神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

医者にかかったこと

2024年03月31日 19時27分28秒 | 病気と健康
 ショルダーバッグの中を整理していて「おくすり手帳」が目に入った
普段は中身を見ることも無いのに、先日は花粉症でA医院にかかったので、ページをめくった。

普段はB医院ばかりで、A医院へ最後に行ったのは平成28年の夏だたことがわかった
「なるほど」おくすり手帳というのは病気の履歴にもなって、ある意味「病気歴手帳」ともいえる、そんな風に思っていたら、パスポートにそっくりだと思った
近年のパスポートは手のひらサイズだが、昔のは、おくすり手帳サイズだった

A医院でのことを思い出した
受付には感じの良い30歳前後のお嬢さんと、ふつうのおばさんの二人が居た
「どうされましたか?」と若い方が聞いた
「目がかゆく、くしゃみ、鼻水、寝る時は鼻づまりで」
「熱はありますか」「ありません」
「じゃあ、お熱を測って、このアンケートを書いてください」
熱は、相変わらずの35.5度、症状や履歴のアンケートと一緒に出した
それから待ち時間の間、すぐ比べたがるのは私の常
A医院、B医院を比べて時間つぶし、A医院の方が出来たのは新しくて10ねんまえくらいかな、B医院も建て替えたが、もう30年くらいたつのか
A医院は山の手の静かで小さな林の中にある平屋の医で入院病棟はない、B医院は住宅街の県道沿いにあって三階建てで入院病棟もある
かっては最終老人の福祉的面も持っていたが、代替わりしてそれはやめたらしい。

B医院の患者は80歳前後の高齢者が多い、A医院を見たら50~70代だった
先生はどちらも60歳くらい、A先生は優しい口調、B先生はべらんめえ口調で対照的、B医院は先代の先生の時から70年の付き合いがある主治医的な医者
婦長は前に住んでいた家の隣の奥さん

A先生は地域の同じ会に入っていて、一時飲み友達だった話やすさがある人、新潟市の出身なので新潟の友達に共通なのがいて、その話から親しくなった。
B医院の待合室は狭くて、廊下にも椅子を置いて対処している、遠く隣町からも老人が来るくらい老人の、お助け病院になっている
A医院の待合室はわりと広くて、すべて木でできている
吹き抜けになっていて天井が高く、広い窓が二方向にあって外の緑が見えて開放感がある、森の中に居る感じが良い。
ただ一人感じの悪い看護婦が居て、
「アレルギーは無いと書いてあるけど、以前ここでアレルギーの薬を使ってますよね」といきなり高飛車に来た
感じ悪い人って、話す前から感じるんだと改めて思った

「いや?覚えないし、アレルギーが原因で医者にかかったことはないけどね」
「今日はどうしたんですか」
「目がかゆくて、くしゃみ鼻水・・・」
「花粉症ですね 薬をもらいに来たんですね」、言ってる意味がわからん
「それは・・・先生に診てもらってからでしょ」
それに答えず、大きな体をバタバタとゆすって医務室へ戻っていった
その後は、先生とはコロナの始まりから会っていなかったど、お互いなつかしくほんの2分ほど世間話をした
これからも、またお付き合いを」と言ったが、医者とのお付き合い無しで自然に健康でいられたら幸いというもの
但し、化学薬品の市販薬を買って飲むくらいなら医者に任せた方が良い

家の中で誰も見ていないうちに亡くなると面倒なことになる
そんな家族が言っていたが、警察が来て家族一人一人が事情聴取されて、たいへんだったという。 変死扱いというやつだ。
医者の死亡診断書が無ければ安心して死ぬこともできない時代
医者嫌いだが医者とは仲良くしておくのが大事だと思った。











「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 57

2024年03月31日 08時50分40秒 | 甲越軍記
 その後、安房守は家中の者共の非礼を勘助に詫びて、「今一度御屋形に貴殿を迎え入れるよう諭すので何卒、ここはこらえてお待ち願いたい」
というのに対して勘助は
「安房守さまのご厚情には感謝しかありませぬ、されども御屋形の気持ちが変わることは決してありません、それがしもまた義元公に仕官する気持ちは全くありませんので、どうか某を用いることはお忘れ下さい」と丁寧に断った。
そして言うには
「昔、鄭(てい)国に賢人あり、その名を列籞宼(れつぎょこう)と云う
家、至って貧しく、妻子共に飢えたる様子であるが少しも貧困を苦にすることは無かった。
その時の鄭の王は穆(ぼく)候という。 国の政治は宰相の子陽という者に任せていたが、子陽は国内に賢人のあることを知らなかった
ある人が子陽に列という賢人がいることを知らせると、子陽は驚いて早速に多くの米穀を牛車に積んで使臣を使わせて慇懃にこれを贈った

