神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 79 本能寺3

2022年11月30日 18時40分16秒 | 貧乏太閤記
信長は文を見ずに焼かせたため、長曾我部元親が妥協して条件を全面的に呑むことは知らなかった、(しまった、そうであったか)
と思った瞬間、この独裁者は並みの人間のように「そうであったか・・ならば許そう」とはならない、そんな軽い首(こうべ)ではない、こんな時こそ威厳が必要だということが身についている
「今さら詫びたとて遅いわ、すでに総大将信孝は伊勢を発って安土に向かって居る、最初から言う通りにすればよいものを」
「しかし、降参している者を、それはあまりに惨い」
「惨いだと、いちいち感情に流されていて日の本の統一ができると思うか」
「そこを何とか・・・」
「ええいくどい、お前の喜ぶ顔を見たいと呼び寄せたに、その物言いはなんじゃ、いつまでも四国だ長曾我部だと細かなことにこだわるではない、長曾我部だとて殺すとは言っておらぬ、許して後に使い道もあろう、今は儂の思う通りに従えばよいのじゃ、不快である、二度とそなたの顔は見とうない、早々に行ね」
光秀は青ざめた顔のまま退出していった
(思った通りよ、光秀めしばし眠れぬ日が続くであろう)

 5月27日家康の一行が浜松から安土に到着した、信長は終始にこやかに家康を安土城の豪華絢爛な各部屋から大展望の天主閣まで自ら案内をした
昼には伊勢から織田信孝が15000の兵を率いて安土に到着して信長に謁見した
兵たちは城下の各所に警護を兼ねて今宵は宿営する、信孝は夕方からの饗宴に参加するのだ
予定された出席者の中に明智光秀の姿がないことを多くが不審に思った、信長の家臣に問うと「体調がすぐれぬと聞いております」と誰もがそう言った
50名ほどが招かれた宴は大盛況であった、信長の天下統一はもはや誰の目からもまじかに見えている、足利将軍家の力が無くなって起こった戦国時代も100数十年かかってようやく終焉を迎えようとしていた。
織田家は49歳の信長を頂点に信忠、信雄、信孝の3人の息子が成人してそれぞれに一軍を任せられるほどに成長している
信忠は既に総大将として、本願寺、播磨の鎮圧、武田氏殲滅戦を指揮してすでに信長の後継者として誰もが認めている
次男信雄も伊勢水軍を率いており、また伊賀攻めを成功させて、一回目の汚辱をそそいだ。
信孝は上の2名に比べて母の出自が低いため、一目下がっているが、此度は四国の長曾我部攻めの総大将として与力大名を含めて2万5000の軍勢を率いて渡海する
 翌日、家康一行は安土城下を見物した後、京の二条城で一泊、そして大坂、堺の見物をゆるりと楽しんでから帰国する予定である。
また織田信孝の軍勢も摂津で織田信澄、丹羽長秀、池田恒興の軍と合流するので、翌28日午前に安土を発った
信長も大きな仕事を終えて一休みのあと、未だに腹立たしい明智光秀に新たな命令書を書いて届けさせた
そして自らは信忠と合流して1200ほどの兵を引き連れて29日早朝に発って、その日のうちに本能寺へ入った、信忠は兵1000余を率いて本能寺から近い妙覚寺に駐屯した、信長には旗本と小姓衆100名ほどがついて警護や身の回りの世話をした
翌30日から6月1日にかけては関白、前太政大臣を先頭に公家衆をはじめ京、大坂の著名人が天下人となる信長に拝謁するために訪れ、信長も満足な2日間を過ごした。

 28日夕刻、信長からの上意を受けた明智光秀は青ざめた
その内容は、①備中出陣は取りやめとする ②かわりに摂津に兵15000を率いて信孝の旗下に入り、長曾我部攻めに加われ
③日向守の現在の領地である丹波、山城、近江の支配地はすべて召し上げる
④代わりに四国平定の後、土佐と阿波の二か国30万石を与える
明智日向守    右大臣平信長

しかも追い打ちをかけるように、上使となってやって来た森蘭丸、坊丸の兄弟の長兄の森長可(ながよし)は越後戦線の大将として活躍して信長の覚え愛でたい、弟の蘭丸としても自分が信長には無くてならぬ寵臣であることも含めて得意絶頂である
蘭丸が光秀にささやいた
「明智様、お屋形様が腹にはこれだけでは収まっておりませぬ、常日頃より奥方のお濃さまの失踪が明智様の手引きではないかと疑っておられますぞ、しかと心に留め置きくだされ」

「なんと惨いお方じゃ、この儂と長曾我部が同族と知りながら儂に滅ぼせと申すのか、まして儂にすがってお屋形様にとりなしてくれと頼まれているものを、しかも長曾我部を滅ぼさねばわが一門は路頭に迷う、幾重にも儂を陥れようとする魂胆が憎い」
光秀はどうしてよいかわからなくなった
しかも光秀と従妹になる濃姫との仲を信長が疑っているとはどういうことであろうか、信長の猜疑心の深さと、森蘭丸の小面憎さが気に障る
だが一度疑いだすと、とことん追い詰める信長のやり方を知っている、残り少なくなってきた自分の前途さえ危うい、目の前が暗くなってきた
そんな悩みを抱えながらも命令には背けず、領国の丹波亀山に戻り、兵を整えた。

 信長が本能寺に入った29日、越後では森長可の軍が春日山城から10kmほどの村に陣を敷いた
景勝の生誕の地である魚沼郡にも滝川一益の万余の軍が侵入して、越後の分断を図っている
しかも越後北部には内応した揚北衆と、早くから信長と誼(よしみ)を通じた伊達輝宗(政宗の父)の軍が上杉景勝を脅かしている
越中の上杉最前線、魚津城も本丸を残すだけとなった、いよいよ上杉家の最期も近づいている














ワールドカップ 日本どうなる

2022年11月30日 09時02分26秒 | サッカー J1 J2
第二戦コスタリカに勝てばBEST16が決まった日本が、最悪の負けで苦しくなった。
第三戦は最強のスペインが相手、ドイツ戦のような奇跡が起こらなければ6割がた負け、3割が引き分け、1割が勝(個人的予想)
もし勝てば文句なし1位通過、負ければ予選敗退決定
勝 日本6 スペイン4 ドイツ1~4 コスタリカ3~6
負 日本3 スペイン7 ドイツ1~4  コスタリカ3~6
ドイツかコスタリカ、どちらかが日本を上回る。

