神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 86

2024年05月01日 08時21分44秒 | 甲越軍記
 羊の刻、上州勢の新手は「エイエイ」と声を上げて攻めあがる
まさに陽は西に傾き武田勢は夕日を背にしての布陣
晴信は東より攻めあがってくる敵に「かっか」と笑い
「いかにも戦を知らぬ者どもよ、蹴散らして捨ててくれようぞ」と飫富兵部を先陣に鉄砲を少し打ちかけて間もなく、槍衾の隊列で乗り下し、下からくる上州勢を当たるを幸いに突きまくる

上州勢の先陣は倉賀野六郎、疲労困憊の板垣勢と侮って攻め寄せたものの、思いもよらぬ勢い十倍の敵
その数も倍に増して、更には諏訪の旗、八幡大菩薩の旗はまさに甲州の大将、武田晴信の本陣
倉賀野勢は驚きおののいた、そこを突き崩して攻め寄せる飫富の先陣
道は後下りの難所、頭の上に前の味方の足が乗りかかる
そこに逃げ降る馬の脚までもが頭に乗りあげて、倉賀野勢は総崩れ
山道の迷い込んで行き止まり、あるいは深い谷に転げ落ち、屍は山の如くに重なり
高きより攻め下る武田勢は坂本まで攻め寄せて、この日討ち取った上州勢の首は四千三百六級、
生き残った者も五体満足な者はなく、足を折り、手を折り、あるいは谷底にうずくまり、手傷を負った者数知れず
思い思いに上州へ逃げ帰る。

武田勢は勝どきを上げて、御大将自ら首実検(討ち取った首を見聞する儀式)を厳重に執り行う
まずは武田晴信、采配を取って床几に腰かける
飫富兵部、御太刀の役にて後ろに控え、板垣駿河守は団扇(うちわ)の役にて左にかしこまり、原美濃守は鳴弦の役にて弓に真鳥羽の矢を添えて右のほうへ
山本勘助は貝の役にて吹かずして手にもってささげ右の方に畏まり
小幡尾張守は太鼓の役にて、仲間(ちゅうげん)に背負わせ大将の傍らに
旗は加藤駿河守旗差しを側に引き付けて、旗に左手を打ちかけて畏まる
南天の手水は金丸筑前守、太布の手ぬぐいは飫富源四郎昌景

酌人二人は割り紙の髻にて髪を結いあげ、四度入れの土器にて四度ずつ加えて十六度、肴は搗栗昆布(かちぐりこんぶ)、とし「勝ち悦ぶ」を表す
その後、小幡尾張守、バチを取りて太鼓を三度打ち鳴らす
時に晴信は声を発し「エイエイ」と三度唱えると、諸軍勢一同に大山も崩れるかの声で「おう!」と声を上げた。
かくしてここに三日間逗留して、その後の上州勢への抑えとして板垣信形を軽井沢に残して、晴信は十日に甲府に向けて発った。


「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 85

2024年04月30日 10時03分18秒 | 甲越軍記
 春日、小幡らが笠原勢と戦っている間に、晴信は早くも六日羊の刻には軽井沢に入った。
この時、信州内山の代官、飫富兵部少輔虎昌、小室の代官、小山田備中守、岩尾の代官、真田弾正忠幸隆は上州勢三万三千が碓井へ押し寄せるとの報を聞き
板垣信形一手にて引き受けるとのこと、いかに名将とは言え五倍近い敵を支えるのは難儀の仕業、もし敗れることあれば病床の御大将苦しみ賜うことになるであろうと思えば、命ぜられることも無かったが、各々信方の与力として軽井沢に参じたのであった。
ところがすでに板垣の勝ち戦が済んだところであった、しかもそこには病床に伏せっているはずの晴信までもが一騎駆で着いていた。
一同これには驚いたが、さらに晴信の顔を見るに、病の人とは思えぬ顔色の晴れ晴れしさ。

