の商人であった家臣の小西行長を呼んで九州の大名や、バテレン、キリスト教の布教などについて尋ねた、行長自身信者であることを聞いたからだ
行長は、そのことで罰を受けるのではないかと恐る恐るやって来たが
「これ、弥九郎(小西行長)、おぬしは首を斬られると思いながらやってきたのではないか」といきなり胸の内を見抜かれて(これは本当に命が無いかもしれぬ)と思った
「聞いた話だが、おぬしもキリストの信者なのか、正直に答えよ」
行長は身が縮む思いになった「ははぁ、まことにございます」
「それは、辞めることができぬのか」
「いえ、興味を持って入ってみただけなので、いつでもやめることはできます」
「そうか、それは幸いである、すぐに脱会せよ」
「ははぁ、そういたしまする」
「うむ、それが良い、おぬしはバテレンとの交易なども行っていたそうじゃが、そのあたりの話も聞きたい、また大友も信者だそうだが、九州では大物の大友についてはたいがい調べがついておるが、有馬や大村について知っている者がおらぬ、そなたは多少は知っておるであろうから、話してくれ」
「はは、拙者の知る範囲のことはすべてお話いたします」
「うむ」
「バテレンのことですが、一つにまとめるとなかなかわかりませぬ、ユーロペ(欧州)には大小20もの国がありますが、ほとんどはわが国と同じくらいの大きさの国とのこと、その中でも今、インドからルソン、日本と船で乗りだしている国は案外少なく、ご存じのとおりポルトガルとスペイン、それにエゲレスと言う国やオランダも、我が国には来てはおりませぬが海賊の国だそうです。
このユーロペの国は、すべてがキリストの信者ですが、金持ちのキリスト教と貧しい者のキリスト教があって対立しているそうです。
ユーロペも国同士が同じ大陸にあるため3000年もの大昔から戦争が絶えず、国をとったり取られたり、滅ぼされたりと休まる時がないとのこと。
その中でスペインとポルトガルは競って大海に出て、見つけた島をすべて自分たちのものとし、そこに住民が居たり、国であればそれに戦争を仕掛けて勝ち、その国土を奪い、国民を奴隷として働かせるそうです
多少の武力がある国は抵抗するので徹底的に戦って、滅ぼされた国もあるようです。
我らが住む土地はあの地球儀のとおり丸いので、どんどん進めば一周して反対側から戻ってくるとのこと
それをスペインとポルトガルが互いに反対の方向に進んでいき、ルソンの辺りで出会ったので、そこから東と西に分けて、東はスペイン、西はポルトガルの領土にすると勝手に条約を結んだそうです。
「なんと!けしからんことだ」
「その通りです、しかし実際にインドも、ゴアも、ルソンも、明国の一部もポルトガルやスペインの植民地になっています」
「その者たちと互角に戦った国はなかったのか?」
「ありません、われわれも鉄砲、大砲を知らなかったではありませぬか、織田信長様は鉄砲を積極的に取り入れ、南蛮人と取引をされてから畿内周辺を瞬く間に制圧しました、島津が九州をほとんど手に入れたのも同じことでした、雑賀は小人数でも雑賀鉄砲のために織田様も従えることが出来ませなんだ」
「はっはは 信長様に鉄砲を売り込んだ最初の男は、この儂であった」
「えっ! どういうことで」
「よいわ、もう40年も昔じゃ、忘れてしもうたわ、話を続けよ」
「はい、そのスペインとポルトガルですが、ユーロぺからもっとも遠いのが我が国であります、今までやつらは手ごたえのある国に出会ったことがありませんでしたが、ここに来て明国、朝鮮、日本という文明と武力を持った国に初めてであったのです。
やつらのやり方は、その国にキリスト教を広めて国民をデウスの子と信じさせて、国を自由に操ってから奪う、というやり方です、武力がない国には、そんな遠回しはせず、力で従わせますが
明国、朝鮮、日本の中で奴らが見て驚いたのは、我が国が全国どこも戦の真っ最中だったことでしょう、さすがに日本は簡単には攻め取れないと思ったでしょう、それで帝を訪ねたり、将軍を探しましたが、帝には門前払いされ、将軍は名ばかりで力がないことを知った、それがわかり大名と言う王が日本中に百人も居ることを知って、それから島津、大友、大村、有馬、大内など九州大名に近づいたようです。」
「そうなのか、我が国には一目置いているのか」
「はい、朝鮮はもう200年も戦争をしていないので、これは簡単に奴らは植民地にできると思っています、だが明国と日本を刺激するのはまずいので、朝鮮にも攻めかけません、明国も同じく戦争をずっとやっていないので、帝と軍隊はあるが旧式でスペインなどは、日本の大名と共に攻め込めば2~3万の兵で攻め取れると、織田信長様に申し出たことがあったそうでございます」
「ああ、お屋形様は儂によく明国征伐の話をしてくれたものだった、懐かしいのお、思い出したぞ、志半ばで光秀めに討たれて、無念であったろう、儂にも『明国で大きな領土を与える』とよくいったものだった
ふむ、南蛮人の考えはだいたいわかった、あとは大村と有馬とイエズス会の話をしてくれ」
「はい、大村純忠公は、有馬晴信公の叔父ですから両家は親戚なのです、大友公もキリシタン大名、この3人は運命共同体のような者といえます
キリスト教の拡大に各大名は大いに力を尽くしたようです
大友公、大村公、有馬公が力を合してユーロペのキリストの本山「ローマ」という大寺院に4名の優秀なる少年を派遣したのは天正10年のことです
その後皆、竜造寺隆信公の巨大な軍勢に抗えず、領土を奪われましたが、有馬公は島原を何とか守り抜き、島津公と同盟して、殿が徳川様と小牧で戦っていたころ、沖田畷(おきたなわて)というところで血戦があり、ついに竜造寺公は打ち取られて、松浦、大村、有馬公らも息を吹き返したのでございます、その後は殿に従って島津攻めにも参陣しております。
また平戸の松浦公は大村公、有馬公の宿敵でありまして、一時は竜造寺公に与したこともありました
博多商人は知らぬ者はありませぬが、平戸の湊は九州一の良港で、松浦公自体が海賊衆を祖に持っておりますから、ポルトガルとの交易には熱心で、やはり鉄砲の調達では他の大名より二歩も三歩も進んでいますし、財力も豊かであります、ただポルトガルとの交易はしていても、松浦公はキリシタンには後ろ向きでござります」
「ふーむ、ようわかった、わしも、これからは考えねばならぬことが多いようじゃ」