問題はスペインと引き分けた場合、そうなるとコスタリカードイツ戦次第だ
日本は引き分けで勝ち点4 スペインは5 
ドイツが勝てば、ドイツは勝ち点4 コスタリカ3
①スペイン5 ②日本、ドイツ4 
ドイツが1点差勝なら、日本が2位でBEST16決定 
ドイツが2点差以上の勝なら 日本予選敗退

コスタリカが勝てば勝ち点6 ドイツ1
①コスタリカ6 ②スペイン5で日本敗退

引き分けならドイツ2 コスタリカ4
①スペイン5 ②日本 コスタリカ4
こうなると得失点差で日本のBEST16が決まる

万一、日本とコスタリカが勝てば、ドイツとスペインが敗退と言うことになる
そうなれば、それは奇跡と言われるだろう。
頑張れニッポン、コスタリカ
日本は引き分けに持ち込めれば7割(個人の考え)BEST16に行ける
*コスタリカがドイツに勝つ確率1割(個人的予想)
*ドイツとコスタリカが引き分ける確率4割(個人的予想)
*ドイツが勝つ確率5割(個人的予想)
*ドイツが1点差で勝つ確率7割(個人的予想)
*ドイツが2点差以上で勝つ確率3割(個人的予想)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 78 本能寺2

2022年11月29日 17時36分57秒 | 貧乏太閤記
天正10年5月17日、信長は明智光秀、長岡藤孝、池田恒興らに備中で交戦中の羽柴秀吉の後詰に行くことを命じた、出陣は6月2日と定めた
ついに光秀は京での役目を解かれたのだ、信長の怒りは収まりそうにない、まさに「可愛さ余って憎さ百倍」になってしまった
信長の転換気質がここでも出てきたのは光秀の不幸であった、光秀は触ってはならない逆鱗に触れてしまったのだ
そういったところが光秀の欠点でもあった、秀吉や丹羽長秀などはうまく立ち回ってたとえ信長が怒っても懐柔する術を知っている、だが実直でプライド高い光秀にはそれができないのだ、そうだ追放された佐久間信盛も光秀に前例を残したのに光秀は学べなかった

 その点では北陸にいる柴田勝家も光秀に負けぬプライド高い頑固者だ、遠い雪国の北陸に赴任させられたのも、かっては信長に敵対して殺された弟、織田信勝の家老として信長の命を狙った時があったからだ
織田家の筆頭家老という地位にありながら遠い田舎にいるのはそんなわけだ、もし秀吉の人間性を持っていれば勝家は京都守護として畿内にいたであろう
 信長は知らっぱくれていても10年20年前のことでも、いつまででも忘れない特技がある、佐久間が追放された理由の中にはそうした10年以上も前の失敗があった。

 23日、信長との直接的パイプが切れて長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)は信長に逆らう愚かさを思った、(たかが讃岐一国13万石にこだわって国を滅ぼしては元も子もない)ことに気づいた、伊予一国でも35万石あるのだ、10万石しかない土佐の国人だった時に比べれば十分すぎるほどだ、気を取り直して信長の案に従うことにしたが、もうパイプは切れた。
 そこで親戚となった斎藤利三(光秀の家老)に文を送って信長に寵愛されている光秀からとりなしてもらおうと考えたのだ
 しかし、信長と光秀の関係は180度ひっくり返ってしまった、長曾我部はそれを知らない
それでも光秀はこの文を信長に届けた、というか信長は会わないので小姓に預けた、だが信長は読もうともせず「長曾我部の処置は決した、誰の命令にも儂は従わぬ」焼き捨てさせた。

 越後戦線は森長可の軍が活発に動き出した、北信濃の与力の兵を率いて飯山方面から国境の峠を越えて今の妙高にまで進出した
ここまでくれば上杉の本拠地春日山まで10里(40km)もない、1日で行ける距離だ、いよいよ越後危うしとなった。
 越中の魚津城救援に向かっていた上杉景勝もあわてて春日山に戻った、そのため魚津城も孤立して、柴田勝家の与力、佐々成政、前田利家らに囲まれて落城まじかであった。
ここが敗れれば宮崎城、親不知(おやしらず)の天下の険を超えれば越後勝山落水城、いずれも険しい山城、そしてこちらも春日山城まで15里と迫る
信長は相次ぐ勝報の満足した「あとは四国と備中で天下はわがものとなろう」

 森から報告を受けた25日も信長は上機嫌だった、躁鬱で言えば躁状態で、あれだけ怒って叩きのめした光秀に対しても
「光秀には少し灸がきつかったかもしれぬのう、増長した物言いがひどすぎる故、懲らしめたが蹴り倒したのはやりすぎであった、さぞ気を悪くしておるであろう、少し労わってつかわそう、蘭丸、光秀をここに呼べ」
信長は衝動的に光秀に言った秀吉への与力を取り消して、家康の饗応の日には洛中の警護をさせようと思った
(これを聞けば、光秀の機嫌もなおるであろう)
織田信長、若き頃には戦となれば、その身を家臣たちの真ん中に置いて、自ら先頭を駆け出し、そのあとを家臣たちがうろたえて追った
そんな時代が懐かしい、あの頃は光秀、柴田、前田、秀吉などまだ若き強者たちが片時も離れず傍にいた、今はそれらの者たちはそれぞれが一軍を率いて遠くに行ってしまった、49歳になった信長は今や「孤独な大魔王」なのだ
あの頃を語ることができるのは畿内を任された明智光秀だけである、信長にとって光秀は唯一の古くからの友であった。
傍に控える森蘭丸に信長は続けた
「蘭丸よ、儂もかっとして光秀に、あのような仕打ちをしたが、あやつは生真面目で融通が利かぬ男なのじゃ、ゆえに自分に間違いがないと思うと自分の立場も忘れてまっすぐに向かってくる、そなたにも憎しみの目を向けたであろうが、腹の中はさほどでもないはずじゃ許してやれよ」
「はは わかっております」
「そうか、そうよのう、儂が光秀に畿内を任せておるのは何よりも生真面目だからなのだ、命じたことにはいかなる理由があってもやり遂げる、そこが光秀の良いところなのよ、だが近頃は歳のせいか頑固になってきたようじゃ
しかし朝廷との交渉には無くてはならぬ男である、秀吉のような眼鼻が利く者でもなく、勝家のような無骨者でもない、融通が利かぬと言っても長秀などより遥かに柔軟に物事を考えておる、冷静さでは織田家随一なのだ、ゆえに儂も光秀に言いすぎるきらいはある、だがのう、儂はこれから国内平定した後にはこの日本の国を光秀には最も重要な朝廷の接待役として、山城および和泉、河内、摂津、丹波までの支配を任せようと思っている
国内が平定となれば、いよいよ朝鮮から明国を併合する、大将には秀吉、家康、島津を先鋒として競わせるのだ
それらが攻め取っただけ領地として与えよう、それぞれ任せて王とする
細かいことは今からとやかく言っても始まらぬ、まずは毛利と長曾我部を従えるのが先じゃ
明を平定したら、海から陸から四方八方に向かって南蛮人たちとの交易を始める
早く小さいこの国から飛び出したいものじゃ、光秀にも儂の夢をわかってもらいたいのだが、長曾我部がどうの四国がどうのと細かなことを言いおる、これからそれを言い聞かせて、早うにわしの手伝いをさせたいのじゃ
もう少し、あの頑固頭をからかってから儂の大望をわからせようと思って居る、くそ真面目な男ゆえ、何日も悩むであろうが、そのあとで儂の真を知れば喜びも倍増するであろう」