信形の大勝利の報告を聞いて、晴信は「予は病に伏せっていたが、今日ここまで早がけに来て見ると、病の苦しみは消え去り、まことに爽やかな気分で力の湧き出るを感じた」と言い
「予は戦時に生まれ、戦場が合うようである」と満面の笑みで話した。

こうしているうちに甲州より晴信を追って、駆け付けた諸士が続々と集まり
その勢は一万にもなった。

その頃、上州勢は追い落とされて坂本まで逃げ帰ったが、そこには未だ一戦も交えぬ後方の上州勢が負け戦の思いもなく
後詰の大将たちは口々に「もし此度の戦で敗れるようなことがあれば、長野の始めの悪口が的中したことになる」
「我ら新手の一万六千で攻め登れば、敵は戦に疲れた小勢の者ども、入れ替わる兵もなくたちまち敗れ去るであろう
ここは再び攻め上って一戦すべし」と意気揚々に出陣する。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 84

2024年04月29日 15時23分53秒 | 甲越軍記
 晴信が駆け出たのは五日の辰の刻であった
既に信州に入り志賀を駆け通った時には、志賀の城主笠原新三郎は上杉家に志を通じていたので、晴信が一騎駆にて志賀に至ったと聞き
「今、この時こそ天が我らに与えた晴信めを討ち取る絶好の機会なり」と勇み、思う間もなく城を駆けだした
笠原もまた鎧を肩にかけたまま飛び出すほどの急であったから、従う士は五十七騎であった。

晴信の馬術の妙は天才的であり、その速きことは誰もついてくることが出来ず
武田の精鋭と言えども、何とか晴信に追いすがって走る武者は近臣旗本の十二騎のみ
その中でも、晴信に馬を並べて疾走する達者は春日弾正ただ一騎のみである
この時、笠原が一党は馬を走らせて、晴信の横合いから突きかからんと近づいてくる
晴信は、これを見て「弾正、あれを追い払え」と命ずると「心得たり」と馬に鞭をあてて笠原勢十六騎に向けて一騎で向かった
やや遅れて駆け付けた小幡虎盛はこれを認めて「危うきや弾正」というが間もなく、弾正の方へ馬首を向けて走る

笠原が見つめるのは、ただただ武田晴信の姿のみ、一心不乱に晴信に迫りゆく
そこに近づき走る春日弾正さえも目に入らず、なおも駆けて行く
恐るべき猛虎が近づいていることも知らず
そして突然、弾正の槍が一閃、ようやく敵の迫ったを認めた笠原であったが、すでに遅く。弾正の槍先は笠原の左の肩を貫いて、たまらず「どっ」と落馬した。
すかさず弾正はとどめの一槍を突かんとしたところに、笠原の臣、笠原與一右衛門が駆け寄り、太刀をかざして討ちかけてきた
弾正は、笠原新三郎の留め槍の矛先を與一右衛門に向けて突きだせば、わずか一突きで倒し、それを投げつける間に笠原の家人たちが新三郎を救い出して後方に下がる
その入り乱れた中に小幡虎盛が突き入り、たちまち六・七人を切り倒した
その鬼神の如き虎盛の勢いに、笠原の兵士たちは四方八方に逃げ散った、そこへ遅れて駆け付けた武田の諸士が取り囲み、笠原勢の首三十ほど討ち取った。


「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 83

2024年04月28日 10時31分08秒 | 甲越軍記
 武田晴信は甲府の館に在り、病重く臥せっており、上州勢が碓氷峠に押し寄せたと聞き板垣信形に信濃勢をつけて向かわせたが、持って生まれた悪癖、人に任せられない虫が起きて
「板垣に七千を与えて向かわせたが、上州勢は三万もの大軍と聞く、これより予は板垣の後詰となって軽井沢へ向かう、湯漬けをもて」と命じた

