神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

15年前の背広が着れた

2015年11月24日 23時59分38秒 | 病気と健康

ずっと着ることが出来なかった背広

ズボンは3~5センチ閉まらなかった

上着は胴回りがパンパンで第二ボタンをかけるとはち切れそう

15年前にオーダーで作った品

それが今日、ズボンをはいてみた、腹を引っ込まさなくてもはけた

上着、第二ボタンもすっきり、少しも窮屈感なし

腹回りは最大10cm減った、それでも普通人よりまだ太いが

体重はついに目標の65kg台半ばに(最大4.5kg減)

次の目標は腹囲-5cm 体重63kg


大関 琴櫻発見!

2015年11月23日 23時50分50秒 | 大相撲

あれこれ整理を続けているので、結構昔の忘れ物が出てきます

今日もボックスの中から、これが出てきました

清酒メーカーの宣伝マッチです

大関琴桜と書いてあります、優勝したときの写真です

昭和42年大関昇進  48年横綱昇進

横綱で1回優勝しただけで49年引退

優勝5回 大関で4回していますから強い大関の印象

その中の1回の写真ですね

 


奇跡の因縁

2015年11月21日 19時58分47秒 | 宗教

父の祖母の再婚相手、すなわち父の義祖父は慶応生まれ(江戸時代最後の年号)の硬骨漢だったという

その最後も、東京向島の理髪店で散髪中に、スーッと亡くなったそうで、床屋の親父が警察署に届けたという

その一件は、東京中央区役所から取り寄せた除籍謄本に詳しく書いてあった

彼の生国は栃木県の馬頭町と言うところで、今は那珂川町に入っている、そして16歳の時に県をまたいで

茨城県の玉川村、今は常陸大宮市に養子に入った

これがわかったのは、本格的にルーツ調べを始めた今年の夏前だった

 

さて、今度は今の話だが、いろいろな出来事があって、私の人相も悪くなっていたことに気づき転機一新ということで

「笑う門に福来たる」を掲げて笑顔の毎日を過ごしていたら、数日後に本当に「神様の使者」と言われる「ふくろう」が

我が家の玄関に降り立った一件は、このブログにもかいたばかりだ

だいたい「ふくろうさん」がこのタイミングでやってきたのも奇跡だが、自然界の不苦労を見たのは65年の人生で

初めてでもあった。

それだけでも奇跡だが、昨日急に思い立って「ふくろう信仰」に興味が出てきて、ネットで日本に「ふくろう神社」があるか

調べたんだ、すると少しというか一つだけというか「あった!」

どこだろう? と住所を見てびっくり! どっきり!

それは、参道の石段が中央で、栃木県と茨城県にまたがっているという全国でも珍しい神社だった

そして栃木県側は、那珂川町馬頭町、茨城県側は常陸大宮市だった・・・・・・! 

 


念ずれば通ずる

2015年11月17日 22時52分30秒 | 宗教

地獄極楽という類いの宗教は信じていない

いつも書くように、「地獄のような苦しみ」や「極楽のような楽しさ」は体験できる

しかし地獄極楽の苦しみ、楽しみと言っては見ても、それは仮にあったならば

「こうだろうという」という自分なりの解釈であって、それを自分なりの苦しみと楽しさに

当てはめただけの空想である。

しかし、信じるものはある、それはいつも書いているとおり魂の存在

魂は漫画に出てくる火の玉ではない、そもそも見えるのでは無く、感じるものである

だから霊感の強い人は特に感じたり、対話したり出来るという

だが対話は怪しい、そもそも魂は人では無い、生命体に入り込む「気」なのだ

「気」が話したり、肉体の滅亡後に特定の人間のまま存在していることは無い

「気」は「気」だから、たしかに「気」はあるのだ、それを感じることが出来る人は居るかもしれない

そして、そんな「気」を様々な形で操る大きな存在はあるだろう、なければ「気」は法則的に

存在することは無いはずだ、そしてそれをキリストやモハメッドや釈迦などの偉大な人間は

遙かに身近に感じて、その偉大な何かを「太陽の神」「神」「宇宙」と名付けたのだろうか。

 

「念ずれば通じる」のだ、それは「偉大な魂の創造主(単数か複数かは知らない)」に自分の

魂「気」が通じた時だ。

「信じる者は救われる」と同類だ

その偉大な何かを信仰する、あるいは通じるために間に人間を介するのか、己自信で

通じるのかは個人の自由だ、それが本当の宗教(信仰)の自由というものだ

 