列子は、これを受け取らなかったので妻は嘆き、且つ恨み「世間では有能な人物は国に招かれて職を得て、妻子も何不自由なく暮らしているものを、国があえて米穀を下さり、しかも重職にて招いてくれているのにそれを断るとは、いったい何を考えているのですか?」と問い詰めた。
列子は「王が自ら儂を知っていて、これを贈り招いたのではない、人の口づてに知って招いたのだ、王や宰相と言う人は人の賢さ、狡さなどをきちんと見極めるのが仕事である、それを怠り、人が勧めたからと言ってすぐに採用するのは間違いである、人が儂を泥棒だと密告すれば、たちまち泥棒として投獄される道理である
人を信じて人を用いる者は、人を信じて捨てる危険も持ち合わせている」と言った、彼の言う通り、子陽は一年後に国人によって殺された、子陽に用いられることを拒んだ列子は命拾いをしたのである。

国を背負う人は、自ら人の良し悪しを探り、用いると決めたならば人の勧めを待たずに急ぎ用うるべきなり、また用うるべきでない者と見抜いたら、千人が勧めても用いてはならない。
此度、足下が再び義元公に某を推挙して呉れようとも、某一度不信を抱いた以上は当家に仕えることはありません」と言い、趙国の平原君の古話を持ちだして義元との器の違いを話した、そして今川家の法令規律の緩さが義元の性によることを話した。
その後、桶狭間にて義元が寡勢の織田信長に討たれたのも、今川家の法令規律の緩いことに原因があったのだ。

それでも諦めきれぬ安房守は再び城中に上がり、義元に思い直して勘助を召し抱えるように諌めたが、顔面に怒りをみなぎらせて、ありとあらゆる勘助への雑言を並べるだけで、席を去った。
それでも安房守は朝比奈、岡部の宿老にも義元説得を願い出たが、誰一人取り上げようとはしなかった。

 庵原安房守は、勘助のような逸材を手放すことに無念の心持であるが、義元、勘助ともに相容れぬこととなり、ついにはあきらめることとなった。

しかし、このような天賦の才を持つ策士が、もし今川の敵国に用いれられた時には我が国の危難となるのは必定と気づき、勘助をこの場にて殺すこともよぎったが、(いやいやそれは大丈夫のなすことではない)と思いとどまった。
そして考えを巡らせてみたところ、甲州武田家は当家とは縁家であることに気づき、これに勧めて仕官ともなれば今川家の後ろ盾ともなるであろうと思い、早速勘助に会って話した。





藤原道長と、わが祖先の奇縁

2024年03月30日 18時58分53秒 | 日本史
 約30年にわたって我が家のルーツを調べてきて、ようやく一昨年8月に完成した。 筆書きで137ページ+資料10ページほどの閉じ本で5冊だけ手作りした。
これで骨組みは一応出来上がったので、その後は肉付け作業に入った。

それはネットを中心にして、郷土史のアーカイブ資料、地方の民話や伝説、寺社の縁起とか建立までの言い伝えなどを調べているのです。
そうして得た資料を、これまでの骨組みと照合して、訂正したり、付け加えたりしていく、それをやっているうち点と点が線でつながっていくこともあるし
面にまで広がることも稀にある
これが実に楽しく面白い、そんな中で見つけた藤原道長とわが祖先の関連話。

昔の資料や伝説は多くは推測で書かれたものや、盛った話が多くて年代や人物の前後がつじつまが合わなくなることが多々ある。
郷土資料でさえ、1000年前ともなると結構あやふやなのだ、出典がなにかもわからない、そんな中で寺社の資料はわりと正しいかもしれない
ただし伝説、言い伝えは信用するかどうかは各々の判断と言うことになる。

わが祖先の姓Aは父の代で終わり、今は別の姓Bを名乗っている
昭和19年末まで父は、祖先A家の七つの分家の一つの嫡系だったが父の母が再婚した相手B氏に(子が無かったので)B家を継いでほしいと言われて継いでBの姓になった、もちろん私もBの姓である。
父は一人っ子だったからBになると言うことはA家を廃嫡することでもあった。