 



雪のない年末で行けそうかな?

2022年12月29日 09時25分30秒 | 季節と自然/花
新潟県を脅かしたドカ雪も、わが地域には少しも影響なく、根雪にもならずすべて溶けた、これで今年は雪のない大みそかになりそうだ。
去年は12月にかなりの積雪があって、正月早々神社の境内で軽バンが吹き溜まりに突っ込んで2日間放置、他者の車でけん引してもらってようやく出ることができた。
あれに比べても、今年は穏やかで少しホッとしている。
テレビやネットの長期予報と言うのもそうそう当たらないようで、今年は大雪です」などと言っても、小雪だったり、昔からの伝承「カマキリの卵が高いところにあるから大雪」とかも、自然環境が破壊された現代では通用しなくなっている
自然のことは、自然に任せるしかない、先週の予報では北陸、新潟は大雪の第二波と煽っていたが、昨日も今日も陽が差して青空
おかげで昨日は旧宅の掃除や、整理がはかどったし、今日もまた仕上げに行ってこようと思っている。


空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 107 和解 秀吉と義昭

2022年12月28日 17時46分47秒 | 貧乏太閤記
 「はい、南の国では日本人傭兵が多いので日本人の娼婦は足りないほどだそうです、そして傭兵が多いのはスペインと振興のオランダがジャワからインドにかけて激しく領土争いを行っているからだそうです」
「ううむ、儂は少しもそれを知らなかった、早速調べさせてとるべき処置を考えよう」
「ははぁ~、ぜひともお願い申し上げます」

 秀吉は大坂への帰国途上、安芸(あき)広島城に毛利輝元の歓待を受けた
そこには鞆(とも)にいた足利義昭の姿があった、
義昭は秀吉より1歳年下で、この年4月は49歳である
「関白殿、九州征伐の成就まことにおめでとうござる」
義昭も、この歳になり、長年憎み戦い続けた織田信長もこの世になく、なんだか丸くなったように見えた・
「ありがたきお言葉でござる、このような場で将軍様とまみえるとは秀吉は果報者でござる」
輝元は二人の座をどのようにしようかと迷い悩んでいたが、安国寺恵瓊が
「かっては征夷大将軍と、信長公の家臣でありましたから足利公が上位でありましたが、今や豊臣公は関白であり天下人、官位でも足利公より上位であります、さりとて御家柄でも誇り高き足利公でありますから、座を横並びにいたして左に関白殿、右に権大納言(義昭の官位)殿といたし、殿は、お二人の下座で向かい合われれば宜しいかと思いまする」
そういう形で対面となったが、それで二人とも違和感はないようだ
「毛利公よりお聞きしましたが、此度の戦では将軍様から島津へ降参するようにとの使者を幾度も送られたとのこと、おかげで島津との死闘もないうちに講和がなったこと、お礼申し上げます」秀吉は義昭に頭を下げた。
「いやいや、たいしたことはしておらぬ、儂も戦にはもう飽き飽きしておるゆえ少しでも役に立てばと思ってやったまでのことじゃ、それに島津はなかなかの古武士であってのう、儂を主君と未だに持ち上げてくれるのじゃよ」
「ほほう、そうでありましたか、島津公と話しましたが、なかなかの者にて某も感服したものでござる」
「さようでありますか、此度はよくぞ堪忍して島津を許された、儂からも礼を申し上げる、島津は弟のようにかわいいゆえ、これからも宜しく面倒を見てくだされ、必ずや関白殿の力になるでありましょう」
「はは ありがたきかな、ところで将軍殿には都へお戻りになる気はござりまするか?」
「なんと! 戻れるものなら、すぐにでも戻りたいが」
「おお、それは上々、まだ九州からの帰りであり、当分はいろいろ後始末に手張りますから秋ごろを目途に帰京の準備を進めましょう」
「まことであるか、なんとありがたいことじゃ、毛利公聞かれたか、儂が都に戻れるのじゃ、これもみな毛利公のおかげである、そして御心広い関白殿のおかげである、生きながらえていて良かった、このような日は二度と来ぬとあきらめておったが」
「都には将軍殿の子息がおられるとか聞き申したが」
「おお、義尋がことであろう、出家しておる」
「おお、まさにそのお方でござる、まずは義尋殿を大乗院門跡に推薦しようと思いまする」
「なんと、義尋がことまで心配してくれるのか、ありがたい、ありがたい、関白殿は大仏様のようなお方でござる、知らぬこととはいえ、これまでの数々の無礼を容赦願いたい」
「お顔を、お上げくだされ勿体ない、島津懐柔のお礼をしたかっただけでござる」
長年の宿敵が、織田信長と言う大きな岩が外れたことで一気に和らいだ
考えてみれば足利義昭と豊臣秀吉が憎み合う理由など無かったのだ。
義昭の目にはうっすらと涙がにじんだ、このあと毛利輝元、小早川、吉川、秀長、そして秀吉と義昭は共に美酒に酔ったのであった。
翌日、秀吉は毛利輝元、小早川隆景、吉川元春に感状と褒美として数々の名品を贈った、元就も名物茶器と名刀を秀吉に贈った、義昭もまた秀吉と互いの名品を贈り合った。