 


不思議な日本人の信仰心

2015年11月15日 19時02分07秒 | 宗教

昔から「高島暦」と言っていたが、よくよく表紙を見たら

「神宮運勢暦」というのが正式だった

ともあれ、ここ10年ほど買っていなかったが、年齢の節目の成果

いろいろ迷いが生じるようになって、ここは一つ運勢暦にでもすがろうと思ったわけ

10年以上前は毎年買っていた、結婚式の良い日をお客さんに教えるために

しかし近年、結婚式事情が大変化していらなくなってしまったのだ

「神頼みか」って言う声もあるだろうが、神頼みではなく1年の生き方の柱を知りたい

それが正解かどうかは知らないが、少なくとも迷ったときにはどちらか選ぶ判断基準になる

それだけでも気は楽だ、大概のことは、悩むほどでも無いことが多いのに人間はあれこれと

先の心配ばかりして、あっちだこっちだ、いややっぱりあっちかも・・・なんて無駄時間を過ごす

それをしないためにも、結論がわかっていた方がらくなのだ

高島暦に限らず、細木?女史の「***人の運勢」というのも随分熟れているようだ

人間に人生の迷い在ればこそ、売れる本なのだ

大概の日本人は神も仏も真剣に信じていないと思う、だけども寺にも行くし、神社にも行く

観光旅行では必ず、神社仏閣が1つや2つコースに入っていて、自分の分だけで無く

お土産にたくさんのお守りを買ってくる

キリスト教徒でも無いのに、チャペル結婚式をしてキリストに結婚の誓いを行う

これは本当に不思議な日本人の特性だ、欧米人のように十字架だけ胸にぶら下げておしまい

とは行かないようだ

もっともキリスト教は、唯一神だが、日本には808万の神が居るわけだから、お守りの5つや10では

少ないくらいだ、おまけに福の神や金運の神、更には招き猫などの像まで

イザベラバードも新潟や福島、東北を旅して、どんな家にも大黒様のお札や偶像があると驚いている

信仰活動はしないけれど、困ったときにはすがりつく、私も含めて日本人の信仰はまことに不思議である


玄関に珍客来福

2015年11月14日 14時43分24秒 | 知人・友人

久々に動物もの

朝から台風並みの強風が今も吹き付けていますが

そのせいなのか珍客がやってきました

鳥です、玄関のガラスにぶつかって死んだのか失神したのかうずくまって

ぴくりともしません

山鳥みたいな大きさと色、死んでるのか?やだなあ 可哀想だな 仕事が増えたな

なんて思っていたら、やっこさん起き上がりました

なんと「ふくろう(みみずく?)です

すっくと立ち上がって、オレたちの方を見ています

動きません、目だけくるくるしています

とても可愛くて、飼おうかななんて一瞬思ったけど

自然の鳥を飼うことなどできません

相変わらず強風が吹き荒れ、飛ぶことが不可能なようです

鳥は鳥目と言って夜は見えません

だけどフクロウは反対で夜活動します

それじゃ昼は目が見えないのでしょうか心配です

夜まで保護しようかと思いましたが、方法が思いつきません

自然の鳥に触るのは衛生的にも良くありませんし・・・

獣医さんに電話して保護してもらおうかなんて言っていたら

突然、羽を広げて飛びました

ウサギくらいの鳥だと思っていたのに、羽根を広げたらとても大きい

少し飛んで、建物にぶつかって落ち、又飛んで二度停まっている車にぶつかり

それでも空に飛んでいきました、するとカラスが2匹で攻撃してきました

フクロウは必死で逃げています、大きさはフクロウの方が少し大きいです

見えなくなりました、カラスは補食で攻撃したのでは無く、縄張りから追い払ったのだと思いますが

心配です。

無事に安全なところまで行ったのでしょうか?