そのA家であるが、郷土資料では一番古い人物が登場するのが延喜3年(903年)となっていて、その年に一族の氏神を祀った氏子7軒の神社を創建した、その神社は今も在る。 私も5年くらい前に行って見て来た。
903年は大宰府天満宮、菅原道真公が亡くなった年でもある、更に言えば平将門が生まれた年とも言われる
また三大怨霊の内の二人が将門と道真というのも偶然で不思議である。

藤原道長の六男は歌人として名高い正二位権大納言藤原長家、そして長家の孫が藤原資家、彼は妾腹だったのか?(まひろの息子かも・・それはない!) 官位は従三位だが無役だった

その頃(1125年頃)下野国八溝の山の中に、「悪鬼」「蟹の化身」などと呼ばれる人でも獣でもさらって喰らう化け物がいて、周辺の人々を恐れさせていた。「岩嶽丸」という、
都にも、この話は伝わりほおってはおけなくなり、討伐の兵を送ることになった、兵と言っても僅かな人数で、足りない分は現地徴兵と言うことになった。
そして、その大将に選ばれたのが藤原資家だった。
現地で岩嶽丸に詳しい者を雇い、三十人ほどの兵を引き連れて山中に入っていった、その中にわが祖先「Aの治部太郎」と云う者も加わっていた。
岩嶽丸の棲み処を探すのに地元で勢子数百人を雇ったが見つからず、お告げがあってそれで見つけることが出来た

そして洞穴に潜む化け物をついに発見、正体は1000年も生きているカニの化け物、背丈2m足10本で前の足は、ハサミ状、しかし資家と勇士によって退治して首を切った、その首は飛んで行って
「どうこうした」という様々な伝説になって残っている。(平将門の最後にも似ている)
その為、祟りや霊魂を鎮めるためにいくつかの神社が作られた

藤原資家は、この功により名前を須藤権守貞信と改めて、下野国を任されることになった、彼が下野黒羽城を構えた那須氏の祖先である。
源平合戦の那須与一も一族である。

またわが祖先の「Aの治部太郎」も手柄を立てて褒美として、須藤貞信の領地の内、一地方(郡)の地域で最大の集落の郷士として長百姓(のちの地主、庄屋、村地頭)の地位を得た
その後、A家の本家は昭和の戦争が終わるころまでは確実に続いていた
分家の我が家は父が昭和19年に廃家にしたが、それ以前明治の40年代に家運が傾き福島県、栃木県の各地に家族は離散した。
だから今も、それらA家の子孫が住んでいることは確かである。

大した因縁ではないが、道長のひ孫とわが祖先が家来となって一緒に悪鬼を相手に戦ったという伝承は面白い。
九尾の狐を祀った「玉藻稲荷」にも祖先の一人、A又右衛門という人が寛政12年(1800年)に鳥居一基寄進したと資料にある。
我が家の一番古い公の戸籍には文政12年(1829年)生まれのA利右衛門という名がある、間もなく生誕200年か。

岩嶽丸討伐と、九尾の狐狩りでは約150年の差があるから別であろう、狐の方は三浦介、上総介、千葉介が1155年に行ったとあるので違う件なのは確かそうだ。







「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 56

2024年03月30日 08時12分53秒 | 甲越軍記
  勘助は小田原を出て東に向かい、相州鎌倉扇谷に行き、上杉修理大夫憲政の方に寄り数か月留まり、そこから上州に向かって倉賀野越中守に留まること三月、それからも各地に出でて二か月、半年ととどまり、天文十二年冬十二月駿河国に入る、太守今川義元の城下なり。 

今川の執事庵原安房守(いおりはらあわのかみ)という者あり、武勇知略人に超え、人を看ることに明るいとのことを聞き、勘助は今川に仕官する気は元々ないけれども、あえて庵原なる人物を見定めようと宅を訪れた。
庵原も勘助の名声は日頃より聞き及んでおり、歓待してくれた。

安房守も初対面で見る勘助の醜さに驚いたが、このような体でありながら名声高きことは尋常ならざる人物と、あえて嫌わず、数日我が家にとどめ置いて兵法論議を重ねるに及び、勘助の才知は安房守の遥かに及ばざることを知り、勘助がここに現れたのは当家の福である、これはぜひとも御屋形に推挙するべしと思った。

安房守は義元に「数日の間、わが家に留まり日夜討論をいたしましたが、兵法武芸に並々ならぬ才があり某の遠く及ぶところではありませぬ、その才は当世諸国に名のある兵法者に比べて見ても抜群のもので、とても比較になりません
当家に現れたるは、これ福なりぜひとも高禄にて召し抱えれば当家を富ますこと間違いございません」と云うと、義元も満足の様子で「是非、儂の前に連れてくるように」と言った。