 大坂に戻った秀吉は更に南蛮貿易と南蛮人について調べさせた
「南蛮人と申しても、我が国に関係する南蛮人はスペイン、ポルトガル、オランダの三国です、南蛮人同士が植民地を争っているのです」
「なるほど南蛮人にも敵味方があるのか、これは面白い、我が国にとってどちらが有益で、どちらが害を及ぼすのか見定めねばなるまい」
秀吉の心中は複雑である、南蛮人とキリシタンのことは今一つわからない
人身売買とキリシタンは関連しているのか、南蛮の交易船が奴隷売買しているのか、それはポルトガルもスペインも、どちらもやっているのか
どちらか一つなのか、それとも倭寇の仕業なのか
これを徹底的に調べようと思った。 南蛮交易は欠かすことができない、むしろ今より発展させねばならぬと思っている
だがキリシタンはどうだ、利用すべきか、排除すべきか、バテレン追放を言い渡したが実はまだ迷いが残っている
秀吉にしては珍しく決断力が鈍っている、(こんなことでは九州の有馬や大村ごときにも交易ではかなわぬ、あの島津はキリシタンの布教を拒んだというが、それさえ嘘であった、島津も交易のためにキリシタンの布教を許したと聞いた)
 大坂に戻った秀吉は、ふたたび精力的に動き出した
まずは昨年、甥の小吉秀勝と浅井三姉妹の三女、江姫の婚儀を執り行ったが、今度は京極殿の弟、京極高次と二女、初姫の婚儀を執り行った
京極殿竜子の喜びはひとしおであった、高次こそ愛すべき弟で、その頼りなさをいつも心配してきた竜子だったのだ
「これで、私が殿下のお子を産んだなら本当に幸せでございます、いつ死んでも悔いはありません」、高次の婚儀で高ぶった心のままに竜子は秀吉にささやいた。

  天正15年も秀吉は忙しい日々が続いている
島津との戦を終わらせ、大坂に戻れば初姫と京極高次の婚儀を執り行わせ、そのあとには茶々とのこともあった。
それよりもっとも大きなニュースは2年前から京の都に建築を始めた「聚楽第」が9月に完成したのである。
形式的には城であるが、戦闘を目的としたものではなく、迎賓館的なものと言った方が良い
だが織田信長が本能寺で非業の死をとげ、嫡男の信忠も城塞の要素を持つとはいえ城より遥かに防御力が弱い御所で討ち死にしたことが、秀吉の脳裏から離れない、それを踏まえて、きらびやかで、京の四季を取り入れた庭などを持ちながら、いざ敵が来たとなれば、数十日は籠城できる堅固さももった三層の天守もあるが御所づくりの建造物である。
 これができると仮住まいしていた大坂城の御殿から、秀吉は聚楽第へと引っ越しを始めた、落ち着けば大名の屋敷も城内に作るつもりだ
大坂より水路を船で京近くまで、そこから陸路で果てしない荷物の行列が並び、町人たちを驚かせた、その数は数百台ともいう
そして側室たち、政所、大政所、茶々姫も聚楽第に移った。





