神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

イヌサフランが咲いたけど・・・

2014年09月30日 15時28分07秒 | 季節と自然/花

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「ねこサフラン」が咲いた またいつもの調子でやってる
なんとも、そそっかしい
「イヌサフラン」だよこれは
春になると、葉が一斉に伸びてきて株のようになる
長さは30~40cm それが夏にはみんな無くなってしまう
そして今頃、気が付けばひょろりと茎が30cmも伸びて
紫の花が咲く 今年は2輪だけ
去年は7輪咲いたのに
そばに寄ってみたら、茎が折れたのが4本ほどあった
風で折れたのか 誰かが持って行ったのか
花は周囲に見当たらない 不思議だ



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大当たりゴルフ

2014年09月12日 22時51分43秒 | ゴルフ・スキー・スケートなどスポーツ
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二ヶ月ぶりのゴルフ、東京をはじめ日本各地で大雨水害のさなか、こちらも
早朝にかけて時々激しい雨が降ったり止んだり、雷が落ちたりと危ぶまれた
天候ですがスタートは最終組10時半(プライベートゴルフ)だったので天候は
回復傾向の曇り、昼には晴れ間も見えてきた
さてスタートこそボギーだったものの次のロングは11点といつものゴルフに
結局前半は62(ハーフで)後半は53でトータル115
ところが数字ではいえない面白いゴルフでした
まずはロングの第二打、飛んだボールは50ヤードほどで落下、なんと先行の
ボールを直撃、ぶつけられた運送会社の会長様曰く「お近づきになれました」
9番池越えショートでは、池の手前3mに落下、2打3打連続で池ぽちゃ
4打目は80ヤード先のグリーン左の土手に当たってグリーン方向に転がり
なんとピンそば10cmにオン、だけど点数は・・・とほほ
後半はミドルの2打目またしても50ヤード先で落下、なんとまたしても先行の
ボールを直撃!皆さん曰く「大当たり!宝くじ買いなさい絶対当たる」
「グリーンならともかく、こんな広いところで当たるだけでも珍しいのに2度も
あたるなんて見たことが無い」
さて次のホールは谷越えショート、ここでは私は10回のウチ7回は谷に落とす
苦手のホールなので番手を1つあげて打つと、谷は越えたもののOB寸前の
ラフで何とかストップ、グリーンまで5m、ピンまで10mほどの横のライン
Aでフェースをほぼ直角にたてて引っ張ったらコンとボールは上がりグリーンに落ちて
転がるとピンに当たって「チップインバーディ」
ゴルフ初めて25年、5年に一度しかやったことの無い5度目のバーディがチップインとは
そして最終ミドルもパーで締めくくって点数はさえないものの満足のゴルフでありました






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関東大震災 東京市日本橋区三代町

2014年09月01日 13時43分22秒 | 自然災害

                    未曾有の自然災害 関東大震災

 花のお江戸、明治のご維新で東京と名前が変わったこの世界有数の大都市の中心には、江戸城があり徳川将軍様が260年間、15代にわたって住んでおられたが、今は皇居となって大正天皇がお住まいになられている。
 東京はこの皇居を中心にして波紋状に広がる都市で、本丸跡の周囲は平川堀、三日月堀、大手堀などの内堀があり、その外側に陛下お住まいの宮城と吹上御苑があって、その周囲を半蔵堀、桜田堀などの外堀がぐるりと円形に皇居全体を囲っている。
 その更に外側には武家屋敷やら町屋がひしめいていて現代の市ヶ谷、飯田橋、水道橋、お茶の水にかけて神田川が流れ、総構えの天然堀の役割を果たしている。
  そしてそこから網の目のように運河が張り巡らされて、東京の物資輸送に貢献していた、それは日本橋方面など東部で特に顕著で、最終的に大川(隅田川)に流れ込んでゆく。

