神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

退院して一週間過ぎた

2024年06月12日 18時49分15秒 | 病気と健康
 50年前、盲腸の手術で入院した時は、オナラが出るまでは退院できないと確か5日位入院していた。
手術後の1~2日間は患部の痛みが強くて、何度も痛み止めの注射を太ももだったに射ったので、退院後には今度は足がこわばって、なかなか歩くのに苦労した
正常に戻るのに数日を要した記憶がある。

あれから50年後に大腸がん(腸閉塞)で二度目の手術をしたわけだが、手術前も手術後も少しの痛みも無かった
それは当然で、全身麻酔と背骨からの点滴麻酔で手術をしたあと、背骨の麻酔(痛み止め=麻薬成分入り)は退院まじか迄ずっと外さず点滴を続けた
これは腕からの点滴と違い、ボトルタイプの液ビンから液体がくるもので、流し込む量を調整できる
手術直後の夜には、血圧が70にまで下がったので、ある意味一回目の危機だったのだが背骨点滴量を半分にしたことで血圧が100近くまで回復した。
その後もずっと背骨から離れず、退院3日前くらいに最後に抜いた管の仲間となった
これのほか点滴にも別の痛み止めが流し込まれていて、ずっとダブルの痛み止め注入、そのおかげで一ミリの痛みも感じなかったのがありがたかった。
点滴が終わった後は、飲み薬の痛み止めに変わった
それでまた痛みはまったく感じなかった、だがなんとなく腹部の違和感の感覚が出て来た
退院後は痛み止めの飲み薬も終わり、とうとう痛みを知らずに終わった
だが痛み止めばかりでなく腹部の感覚全てをマヒさせていたので、それが無くなった今は腹部のツッパリ感や、少しの痛み(というほどではないが)を感じる
なんとなく違和感があるのだ、だがこうした処置が無ければ、その痛みは盲腸の比ではなかっただろう
本当にありがたかった。

手術が終わり請求書が来た、内科医による深夜6時間の救急処置、9時間の外科手術などの費用は膨大な金額になった
100%の請求額だが、私の年金の約7か月分、それが保険制度で2割負担で済み、さらに高齢者の所得による上限額で差額ベッド代(空き部屋が無く一週間そこに居てから大部屋に移動)を加えても年金1か月分以下で支払いが済んだ日本の社会保険制度の優秀さを見た気がした。
父も何度も入院をしたので支払いのたびに「老人は入院費がかからんようになっとるから心配せんでいい」とよく言ってたが本当だった。

アメリカあたりでは(知らないが聞いた話)こういう制度は脆弱でほとんど自己責任、生命保険、入院保険に頼るのだとか。
もちろん国がただで全額出してくれたわけではない、私も18歳からずっと健康保険を55年間かけてきて(会社も同額拠出してきたので積立額は2倍)、健康体ゆえそれをほとんど使わず国にプールしておいたのを今回返してもらったという感じか。
それでも、それが無ければうやむやの内に使っていた金だから、こういう制度はありがたい。

今日の夕食




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(109) 長尾家 22

2024年06月12日 08時02分11秒 | 甲越軍記
  攻寄る越石に、若武者も声を上げて応え、物々しやと思う間に槍を上げて突きかかってくる
縦横に討ち合うが、越石は新手でしかも老練の武者、ついに若武者の冑は突き落とされた
すると大童(おおわらわ)となった髪を振り乱し、その丈までの長い黒髪、よくよく見れば、年頃二十ニ、三の女である
眉を抜き、化粧して黒々と歯を染め、唇に紅を施した若武者は、小姓ではなく、為景の妾、松江という女であった。

この女、姿は妖艶美貌といえども、性質は勇力あって男子に勝れば、為景はことに寵愛して常に戦場に伴い、その都度、高名の手柄を上げていた
此度、為景の最期を見て、その身も討ち死にと定めているためその勇威には、当たりがたく、冑を飛ばされながらも松江は越石をも突き殺した

松江の勇威は、古の木曽義仲の愛妾、巴山吹と並び立つと思うほどのものであった
もはや一騎打ちで松江に向かう者はなく、ただ遠矢にて射るばかりであった
松江の鎧は蓑の毛のように矢だらけになった
そこへ蒔田主計と名乗りて疾風の如く松江に駆け寄る武者一騎、松江もござんんなれと、これを最後の戦と迎え撃ち、上に受け、横に流して戦ったが、もはや疲労の限界に達していた
松江の一撃が反れたのを見て、「いまぞ」と蒔田は槍を投げ捨て、松江に組み付き、共に馬から地上に落ちた
そして力に勝る蒔田は松江を幾度も叩き伏せて、ついに生け捕った。
蒔田は松江を縛って本陣に連れ帰った
神保はしばらく考えてから、この女の勇力を思い、蒔田に預けることにした
蒔田は壮年と言えども独り身であったから、松江を妻に迎えようと思ったが
松江は婦の道を守り、両夫にまみえるを恥じて、ことに敵国の夫に従うことなど有るべからずと、その夜、自害して果てたという。

かくして、長尾勢は散々に蹴散らされて越後に逃げ帰る者、松倉の城に落ち延びた者、引きも切らず
越中勢は敗残兵を追い、松倉の城に付け入らんと攻め寄せた
松倉城の宇佐美定行は、大将長尾為景討死を聞き、直ちに兵を送って迫りくる越中勢を追い返した。
そして敗兵を快く城内に入れて、兵を集めて休ませた
宇佐美定行がかっては長尾為景と五分以上の戦をしていた越後最高の智将であり勇にも仁義にも厚い名将であることは越中にも鳴り響いていた
越中勢も勢いのままに追ってきたが、迂闊に攻めることもできず、ただ遠巻きにして陣を構え、たまに矢合戦をするばかりであった。

宇佐美は、このような膠着状態にもはや、ここに居る意味も無しと考え、城中の蔵を開き、武器、兵糧を取り出し、城下の町人を招き入れ配り与えた
ねんごろに暇乞いをして越後にしずしずとひき退くのを、城下のものたちは、日頃の宇佐美の仁慈の計らいに感じ入り、数千人が弓鉄砲を持って、越中、越後の国境境川まで警護して見送った。
越中国の住民なれども、宇佐美勢を子が父母とわかれる如く涙を流して見送った。

編者(速水春暁斎)曰く
 長尾為景は性質、勇猛大胆にして、数百回の合戦在り、これは世の将にも其の類を聞かず
また主を弑する悪逆ありと言えども、和歌に通じる風流も持ち合わせて数百首を残す、その中の一首
「蒼海のありとはしらで苗代の水の底にも蛙なくなり」
この一首、まことに叡感ありしとなり。