おかえり寅さん

2022年12月28日 10時43分20秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん
 昨夜は21時ころ飲んだコーヒーのせいなのか?久しぶりに寝そけた。
0時に布団に入ったけど、さっぱり眠れず、「眠れないなら」と起きて
ビールを飲みながら2時半まで小説を書いていた
ようやく、眠気が出てきて寝た、朝9時に息子に起こされるまで寝ていた
外は久しぶりの快晴、玄関を見たら、隙間から「フーテンの寅ねこ」が中を見ている、この前来たのはいつだったろうか? 1か月以上はたっている
毎年、雪が降ると1か月、2か月帰ってこなくて「もう死んだんだろうか」といつも思う、すると突然帰ってくる
長い時は5日くらい滞在することがあるが、1日でいなくなることが多い
もう5~6年の付き合いになるが鳴き声は2回しか聞いたことが無い、低い声で一声鳴いただけだ
玄関先で長くなって寝たり、毛づくろいしたりしてすかっかり安心しているかと思えば、突然警戒心を表すこともある
少しも痩せていないし、みすぼらしさもない・・不思議な猫だ
どこで暮らして、何を食べているのか全く謎だ。
そもそも我が家へ30~50日に一回やってくる意味もわからない?
すっかり冬毛になって、丸々と太って見える、夏の2倍には見える
家猫にはない現象だ
野生の中にいるとクマやキツネなんかと同じで、毛を増やしたり減らしたりして体温を調節する、まさに野生ネコだ。
しばらくして、どこかへ行った。 明日も来るか? また長旅に出るのかわからない。

 北国では滅多にない冬の快晴、今日一日を無駄にしないよう、散歩やら家の周りの掃除やらをやろうと思う。




空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 106 九州こそ先進地

2022年12月27日 18時07分30秒 | 貧乏太閤記
 この戦の後処理は大友に豊前、日向を、筑前は毛利に、そして黒田官兵衛にも豊前12万石を与えた、毛利は伊予に続き筑前(福岡県)と肥前の一部を得た
秀吉の仇討を二次的に支援したことが今日こうして実を結んだのだった。
また佐々成政には肥後一国30万石を与えて、殺伐として一揆が多い肥後の平定を任せた。
佐々は絶句した、一時は柴田に与力して秀吉に敵対、そして国を失って秀吉の旗本の一武士に身を落していたのだ、それが30万石と言う大きな領土を与えられた、感激しない方がおかしい。
一方で大友宗麟は隠居を希望して、加増された日向を返上、息子に与えられた豊後だけをいただいた、もはや国を維持する気力を失っていたのだ
また嫡男を失った長曾我部にも九州に領土を与えようとしたが、戦死した息子のことを思い出すからと辞退した、こちらもまた厭戦気分が心に根付いたのだろう。
 
 博多に着いた秀吉はここで数日の休暇をとった、それは筑前のことを調べるためでもあった。
 黒田官兵衛、石田三成を伴い、博多の豪商で茶人でもある神屋宗湛(かみやそうたん)の案内で荒れ果てた商業都市を端から端まで歩いた。
平安から鎌倉にかけて宋との貿易港として栄えた面影は、九州の争乱で面影すらない、わずかに神屋ら豪商がこの町を支えている
「これほどまで荒れ果てると気持ちが良いものじゃ、なにもかも更地にして豊臣秀吉流の町づくりがいかほどのものか見せてやろう、のう宗湛よ」
「天下様の肝いりで、そのようにしていただけるなら、これほどの幸せはござりませぬ」
「みておれ、この博多を堺同様にしてみせようぞ」
「心強きお言葉にござりまする、われらもご期待に応えるように全力で励みまする」
「おお、その言葉を信じよう。 それにしても儂はこれまで九州は湊より遠く、奥州と同じように最果ての僻地と思うておったが、そなたからアジアの地理を聞かされて目が覚めたぞ」
「神代の時代に天孫降臨(てんそんこうりん)で神武天皇が天から降りられたのが薩摩と日向の辺りの高千穂の峰と申します、その後、出雲を併合して畿内に向かい大和で朝廷を開かれたとか
日の本の始まりが九州であると言われております」
「なるほど、いかにもありそうじゃ、それにしてもこれほどに明国や朝鮮が近いとは思わなんだ、筑後、筑前、肥前こそこれからの日本の海外進出に欠かせぬ土地である
筑前は毛利に与えるが、博多は豊臣家の直轄地として我らが管理する、その方が博多の商人もより利を得ることが出来よう、大いに稼いで税を治めよ」
「そのように努めまする」
「官兵衛よ、そなたには豊前で12万石を与えようと思うが、豊前には息子を置いて、そなたは変わらず儂の元で頼むぞよ
官兵衛は思った(佐々でさえ30万石を与えられたのだ、儂は50万石でも良いと思うが、どうやら儂に野心があると秀吉公は思ったのであろう、やはり鋭いお方である)

「佐吉(石田三成)は、しばらく博多にとどまって町づくりの監察をせよ、肥前には九州の拠点となる九州一の城を建てよう、島津ら降伏した諸大名を使って普請させる、縄張りは藤堂高虎に任せよう、三成は長束正家と2か月ほどこの地にとどまり采配を振るがよい」
「はは」
九州こそ朝鮮、明国、ルソン、マカオなどの玄関口であることに気づいたのだ。
アジア的視野で見れば、京、大坂こそ僻地(へきち)で、九州は日本、朝鮮、明国、ルソンの中央に位置している
既に豊後から肥前、筑後までキリシタンの教会がいくつも立ち並び、キリシタンに傾倒した大友、有馬などの大名も居る、九州には信徒が10万人は居ることも知った
 