 「あああ!少しばかり酒なんぞ飲んだばかりにこの様だ」
一人の男が、ぶつぶつ言いながら大川沿いを歩いている、この男の名は石川光吉(いしかわとうきち)といって、大正十二年の今は数えで二十九歳、放蕩無頼(ほうとうぶらい)の男で自称「株のブローカー」と言っているが、それは兜町の周辺、三代町(今は日本橋兜町)に住まいがあるから世間体で言っているのであって、実は何をしているのか得体の知れぬ男だった、それにしても大川縁(おおかわべり)を歩くこの男、ともすれば吹き寄せる強風に髪も着流しの裾もなびいて、下がり肩の細身の姿はなかなか、この地の風景に似合う粋な姿であった。
「夕べ、雨が降らなけりゃ午前様にゃあならなんだが」
日本橋から大川を挟んだ向こうは深川で、その名の通り水の中に浮かんでいるような町である、永代橋に近い大川を望む深川の一角に、光吉の女が住んでいる。
 昨日の陽気につられて久方ぶりに女を訪ねたところ、もう向こうはすっかり光吉に「ほの字」で熱を上げているから「さあどうぞ」「夕飯は何にしましょか」と上げ膳据え膳の歓待ぶりだ。
 この女も、他の女同様にカフェで知り合ってから、持ち前の積極性でものにしたのだが「結婚してよ」とうるさくてかなわない、昨日だって光吉に言わせれば(魔が差して)立ち寄って酒なんぞ飲んだばかりに気持ちよくなって、うかつにも寝てしまい目が覚めた夜半に
「いけねえ、けえるぜ」
「今夜は、泊まっていってよ」とすがる女に
「バカ言っちゃいけねえよ、明日も朝帰りじゃ親父にたたきだされてしまうぜ」
などといって無情にも戸を開けて外に走り出たが、その刹那(せつな)、稲光がしたと思ったら「ゴロゴロ」と雷が鳴り出し、あっという間にざ~っと風と共に激しい雨が降り始めたから、からかさなんかじゃとてももたない激しい雨風で、さすがの光吉も無理に帰ることもならない状況になってしまい、「しかたねえ、袋のネズミだい」と開き直った。
「ほらみなよ、あたしを捨てようとするから、神様がやらずの雨をくれたのさ」
女は嬉しそうに、光吉の顔を見ながら言った。

 一晩中、激しい雨風が家を叩いて、いつ寝たのかもわからないようであったが、朝になると雨は小降りになった、しかし風は相変わらず強く吹き続けている。
「北の方に台風が行くんだって、その風が吹いてんじゃないの」
十時過ぎにようやく目が覚めて、寝ぼけ眼になっている光吉に女は言った
「ふーん?」、この女、見かけによらず気象のことなど、どこで聞いたのか何気なく言うので少し感心した。 
 ぷーんとみそ汁の良い匂いがする、こんな時だけ光吉は所帯を持っても良いかなと思うことがある、しかしそれは一瞬のことで、やはり自由気ままな生活が俺には合っているのだと思い直す。
 二十一の時に若気の至りで、十八歳の水商売の女と結婚したことがあったが、結局一年も持たずに破綻した、それ以来、女は(遊びだけに限る)と思った光吉である。
 もう朝飯と言うよりは昼近くなっていたが、飯を食ってようやく現実世界に戻った光吉は、とりあえず日本橋の自宅に帰ることにした、外に出るとまだ風は強くときおり飛ばされそうな勢いにもなる、嵐のあとの痕跡がいたる所に見えたけれど、だんだん天候は回復に向かっているようであった。
 大川に沿って熊井、相川町と行くともう左手に永代橋(えいたいばし)があって強い風に吹かれながら橋の歩道を歩くが少し南っ気があって気持ち悪い、鉄橋の中を路面電車が茅場町方面に向かって追い越していく、二百メートルあまりの橋を、立ち止まっては舟の行き交う大川を眺めながらの帰宅である、仕事に追われる身でもなく誠に極楽とんぼの光吉である。
 南新堀の町並みを電車道に沿って歩いていくと、小さな運河があり、そこにかかる霊岸橋を渡り、直進すればすぐに兜町の株式取引所に続く。
 光吉が住んでいる三代(みしろ)町(ちょう)(さんだいちょう)は橋の北詰を左に折れて亀島河岸(亀島川)の運河沿いに行く、すぐに新亀島橋が見えてくる、そこを右に曲がれば、もう三代町は目と鼻の先にある。 江戸時代には兜町から三代町一帯は大名や旗本の屋敷が、南北に走る木材河岸の運河に沿って立ち並んでいたが、火事により焼け出された三つの町の代替え地として、ここにあった鳥居家の屋敷地が当てられた。
 江戸時代には細川越中家と、松平越中家の大きな大名屋敷に挟まれていた三代町は、小さな区画の町であるが、奇異な形の町である、大きな「ロの字の道の中に、小さな「ロの字」の道があり、その内側には鳥居稲荷社がある、光吉の家はこの稲荷社と小道を挟んで隣り合っていた、その為、無頼者の光吉さえ、稲荷様に対しては拝礼を欠かさなかったのは、唯一喜ばしいことであった。