病というのに、いきなり寝床から起き上がって出陣と言ったから、家来たちは一様に驚いた
重病に伏せり、板垣法印の薬も容易に効かず、粥も食べることが出来ぬほど衰弱していたのに、今は立ち上がり「鎧をもて、予は出馬するぞ」などと言うから、「これはいよいよ病重く、熱によってのたわごとではあるまいか」と皆思ったが
「碓井の合戦、信形では甚だおぼつかぬ、予が後詰して上州の兇徒どもをことごとく退治して、奴らの首一つ一つ引き下げて帰るべし
そうすれば病の退治にもなるであろう、臆病と言う病は鎧一両、太刀一振りにて勝負を加えて飲むならば、発熱などたちまち自ら引いてしまうであろう
それ馬を引き出せ」
皆、驚くうちに横田織部正は馬を引いてくれば、晴信は直ちに手綱をとって「さっ」と馬に飛び乗った。

そこに山本勘助がまかり出て「これは勿体なきことかな、板垣信形を大将に定めたからには、これにて事を任されるべし
もし戦が難儀となれば、某が上意を賜り馳向かって敵を一戦の元に追い退けてみせまする
御病勢、重きうちから推して出馬すれば後々の憂いとなりましょう」と諌めるのも聞かず
「たとえ病重くて、戦場に倒れようとも、それは天が定めたことである、なんぞ安穏としておられようか」と聞く耳持たず
「我を思うならば、追々駆けて我に続け」と言って、馬に一鞭当てて一騎駆けにて館を飛び出した。

それに「続けと」馬を並べて走り出したは、馬場美濃守信房、小幡尾張守虎盛、横田織部正、春日弾正、かれこれ十七名ほど
馬とり仲間もこれに続き、その速きこと旋風の砂を撒くが如し
「御大将、碓井へ御出馬、急ぎ出でよ」と叫びながら馬を走らせれば、これを聞いた者たちも驚きながらも直ちに馬を走らせる
駆けだす人々は、甘利左衛門尉、浅井式部丞、秋山伯耆守、原加賀守、内藤修理正、諸角豊後守、原美濃守、山本勘助、曽根七郎左衛門、安間三右エ門、
だれだれなどとの下知もなく、大将の一騎駆け、思い思いに兵糧を用意して馬を走らせる。
彼らは御大将の突然の出馬により、鎧兜もつける間もなく家を駆け出たので、各家の仲間足軽は主の鎧兜を背負って、走りに走った
ついには晴信に追いついた者どもは四千五百余人となった。






















「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 82

2024年04月27日 13時59分07秒 | 甲越軍記
 まず最初に、広瀬郷左衛門が藤田と槍を会わせた
三科肥前守も広瀬を助けようと近づこうとするが、碓氷峠の難所ゆえ足場は悪くその僅かな場所で二人が動いて打ち合うため容易に近寄れない
広瀬、藤田もまた大長刀、槍を自由自在に操るには狭すぎて、互いに得物を投げすてて組み合い倒れる、そこは自下がりの坂道、二人は組み合ったまま上になり下になり転がっていく
そのうちに広瀬郷左衛門が藤田を組み敷くと同時に、その首を掻き切った

藤田の郎党は急ぎ広瀬を討たんと近づくが、そこに三科肥前が槍を振り回して当たるを幸いに切りまくった。
これを見ていた曲淵庄左エ門は一番槍を広瀬にとられ歯噛みをして憤り、ただちに大軍の中に突き進んで暴れた。