 宗湛の話を聞いて大坂に戻る予定を変更して筑後長崎、肥前、その地でしばし日数をとって見聞した
その地その地のリーダー的立場の商人を呼び、この地の今までの領主の政治や経済、文化から風俗に至るまで問いただした
すると思ってもみなかったことが、次々とわかって来た
秀吉は九州の地の貿易について好意的に思ったし、また南蛮人やキリスト教にも信長同様に理解を示していた、ところが
「この北九州では松浦、大村、大友などの諸大名がキリスト教に傾倒して自らも信者になっております、それは一向にかまいませぬが、町ぐるみパードレに
与えて教会を自由に建てさせ支援までしております
それも良いとして、それより元からあった寺院を破壊するようなことが度々あって、鎌倉の時代からあったような名刹まで破壊されたことがあります
あまりの横暴に寺社は憤慨し、町人も眉をひそめますが領主さま自体が信者ではどうにもなりませぬ」
「それは難儀をしているものもおろう、諸大名には仏教とキリストと共に繫栄できるよう申し渡そう」
「それはありがとうございます、しかしもう一つ重大なことがあるのでございます」
「なんじゃ、まだあると申すか」
「はい、それは南蛮貿易のことでございます」
「ふむ、南蛮貿易には儂も関心を持っておる、なにが不都合なのか」
「はい申し上げます、南蛮船はわが国のさまざまな品をルソンから、さらに遠くユーロペまで運び、反対にめずらしいギヤマンやらビードロ、織物から硝石、火薬の類まで我が国に持ち込んで商いをしております」
「それは存じておる、それが交易と申すものだ、我が国も富むのだから不都合はあるまい」
「はい、それだけなら不都合はありません・・・が、他にも南蛮人やパードレ達の大きな利益がございます」
「なんじゃ、それは」
「はい、人買いです、堺や上方は御上に近いので静かにしておりますが、ここ九州のことは上方にはなかなか伝わりません、それを良いことにして人買いがまかりとおっておるのです」
「なんと、人買いを南蛮人がやっておると申すのか」
「はい、南蛮人、それもポルトガルやスペインのパードレが中心になっております、しかもこれには五島あたりの日本や朝鮮、明国の海賊衆も一枚加わって、戦で敗れて捕虜になった者、落城した城の女や足軽、その町の町人など、特に女、子供をさらって南蛮人に二束三文で売り渡すとか
一艘に100名以上が奴隷のように詰め込まれ、足を数珠つなぎにされて逃げられぬようにしておしこめられているとか」
「いったい、そんな者たちをどうしようとするのだ」
「はい、強そうな男は肉体労働の奴隷や傭兵として売り、女の多くはジャワやインド、シャムのあたりで娼婦として売られている様子、子供は労働力として売られると言います」
「けしからん! 儂の民を無断で売るなど許せぬ」



辛いのが好きだけど

2022年12月27日 07時44分01秒 | 料理を作る・食べる
キムチを作った、11月から二度目で改良しながら作る
辛いもの、ネバネバしたものが大好きで、キムチ、納豆、長イモ、メカブ、明太子など
ところが最近は食道から胃にかけて、辛いキムチを食べた後。負担が大きくなってきた。
それでも食べたいので、キムチチャーハンを作って食べた
なかなかの旨さで負担も無かった、素で食べるとどれだけも食べられないが、チャーハンだと一気に消費できる
友達数名にも、おすそ分け、好みがあるから聞いてからでないとあげることができないが、割と好きな人はいるようだ。

白菜がもう少し多めでもよさそう

まだ完成形ではない、新米で粘り気が強いから、時間をかけてパラパラにする

五箇山ドライブ途中の、和紙の道の駅で買った和紙のポシェット、色が気に入った

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 105 誇り高き島津との講和

2022年12月26日 17時49分42秒 | 貧乏太閤記
 秀吉もいよいよ本気になって島津攻めをする気になって、37か国の諸将を大坂に集めて軍議を開き、年明けの2月に本格的に九州攻めを開始することを決めた。
派遣する兵数は20万とも25万ともいわれ、そのための兵糧や弾薬の準備だけでも3か月はかかるのであった、これを石田三成ら三奉行と、輸送を商人上がりの小西弥九郎らに任せた、1000艘より更に多い軍船や輸送船が大坂湾から瀬戸内に溢れかえった、そして尼崎の湊を主に、堺を副にして続々と兵員や物資を筑前に向けて発進した。

 侵攻作戦では軍勢を2つに分けて薩摩を目指すことにした。
肥前、筑後、肥後方面は秀吉が率いる。豊前から日向方面は豊臣秀長が率いることになった。
そして、この噂が流れると、それだけで筑前、豊後の島津方の小領主は降伏した
いよいよ秀吉、秀長が九州に入ると、その威光だけで豊後から日向、肥前から筑後、肥後の地方領主の多くが戦わず降参する者が次々と現れた
秀吉はそれらの多くを許し、先陣に加えたので、軍勢はますますふくれあがった。