今年最後のゴルフ

2015年11月14日 05時38分40秒 | ゴルフ・スキー・スケートなどスポーツ

今年もゴルフ回数は年間4回でおしまいです

25年やっていますが25年間の通算回数は120回くらいでしょうか

ゴルフゴルフ好きの1年半から2年分くらいの回数です

一緒したネオンの社長は月5~6回、居酒屋の親父は月7~8回は行くそうです

みんな暇と金があるんですね

 

こんな回数と才能のなさで未だ100を切れません

今日も59-59の118 参加13名中(女性2名)グロス12位でした

点数を見るとまったく初心者ですが、そこは25年のキャリア

終盤4ホールは合計2オーバー、パー2ヶです

ところが10点1回、8点4回と大叩きホールがあるんです

長い430ヤードミドルでは2打でグリーンまで10ヤードに来て

変哲の無い3打目はバンカーに、そこで2打

グリーンで2打、結局3オーバーの7

そんなパターンが3ホールほど

 

時々キャリアならではのプレーもやります

1打目を林に打ち込み 2打目は立ち並ぶ杉の木の間を10本抜いて脱出

フェアウェイからの3打目は右ドッグで再び林越えに挑戦

今一歩のところで再び林の中に そこから目の前にそびえる10数メートルの

杉木立、ピッチングで高々と上げて80ヤード先のグリーンエッジに

ところがそこからグリーンでまた3打 結局7

ともあれ林の中でのトラブルプレーの技術には自信があります

以前は平行する林の向こうの隣のコースに2度もシャンク気味に打ち込んでいき

すなわち1番から8番へ 8番から7番へフェアウェイ沿いに移動

最後は7番から杉木立越え160ヤードを見事に超えて

1番のグリーンに乗ったことも OBもワンペナも ないローカルルール

もちろん常識の想定外のプレー したくてやってるわけでは無いが

下手にも下手の楽しさがあります 迷惑ですが


バックtoザ.フューチャー & リプレイ

2015年11月10日 21時41分16秒 | 映画/ドラマ/アニメ

バックtoザ.フューチャー もう何回こそ見たものか

この手のドタバタ劇は誠に面白い

一つの場面に3人の自分が同時にいるなんて考えられないことだが

さすがアメリカ的、スピルバーグ的

時系列的に新しい時間の自分が、古い時間の自分を見ている

そこは3次元的である故に、面白い

エクセルでこれをやってしまえば、たちまちエラーの矛盾が起こるはずだ

 

さて、先日「バック・・・2」を見ていて、私の愛読書「リプレイ」と共通場面があったのに気づいた

それは、野球なや競馬などの勝敗や勝利者が書いてある未来のスポーツ年鑑を今の時代に持ち込んで、賭で大勝ちして大金持ちになる場面

どちらもそうなる、但し「バック・・・」では敵役が大金持ちになってしまうのだが

 

「バック・・・」と「リプレイ」は、どちらも時代を行き来するのだが

「バック・・・」はタイムマシンを使っての時間移動 一方「リプレイ」は同じ人生を何度もやり直すパターンで

全く異なるのだ。

「バック」は結局、今の人の時系列的な人生の流れの中で、過去や未来に行くので実際に描かれる時間は1ヶ月も

経っていないのかも、ただ出発した時間より、少しだけ前に戻ったりはするが。

「リプレイ」、蘇ってから死ぬまでの人生を何回も繰り返す

そうしているうちに要領を覚えて、次の人生の生き方を考えながら死を待つようになる

しかし、生きている時間は次の人生を迎える度に短くなり、最後には・・・

すなわち、蘇ったときの年齢がどんどん高くなっていくと言うことだ、死ぬ日は同じなのに

穴に閉じ込められて、だんだん水位が上がってくるのに似ている

「バック」はタイムマシンを使って、両親も含めた情けない人生からの脱出がテーマだが

「リプレイ」は人生の時間は1分たりとも無駄にしてはいけないという教訓本だ

そして人生で一番大切なことを教えてくれる

「リプレイ」は一度呼んでみる価値は充分ある、私はもう5~6回は読み返しているが

いつ読んでも新鮮だ。

そして人生の寂しさ、はかなさも同時に思ってしまう だが読み終えるといつもさわやかな気分になる

 

 

 

 