これにより上州勢は大軍と言えども、山道は狭くて一度に攻めかかることもままならず、前は詰まり、後は進め進めと押しまくり、真ん中は窒息するほどの密となって身動きできぬ有様
そこへ高きところから広瀬、曲淵、三科を先頭に板垣勢が押しまくるから、上州勢はたまらず後退した
先頭は後退するが、後方はわけもわからず登ってくるため、上州勢は大混乱となりわき道に転げ落ちる者も多数
ついには総崩れとなり、我先に峠を下るがままならぬ
そんな上州勢の中から、師岡隼人と名乗り、今一度峠を取り返す勢いで抜け出す武者在り。
三科肥前守はこれを見て「さては上州勢にも、恥を知ったる立派な大将があると見えたり
三科肥前守、当年十九歳、そのような立派な大将首なれば雑兵の手にかかるより、某の手にかかれば閻魔大王への申し訳にもなるべし」と進み寄る
師岡も「これは悪しき敵の広言かな」と突き寄せる
互いに槍を交えて突きあううちに、三科の槍が師岡の面部の真ん中を渾身の力で突き抜いた
師岡は声も立てずにどっと倒れ、三科は素早く首を掻き切った

是より武田勢は、高きより低きに攻め下り追い打ちにして、栗原、日向、相木、芦田高名を上げて、ついには坂本宿まで攻め下る
首を取ること千二百十九級なり
やがて板垣信形「勝って兜の緒を締めよ」と坂本にある味方にも急ぎ峠を上るべしと引き上げさせた。
その日の午後となり、板垣は勝どきの法式厳重に執り行い、床几に座って首実検を行う姿は、さながら大将軍のように天晴美々しく見えたのであった。


「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 81

2024年04月26日 08時21分59秒 | 甲越軍記
 天下大乱の時なれば、一国として乱れぬ国はない
人民は朝には家を捨てて東西に逃げ惑い、夕べには馬蹄に踏み殺される
老幼を抱えて南北に逃れ隠れる。
けれども武田家の領地は他国に侵されることなく、晴信の武威によって四民はそれぞれの業に励み、豊かな暮らしをしている。

同年八月、晴信は瘧疾(ぎゃくしつ=発熱、寒けの繰り返し=おこり=マラリアのような病気)に罹った
板垣法印が様々な薬を処方したが九月まで治らないので、「戸石合戦で甘利、横田を始め多くを失ったことで気を病んでしまい、すでに卒去したのだ」 
という噂が隣国にまで広がった。

 上野国の(管領)上杉旗下の諸将、倉賀野、箕田、上田、松本、和田、前田、師岡など三月に村上に同意して武田方を攻めたが、板垣信形に逆襲されて這う這うの体で逃げ帰り、味方である村上、小笠原勢からもの笑いものになった
 いま武田晴信卒去の噂を聞いて、「今こそ、あの屈辱を晴らすときだ、信州に攻め込み軽井沢から一つ一つ武田領を攻め取ろうではないか」と合意した

このことを箕輪の城主、長野信濃守にも話すと、信濃守はカラカラと大声で笑い、「我が上杉家の今の有様を見るに、勢いは衰え近年では北条氏康の勝手気ままを許し、一矢も報いることが出来ずにいる
こちらに手出しもしていない武田に戦を仕掛け合戦するなど尋常ではない
儂が三月に御館にお諌めしたがお聞き入れ下されず、あのような大敗を喫した

武田晴信というのは若干十六歳の初陣で平賀源心を破ってから今日まで、一度も敗れたことがない、今年の戸石合戦では異朝の韓信、張良をも超える軍立てで村上の十倍の軍を破ったとのうわさあり、卒去と言うが確信もなく
このような者を相手に戦を仕掛けるなど、無謀極まりない、儂は下りる」
そう言って長野信濃守は箕輪城に帰ってしまった。

一座の者たちはみな長野の言葉に怒り「長野の一言は許し難し、こうなれば即刻信州へ乗り出して、軽井沢より武田の城を攻め取って長野の広言した口を塞いでやろうではないか」
倉賀野越中守、同六郎を大将に、新田、舘林、山上、白井、忍、深谷、五甘、厩橋などから総勢三万三千余の大軍で九月下旬、上野国を発った。

これを聞いた晴信だが、病は回復せず悩んだ
右馬之助信繁、穴山伊豆守信良を諏訪に向かわせ、諏訪郡代の板垣駿河守信形に上野勢を追い払うべしと命じた
加勢は栗原左衛門尉、日向大和守、小山田左兵衛、小宮山丹後守、信州先鋒は芦田下野守、相木市兵衛を加え総勢七千余騎