 九州はすべての国を併せて200万石、島津固有の領土である薩摩、大隅は50万石ほどで、早くに占領した日向、肥後南部を併せても70万石ほどであった
これは初期の尾張一国ほどでしかない。
兵数に換算しても最大2万人しか雇えない、なのに薩摩、大隅、日向で薩摩は4万の兵を養い、高価な鉄砲は万挺も準備されている、これはなぜか
薩摩はもともと米作りにはあまり適しているとは言えない土地である、ところがここは上方からルソン、琉球、マカオへの往復の中継地点として本土列島の最終で最初の大きな港湾都市なのだ、アジア地図を見ればよくわかる
朝鮮や明国に渡るには博多や下関が良いが、南下するには鹿児島が最適だ
種子島、屋久島、琉球列島を下り、高山国(台湾)、ルソン(フィリピン)、マカオ、インドと島伝いに行けるのだ。
薩摩が貿易での莫大な利益、そして商人から得る税、それは米の収穫などより遥かに大きかったに違いない、それが薩摩の強力な軍事力を支えていたのだろう。
 大友が九州最大の勢力を誇っていた時は100万石を超えていて、島津の日向(宮崎)を狙って大軍で攻め寄せた。
天正6年(1578)勢いのままに4万の大友軍は日向を南下して、薩摩の堅城、高城を包囲した、守備兵は僅か500だが、城は要塞堅固の山城で兵数より多い鉄砲で武装しており、独特な地形とそれを利用した空堀で大友軍は近寄ることができなかった
高城からの知らせを聞いた島津は、島津義久が大将となって3万の兵を率いて耳川までやって来た。
そして大友軍の主力を挑発して自陣に誘い込み、得意の鉄砲で完膚なきまでに大友軍を叩きのめした、大友の名のある武士が相次いで討ち死にして完敗で逃げ帰った。
それ以後、攻守は反対になり島津が豊前目指して攻めあがったのだ。
また天正12年には味方である肥前の有馬が、北九州最強の竜造寺の4万の大軍に攻められた時も、島津家久が5000を引き連れて救援に向かい対峙した
数的に圧倒する竜造寺の本隊を、巧みに沖田畷の沼地に誘い込んで、またしても1000挺にも及ぶ鉄砲隊がこれを三方から乱射した
そのため、勇猛なる大将、竜造寺隆信は戦死、首を取られ、竜造寺は敗走した、まさに九州の桶狭間と言って良いほどの島津の戦法であった。

 九州の大名には、この大友、竜造寺という島津以上の戦力を擁する大名がいたにも関わらず、島津に敗れたのは装備の差と、総大将を中心に三人の個性的な弟、それに忠実な薩摩武士団の結束であった。
薩摩は国内では唯一閉鎖的な地域社会と特別な文化を持っている
日本の中では閉鎖的でありながら、海外に対しては日本では長崎、博多、堺と同じほど開放的な貿易を行っていた
1543年に目と鼻の先の種子島に南蛮船が漂流して、そこで鉄砲が伝えられたが、種子島の領主は小大名ゆえ、これを持て余し主家の島津家に、処置を任せた
それ以後、島津は信長などよりも早くから鉄砲の部隊化を進めて、南蛮人に教わって製造も開始した、また火薬、弾薬も比較的簡単に手に入る環境であったため九州でも抜群の鉄砲王国となった
島津は他国が「卑怯な武器、下賤の武器」として消極的だったのに対して、戦術の一つとして職業軍人である武士階級の鉄砲隊を編成した
足軽鉄砲隊に比べて、使命感、命を惜しまぬ勇気は10倍も違ったであろう、また薩摩人の性格は独特で、上意下達は絶対であり、言い訳などという言葉は知らなかったのではないだろうか、それが島津の強さであった。
秀吉亡き後、1600年には関ケ原の戦で島津が属した西軍(豊臣家臣石田方)は敗れ、7万の敵の中に取り残された島津隊1500は、石田三成など敗者が全て後方に逃げたのに対し、大将の島津義弘を押し包み、先陣には副将の島津豊久、殿軍には重臣の長寿院盛淳が兵を率いて、正面の徳川軍に向かって一斉に突き進んだ
そして徳川方の先陣、福島正則隊など外様諸隊を圧倒して潜り抜けると、今度は徳川旗本部隊が現れた、そこで大きく右に進路を変えて、伊勢方面に向かって逃走を開始した、薩摩までは250里(1000km)はあるだろうに