夕刻近くなって光秀がやって来た、緊張した面持ちでいつもより硬い
「光秀まかり越しました」
「うむ、大儀である、気分はどうじゃ」
「なんの気分でございましょうや?」
「なんであると思う」
「さて、わかりませぬが、長曾我部のことか、備中のことかと」
「そのとおりじゃ、備中への出陣は取りやめじゃ」
「それは、ありがたきお言葉、されど四国攻めの取りやめはいかがでありましょうや」
「まて日向、今は備中取りやめだけでよかろう、四国攻めは言うな」
「そうはいきませぬ、四国攻めとなればこの光秀の信用が地に落ちまする、お屋形様には元親がお屋形様の示した条件すべてを呑んだ旨の文を送りましたが、いかがでありましょうか? まさか・・」




あやしい彼女 「束の間の夢」

2022年11月29日 09時44分19秒 | 映画/ドラマ/アニメ
急に映画を見たくなった
HDDにためてある中から「あやしい彼女」を選んで見た、今日が二回目なので大雑把な内容は覚えている
韓国映画だったと思って見て見たら、日本映画だった(おかしいな?)
たしか韓国映画だったはずだが、調べたらオリジナルが2014年に韓国で、それを中国、日本でもつくったらしい、日本版は2016年
口も態度も悪くて、近所でも評判の嫌われ者の73歳のおばあさん(倍賞美津子)が、謎の写真館で20歳の娘(多部未華子)に変身、人生が変わる
小説「リプレイ」同様、悔いのある人生、満足できなかった人生やり直しドラマだ

戦災孤児だった彼女は苦労をしながら生きて、結婚したが夫は死に幼い娘を背負って貧しさに耐えながら、何とか生き抜いたが若い時代は貧しく、なんの楽しみも経験しないで年老いた。
生きるためには時にはずるいこともした、今でもケチで口が悪いばあさんだと、誰もまともに相手にしない
だが同じ戦災孤児だった年下の次郎だけは、二人で助け合って子供時代を生きて来たから、彼女の苦労は知り尽くしている、そして今も好意を抱いているのだ。
そんな時、彼女はシングルマザーの娘と喧嘩をして家出、そして若返ったというわけだ。
そして「住む家がない」と嘘を言って、次郎の家(風呂屋)に居候する
それからはカラオケ大会で歌って、イケメン音楽プロデューサーとバンドで一人前になりたい孫の両方からスカウトされる
そして、彼女の現実の人生で味わえなかった楽しく、華やかな青春と恋を満喫する、プロデューサーと恋に落ち、デートの日々
だが孫が交通事故に遭って輸血が必要となるが、アールHマイナス型の血液がなく、彼女だけがそれだった
地を抜けばまた元の婆さんに戻ってしまう、せっかく憧れの青春を得たのに、それをあきらめなくてはならない
すでに彼女が婆さんであることを知った、娘と次郎は反対するが、孫のために迷いもせず「神様が私にくれた束の間の休日だったのさ」と笑って病室に入っていった。
退院した孫は、プロデビューしてめでたしめでたし、彼女と娘もお互いを理解できて仲の良い親子になり、めでたしめでたし
次郎も例の写真館で若返って婆さんに戻った、彼女をバイクに乗せて遊びに行くのでした、めでたしめでたし。

自分の人生に照らし合わせて見て、いろいろ感じるところがありました
秀逸の空想人生ドラマ、青春ドラマでありました。
自分も取り戻したい時代と言うのは今でもありますから。



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 77 本能寺1

2022年11月28日 17時05分21秒 | 貧乏太閤記
 秀吉は高松城が低地の盆地状にあることに気づいた「そうであった!」
そして水攻めと言うアイデアを考え出したのだった
しかも季節は雨季を迎えようとしている、もってこいの戦術であった
5月初旬、秀吉は全兵力で高松城攻めを開始した、凡そ3万に及ぶ大軍でぐるりと高松城を取り囲んだ、それから秀長の家臣で土木に詳しい藤堂高虎という新参武士を奉行に抜擢して巨大な水防土手の建設を始めた。
田植えも終わって暇になった近在の百姓を動員して、世間の3倍もの日当を払って土嚢を作って運ばせて長さ4キロ、高さ5mにも及ぶ大きな堤で高松城を囲った、もともと高松城は窪地にあるから堤防が満水になれば高松城は4mほど水没するであろう、
土手の外側には見張り所と柵および付城、砦を築いて毛利の援軍が救援できぬようにしたのは鳥取城攻めと同様であった。
河と堤の境目を切った、雨続きで水量があふれんばかりの川の泥流は一気に低地の高松城めがけて、渦を巻きながらドドっと流れ落ちて行った、しばらくすると高松城は湖水の浮き城のようになっていた。
これでは船がないと逃げることも救援に向かうこともできない、またしても羽柴軍は戦わずに敵の自滅を待つだけになった
その間にも安国寺恵瓊を通じて毛利との和平交渉は続けている。

 秀吉は仕上げに信長に遣いを送った
「わが主は高松城を水攻めにして、蟻一匹入れぬよう守りを固めております、しかし毛利もこのまま黙って見過ごすとは思えませぬ
このまま高松城を見捨てれば、他国の国人は雪崩のようにわが方に寝返るでありましょう
毛利の威信と存続をかけて全力で当たってくれば、4~5万の兵で最後の決戦を挑む公算が高いと思われます
それを阻止して、戦を回避して従わせるにはもはや、お屋形様のご出馬しかありませぬ、ぜひともご出馬お願いいたします、秀吉伏してお願い申し上げます」
「ははは、藤吉郎め、最後の華を儂に持たせようというのであろう、相分かったと伝えよ、だがしばらくは動けぬ、越後が片付けば出陣するから、その前に援軍として誰ぞを遣わそう、そう申せ」