十月四日に加勢は甲府を発ち、板垣に合流した
六日巳の刻には碓井の西、軽井沢に着いた、ここで敵の情報を探ると既に敵も碓井の東、坂本宿に着いているとのこと
軽井沢と坂本は僅かに二里半(約10km)両者の中間は上信の国境、即ち東山道最大の難所、碓氷峠
信形は「まだ敵は峠に着いていないのは幸いである、峠にあって敵を下に待ち構えることが勝利の条件である、急ぎ出立して敵より先に峠を抑えるべし」
信形が先頭になり、急ぎ出陣した
一方、上州方も同じことを考えて、上田又次郎を先鋒として急ぎ碓井峠を上り始めた
一歩早く上州勢が峠を越えたが、板垣はこれを見て「敵の備え無きうちに、峠に至って峠から攻め落とせ」と遮二無二に攻めかかる
武田勢の凄まじい勢いに、上州勢は早くも峠から押し戻されつつある
その中から現れたのは藤田丹後守と名乗り、昔新田(にった)の十六騎の一人藤田丹後守の末葉なり、その剛力も先祖に負けぬ強者
黒糸縅の鎧に、兜もつけず乱れ髪の上に、鎖を入れた頭巾をかぶり、手には柄も刃もそれぞれ五尺の大長刀を振り回し、小躍りして武田勢の中に切って回る
流石の板垣勢も、これには押しまくられて下がる
互いに頂上をとらんと攻めては逃げ、逃げては攻め上るが藤田丹後が暴れてからは上州勢が有利となった
しかし板垣勢の中からも強者あり、板垣の甥、三科肥前守当年十九歳、広田郷左衛門十八歳の二人、藤田を見て「これぞ究極の我らの獲物なり」と突きかかる





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 80

2024年04月24日 17時18分01秒 | 甲越軍記
 力を落した上州勢はいったん本領へと引き上げた。
信形は討ち取った首帳を晴信に差し出すと、晴信は信形に恩賞を与えた。

三月二十三日、甲府に於いて村上との戦で手柄を立てた諸将に恩賞を授けた。
一番に山本勘助、三百貫を加増して都合八百貫とされた。
討死した甘利備前の嫡子玉千代十五歳を召し出し、備前守の忠義を賞して玉千代の元服をこの場でただちに申し付け、左衛門尉の位階を与えられた。
さらに烏帽子を賜り、晴信の御諱(いみな=名前)を下されて晴吉とされた
甘利左衛門尉晴吉、甘利家の家督相続を認められた。

次に、横田彦十郎を召され、討死となった忠臣横田備中守の家督相続を認めた
さらに百五十貫の加増を下された。
そして続けて言うに「汝十六歳より五度の合戦に出て、その都度手柄を立てて来た、実父原美濃守から勇を受け継ぎ、養父横田備中守から武略を倣い、武力勇気共に備わったことまことに末頼もしいと思うぞ
今日より横田織部正と名乗るがよい」と賞された
彦十郎は大いに面目を上げた。
彦十郎が織部正となったので、同じ号である小幡織部正には尾張守を与えて小幡尾張守となる。

次に小山田備中を召されて「甘利備前が討ち死にしたあとも戦場を持ちこたえたること汝の功である」と賞して感情を与えた。
続いて加藤駿河守を召されて「城攻めの芦田、川上入道が城方に敗れ沼の中に追い込まれて総崩れの時、汝は早速に駆けつけて敵を城中に追い返した
これ抜群の功である」と言って、感状に国吉の腰の物を添えて下された。