 家康の息子、松平忠吉、その舅、井伊直政隊が追撃する、島津隊は10人20人と馬を下りて、迫ってくる敵を待ち受け鉄砲を撃ちかけると、そのまま敵の中へ切り込んで差し違える、そんなことを何十回も繰り返し
いよいよとなると、長寿院、島津豊久が相次いで島津義弘の身代わりとなって時間を稼いだ末、討ち死にを遂げた
おかげで島津義弘と生き残った100にも満たぬ家臣は堺に落ち延び、そこから島津出入りの商人に匿われて、彼の船で無事薩摩に戻ったのである
このように、島津の侍鉄砲隊の活躍が島津を九州の覇者にしたのは間違いない
関ケ原でも、この戦法で追いすがる井伊直政、松平忠吉に鉄砲傷を負わせ、それが原因で二人とも後日死亡している。

 こんな素晴らしい戦術と不屈の魂をもった誇り高き島津であったが、やはり20万の秀吉軍と、島津から寝返った九州の諸将数万相手には勝利は無理と悟った。
そして総大将の島津義久は頭を丸めて入道となり、豊臣秀吉に会見した
秀吉もさりとての者、義久を一目見るなり、その強さを見抜いた
柴田勝家などの強さとは違うカリスマ的オーラを感じたのだ
(この男が畿内辺りに出現していたら、信長様と互角の戦を展開したに違いない、武田信玄に匹敵する器だ)そう思った
あの命知らずの薩摩武士から尊敬され慕われていて家臣団を完全掌握、勇猛な三人の弟からも信頼されているという島津義久、(これは扱いをあやまってはならぬぞ)
すでに死を覚悟してきても堂々と秀吉と対面している義久を見ていると、友情すら感じてくる
「降伏条件を申し渡そう、島津には薩摩、大隅を残して他は返上すること
日向の一部は島津家家臣に与える、島津家と家老たちは相当の人質を大坂に送ること、これに不服なければ、これにて和議を成立させる」
島津の領地は70万石残ったのである
もちろん敗者の島津義久に異存があるわけはなかった、思ったより寛大な処分に秀吉の人柄の大きさを見て、義久もまた秀吉のファンになった。
こうして秀吉の九州統一も、島津がわりと早く降参したため大した大戦もなく短期間で終わった



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 104 九州の雄、島津の力

2022年12月25日 17時54分41秒 | 貧乏太閤記
 大地震で始まった天正13年であったが、この年の12月に秀吉の後継ぎと目されていた(於次)秀勝、丹波少将豊臣秀勝が危篤に陥り、14年が明けて間もなく死んでしまった。
織田信長の四男、秀吉とねねに子がないことを気の毒に思った信長からの最大の褒美であった秀勝だった。
21歳、まだこれからが楽しみな武将であった
これで秀吉の子、二人の信勝が死んだ、最初は実子の信勝、ふじとの間にできた子であった、そして今度の養子の信勝、秀吉はまたしても打ちのめされた
そして秀吉は思った、(子がなくば何のための天下取りであるか)
そうは思って見たが、すぐに気づいた(違う、儂が天下平定を願うのは信長様の意思を継ぐためであった)
そして翌日、姉の三好吉房夫婦を大坂城に呼び寄せた
「小吉を儂の子にくれ」と言うと吉房は
「願ってもなき光栄でございます」と喜んで差し出すと言った
小吉は三好秀次の弟である、秀吉に仕え武士として取り立てられ、それなりの地位を与えられている、兄はすでに近江権中納言という武家では秀吉、家康、秀長に次ぐ4番目に高い身分になっている
父の吉房も秀次の家老として仕えているのだ
そもそも、この三好吉房も、昔は姓の無い弥平という百姓だったのだ、秀吉の姉「とも」と尾張で一緒になったばかりに百姓から豊臣秀次の家老にまで上り詰めた破格のラッキーボーイと言える
こうして秀吉は甥の小吉を養子として、またしても秀勝を名乗らせたが便宜上、小吉秀勝と書くことがある。
そして秀吉は考えた(儂は信長様の意志を受け継ぐからには、信長様ともっと深く結びつかねばならぬ、せっかくのつながりであった(於次)秀勝が死んでしまい縁は切れたようだが、儂の手元には信長様の姪が三人もいる、わしが佐治から取り上げた江姫を秀勝に娶わせよう、そうすれば市様の娘と、儂の甥が夫婦になり、できた子は豊臣と織田の血を引くことになる)
こうして、秀吉は矢継ぎ早に手を打って(於次)秀勝の49日法要が済んで数か月後には、豊臣(小吉)秀勝と江姫の婚礼を執り行ったのである。

 秀吉が寵愛する側室たちの中でも、京極高次の姉の京極殿(竜子)が一番のお気に入りであった、他の側室よりも年長で今年27~28歳になる
かっては若狭守護家であった武田家の御曹司武田元明に嫁ぎ、3人の子を成した、しかし本能寺の変で進退を誤り、明智に味方したため滅ぼされた
その時、竜子は柴田勝家の北の庄に逃れていたのだが勝家が秀吉に攻め滅ぼされたとき、秀吉軍に捕えられて秀吉に出会ったことは以前ここに書いた。
そんなわけで、竜子の、子を産んだ女ならではの落ち着きぶりと、女の盛りともいえる色香と美貌に秀吉は満足していた、また秀吉の前ではそんな竜子だが大政所(秀吉の母)や政所(ねね)の前に行くと大人しく献身的であったから愛妾ながら二人からも愛された
名家の(京極家)子女でありながら奢らず威張らず、その姿は美しく誰にでも愛される人柄だったから、秀吉は公家らとの軽い交際の場には京極竜子を伴っていくことが多かった、公家社会にも通用する常識と教養を持つ女性だった。
 