 5月に入ると徳川家康の安土来訪を控えて慌ただしくなってきた、饗応役を任せられた明智光秀は特に忙しくなった
27日に安土城で行われる宴には池田恒興、中川清秀、高山右近ら摂津衆、蒲生賢秀、山岡景隆ら近江衆、それに息子の織田信雄、織田信孝、さらに丹羽長秀なども招かれ、公家からは近衛前久を主賓に数名が招かれている
準備に追われている光秀にただならぬ噂が耳に入った
 昨年信長は、四国で威を振るう長曾我部元親に従うよう勧告したが、聞く耳を持とうとしなかった
元親は、明智光秀の家老、斎藤利三と親戚関係があったので光秀に命じて長曾我部を懐柔させた、以後長曾我部の折衝は光秀が任されていた。
だが、信長が光秀に何も言わず、突然「四国攻めをする」と宣言したというのだ
2日ほど様子を見ていたが、噂が具体的になって来た
織田信孝を大将にして、丹羽長秀を副将として河内の諸将が従い3万の軍勢で渡海して四国を攻めるということが明らかになった
翌日、光秀は信長に面会を求めた、信長もあっさりと会うと返事が返って来た
二条城に尋ねると、信長は穏やかな表情で光秀を迎えた
「おお日向、三河殿の接待の準備はすすんでいるか」
「はい、順調に進んでおります」
「さようであるか、粗相のないようにしっかりやるがよい、ところで今日は何用じゃ」
「はは、洛中にて不穏な話を耳にしたもので、お屋形様からお聞きしたいと」
「ふむ、儂がかかわることであるか」
「さようでございます、いかなることかと、お聞きしたいと思いまいりました」
小姓の森蘭丸が緊張した
「なんじゃ、深刻そうな話のようじゃのう」
「単刀直入にお聞きいたします、長曾我部のことです」
「ふむ」信長も真顔になった
「お屋形様が四国攻めを三七様(織田信孝)にお命じになったとの噂がありますが、まことでございますか」
「ああ、そのことか、たしかに命じた」
「まことであると申されますか」
「いかにも、それがなんじゃ」
「長曾我部のことは、某に任せたとのことであったのでは」
「いかにも、そのように申したが」
「ならば、某に話がないうちに四国攻めを命じられたのはなぜでございますか」
「ほほう、儂がやることはそなたにいちいち相談せねばならぬというのか」
「いえ、そうではありませぬ、長曾我部のことについて申しております」
「長曾我部は儂に従わぬ故、攻めることにしたのじゃ、そなたに相談してからなどと悠長なことを言って居れば勝機を逃してしまうわ」
「それはいったい」
「長曾我部には讃岐だけ織田家に差し出すよう申し付けたのじゃ、ところが『儂の力と家臣の血で得た領土は一寸たりとも渡せませぬ』と頑としていうことを聞かぬ、ゆえに力には力であたるしかあるまい、阿波と伊予の二国の領有を儂が認めたのだからそれでよいではないか」
「しかし、お屋形様は拙者が長曾我部殿と交渉を締結されたときに四国全土切り取り許すと言われたではありませぬか、それを今になって覆されては長曾我部殿も納得できますまい」
「光秀!うぬは儂の家来か、長曾我部の家来か!」ついに信長は怒りを爆発させた、それでも光秀は引かず
「お屋形様、今一度ご再考くだされ」にじり寄った
「くどい! 蘭丸、光秀を打ち据えよ」
森蘭丸は手にした扇子で光秀の額を二度打ち据えた
「ええい!生ぬるい」今度は信長が光秀を足蹴にした、光秀はどっと後方に転がった「なんと! お屋形様」
「せっかく儂が、お前を佐久間に代えて次席家老に取り立てようとしているものを、お前は増長しおって、洛中での評判を聞いたか、お前のために儂まで朝廷の覚えがわるくなってしまうわ」
「・・・・・」
「もうよい下がれ、気分が悪い、三河殿の饗応役も別の者に任す故、即刻饗応役から降りるがよい」
信長は足音も荒々しく踏み鳴らして別室に下がって行った。
取り残された光秀の目には悔し涙がこぼれた。



クィーンズ駅伝 死闘!! & 阿炎初優勝!

2022年11月28日 07時01分44秒 | マラソン/駅伝
今日は大変だ
女子駅伝最高峰クィーンズ駅伝、混戦の大相撲千秋楽、Wカップ日本第二戦コスタリカ戦

クィーンズ駅伝が仙台で行われた
優勝は16年ぶり2回目の資生堂だった、2位は去年優勝の積水化学
区間賞4人 区間2位1人 移籍してきた一山麻緒が区間7位、資生堂は大会新記録での完勝、2位に2分近い差がついた
何といっても5区の石川県出身、五島莉乃(ごしま りの)の、自分自身が昨年作った区間新に迫る快走で決定的な差をつけたことだ。
私は郵政のエース鈴木亜由子、復活した新谷仁美(にいや ひとみ)ファンから始まり、その後、次々と良い選手が出てきて、廣中璃梨香(ひろなか りりか)、昨年5区で1秒差で新谷に勝って区間新を出した五島莉乃、廣中と戦わせたい不破聖衣来(ふわ せいら)、これだけファンしている。

今日の駅伝は学生の不破以外が勢ぞろい、特に3区では誰もが見たかった廣中と新谷の一騎打ちが実現した、これが一番の見どころだった。
最長10.9km区間での一騎打ちは、一山がトップでタスキを受け、そこから50秒ほどの差で4位廣中、5位新谷が続く、廣中と新谷の差は僅か3秒
すぐに新谷が追いついて並走、3位を追い抜き、2位加世田 3位~4位廣中、新谷が並走したが、新谷が遅れ、逆に廣中は単独2位になる、新谷調子悪いのか不安に
しかし気が付けば、廣中は一山を抜いてトップに、新谷も一山を抜いて2位に上がっていた。
それでも廣中の圧勝かと思ったら、中継点の数百mあたりで新谷が追いつく、そのまま、中継点までもつれ込み2秒差で廣中が1番、新谷2番でタスキリレー、だがスタートは廣中が3秒先だったので、区間は1秒差で新谷が区間賞
昨年1秒差で五島に区間賞を奪われたリベンジを果たしたことになる。
走るたびに区間賞と言う廣中伝説は、1秒差で途切れた。
一山は順位を2つ落として3位に下がったが、さすが五輪8位の実力者だ、くらいついて大差にはならず、あとの選手の激走で資生堂は優勝した。

