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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (113) 長尾家 26

2024年06月16日 19時45分11秒 | 甲越軍記
 城戸を叩く音に、番兵が出てみると怪しき男がそこにいた
番兵が咎めると男は「某は常陸介殿と同国の者で、松野小左衛門と申す者である見参申したく、急ぎここに参ったので、御取次願いたい」と言った
番兵は直ちに、これを常陸介に取り次ぐと、元来越前では深き友であったので、すぐに中に招いて、しばし別れたのちの話で時を過ごした。

そのうちに松野は常陸介の膝元ににじり寄り、小声で囁いた
「貴殿の存亡は此のときにありまする、某はこれを見るに忍びず密かにやって来て是を告げるのです、貴殿はこれを思慮なさるか?」
常陸介は眉を潜めて「某には何の思い当たるところが無い、今少し詳しく話し賜え」
松野は、さらに一歩進み出て言うには「貴殿父子が長尾家に在って朝日が昇る如く勢いを増していることは承知している、これは為景殿の寵愛深き故である、しかし為景殿が討死となられて、日頃から貴殿らの出世を苦々しく思って憎んでいた老臣たちは、貴殿らの没落を願い、それが今と思っている
新しい後主、弾正左衛門も父、為景に倣い貴殿らを頼りにするであろうが、性質愚にして、老臣を始め家臣たちは尊信せず、貴殿らを亡き者にせんと思う者で満ちている、これが第一の理由である
また越後に騒乱、謀反が起きているが、これはそれぞれが己の意のままに動き出したからである、それも為景殿が生前は従っていたが、尊敬して従ったのではなく、その威を恐れて従っていたのである、今や重しが取れてそれぞれが勝手に動き始めた、これは長尾家の存亡の危機である
三条の長尾平六郎殿が府中に攻め込めば、真っ先に血祭りにあげるのは貴殿ら親子であるのは間違いない、これが理由の二である」
これを聞いた常陸介は、真顔になり「ふっ」と一息吐いて、松野の次の言葉を待った。
松野は手ごたえを感じて、力を込めて「今、ここで貴殿が何もせずにいたら、某が申した通りになるであろう、早く心を決して人より早く旗を上げて味方を募ること、多くは日和見ゆえ先を打つものに従うのは道理である、勢力が整ったならば、直ちに三条に馬を走らせて、三条殿と心を合わせて府中長尾の勢を挟み撃ちにするのが最善の手である、三条殿も貴殿を頼もしく思い重んじるであろう、そして越後国を貴殿と三条殿で二分するのが最善策でありましょう」
常陸介は驚き、言葉も無く、されども心は動き始めた
松野は、更に畳みかけて「某は今、越中の神保殿に従っております、神保修理様は為景殿を謀りにかけて討ち取ったほどの名将であります、もし貴殿が立ち上がり府中の城を乗っ取るならば、必ずや後詰して力を貸すと申されております」


「虎に翼」花岡判事の餓死

2024年06月16日 06時24分31秒 | 昭和という時代
 一時、寅に恋慕の情を持っていた真面目で清廉潔白な花岡判事が「食管法」を守って飢え死にした。
一年間、米汁だけの食事を続けた挙句だという。
花岡判事のモデルは大分出身の山口良忠判事である、亡くなった時は34歳だったそうだ。

昭和20年8月、日本はアメリカ、中国、英、仏、蘭、豪などとの戦争に負け、アメリカに国土を占領されて食糧難の時代を迎えた。
アメリカ支配下の日本政府は「食糧管理法」を制定して、米や主力食材を国がいったん吸い上げて、それを国民に平等に(眉唾?)配給した(配給制)
そうはいっても農家だって、苦労して作った米、野菜を「はいはい」と100%政府に出すわけがない、当然我が家が不自由しないだけの米は隠しただろう
政府も。そこらあたりは目をつぶったに違いあるまい。

ともあれ、配給された米や食糧だけでは空腹を満たすことが出来なかったのは間違いなく、それを実践して餓死したのが法を執行する立場の山口判事だったのだ。
逆に言えば、政治家も法律家も警官も闇米を食っていたということだ。
農業の非生産的な都市部の住民は宝石や高価な着物などを持って、田舎の農家を訪ねて米と交換してもらったという
そうして、やっと手に入れた米、野菜は駅で待ち構えている警察の摘発で多くが没収された、泣きの涙である。
こんな状況下で小平事件のような連続性犯罪まで起きた時代である。

父は昭和23年、23歳であったが、当時東京調布で軍隊時代の上官に誘われて、終戦後から倒産すれすれの農機具店から農機具を安く買い取り、農家に売る農機具販売(と言えば聞こえは良いが、詐欺まがいの商法であり、目的は米を得る手段であった)
その後、これを批判した湯たんぽ製造会社の社長に気に入られて、湯たんぽを新宿の闇市で売る仕事に転職した
だが当時の東京は金はあっても、若い男一人では暮らせない事情があったらしく、北陸に僅かな伝手を頼りにやって来た。

有力者の手づるも、信用も無い東京育ちの若者が簡単に職を得ることはできず、たまたま知り合った魚市場の番頭さんの情けで、山間部の農業地帯に魚売りに行くことになった。
闇市経験で、ちょっと斜にかかった言葉遣い、都会的な父は山奥の農家のおんな衆にたちまち人気となって、商売も順調であった。
もっとも背中に缶一つ担いでいくだけの魚だから売り上げは知れているが、戦後のインフレでお金の価値など一日ごとに下がっていく時代だった
何といっても米がお金の何倍も価値あるものだった。
父は魚と米の物々交換というスタイルを築いた、田舎で得た米を町場で売る
しかも家でも食べられるから一石二鳥、25年に生まれた私も生活は貧しかったが、食べ物に不自由した経験はない。

但し、父はたいへんだった。
都会同様に警官が闇米取引に目を光らせていた、わが家と山奥の村の中間に谷筋で一番賑やかな集落があって、そこに駐在が居た。
これまた若いのだが頑固で職責に忠実な警官、父は余裕があれば山の中の道を通って、警官に会わずに済むが、なんせ道が悪い上に遠回りだ
だから米が多い時などは、駐在所の村を急いで通る、それを見つけて警官は自転車で追いかけてきて没収される

父は三回目の没収の時、ついに牙をむいた
開き直って「全部持って行け、俺も今日で闇米商売は辞める、辞めたら閑になるから、おまえの家を毎日監視する、おまえや、おまえの家族が一粒でも闇米を手にしたら、ただでおかないからな」と啖呵を切った
戦後の闇市で生き抜いた父だからこそ言えたセリフだった
警官はだまって缶に蓋をして「行け」と言ったそうだ
それ以来、二度と捕まることは無かったそうだ
父の頭の中にも昭和22年の山口判事の飢え死にがデーターとしてあったのだろう、そんな時代だった。

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