天文十三年正月、勘助は義元の元に立ち出でる。
義元の左右には朝比奈右兵衛大夫、岡部、三浦の如き一班の老臣、そのほか謀士ら列席し座位はなはだ厳重なり。
衆士の眼が注目する中を勘助がまかり出ると、そのその容貌醜くき小男、左足は短く、歩く姿は片足で飛び跳ねるようであり、一座の若侍は笑いをこらえるに必死であったが、末席の少年五六名、たまりかねて「クック」と笑いを漏らすと、そこに並んでいる者たちは必死でこらえる、それがかえって「モウモウ」と籠った音となり牛の声のように聞こえ、あるいは雉の鳴き声にも聞こえ、義元も近臣の忍び笑いに我慢できず笑い声を漏らした。

安房守はこれを聞いて不快に思い苦々しい表情となったが、御前に「これなるは諸国修業の名士、山本勘助お目見仕る」と言えば、義元は勘助を近くに招き
「高名の壮士と聞く、昨年より安房守の家に客居すると聞く、武術、軍略人に優れると伝え聞いた、願わくば今すぐここで武術の妙技を披露すべし、当家の者どもは武術に不器用な者ばかりで才ある者は稀である、されど普通の才の者は数多あるから、まずは槍と剣の二芸を披露いたせ」と意地悪く申す。

勘助はすでに義元の腹の内を見抜き、心に一物をもち、且つ仕官の意志などもとより無いので、あえて謙譲の言葉を用いず遠慮なく答える
「僕(やつがれ)不具の廃人で千に一つの取柄もなく、それゆえ仕官は望まず、また諸侯大人の面前で腰を折り禄を賜ろうなどと言う気もさらさら無し
某が日頃より学ぶのは、今の天下は瓜のように割れて群賊が鷹の飛び回るがごとく干戈を交え争い、これにより百姓の危難の時である
乱を鎮め、国を安全に導くのは兵器の術ではなく、軍法のみ、軍略は智策をめぐらすときは戦わずして勝ちを得る、戦う時は小を持って大を破り、野戦攻城に隊伍を整える、これが元帥の務めであり任と申すものなり
いかに槍刀の名手、豪傑と言えども日柄一日戦場を駆け巡り、首の五つ三つを取るのがせいぜいであろう、馬を駆け巡らせて功名あげるは十貫、二十貫の平士の働き、それゆえ某は剣術、槍術すべて不調法と申すなり」
勘助の遠慮ない物言いに、義元は勘助が醜い上に不敬の言葉を言うので憤りを含めて、もはや何も話さなくなった。
勘助は安房守に伴われて、この場を退出した。



またまた外を歩けば

2024年03月29日 19時22分18秒 | 散歩道
 27日は久しぶりに午前から晴れ間が出て温かくなった。
昨日の昼はスパゲッティを作って食べ、その前の昼はラーメンを作って食べ、今日は鍋焼きうどんか、カツ定食か?
たまには外で食べたい気分になった、もう外食は2か月くらいやっていないので散歩も兼ねて外で食べようと思った。


外と言うと、やっぱりラーメンを食べてくなってしまうんだよな
食べる回数は三分の一くらいに減ったけど、やっぱりラーメンはうまい
市内のラーメン店は以前の半分以下になった、そのかわり今風の脂こってりラーメン店が増えて来た。

私のお気に入りは「野菜坦々麺」辛いのが好みだ、そこへ行ってみようか
ところが駐車場は満杯、もう一軒の人気店も同じく並ばないとダメ
いくらうまくても並んでまで食べようとは思わない頑固者だから、結局同級生の食堂に三か月ぶりくらいで行ってみた
駐車場には車が一台止まっているだけ、ガラガラだ、余裕だけど逆に何かあるのかな?という危惧が
それでも勇気を振り絞って入ったら、店内にはお客さんが5人くらいいた
同級生マスターが高校野球を見ていた、「おっす!」と言って入って行ったら「おっ!」
「どうだい体の調子は」と聞いたら、3か月前に入院していたマスターは「だめだ、ガタガタ お前は何か薬飲んでるか?」
「薬って?」「血圧とか」
「ああ、そう言うのはぜんぜん必要ない」「いいなあ、おまえは元気でいいなあ」
とりあえず味噌ラーメン注文、フロントのお姉ちゃんも「ずいぶん来て無かったですよねえ」「うん・・・・・」何も言えない。