 「やっ!晴れてきやがった」、ようやく天候も回復してきたのだろう晴れ間が出てきた。
その時突然に地鳴りがしたかどうか、激しい大地の揺れが襲ってきた
「な・な・なんだ おい!」
ど~んと突き上げるような衝撃の後で、次第に頭の中がふわりふわりとして目が回るような気持ち悪さを感じている、そのうちにぐらぐらと揺れると同時に這いつくばっていても体ごと持って行かれるような強い引力のようなものを感じて身動きがとれないようになった。
 二十九歳の屈強な若者もこの自然の偉大な力には抵抗の術もなく、何回かの大きな揺れの中で、五分近くもうずくまったままでいた、我に返ると周辺の建物は崩壊していた、気を取り直し光吉は我が家を目指した、わずか百メートルそこそこの距離なのに遠い、そのうちに膝ががくがくと震えるのを感じた、放蕩息子(ほうとうむすこ)ではあるけれど急に家族の安否が気がかりになると同時に頭から胸の中まで不安が満ちあふれてきた。
 逃げてくる人々に逆行して光吉は家に向かって歩き出した、またしても激しい余震がおこって膝をついた、「兄貴!」大きな声に顔を上げてみると、たよりなげに弟が立っていた。

 弟は慶次郎といって七つ年下の今年二十二歳、兄の光吉は放蕩癖があるとは言え兄は兄らしくどこか落ち着いたところもあるが、慶次郎はいつでも何かを探しているかのように落ち着かず、対外的には他人のことなどには興味がないという類である、それでも今日の今は人生の中で初めての大危難であった、さすがの慶次郎も今ばかりは心細くいつも悪態をついて喧嘩ばかりしている兄貴に家族の情を求めている風であった。
「母さんはどこだ」、光吉の問いかけに、慶次郎は慌てながらも
「みんな大丈夫だ、とりあえず学校に向かったから、だが家はもうだめだい!」
「そうか、それなら俺たちも学校に行こう」
 光吉達の住む三代町の、その隣が都内でも初期の頃に出来た伝統ある阪本小学校である、だいたいが東京は土地が狭いので小学校の校舎は「ロの字」に作られていて、校舎に囲まれた中庭的な部分が校庭、あるいはグラウンドになる、その補助的な意味もあってか、学校の隣に小さな公園がある場合も多い、この小学校には光吉の九年先輩に後の有名作家になった谷崎潤一郎がいる、場所が場所だけに著名な卒業生が多々あるが、日々無頼の輩の光吉は、そんなことには少しも関心がない、これは閑話。
 更に小学校の隣は日本橋消防署第一分署があるから、なにげに安心感がある、ところが学校に行ってみて驚いた、学校も倒壊して頼みの洋館風の消防署までも破壊されている、とにかく目に入る場所のほとんどが本震、余震で倒壊、瓦解(がかい)しているのだから。
 かなりの数の人間が学校付近や学校前の公園に集まって来ている、とりあえずはこのスペースで次に起こり来る出来事に対して身構えているのだ。