前置きが長くなったが、この竜子は弟の京極高次の将来を常に心配していた、本能寺の変でも武田元明について秀吉の長浜城を攻めたために秀吉に首を切られそうになったのを姉のおかげで助かっている、そんな頼りない高次の「後ろ盾になっていただきたい」と竜子は秀吉に寝物語で何度も願っていた、
そんなある夜、竜子の肩を抱きながら耳元で秀吉が言った
「儂は決めたぞ」「何をですか?」
「高次のことじゃ」「はい」
「高次に、浅井の中の姫、初姫を娶らせよう」
「なんと申しました? 初姫と!」
「そうじゃ。不服があるか」
「とんでもありませぬ、高次と初姫様とは従兄妹同士、小谷城でも北の庄でも共に過ごしてきて知り尽くしておりますし、仲も良かったのでございますよ
真に似合いかと思います、歳も10歳違いかと思います」
「そうか、そなたさえ喜ぶなら、この話は決まりじゃ、来年の婚儀のための準備をいたすがよい、そうだ祝儀に加増も致さねばなるまい」
「ありがとうございます、嬉しい」竜子は秀吉の背中を思い切り抱きしめた
49歳になる秀吉は、小柄だが筋肉質の肩から背であった。

 秀吉が日本の中心で戦を続けている間に、九州は島津4兄弟が猛威を振るっていた
ライバルだった肥前の強敵、竜造寺隆信を天正12年迎撃戦で討ち取り、一気に北九州に攻めあがった
かっては九州の40%も領土とした大友も僅か10%程度まで減らされ、しかも90%は島津領となった
風前の灯となった大友宗麟は秀吉に泣きついてきた、だが束の間の平和のうちにやるべきことが山積みになっていた秀吉は宗麟にこたえることが出来なかった。
そこで島津に勧告状を送った、「占領地のうち、筑前、筑後(福岡)、肥前(佐賀、長崎)、肥後(熊本)、豊前半分(大分)を返還せよ」
これでは攻め取った領地で残るのは豊前の南半分だけになってしまう、当然島津は秀吉の国分け案を無視した。
当然、そうなるだろうと予測していた秀吉は時間稼ぎに、9月、四国の長曾我部と十河(そごう)、讃岐を賜った仙石久秀を軍監にして兵6000を九州豊後に送った、「島津が来たら籠城せよ、毛利が救援に来る」と言い置いた
これらの兵は大友軍が籠る豊後の府内城に集結して、北上してくる島津家久の軍に備えた。
10月には毛利軍が2万を率いて筑前に上陸した、軍監は黒田官兵衛
筑前の島津方の城の掃討を始めた、これで孤立しながらも少数で城を守り抜いた立花宗茂の立花城は開放された。
立花城を攻めていた島津義弘軍の先遣隊1万は、方向を転換して豊後府中城に向かった、これを聞いた仙谷は慌てて、「敵が来る前に目の前の島津家久軍を破ってしまおう」と言って、兵を戸次川まで進めた。秀吉の命に背いたのだ
それに伴い島津軍は後退を開始した、勢いに乗った仙石は「川を渡って敵を追撃殲滅するぞ」と命じた
しかし長曾我部は「島津が下がるのは作戦ゆえ、深追いは避けるべき、川のこちらにいる方が賢明である」と止めた
しかし仙谷は聞かず、十河隊と共に3000で川を渡った、そしてさらに進軍すると突然街道の左右から鉄砲が撃ち込まれた、これこそ長曾我部や大友宗麟が恐れていた、島津の得意の鉄砲の作戦であった。
たちまち仙石隊は総崩れになって戸次川に逃げ出した、それを見ていた長曾我部信親が率いる2000は川に入って、逃げてくる隊士を収容しながら、追いかけてくる島津軍と戦闘になった、少数に見せていたが実際は1万の島津軍であった
それがまたしても鉄砲隊を先に進めて、川の中の長曾我部隊に撃ちかけて来た
幾十名の長曾我部兵が川に倒れた、すると一斉に島津軍先鋒5000は長槍と騎馬で川の中に攻め寄せて来た
長曾我部隊は奮戦したが多勢に無勢、次々と討ちとられ、ついには大将の信親も首を取られた、これを見た父、元親は残る1000を率いて戸次川に向かおうとしたが家臣がこれを止めて、無理やり後退させ、海岸に出ると船に乗せて伊予へと逃げ出した。
十河も撤退中に追いつかれて首を取られた、恐るべき島津の戦闘力であった。 大友宗麟も毛利に合流すべく豊前の領地を目指して逃げたので、府中城は島津の手に落ちた。
こうして豊臣、大友の防衛ラインは筑前と豊後のみとなり、これを秀吉に報告した。