マスターもすっかり元気がなくなって少し老いてきた感じ、今までのあくの強さが影を潜めた
今は調理のメインになった韓国系中国人シェフも顔を見せて「久しぶりね」
「ああ久しぶり、行って来たんだって?」「ええ、韓国だけだったけどね、二週間だけ」
「二か月くらい行ってきなよ、マスターを仕事させないとボケちゃうよ」
「そうですね、でも来月いよいよ、お兄ちゃんが帰ってくるから」
マスターの息子は県内では有名な回転ずしチェーンの長をやっていたらしいが、一人暮らしになったマスターを心配して退職して戻ってくるようだ
「息子が帰ってきたら安心してあっちへ行かないように気いつけろよ」
「ふふ だいじょぶだよ」

去年の初めころまでは私も、卵とじうどん+中華丼くらい食べていたが、今は味噌ラーメン(並)で充分になった。

店を出たら、あまりに良い天気なので車を駐車場に置いたまま散歩することに
車が来ない長い直線の住宅街を歩いた、まっすぐな道を歩くのは楽しい




やがて川の土手について、土手を歩いて新幹線の側道を逆方向に戻った
大通りに出て少し行ったら、路地の奥に広告・製本会社の支店長の姿が見えた




寄り道して近づいていったら、ブライダル・マッチングの仕事をしている女史もいて「こんにちは」と挨拶してくれた
起業する時に、私の所に相談に来た初々しい彼女も、今はふてぶてしい市会議員一期目だ、全体の三位当選だから立派なものだ。
でもマッチングの仕事は今の時代少なくなっただろうな。

支店長に引きずられて事務所でコーヒーを呼ばれた、ロールケーキも出してくれた。
この事務所に来たのも半年ぶりくらいかな、いろいろ積もる話があった
「今、なんの仕事してるんですか?」と聞くから、「何もしてないよ」
「ええ・・! 何かすればいいのに」「いやいや、楽を覚えたらもう駄目だね」
「体なまってボケますよ」「だからこうして出てくるんだよ、今更仕事はしたくないね、日夜働いて大金もらうより、貧しくても自由にやれる方がいいね
両方やって見て、絶対楽できる方がいいと思ったよ」
「はあ~、それもそうかも」
30分くらい暇をつぶして、家に帰って来た。
 



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 55

2024年03月29日 08時20分13秒 | 甲越軍記
 しばらくして氏康が上段に立ち出でて勘助に対面した
その表情には傲りが現れている。 勘助は平伏して拝し、仰いで傍らを見ると、御簾(みす)をかけた一間があった、中には夜の香鼻を奪うばかりである
そこには数百の女たちが御簾の間、あるいは几帳の間より、勘助と氏康の体面を見んと押しかけていて、のぞいては密かに囁き合っている

対面が終わり、勘助が退く姿は猿が飛ぶ如くに見えて、氏康はつい「クっ」と笑いを漏らした、すると左右の小姓数人も我慢の限界か氏康につられて笑い声をあげた、それを境に同席の士も爆笑し、当然ながら後ろに控えた女たちも一斉に笑い声に包まれた。
さすがに嘲笑に慣れた勘助も、この場のありように赤面して退出した。

氏康は左右を見て「七郎左衛門があまりにも推挙を申す故、会ってみたがこれほどの見にくき姿とは思わなかった、いかに一芸に優れていようとも、あれではさほどの事はあるまい、四体不具なる者を抱えて何の益になろうや」
松田尾張守、大道寺も勘助を見て喜ばず、七郎左衛門は二人に取りついて、様々に諭したが誰も取り上げようとしなかった。

松田七郎左衛門は勘助に会って、城内の無礼を謝り事の顛末を話した
勘助は「某、これまでも諸州を歩き、諸侯にまみえてきたが、これほどに号令厳重ならざる御家は見たことがござらん、このような様ではその国、きわめて危ういと申さざるを得ませぬ
当家の如きは、当国でも一二を争う大家であり、諸将綺羅星の如くひしめく、これを威令をもって治めねば大国を保つのは容易ではござらん
今日の体たらく、勘助の容貌いかに見苦しく笑うに堪えがたいと言えども、大将の御前であれば笑うことなど許されることではない
孫子の曰く『内に大将有りて、外に敵無ければ、これ勝ちという』とはまさこの事なり大将を大将とも思わぬから、このように自ら笑いも出るものなり
また傍らを見れば、多くの侍女の類、御簾の中から我を見物せし、これもまた女色を好む故なり、色を好み威厳乱れるは亡国の兆しである
さようなるときは五十年を待たずして国滅ぶでありましょう」と言った。
そして勘助の言った通り、五十余年を経て北条家が滅んだのは不思議なことである。
その日、勘助は旅支度を整えて次なる地へ旅立った。 北条家でただ一人、松田は勘助の実学に服してとどめたい気持ちはあったが、あえてそれをせず、ただただ主らの慇懃無礼を謝って見送った。