 少し落ち着いたかのようなので光吉と慶次郎は両親と妹を公園に残して、家に戻った、今のうち金目のものや、手に持てるだけの家財を持ってこようと思ったのだ、けれども倒壊した家屋の中でものを探すのは容易ではなかった、何しろ遊ぶことだけが唯一の仕事であるドンファン兄弟なのだ、「色男、金と力無し」でさっぱり成果が上がらないでいた。
 そのうちに「火事だ!火が出たぞ!」という声が聞こえて振り向いた
 近いところ、遠いところ、何カ所からか火の手が上がりだしている、風は強く風速五メートル以上ははるかに越えているようで炎を煽って、あっという間に火勢が上がっていく、
「慶次郎、こりゃあ危ないぞ!この様子じゃ火にまかれてしまう、逃げよう」
と言うやいなや、学校の残骸にも火が移ったのか一部が激しく燃え上がった
「こりゃいかん!急げ」、辺りの人々も一斉に逃げ出して、もう両親や妹たちを捜す時間さえない(どこかに逃げるだろう)と、まだ事の大きさの実感は、彼らにも周辺の人間にも無かったのだろう、ところが行く先々で火災によって行く手を阻まれる、もう東京市のあちこちで入道雲のような黒煙が、もくもくと天高く登っていて、それだけでも恐ろしい、逃げていても、このあたりは運河が張り巡らされて小さな橋が幾つもあるから、そのたびに人の流れは渋滞する、渋滞するところに容赦なく火が追ってくる、木橋は燃え上がるし焼けた木材が落ちてくる、道をふさぐ、火柱の下敷きになった人は救いを求めながら衣服から燃え上がる、「助けて!」とどこかで声が上がるが、頭上を火の粉と熱風が襲ってくるので人を助けるどころか我が身も危ない、火の粉は所かまわず降り注いで髪の毛を焦がす、衣服を焦がす、何よりも逃げまどう人々の荷物が燃えだしてくるので、まるで薪を背負って火災に遭っているような状態である、広い通りに出れば電車道に線路が折れ曲がり、路肩に乗り上げた路面電車が幾つもあったりで、ようやく自分たちの命に危険が迫ったことに人々は気付いた、そして活路を求めて右往左往、大パニックが始まった。
「兄貴!どこへ逃げたらいいんだ」
慶次郎が半べそをかき始めた、こうなるとからっきし意気地がない、さすがに光吉は兄であり、場数を踏んだ遊び人だ、自分たちの、立ち位置が日本橋区役
所の辺り(水天宮付近)だと言うことを確かめると、とにかく大川の向こう岸(深川)に行ってみようという気になった。

 人は火というと反射的に水を思い浮かべるのだろうか、とにかく川を目指す人たちで道はいっぱいである、もっともこの近辺は川なしで暮らせない場所だから尚更である。
 ここで水天宮を経て東に進めば新大橋、南の箱崎方面に行けば今朝通ってきたばかりの永代橋である、さてどうしたものか、「忙中閑有り」でこんな中でも冷静さを保つのはさすがは石川光吉の土性骨である。
 もうどっちを向いてみても空が真っ赤で、熱風が吹き荒れているから、安全な場所など無いと言っても良いくらいだ、ただ強い風は北から吹き降りて来ているので、追い風で逃げる方が楽である。
 それで今朝通ってきた永代橋に行くことを選択したのは風向きだけではなく、深川の例の女が少しばかり頭をよぎったせいかもしれない、そして炎が迫ってくる灼熱の中を歩き始めたすぐに
「水天宮のご本尊様が新大橋方面に移られたそうだ!」という声が耳に届いた。
「おい慶次郎!永代は取りやめだ、新大橋に向かうぞ」
 と言ったのは後年、目覚める光吉の霊感予言の始まりだったのだろうか

 二人はまたしても方向を変えて、人混みに流されながら新大橋に向かった、今度は熱風を左正面から受けて歩くので強い抵抗を受ける、やっとの思いで無事にたどり着いた火炎渦巻く新大橋の入口では、数人の警察官が押し寄せてくる群衆に向かって
「ここは安全だから、慌てるな、押してはならんぞ」などと力強く声をかけて、人々の恐怖心を和らげていた、まさに官として国民を守ろうとするその姿はまことに見事であった、彼らにも家族があり、その者たちの心配はここで逃げまどう人々同様であるに違いない、しかし一切そういう私情は、口にも態度にも表さず黙々と市民の為に働いているのだ、そして持ちきれない程の荷物を持ったものには
「ここは命が大事だから、その荷物は惜しいだろうが火が燃え移ると危ない、川に投げなさい」
とてきぱきと安全に対する配慮も忘れない、そんな中でも荷物を惜しんでぐずぐずと口返しする者もいたが、誰かが
「おい、見てみろ!たいへんだ!永代橋が燃えている」