鈴木亜由子と五島莉乃は5区の10kmで対決、しかし圧倒的な五島の走り
五島は区間に2位のエディオン細田あいが区間32秒差で食らいついたが区間3位以下には64秒以上の大差をつけた、鈴木は区間6位で五島には1分31秒負けて差は大きく広がった、鈴木は元郵政同僚だった積水化学の鍋島にも抜かれて3位で中継した。
年齢かと思ったがまだ31歳、新谷や資生堂アンカーで区間2位の高島などは34歳、まだまだやれるだろう、頑張れ!
細田あいはウィメンズマラソンでも活躍した26歳の長距離実力者
2区で区間賞をとった資生堂の佐藤成葉は可愛いお嬢さん、3.3kmの短距離だったが長い距離でも活躍すればファンが増えるだろう。
この二人も実績が出れば、きっと私はファンになるだろう
それにしても、五島は去年新谷に1秒差で区間賞、今年は新谷が廣中に1秒差で区間賞、五島は5区で2年連続区間賞、ここに不破が加われば4人の死闘が見られそう。
ただ駅伝はリレーだから、1区以外は競り合う姿がなかなか見られない、今日のように廣中と新谷が3秒差でスタートするのは奇跡としか言えない
胸躍るレースを見せてもらったと同時に、新谷の凄さを改めて見せてもらった。
5000m記録 廣中記録保持者 新谷3位
10000m記録 新谷記録保持者 廣中2位
廣中22歳 日本郵政  新谷34歳 積水化学
一山を抜いて1位になった廣中を3位の新谷が追う




新谷も一山を抜いて2位に



抜きつ抜かれつ


ラスト300激走


最期は2秒差で廣中1位リレー(区間レースは新谷が1秒差で区間賞)
一山も12秒差で3位リレー(区間レースでは廣中に54秒負けた)
   

大相撲九州場所は28年ぶりの巴戦に
12勝3敗で3人、大関貴景勝、平幕高安、阿炎
高安が今日、阿炎に勝てば優勝だったが、阿炎に負けてこのようになった
高安は優勝プレッシャーに弱い、今場所2回あったチャンスも自ら潰し、三度目の今回もまた負けてしまった
今はまだ巴戦の前だ、さてどうなるか
記事は明日掲載するが、予想は。その前にくじ引き
一番不利なのは貴景勝だろう、始まる前に予想 期待を込めて高安だ!
どうなる? 予想 
1.高安〇 阿炎×  2.貴景勝〇 高安×  3阿炎〇 貴景勝×
4高安〇 阿炎×  5高安〇 貴景勝×

実際はこうだった
1高安× 阿炎〇  高安アクシデント!  2阿炎〇 貴景勝×
阿炎初優勝! 不祥事で3場所だか出場停止で幕下まで落ちた阿炎
あれ以来、人間が変わって稽古熱心な道徳的模範力士になった、そして優勝にまで漕ぎついた
「偉い!」
三場所連続平幕優勝 角界初の出来事 大関から平幕まで力は同じ戦国時代

そしてワールドカップ
言うことなし・・飲んで寝るだけ

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 76 武田家の滅亡

2022年11月27日 17時24分39秒 | 貧乏太閤記
「設楽原で山県、馬場らを失った罰が今になって儂を襲うのか、あの時、老臣どもの言う通り退却していれば今日の危機はなかったのだろうが」
今更悔やんでも遅かった、家来たちにも武田家の滅亡は明らかに見えて来た
躑躅が崎に戻るまでに兵の大部分が逃走した、立て直すには無傷の小山田を頼るしか方法が無くなった
そんな時、上野(群馬)北部から信濃北部に勢力を維持している武田の外様、真田昌幸から「ぜひわが城に逃れて再起を図っていただきたい」との遣いがやって来た。
20万石弱の領地は難攻不落の山岳地帯と深い谷が多く、街道も谷沿いの狭い道だから大軍が攻め寄せるにはまことに都合が悪い地形なのだ
設楽原の戦に参戦した侍大将だった真田の長男、次男が戦死したため、武藤家に養子となっていた三男、昌幸が姓を真田に戻して、真田家を継いだ、
真幸の長男、次男、そして親戚も多く、東西に長い領地にそれぞれ城を持って、ネットワークを構築している
だが昌幸の実力はまだ未知数であり、真田は表裏一体で信用できないと言われていた、勝頼にはそれが心配だった
結局、昔からの重臣である小山田を頼って落ちて行った

織田信忠の軍は、信州中部の高遠城を取り囲んだ、ここには信州北部の仁科郡を任されている仁科五郎盛信が1000名で籠っている
盛信は四郎勝頼のすぐ下の弟である、武田家の一族まで次々と裏切る中、武士の義と忠を守り抜いて織田の大軍に立ち向かった
しかし、数万対1000では戦とは言えず、短時間で落城、盛信も討ち死にした
もはや甲府までは抵抗する敵がいない一本道である、信玄が作った棒道が今度は攻め寄せる織田軍の高速道路に化けた、3月には既に目の前に近づいた
小山田を頼った勝頼であったが、予想もしない小山田の裏切りに遭って、再び甲府目指して逃げた、途中から行き場を失い天目山に入った
従うは忠義の臣、土屋兄弟ら100名ほどで勝頼とその妻、嫡男太郎を逃がそうと防戦したが次々と倒れて行った
ついに勝頼親子と妻は、従った女中らも巻き添えになって天目山に散った
ついに清和源氏から始まる甲斐守護武田家は勝頼の代で滅んでしまった
甲斐に攻め込んだ信忠は、主を裏切った小山田が降参すると「一族でありながら助けを求めた主を裏切る不忠者は許さぬ」と言って斬首に処した。
 武田が滅んで、信長は諸将を今度は越後の上杉景勝攻めに派遣した
摂津、伊勢、河内、和泉あたりの大名や国人が動員された
信州口には森長可(もりながよし)、上州口には滝川一益、越中からは柴田勝家が攻め込む手筈ができた、上杉家も武田同様、風前の灯となった