やばいぞ照の富士 頑張れ男前!嘉風 

2015年11月10日 08時09分30秒 | 大相撲

ワンマン白鵬にライバル、否、次世代スーパー横綱登場と期待した照の富士だったのに

力士の最大の敵「膝の故障」で先場所は優勝を逃がしてしまった

今場所も2日目に敗れてしまい、まだ後遺症が残っている

照の富士が華々しく出てくる前までは、この次は逸の城と大砂嵐の時代かと想ったのに

二人とも停まってしまった

膝という奴はスポーツ選手にとって、大切だが同時にアキレス腱でもある

もっとも痛めやすい場所、特に力士は大型化してきて150kgなんかあたりまえ

それを、二本の足で支え、そこに相手の150kgが乗ってくるから、ほぼ250kgを

支えることになる、そりゃもたないわ

これで今場所はまたも大混戦だ

こうなれば白鵬が強い またワンマンショウか

そんな中で日本人力士の嘉風が先場所から元気が良い

横綱鶴竜(あまり強くない・・・昔なら大関並)に二場所連続で勝った

横綱に勝てば、横綱以上だ 兵隊の位で言えば元帥ってとこだ

昔の「黒い弾丸 房錦」を思い出す

「今場所は相撲のどこが変わったんですか」のインタビューに

「気持ちが変わりました」みたいな答えだったと思ったけど

それは正解ですね、技術はもちろんだがメンタル、意識改革で人間は変わる

千代の富士がそうだった

幕内でおろおろしていたのが、突然開眼して名横綱になった

八百長はどうか知らないが、それだけではあれだけの数字は残せない

白鵬は大鵬に匹敵する大横綱だ、簡単には相撲チャンピオンの座は譲らない

好い力士は怪我をしないで休場しない、まさに白鵬がそうだった

照の富士、今から怪我では先が思いやられる

頑張れ!未完の大器 

 

 

 


あなたは気がありますか?

2015年11月07日 20時44分52秒 | 雑記

「気」を考えたことがありますか?

「気が合う」「気がつく」など「気」がつく言葉はたくさんある

どうして、こんなに多いのか それは重要だからです

昔の人は感じていたのでしょう

「気」とは何か? 生命の根本です

「命」「魂」「体」「気」は一体です  そもそも「魂」そのものは「気」と同じです

「命」は肉体の寿命 消費期限です 「気」が死ぬことはありません

「気」は大自然と一体化しているからです

肉体は人間のみではありません そもそも人間がそれらしくなったのはせいぜい数十万年前

地球や太陽の40億年とかいう年齢に比べれば屁みたいなもんです

だいいち40億年ってどんな長さですか?  地球が太陽のまわりを40億回まわったと言うことに過ぎません

じゃあこの先、どれだけ地球は太陽の周りを回りますか? 無限ですか 永遠ですか

少なくとも人間が滅びるよりは長く回っているはずです

しかしそれも永遠ではない やがて太陽は大膨張して地球を飲み込みます

その挙げ句 いずれは太陽も核爆発を起こして消滅するはずです

太陽も地球も太陽系もわれわれの銀河もいつかは無くなるのでしょう

それでも消滅しないものがありますそれは「気」です

「気」は「生命」で有り「根源」です  

「気」に姿は無く どこかで存在しています  感情も無く 考えも無く 時間も無くどこかに溶け込んでいます

時に「気」は何かの「肉体」に入り込みます すると生命体活動が始まります

そこに感情が生まれ 活動が生まれ 人生が始まります 体の消費期限が終わるまで

 

「気」は何も思いません 考えません  体を得て、脳を得て初めて思いや考えや感情が生まれます

それを「煩悩」と言います

体を持たない「気」には「業」も「煩悩」もありません  じゃあ何がありますか?  あるのです

それは「無のやすらぎ」 何者にも影響されない「やすらぎ」です

宗教的な「無の境地」と似ているかもしれません

人間界の「無の境地」もまた人為的なものではありますが

何も無いのに 何かがあるそれが「気」です あるのです

体に入ってしまうと「やすらぎ」は消え去り 様々な生活環境で葛藤が始まります

だから宗教での人間の位置は決して高くありません

「汚れ」「邪気」みんな人間の業です  体から抜ければ消えます しばしの安らぎです

どのくらいの時間、それが続くのか?

そもそも無に時間は存在しません あえて言えば 人間界での1秒も100億年も同じです 「一瞬」です

だから死ぬと同時に、次の人生が始まっているのです でも本当は錯覚しているのです

長い長い「魂の安らぎ」を忘れ去っているのです

だからこれでは「輪廻の地獄」に他なりません

永遠に「気」のままで体を得ないことが「極楽往生」なのでしょうか