現役高齢者

2024年03月28日 20時33分29秒 | 知人・友人
 人生の大半を商売に携わってきたので友達はやはり経営者や商売人が多い
サラリーマンの友達と言うと、大半は同級生か女性だ。

昭和の時代はサラリーマンは55歳か60歳前で定年を迎えた、私たちが60歳の時は既に平成の半ばであったから、55,60で定年が来ても再雇用が定着していて一時定年後65歳までは短時間、低賃金で働き、更に70まで伸びること少なくなかった。
町工場や、従業員10名程度の商売だと70になっても人手不足もあって嘱託という名前で再々雇用もあった。
私も同級生を数人雇用したが、一番長かった人は、わが店に45年勤務して店を畳む71歳までいた、まさに「相棒」であり「弥次喜多道中」と言える男だった。今も介護老人施設で働いている。

今は73~74歳だが、同級生は従業員数名の個人経営の場合、未だに経営者として働いている人がいる。
ほとんどが飲食、技術系、昔風に言えば家内職人だが自分が一番の技術と経験があって、離れられないという。
しかし彼らと話すと「辞めたいがやめられない」「あそこが(体)悪い、痛い」と話すことが共通している。
それだけではなくて、金銭的には余裕があっても、後継者がいない、辞めた後何をしてよいかわからない、というのもある。
弁当総菜業、工務店、土木関係、行政書士、司法書士、損保代理店、宅配業者、貴石販売業、スナック経営、美容院、理容業、配管業、不動産、鮮魚商、食料品店、数えだせばキリがないほど70過ぎで現役をつづけている。
これも高齢化率が40%に達した田舎町ならではの特性かもしれない、投資もしない、社員も増やさないから発展もしなければ倒産もしないで自然消滅まで続ける、これが田舎の商人の実態だろう。

関連会社10数社を親から引き継いだ同級生もいるが、ここまでくると各社に優秀な城代家老がいて彼自身は「御名御璽」程度しか関わらないで、ほとんど一日手持無沙汰でいるようだ
去年、たまたま会って30分ほど立ち話をしたが「君は辞めてよかったなあ、俺もやめたいんだけどなあ・・・」というから
「あんたは立派な後継者がいるんだから、いつ辞めてもいいんだろ、もう先は見えて来たから、奥さん孝行で温泉巡りとか、世界一周旅行するとか、ゴルフ三昧でもいいんじゃないか」と言ったが、ヘビースモーカーの彼は「何もしたいと思わないんだよなぁ」とため息交じりに言った
億千万の資産があるのに、私でもできる温泉旅行さえやる気にならないというから、わたしからみたら(勿体ない話、勿体ない人生)に見えた。
もっとも本人はそれで満足なんだろうが?

社員千人以上の地元工場に今も勤務している同級生がいる、早い者は60歳で定年になっているから、これは特殊だ、しかも奥さんに聞いたらフル出勤だそうだ、役付きでもない平社員なので、いったい何をしているのか聞いたら、外国人労働者の教育係なのだという、学生時代はチャラ男で、そんな風に見えなかったが、人の才能とは人生を生きていくうちに備わっていくんだと驚いた。





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 54

2024年03月28日 08時29分12秒 | 甲越軍記
 勘介は「われは試合を好まず、凡人の性として勝てば歓び、負ければ憤るものなり、これ古今の通例である、某、壮年の頃より諸国を歩き幾度も試合に勝ち、そのたびに門弟の仕返し、闇討ちに遭い、このような不具者となってしまった、某が勝ったのは相手の未熟によるもので、それを逆恨みされるのは道理に合わず、今日のことも同じで、そなたの未熟が原因で某に負けて逆恨みいたすようなら、このまま某を返したまえ、潔く試合をするというなら此処で誓詞を交わそうではないか、なればあえて試合にのぞまぬものではない
某が諸国を巡り試合を行ってきたのは、禄を求めて徘徊したわけではない、優れた君子に会って己の修業を成さんがためである」と言った