 真田昌幸は主家を失って独立した大名となったが、周囲は上杉、北条、織田、徳川という大国ばかりで兵数全部合わせても5000程度の大名では独立は守れない、四方の勢力図を考えて織田に下ることに決して、上野(こうずけ=群馬県)を領し関東管領に任じられた滝川一益の配下になった

 秀吉が備中に兵を進めたのは4月であった、
高松城の様子を見ると、なかなか守りが硬い堅城で兵も多いという、しかも一方には川が流れており、他のは三方が沼になっていて、馬どころか足軽も容易に近寄れぬほどぬかるんでいる
「これは容易に攻め切れぬ、なにか方法を考えねばならぬ」羽柴秀吉が黒田官兵衛、宇喜多の家老と高松城の攻め方をあれこれ思案していたが、なかなか名案が浮かばない、兵糧攻めも一方を毛利が抑えていて無理である
このように敵と対峙しているのは秀吉だけではない、越中では柴田が魚津城の上杉方河田と睨み合い、信濃では4月川中島の海津城に森長可(ながよし)が20万石を与えられて入城、善光寺平から北國街道沿いに飯山から越後を伺っている

 秀吉が悩んでいる頃、信長のもとに徳川家康からの使者が訪れた
「此度の武田征伐の大成功、心よりお喜び申し上げ奉りまする。
わが主よりの心ばかりの品を持参しましたのでお納めくださいませ、なお主、家康は早々に、駿河一国拝領の御礼に参上したいとのことであります、いつ頃がよろしいか聞いてまいる様にとのことでございます」
「うむ、であるか・・それでは5月の末ではいかがかと申したと伝えよ、場所は安土城じゃ」
信長は一度決めたらさっさとことを片付けたい性分である
「日向をここに呼べ」
明智光秀が、やって来た 「日向守、来月27日に安土の城で三河殿を饗応する故、そなたが饗応役として宴の準備をいたすよう」
「ははあ、承りました」
「うむ、手抜かりなきよう頼んだぞ」
「はは!」

 この頃、都では明智光秀の評判が悪い
それはかっての謙虚で冷静な光秀が豹変して、各所で威張り散らす、高慢な態度が多くなったというものであった
出所は中下級役人、中堅の公家、商人などである、それらの噂は信長の馬廻り衆や小姓から信長の耳に入ってくるようになった
「これも信長が光秀の高慢を許しているからだ」という世間の声を聞くと、さすがに信長も知らぬ顔をできず光秀を呼んで問うた
「日向、そなたは巷の噂を聞いておるか?」
「いえ? 何の噂でございまするか」
「覚えがなければよいが、そなたが近頃人の好き嫌いが激しくなり、人を見て贔屓をするとの噂である」
「なんと! 誰がそのようなことを申すので?」
「誰でもよい、巷の噂と申したではないか」
「いえ、このような某に対する中傷は許せませぬ、どうかそれらの名をお明かしくだされ」
見かねて、小姓の森蘭丸が「日向守さま、お控えくだされ」
「むむ」光秀は言葉を切った蘭丸を睨みつけた
「これ、日向、ちと度が過ぎるぞ」見かねて信長がたしなめた
「ははあ、失礼いたしました」
「まあ良い、根も葉もない噂じゃ、気にせずともよい」
「ははぁ、わかっていただければ某も安心でございます」
「よし、下がってよいぞ」
光秀が見えなくなると蘭丸に向かって信長が言った
「蘭丸、どう見た」
「はは、以前の慎み深い明智様とは別人かと思いました、私を睨みつけたあの目は今まで一度も見たことがありません」
「うむ、言葉遣いもぞんざいであったのう」
「そのように聞こえました」
「さて、如何したものかのう」








 




空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 75 光秀絶頂の時

2022年11月26日 17時56分15秒 | 貧乏太閤記
 時間を戻して、この天正9年1月には信長は安土の城下にて左義長(さぎちょう=火祭り、どんど焼きの行事)をにぎやかに開催して城下の民を大いに喜ばせた
この時の馬行列がことのほか評判が良かったので、信長は喜び、京の都で大々的に「馬揃え」を開催することに決めた
そして洛中(らくちゅう=京都)および畿内(京都、奈良、大阪)を任されている明智光秀にこの大役を任せた、いわば実行委員長だ
大変な名誉で、光秀は信長に信頼されている喜びを感じて大いに張り切った
「馬揃え」とは現代の軍事パレードであり、また参加する武士たちにとっては晴れ舞台で、普段目立たない者にとっては信長の目に留まるチャンスでもあった。
そのため、より目立つ立派な馬を求める武士も多かった。 
山内一豊と、その妻、千代の話の盛り上がりの一つがこの「馬揃え」
信長の馬廻り衆の一人でしかなかったうだつの上がらない武士、山内一豊は城下で素晴らしい名馬を目にしたが、貧しくて買うことができない
ため息ばかりついているので、千代がわけを聞くと「こうこうこう」であった
すると千代は奥から箱を持ってきて一豊の前に置いた
一豊が明けてみると名馬を買うに不足ない小判が入っていた
驚いて千代に問うと「嫁ぐときに実家が『旦那様の危急の時に使いなさい』と言って持たせてくれた金子です、今がその時ですから、どうぞお気に入りの馬を買って、立派な武者ぶりをお屋形様にお見せなさい」
一豊は飛び跳ねて馬を買いに行った、そして馬揃えに、その馬に乗って行列に加わると馬に目がない信長がすぐに目を止めて「あれは誰じゃ」と聞いた
そうして目にもかけられなかった山内一豊は一躍、信長の知るところとなった
それが出世の糸口で、信長から目をかけられ、その後は秀吉に従って活躍を重ねて掛川5万石の大名となった、更に家康に仕えて関ヶ原の後に土佐一国20万石を与えられた。
実話かどうか?だが、いかに武士にとって大事な行事であったかがわかって面白い。
 この馬揃えでは信長は御所を中心に開催したので、「ぜひ見てみたい」という正親町天皇(おおぎまち)と親王もお招きした、御座所を設けて楽しんでいただいた。
観衆は20万人にも及んだと言われる、参加した武士も数万人もいたという、その一番には実行委員長の光秀が先導して、丹羽長秀、信長の息子たち、親戚一門が並び、柴田勝家などの重臣、それから近衛前久を先頭に公家衆もパレードに参加した、信長は最後尾に登場して派手な衣装で観衆を驚かせた
このパレードは大成功で日本中にその様子は知れ渡り、信長の名声は高まり
戦国終盤のライバルたちに無力感を与えた、遠く薩摩の島津さえ誼を(よしみ)を求めて来た。
明智光秀、柴田勝家ら秀吉のライバルも大いに面目を施したが、秀吉だけは遠く中国で戦準備に明け暮れて参加できず悔しがった。
帝(天皇)の喜びはひとしおで、自分を招き喜ばせてくれたことに大いに満足した、信長と天皇の関係は良い方向で深まったのである。