同月二十五日には、戸石合戦で敗北した諸将を召し出され、まずは栗原左衛門を召して「汝は信州の降将、芦田、川上、勝沼を添えて城攻めをさせたが、村上の後詰を見て逃げ腰になり、城兵によって追い破られる見苦しき様は、いかなることか」と問い詰めた。
栗原が言うに「謹んで申し上げます、その日の先手は川上入道で村上が西より大軍で来たのを見て狼狽し攻め口から逃げ出したところ、これを見た芦田下野守が『ここを退けば敵は勢いを得て攻めかけてくる』と言ったが、川上はこれを聞かず逃げて来たので、某は後方にあって押しとどめようとしましたが、敵はこのときすでに勢いを得て攻め寄せてきました、必死で食い止めようとしましたが味方は既に総崩れとなっていたのです」と額に汗をして答弁した。

晴信は、川上、芦田、勝沼入道を召し出して栗原左衛門と対決させた
結果、川上入道が真っ先に先陣から逃れたことが明白になり、広瀬郷左衛門に命じて、川上入道を放し討ちの成敗(せいばい=殺すこと)を申し付けた。
放し討ちとは、その場で即座に討ち取ることで、これは太刀取り(執行役)にとって名誉なことである、なぜなら武芸の達人であることを主に認められたということだからだ。
討たれる者の中には抵抗する者がたまにあるが、それさえもさせぬほどの早業で行うのが太刀取りの腕前なのだ。

その昔、先代信虎の暴虐を止めようと諫言して、無残にも切り殺された馬場、山縣、工藤、内藤の忠臣の家族はこれを恐れて、他国へ散りじりに逃げていったまま行方が知れず、名家の家督は継がれることなくそのままになっている。
晴信は、それを深く嘆き、なんとしてもこの四家の再興を成さねばならぬと思っていた。
四家の親族に継がせようといろいろ考えていたが、幸いに晴信の旗本である教来石民部少輔景政は馬場の一家であった。
馬場伊豆守虎貞の名跡を継がせるために、教来石を改めさせて馬場美濃守信房と名乗らせた。

教来石民部少輔の家は、清和天皇の後胤六代の孫、経基の孫、摂津守頼光より四代の後胤、源三位頼政の後である。
頼政の父、兵庫頭仲政が初めて馬場を号した。
家紋は十六葉の裏菊である、馬場、大国、下妻などみな頼政の末裔である。

晴信が廃れた家を興し、絶えたる家を継がせたのは皆、仁政の成せること、いと頼もしきことかな。












「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 79

2024年04月23日 11時15分53秒 | 甲越軍記
 甲州の御館武田晴信の合戦、当家の危急存亡の戦であったが、山本晴幸(勘助)の陣立ての妙に依って、敗戦を転じて勝利に導いた。
されども侍大将の討死もあり、諸方に配置した軍勢をしばし召し返した。
伊奈、木曽、小笠原は幸いに後詰を出さず、左馬之助信繁も塩尻より帰城した

その頃、上野国には上杉大夫憲昌(諸書では憲政)という人あり
関東八ヶ国の管領として代々武威を示していた。
しかし憲昌の代になると武威は次第に影を潜め、近年は北條相模守氏康は管領の指図を無視し、かえって管領の地に戦を仕掛けて侵略していく始末であった。
いかにして北條を討伐するかと頭を悩ませていたところに、信州上田の村上義清から使者が着いた。

使者が申すには「上野、信濃は国境を接している隣国であります、されど上野国の碓氷峠より西は武田晴信の領地となっております
このままにしておけば、武田が上野に攻め込み蹂躙するのは確かであります
われら村上、小笠原、木曽の信濃の者は同意して、近々武田を攻め滅ぼすこととなりました、ついては上杉家も我らに同意していただき上野より兵を進めていただきたい
武田を滅ぼした暁には上野の境まで上杉家の所領と為し賜え」

これを聞いて憲昌は小躍りして喜んだ「今、同意して武田征伐に加勢すれば、後に北條攻めの時には、信濃勢は後詰として働くであろう」と思い、信濃に兵を送ることを快諾した。
やがて武田が再び、戸石城を攻撃するとの報せが村上から届いた
使者の口上は「武田本隊が戸石に向かって小県に入ったら、碓氷峠より乱入すれば、軽井沢より西、小諸追分まで上杉家の領分となりましょう」