門人たちは口々に「勘介の申す事、もっともだ、試合はやめた方が良い」という者あれば、大多数は「口先はうまく申すが、その腹はここから逃げ出すための方便だ」と言いぜひ試合に及ばんと期待する。
松田は、もともと自分の業に傲り、人を人とも思わぬ性分、あえて試合を辞める気はなく「某決して後怨を抱くことはない、万一某が負けることあれば、御屋形に某より推挙いたすことを約束する」
勘介は、ここまでと知り身支度を整え、試合の用意を始めた。

 この時、松田の門弟たちは「松田に勝たせませ」と神水を飲んでひたすら伺いいる。
門人は竹刀を執って双方に与えた、勘介が竹刀(槍)を見ると柄の長さは二間ばかり、先には鹿皮の牡丹を縛ってある
彼の左手は指二本しかなく、されども親指の間に槍の柄を挟み、稽古所の中央に進み出ると、元より小兵にてしかも不具者のため、とうてい勝てるようには誰一人思わず、一方松田は身の丈六尺の偉丈夫、年齢四十有余にして、勘介と比べれば凄まじいい迫力である。

互いに近づき、槍頭を合わせ双方早業をもって突きあう、いずれも屈伸自在の名手、少しも隙ありと見えぬ
互角の振る舞いに、門弟たちは手に汗握り、勘助の槍術が非凡であることを認めて、由無き試合を求めてしまったと固唾をのんで見守る
(以後、勘助と書く)
次第に勘助の槍術が遥かに勝っていることに気づいた、身をひるがえして突き入れた時、松田の面に突き当たり、松田は敷居にドゥと倒れた
一座の門人はこれを見て皆驚き、誰一人として声を出すものなく互いに顔を見合わせるばかりである
松田は三度まで挑んだが、いずれも勘助の勝ちであった
松田は潔く勘助の槍の上手を認め、大いに反省した、そして門人らとともに勘助に上座に座るよう勧めた。
「まことに只今の手練れ、某の遠く及ぶところではなかった、今まで数多の武芸者と対戦したが、今の今までこのように目を驚かしたことはただの一度もなかった、七郎左衛門、貴殿の妙手の前には予の妙技も稚技に等しいと感じ申した、この上は我が家に逗留いただき、数日の後には老臣どもに推挙し当家への取り持ちを仕る」

勘助は松田の性根の善人さに喜び、十日ほど逗留した
松田はしきりに太守氏康に推挙続けたので「しからば勘助を呼び出すべし」との許しが出た。
松田に続き城中の大広間にまかり出る。 謹んで一座を見渡せば正面の上段には相模守氏康の席があるが、未だ姿は見えず
左右には、松田尾張守、大道寺玄蕃允、そのほかの諸士毅然として着座し、その体ははなはだ厳重であるが
諸士、勘助が一眼で足は片方が短いのを見て、互いに目と目を見合わせて薄笑いを交わしている



自然と生きる漁業者

2024年03月27日 20時35分17秒 | 雑記
 漁師が漁をするのも、私が干物を作るのも風と天気に左右される。
漁師などは「船板の下一枚地獄」というように嵐に出会えば、命さえ左右されるから、今の時間の天候もさることながら、この先何時間後の天気にも気を配る。

カレイを捌いて、塩水につけ夕方から2時間干したけど、雨模様で湿度が高い上に風もさほどなく失敗。
朝は5時半から、もう一度干した、風は結構あるが湿度高く、8時には雨の予想なので7時までが勝負。
干物失敗ので、から揚げ用にして冷凍と相成る。

北海道では昨年来イワシの大群が押し寄せる現象が起きている
記憶が確かなら年末にも海岸に上がったとか・・・そして大地震
富山定置網にもイワシが大量だった、けっこう大きめでそれなりに脂がある、5~6匹おすそわけいただいて食べてみる。

縁あって漁師の手伝いをすることになったが、長年の私は魚屋さん、料理人として漁師の魚を市場で競り落とす側だったから、今は提供者側にへんし~~~んしたわけで、人生の奇縁を思う。
魚屋には魚屋の苦労と工夫あり、漁師には漁師の苦労と工夫がある
いろいろ新しい情報や人間関係を知ることが出来て、3時起きも苦にならなくなった。
港にいると漁師同士の会話が聞こえてくる、一番多いのは「網」と「潮」
「何網を何百mに刺したが坊主だ」とか「今日は四つ刺したがカニはまったくいない」とか「網幾つ上げた」
「潮がよくない」「潮は悪くない」「潮が早い」「なになに潮だ」「うねりがある」「潮がぶつかる」「潮を見んとわからん」
この二つが漁には重要なのだろう。