「明智日向守(ひゅうがのかみ)、此度の馬揃えの成功は、ひとえにそなたの働きがあったからからじゃ、褒美にこの馬をとらす」
黒鹿毛の堂々とした駿馬である、何より信長自身から与えられたことに大きな価値がある、先般のことと言い、このまわりの出来事は夢のようである。
(儂は今や、お屋形様の一の家臣として認められた)自然と笑みがこぼれてくる
「日向、此度は帝も親王殿下もことのほか喜ばれてなあ、この儂に『右府よ(うふ=右大臣)、天下第一のあっぱれ、武家の頭領に匹敵する武者ぶりである』とお言葉をいただいた、武家としての面目大いにたったぞ」
「それはまことにおめでとうございまする、某もお役に立ててこれほどの喜びはありませぬ」
「それだけではないぞ、朝廷、門外不出と言われる南都の幻の香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を帝が自ら削り取って、この儂に下賜されたのだ、武家始まって以来の名誉である、これもそなたの働きであるぞ」
「はあぁあ、もったいないお言葉にござります」
確かに、信長はこの時点で光秀を織田家第一の功労者であると認識したのである、それは佐久間信盛を追放して空いた家臣第一位の席に光秀を座らせようという信長の意思であったかもしれない。
しかも今度のことで関白近衛前久とのパイプも太く繋がり、朝廷のつなぎは光秀が居なくてはつながらないほどに力を持った
信長と関白=帝へのパイプをもった光秀に公家や畿内の商人、武士たちまでもがご機嫌伺いや貢物を送るようになった、光秀は大きな力を持とうとしている
  光秀が交渉を任されて、すでに臣従を誓った四国の長曾我部元親を「信長が、攻めようとしている」という噂も聞いたが(なにかの間違いであろう)と
気にも留めていない、現状を見れば光秀の嫌がることをするはずがないからだ

この年の織田軍の進出は目覚ましい
北陸では初夏には柴田軍団が富山城を落し、佐々成政を領主とし、上杉軍を魚津以北に追いやって、謙信亡き後の越後を伺っている。
また能登の七尾城の遊佐を下し、ここを占拠して前田利家が領主となった
すでに越前、加賀、能登、越中の一揆も駆逐した

天正10年2月
「越後の上杉も風前の灯火じゃ、毛利も秀吉が備中を攻めてほどなくわれらに降るであろう、毛利は武田のように愚かではあるまい。
いよいよ武田勝頼に引導を渡すぞ、すでに武田の婿である木曽と、駿河の武田の重鎮の穴山梅雪が内応しておる」
信長が宣言したころ、武田勝頼は甲斐府中を発って裏切った親戚の木曽義昌を成敗すべく8000を率いて出陣した。
しかしすでに木曽には織田の先発隊が応援として合流していた、しかも本隊の織田信忠が8万とも10万ともいう大軍で木曽方面に向かっているという

信忠の大軍が信濃に入ったころ、信長も3万の兵を率いて、半月遅れで信忠の後を追った
その中には丹波衆、山城衆を率いる光秀の姿もあった
「日向守よ、そなたがこの軍の副将じゃ、信忠が討ち漏らした敵を存分に叩きのめすがよいぞ」
光秀はまたしても感激した、滝川一益も加わっているこの軍団で、彼を差し置いて副将を命じられたのである、明らかに滝川を超えた地位にあると認識した。

 さすがに向こう見ずな武田勝頼も織田の大軍来るの報に、これには勝てぬと甲府に向かって引き上げた
ところが駿河口からは、徳川軍が勝頼の叔父の穴山梅雪を案内として甲斐に侵入しようとしているという知らせが入った
こんな時に備えて、甲府の手前の韮山に巨大な新府城を建設していたが、あまりにも織田の侵攻が早くて間に合わなかった
今まで一度も甲斐国内に敵が侵入しなかった強さが裏目になって、攻められるとあまりにも脆い武田家であった
しかも頼りにしていた奥方の実家、北条家とは越後の御館の乱で敵対してしまった、それも勝頼が勝手に上杉景勝と和睦したからだった
だから北条は助けるどころか、おこぼれを貰おうと国境近くまで兵を進めてきたのだ。




温かな陽気に誘われて

2022年11月26日 09時05分34秒 | 散歩道
夏以後、ずっと菜食になって、野菜ばかり食べている
だが、さすがに肉を食べたくなって、昨日は久しぶりに「ロースとんかつ定食」
ほとんど外食もしなくなり、スーパーで買った魚や食材で自炊状態だが、とんかつとなると手間もかかるし、道具も家庭用でプロの揚げ方が難しい。
昨日の「とんかつ」外がパリパリ、衣も厚すぎず、肉もしっとりした甘みがあって、揚げ加減も絶妙だった。
食事を終えたが、天気が良すぎるので、食後の散歩
いつも行く川からは15kmくらい離れた別の川の土手を歩いてみた、ずっと行くとこのまま15kmくらいは行くので、片道2.5kmくらいを往復して戻った
のどかな谷間の田園風景、大根、キャベツ、白菜など収穫する人もパラパラ
これからは晴れの日が貴重になってくる。






スマホ写真


空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 74 鳥取城兵糧攻め

2022年11月25日 16時51分47秒 | 貧乏太閤記
「おおー それは難儀なされたのう、しばらくはここにてゆるりとされるがよい、お屋形様に相談して、出兵することになりましょう」
豊国は用意された屋敷に入ると安心したのかぐっすりと寝たという
その後も秀吉は秀長と話している
「おかしなものじゃ、先の荒木と言い、山名と言い家来を捨てて城から脱出するとは、二人はそれぞれ事情は違うが城主が城を捨てたことは同じじゃ」
「荒木殿の場合は別として、山名殿のことを思えば、やはり殿様と言う者は家臣を制する御する力がなければいかんのお」
「その通りじゃ、そもそもその力があるから殿様になれるのじゃが」
「やはり世襲大名は弱いのかのう」
「それは言えまい、お屋形様とて世襲じゃ、また見事に腹を切った別所長治殿も世襲であるが家臣に慕われる立派な殿であったぞ」
「うむ、やはり人それぞれの資質であるのじゃなあ」
「そうよ、われらも家臣の扱いには気を付けていないと寝首をかかれることもおこるやもしれぬ」
「そのとおりじゃ、家臣は大切にしないといけんのおお」