 新大橋から川下にわずか一キロほどしか離れていないので、永代橋の辺りが火に包まれるのが見えた、そして川上の浅草方向から遙か天空を炎が火矢になって降り注いでいる、立派な鉄橋も一皮剥けば足元は燃え上がる木橋なのでその辺りから火が回ったに違いない、あの橋の上にもここと同じくらいの人々が逃げまどっていることを思うと胸が痛んだ、数百の命が炎の中で失われていく、それよりも水天宮の話を聞かなければ自分も今頃は永代橋の上で火だるまになっていたと思うと、光吉は思わず手を合わせた。
 この日、本所や深川方面から火に追われた者、逆に光吉たちのように日本橋方面から追われてきた者で新大橋に逃げた人々は命を拾った、ここも橋の両方から火の手が上がっていたけれど橋には燃え移ることなく一万にも及ぶ人々が助かった、新大橋は昭和二十年の東京大空襲でも被災を免れた橋で、大震災の後「おたすけ橋」と人々から讃えられたのである。
 光吉の石川一家はバラバラになって逃げたけれど、全員が無事で再会することが出来たのであった、しかし光吉たちが一時避難した阪本小学校付近でも百名ほどの焼死者が
あったことが数日たってわかった、また新大橋のたもとにも、上流で溺死あるいは焼死した人たちの遺体が数百体も流れ着き、さらに焼けた永代橋付近では三千人にも及ぶ遺体が流れ着いた、そして被害の大きかった深川に住んでいた、光吉の女の消息は不明で、その後二度と会うことは無かったのである。 

 この恐ろしい大地震は、大正十二年九月一日正午の前後五分間に時間差で、駿河沖など関東地方三カ所で相次いで発生したトリプル大地震であった。
 この大地震は「関東大震災」と名付けられ日本災害史に永遠に名を残すこととなった、この地震では揺れと火災のほか伊豆などの海岸部では十数メートルの津波も起こり、また山間部では山津波もおこった、そのため死者は関東一円で十万有余名、一説では十四万人にも及ぶと言われている、これだけの災害になると被災者の正確な数はとうていわかりはしない。
 人口約二百数十万人を擁す東京市は一瞬にして破壊され、しかも丁度正午という時間であったから炊事の火を焚く家も多く、それが壊れた家からの火災となって燃え広がり、十五時ころからは至るところで大火災になって燃え広がり、一昼夜燃え続けたために
東京市の大部分が燃え落ちるという壊滅的な被害を受けた、浅草付近では東京名物の高層建築「浅草十二階」が中間からまっぷたつに折れて落下、大勢の死者を出し、同じく浅草の花街吉原でも遊女達が猛火に逃げまどい、吉原公園の池に次々と飛び込んだために溺死する者、圧死するもの窒息する者、あるいは焼け死ぬ者と五百にも近い犠牲者を出したのはあまりにも哀れであった、また光吉たちが運良く命を拾った、新大橋のわずか北にある本所の陸軍被服廠跡では避難してきた人たち四万人以上が火災の熱風で焼死するという大惨事になった、二万坪あまりの地域に集まったおよそ四万人の避難者のいるところに火炎が渦巻き状に吹き込んできたのである、火炎竜巻である、ここは大川に接した大きな平地だったので風が集まりやすい地形になっていたのだろう、避難者の90%以上が犠牲となった、東京市全体の死者数の約半分がここで亡くなったのである、ほかに犠牲者が多かったのは浅草、深川であったが、人口四十数万人の横浜市でも三万人前後の死者があったことはあまり知られていない。

昭和男一代記 戦前関東編