近年はレーダーや魚深を装備しているから、昔みたいに星を見たり、陸を見たりとかは言わなくなった、昔の漁師はよく「天気が悪て、岡(陸)が見えん」などと話していたものだ、そんな言葉は今の漁師からは聞こえない。
「月夜がに(カニ)は身が無い」というのは魚屋の会話、魚屋は魚屋で、魚の良し悪しに関する言葉が定着している。
立場立場で、それぞれの生活の知恵があるのが面白い。

天地真理 ☆ 愛の渚



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 53

2024年03月27日 09時25分08秒 | 甲越軍記
松田は、勘介の兵法の理を否定しようとさらに続ける
「そなたは三州牛窪に生まれ、兵の五十人も率いたことなく、村の長にもなったことはなく、まして小城の一つも任されたことはあるまい
畳の上に人形を並べ、粘土をこねて小さな城型を作って『こう攻め寄せれば云々』などと僅かに二十分の一の小形をもって胸算用を兵法と称するが、これは太平の時にこそ通用するだけの事、いざ戦が始まり戦場に出れば、たちまち胸算用は崩れ去り、ただただ右往左往するばかりとなり、心胆取り乱して逃げ惑であろう
論ばかりを高くして、戦場にて役に立たなければ、それは虚論と申すもの、何の益があろうや、舌先三寸弁が立つものが勝つ道理であろう」

これをじっと聞いていた勘介は、やや笑みを含んで
「そなたを高名の師範者と聞き、そのようなお人であれば格別の高論もあるかと訪ねてみたが、案外な言葉をいただき、世上の俗物と変わることなく、いささかがっかりしもうした
智には上中下の三つありて、上智とは天性の聖人の如き者なり、中智とは学んで自然の妙に至るなり、下智とは世の流俗にしてそなたのような者を云う
下智には上智の人の心は理解できず、上智は学ばずとも自然の妙を心得たる者である

上古の太公望の類は東海に乱を避け、その後渭水(いすい)に釣り糸を垂れているだけで、下僕の一人も持たずいたが、文王の飛熊の夢により軍師として迎えられた
殷の紂王を滅ぼしたときには車に座して軍配を振るだけで、牧野の戦いで75万の敵を皆殺しにし、周家800年の基礎を作った
また諸葛孔明も太公望に同じく臥竜岡に棲める穏者、蜀の前主に仕え二十七で世間に登場して魏の兵を破り、一代の間に負けたことを知らず
太公望も諸葛孔明も一国一城の主として戦場にまかり出て戦うことなど一度もなく、最初より軍師として味方の軍兵を用い、大敵を打ち砕く、これが上智のいたす戦である
畳の上の兵法、真の戦場にあっては何の役にも立たぬと云うは、元来下愚の虚智をもって虚学を学ぶ者の言うことである
某は三百の兵も持たず、一村を持つものではない浪人であるが、豪傑の諸侯があって某を用いれば、攻城野戦に敵を砕き、味方に大いなる利をもたらすであろう」と一気に答えた。

これを聞いた松田は顔面に怒りを見せながらも「カラカラ」と笑い
「なんとも愚かな事よ、そなたは天下を駆け巡り、予こそ軍師として采配を振るうと申すが、異国は知らず、我が国においては誰が最初から実績無き者に軍配を任せ兵百人の頭とするものか
たとえ召し抱えるとしても、最初は三十貫、五十貫の禄を賜り、槍一本の主なり、戦場に出て一番槍の功名を挙げて敵首の七つ十を取って、見事な戦ぶりならば足軽五十人ほどをつけられ、その指揮良ければ士大将となり士三百も付けられる身分となり、更に一方の大敵を破る目覚ましき功あって、初めて軍師と認められ、一国の士の上に立ち、御屋形の傍に仕え、時には陣代として指揮を執る、なんぞの功もない人を一国に人無きように軍師とする国など、皇国には無い、いかなる知恵あったとしても槍一本扱えぬでは戦場に出てたちまち首を取られ、軍師どころではない」と言う。

勘介は、それを静かに聞いていたが「凡そ、軍師職たるものは下は兵糧を焚く人夫の業から、上は大将の行まで知らぬこと無し、いわんや武士一人前の業を成さずして口を開くなら、これは狂人の仕業である」と返した。
それを聞いて松田も「武士一人前の業と申すのは槍術なり、一番槍、二番槍と申す、もし仮の試合にせよ某とここで試合をせよ」と迫った