これを聞いて上杉憲昌は領国である上野(上野=群馬県)の主だった国人たち、箕輪城主長野信濃守、倉賀野越中守、同六郎、同淡路守、箕田五郎左衛門、上田又次郎、松本兵部丞、和田左衛門尉、新田、舘林、山上、白井、忍、深谷、五甘、沼田、厩橋、白倉、長松、松井田等に陣触れを出すと五千騎が碓氷峠に押し寄せた。

板垣信形は諏訪の郡代であったが、上野国人の抑えとして原美濃守と共に二千三百騎で引き受け、三月十二、十三日の両日の戦に向かい勝利した。
しかも十四日には戸石合戦で村上方の敗北を聞くと、上野勢は大いに力を落した。
そこに板垣勢二千三百が高きから地の利を得て夜討ちをかけて逆落としに攻め込んできたので、上野衆は右往左往して逃げ惑い、討たれる者多し。




参考
甲州(山梨県) 信州(長野県) 関八州(北関東、南関東全域)
関東管領(足利幕府から任命された関八州を治める最高責任者)
相州(神奈川県) 武州(埼玉県、東京) 上総・下総(千葉県・茨城県)
越後(新潟県) 越中(富山県) 上野・上州(群馬県)





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 78

2024年04月22日 15時23分33秒 | 甲越軍記
 晴信の旗本、新手の勢で村上の横合いからどっと「横槍」を入れると、思いもつかぬ方からの攻撃に村上本隊は総崩れとなった。
いかに大軍であっても、横槍には大敗を喫するものなり。
「今ぞ、追いかけよ、首はとるな追い打ちして捨てておけよ」晴信の下知で兵は奮い立たた
されども武田の兵は少なく、乱れた村上勢であるがそれに気づかず潮が引くように我先に逃げていく
討たれた者は少ないが、深田に追い込まれて身動きできぬ者、谷間に落下して命絶えるもの、あるいは馬が倒れ味方の馬に踏み殺される者
我さきに逃げ戻る

山本勘助はそのまま、戸石城に向かって進めば、城方と交戦していた加藤駿河守、芦田、川上、勝沼らこれに力を得て、城外の城方を攻め立てる
たまらず城方はまたも城内に閉じこもった。
味方衆は「逃げる村上を追い打ちせよ」「城を攻め落とせ」と勢いに乗じて勇気百倍となる

しかし勘助は本陣に行くと晴信に「今こそ急をもって、御引きあそばせ」と言った
晴信は直ちに「引き鐘を打て、全軍すぐに甲州へ戻るぞ」と真っ先に駆けだした
最後の勝利を得たといえども、僅か一刻の勝ち、全体を見れば味方十分の負け戦、大将軍すら討たれる危うき一戦であった
味方の微勢を村上が気づいて反転すればたちまち我らは全滅の憂き目

わずか九十五名の勢をもって敵を欺き、混乱に貶めた山本勘助の謀りは前代未聞の合戦であった

この日、味方の侍大将、甘利、横田を始め戦死した者、七百二十一人なり

(*このあと山本勘助が勝利したのは占星術や易を見てだと諸書に書いてあるが、大勢の命を預かる大将が八卦や占星術にたよるなどあり得ぬ話だ
諸葛孔明が南蛮を攻めるにあたり、そうしたと漢書にあるが、それは孔明が易にかこつけて迷信を信じる者たちを誘導しただけのことである
勘助が勝利に導いたのは、あくまでも理詰めの策であり、それは七つの証拠で証明されると書き
神武天皇が高千穂の峯より東征されて大和に向かった時、日を背中に背負って勝利したことは、今度の勘助の策略にも活かされている など3頁にわたって編者は力説している)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 77