秀吉からの連絡を受けて信長は鳥取城を再度落とすべく「出兵せよ」と秀吉に伝えて来た、秀吉はさっそく手を打った、黒田官兵衛も話を聞くと医師が止めるのも聞かず姫路に戻った。
鳥取城の様子を聞くと、城主が居なくなったことに気づいた家臣たちは慌てた、頼りない豊国であったが彼に代わって城を守る気概ある家臣がいないのである
困って因幡、伯耆を支配する毛利三家の吉川氏に相談した、すると一族の吉川経家(きっかわつねいえ)を城主として送って来た。35歳の冷静沈着な立派な大将である。

 さて鳥取城攻めを任された秀吉は、またしても兵糧攻めを選択したのである
翌天正9年に入るとまずは稲刈りのタイミングで蜂須賀正勝、家政親子に因幡から伯耆あたりまで米を相場の倍以上で買い取らせた、金に目がくらんだ毛利方の兵も内緒で兵糧米を商人を偽った織田方に売却した。
更に正式な堺や大阪商人を使って毛利領で大口のコメ購入をさせて、飢饉で相場が高い関東に売るよう指示した。
気が付けば鳥取城の米蔵の米は予想以上に不足した、これはさすがの経家も気づかなかった、籠城すれば数か月後には無くなる量だ、春になり気づいたときには後の祭りであった、もはや買い戻そうにも領内の米問屋の倉も空っぽだったのだ、それでもいざとなれば伯耆の吉川家に頼めば何とかなると思っていた。

同じ年6月には秀吉は2万の軍を率いてゆうゆう鳥取に着陣、鳥取城を包囲した、毛利軍も吉川の兵を救援に送ったが、秀吉の軍は付城や砦を幾重にも築いて守りを固めたので、毛利軍は攻め込めない
救援米を海上から運び込もうとしたが、海上も織田水軍がびっしりと守っていて、運搬船を攻撃して沈没させたので、鳥取城には一粒の米も届かなくなった
秋の収穫をあてにしていたが目の前で秀吉は収穫直前の米を織田軍に必要なだけ刈り取り、あとは焼却した。
飢え死に寸前の城兵は次々と飢えて死んでいった、食えるものはすべて食い尽くした、再度吉川軍が兵糧の運び入れに向かったが、織田に味方した伯耆の羽衣石城の南条氏に遮られて失敗した。
ついに見かねた城主吉川経家は切腹を条件に降伏を願い出た、経家のあまりに立派な覚悟を見て、秀吉は助命をすると言ったが、経家はそれを拒んだ
「この城で満足に飯を食えずに悲惨な死を遂げた部下に申し訳ない、すべてはこの儂に責めがあるのだ、生きてはおられぬ」と言うのだ
ついに秀吉も諦めた、酒肴を贈って門出とした、こうして因幡、伯耆も織田領に組み込まれた。
それにしても、こうした戦いが行われているのに、毛利方はなぜ備前から播磨に攻め込もうとしなかったのか
それがまことに不思議である、備前の宇喜多は秀吉の兵を借りずに美作の毛利の城を攻めていたし、このあと秀吉軍は備中(びっちゅう)に攻め込むことになるが、いつも毛利は受け身で積極的に秀吉軍を攻めようとしない、これが謎である、危機感がなかったのか?戦意がなかったのか?
一方で織田軍は秀吉が鳥取城を攻めているのと同じくして、織田信雄を大将に伊賀に攻め込んでいる。
だから10月には因幡と伊賀が同時に織田の手に落ちている。
この時点で毛利は美作の一部、備前の一部、伯耆の一部、備中、備後、安芸、周防、長門、伊予、筑前の一部、出雲、石見8か国と十数郡を持っているが、沿岸部以外は山地が多く総石高は200万石ほどである、織田の4分の1程度だ、しかも軍団制をとっていないので、各々が自分の領地を守るという旧式の専守防衛スタイルだから大戦などはできない。 武田軍や上杉軍、徳川軍と比べてもその兵制は稚屈であった、さらに大国に築き上げた毛利元就の死後、元就の遺言で「領土を護り、撃ってでてはならない」を守って平和が続いていたため、好戦的な織田に対抗する術が失われていたふしもある、これでは癌細胞に体が侵されていくように織田に侵略されていく運命であった。
信長から見ても、織田家を常に脅かした武田は宿敵であり決して許せる相手ではない、しかし毛利は向こうから織田家に戦を仕掛けてきたわけではない
逆に織田が毛利を侵略しているのだった
それゆえに武田に対するような憎しみはない、本願寺に手を貸したことと、足利義昭を匿っていることを除けば無垢ともいえる
それは秀吉も感じている、それゆえにできれば毛利とは平和裏に徳川家康同様に従ってもらいたいと思っている

 織田家の軍事組織は日本国中誰もしたことがない兵制である、まずは兵士すべてが足軽まで職業軍人である
農民と軍人を完全に分離した日本初の軍隊である、他国は足軽の多くが農民であり、無理やり連れてこられた者たちであるから戦意に乏しく、戦闘能力も低い、しかも田植え、稲刈り時期には戦に出られない
だから戦は田植えあと、稲刈り後に限定される、だが織田軍は一年中戦ができる組織だ、それをできるのも豊富な財政があるからだ
特に信長が目を付けた直接の南蛮貿易と、信長が許可した大商人、貿易商からの税金や海外貿易許可料の収入が莫大だ。
 小商人には無税で商売させて城下を発展させ、大商人や寺社からはたくさんの税金をとる代わりに応援もする、信長ならではの経済政策も素晴らしい。
だから家臣たちも豊かである
 天正9年の信長の重要家臣は以下のとおりである

織田信忠 軍事総大将 嫡男 与力も含めた石高200万石 最多動員力6万人 
柴田勝家 北陸方面軍団長 130万石 4万人
明智光秀 畿内官房長官 130万石 4万人
羽柴秀吉 中国方面軍団長 140万石 4万人
この4名がもっとも力を持った者たちであった、このほかにも摂津、河内、和泉など各地の中堅クラスの国人を都度動員できる
信長自身はもはや先頭に立って戦場には出向くことがなくなったが、へいぜいは馬廻り衆、小姓衆が身辺にあって、出陣となれば光秀軍団や近江、伊勢あたりの兵を率いたであろう。