2024年04月21日 12時06分51秒 | 甲越軍記
 今日も忙しくてアップが遅れました
朝5時からはドジャース戦、終わって9時半から支援センターの会議に出席
友だちからの相談に乗ったり、畑の苺苗をかまったり、それから魚を届けたりしてもうこの時間です、一日は短い。



 晴信は左右をキッと見渡し、「ここに至ってもはや予が旗本を率いて村上勢に攻め込み義清との一戦を試みて、味方が総崩れとなれば討死も仕方あるまい」
と言うと床几を離れて馬に乗ろうとした。

そこに山本勘助が御前にまかり出て言上
「いかにわが君、村上の大軍の前に甘利、横田も討ち死になされましたが、これも今この時までの事
これほどに崩れた味方ではあっても唯一勝利する方法があります」
それを聞いて晴信は
「いかに諸葛孔明であっても、このような状況の中で勝利するなどの方法は思いつくまい、ここに居たまま討死するよりは、村上の本陣に切り込んで屍を戸石の戦場に晒すほかはあるまい」と言った

勘助はそれを首を左右に振って否定しながら
「さしもの名将も御歳若くましますから短慮に走るのは仕方なき事
されども危戦を挑まず、身を全うして始終の勝利を肝要といたすことこそが古今良将の成すところであります
これほどの不利な戦にも勝利の一手はあります」
晴信は不審な思いもするが
「なにか謀略があると申すのか」
勘助曰く
「今、敵は西から東のわが本陣めがけて攻め寄せています、これは水の高きより低きに流れる勢いがあります
これを備えを転じさせて、敵の馬頭を南に向けさせます、そうすれば味方は敵の横合いより突っ込んで勝利といたすことができます」
晴信は「その理はわかるが、今の味方の乱れた様で敵の勢を南に向けさせるなど不可能であろう」

勘助はそれにも応えて
「しからば後備えの諸角豊後守の七十名と、某の預かる二十五名を合わせて九十五騎、お預け願えれば某に敵頭を南に向ける一計あり、敵が南を向けば、君は采配を振って自ら一気に敵勢の横腹を突き前たまえ、わが方の勝利は盤石です」
これを聞いた晴信は満足して豊後守を呼びだし
「汝の勢七十騎を勘助に与えたまえ」と申す、勘助は急ぎ馬に乗りいずれも幟小旗を指した九十五騎を率いて、下澤の方から戸石村を大回りして、村上勢の更に南に回っていった。

この時、村上を抑える部隊は甘利、横田の大将が討死、残った小山田も手傷を負い、それでも三度まで村上勢を撃退したが、米倉丹後守の兵と甘利、横田、小山田の残兵も討ち死に、傷者多く
村上勢は1万騎、「武田晴信は元より、武田の兵は一人残らず討ち取って甲州へ返すべからず」と、ひたひたと押し寄せてくる。

ところが南の方の山陰に武田の旗、数多なびくのが見えた
これぞ勘助の百騎であり、僅かな手勢を幟に小旗をなびかせて、いかにも一手の加勢のように見せかける
村上義清は、これをみて勘助の策にハマってしまい、「これは新手の敵の後詰
このままに進めば、後ろを南から回られて前後に敵を受けることになる、急ぎ南の敵を攻めようぞ」
ついには東に向けた軍を戻し、南へと矛先を変えて進み始めた

晴信は「この時ぞ、敵は勘助の謀りにかかり南へ向き始めた、もし確実に南に頭を向けた時こそ、我らの勝利の時なり、者どもこの機を逃すべからず」と勇み立つ

勘助は、この時、戸石村から斜めに本陣へと立ち返り「この時を失うべからず、小山田備中勢は二の手を詰めて、村上の本陣へ横槍を突き入れるべし」と下知する。
旗本勢は朝から一戦もしておらず「早く早く」と勇み立ち、諸角豊後、安間三右エ門、曽根内匠介、教来石民部、春日弾正等、籠中の鳥、雲を出でたるが如し、一同に攻めかかる。