神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

なるほど家康 そう来たか

2023年06月27日 15時09分18秒 | 映画/ドラマ/アニメ
「どうする家康」年表どおりにドラマは進んでいるが、興味あったのは通説とは違う相思相愛の築山殿を家康がどのように成敗(処刑)するのかにあった。
築山殿と信康の成敗は来週になるが、今回は二人がどのような理由で成敗されるのかの原因を「どうする脚本家」だった。

通説は武田に通じていた大須賀弥四郎に築山殿が惑わされて、信康も巻き込んで武田に通じたことが五徳(信康の妻、信長の娘)が知って、信長に知らせて、信長の命令で家康は二人を殺す羽目になる。
今回のドラマでは、武田と徳川の戦を話し合いで治め、互いが奪うために戦うのではなく互いに足りぬものを融通し合う(貿易)ことで平和裏に解決する
ということを築山殿が提案し、それを武田勝頼の伯父の穴山信君が賛同して勝頼に提言、勝頼も承諾して両国の戦は収まる。
しかしこれは織田信長に内緒で、徳川、武田の戦は続けるが互いに空砲を放って犠牲者を出さないで撤退するというもの
通説で不仲な信康と五徳もドラマでは相思相愛、だから五徳は信長に築山殿の策は知らせない、しかし武田勝頼が(ぬるい)平和主義に我慢できなくなり、徳川領に攻め入る支度をする、その為に織田に対して武田と徳川の密約を知らせて、織田、徳川を戦わせ力を削ぐために織田領に密約話を広めた。
知った信長は、家康に対して圧力をかけて戦か築山殿と信康の成敗を選択させるだろう、それは次回のお楽しみだ。


若き日の徳川家康の痛恨の出来事
この事件で成敗された嫡男信康は20歳、家康を補佐する将来有望の若武者だった、一説には信長の嫡男信忠より資質が上で信長が先を危うんで殺させたともいう。
この時、家康の男の子供は5歳の於義丸(秀康)と信康が死んだ年に生まれたばかりの後の二代将軍秀忠だけ。
家康は於義丸をなぜか嫌って傍に置かなかったから、男子はいなかったに等しい、この時、家康は36歳
(於義丸は早くに秀吉の人質として大坂に送られ、その後秀吉は養子とする、秀頼が生まれると結城家の養子になって結城秀康と名乗る
関ケ原戦では会津の上杉と常陸の佐竹の抑えとして関東を守る、秀忠が将軍となると弟の秀忠に臣従して越前67万石を得て、越前松平家の祖となる)

息子の秀忠が一人前となる15歳の頃には家康は51歳になっていた、信長父子はとっくに死に秀吉も耄碌が始まっていた、4年後秀吉は死ぬ。
信康が生きていれば35歳くらい、楽隠居ができる歳だったが現実は秀忠がやっと15歳デビューと言ったところ
家康は天下を掌中にするためにまだ20年近く老体に鞭打って戦い続けなくてはならなかった、それほどに痛い信康の死であった。



得ること 失うこと

2023年06月26日 23時14分57秒 | 昭和という時代
僕らはいまどこにいるのだろう
2023年とか言っても1964年となんにも僕は変わっていない

日本だとかアメリカだとか言ったって 死んでしまえば関係ない
地球だ火星だと言ったって 死んでしまえば関係ない

この次生まれ変わると言ったって 日本に生まれるとは決まっていない
地球に生まれるとは決まっていない 人間に生まれるとは決まっていない
産まれてくることさえ決まっていない

だけど今よりいい物になるかもしれない 今とは比べることはできないが

死んだ後の事ばかり心配する人は多いけど
産まれてくる前のことを思う人は少ない
死ぬことは怖いけど 生まれてくる前を怖がる人を見たことが無い
同じことだと思うけど

考えても仕方のないことは考えない 自分に都合の良い哲学を信じるだけ
宗教を信じることは良いけれど参考程度にしておいた方が良い
少なくとも私はそう思っている 自分の為の自分経を信じているから

この間までは富を得ることが目標だった 今は目標はない
今は自由気ままに自分の時間を楽しめるだけで良い
持つと言うことは、それを守る苦しみを背負う
何もないのが良い 守るものがないのが幸せ

何を得ようが最後は全てを失う 
いかなる栄光を体験しようがその記憶は永遠に失われる
プーチンも習近平も束の間の栄光を楽しんでいる
だけどその数倍も栄光を守るために苦しんでいるはず
今の俺の方が幸せなんじゃないかな しらんけど・・・

人生は無駄を承知で生きるのがよろしい
今だけの喜びに浸るのがよろしい 先のことなど考えても無駄

人生は身軽に気楽に時を過ごすのがよろしい



記録づくめのエンジェルス

2023年06月26日 10時19分54秒 | 野球
リアルタイムで我々は大谷翔平という世界でも類を見ない大選手のプレーを見られることは幸せである。
百数十年続くメジャーリーグ、私が小中学生の頃に大リーグチームが親善試合で来日した、オール日本のオールスターで迎え打ったがまったく歯が立たない
しかし大リーグチームの方は本気も出さない物見遊山だったのだから、その差は歴然だった。

その後、日本のチームに大リーガーが天下りしてくるようになった、ほとんどがメジャーでの力が衰えた選手、2A、3Aで伸び悩む若手が多かった
それでも日本に来ると主力になった、私の印象に残るのはヤクルトに入団したホーナー、来日早々ホームランを連発、シーズン60本超えるのではというようなペースにびっくり! しかしその勢いは続かなかった、だがメジャーの凄さを印象付けた。

その後、日本の野球もどんどんレベルアップしていきメジャーに日本選手が入っていくようになった、これは画期的な挑戦だった
そんな中で一番最初に実績を上げたのは野茂投手だった、初めてメジャー選手を手玉に取った一流選手だった。
その後はイチロー選手がメジャーで金字塔を打ち立て、メジャーの中の超一流に名を連ねた、そして今、大谷選手がイチローさえ越えようとしている。

メジャー選手さえ成し遂げない二刀流は中途半端でなく、打撃では現在ホームラン、打点のニ冠を維持しているし、打率も3割前後だ
投手としても6勝上げて奪三振も一流だ、だから今年は打者としては超一流、投手としては並みの一流と言える、一流選手二人分の活躍をしているのだ
大谷の年俸は現在レートで43億円とかだが、日本レベルで考えれば打者として7億円選手、投手として3億円選手、合計10億円と言ったところか。

この大谷が所属しているのが去年まで弱小チームのエンジェルス
このままでは地区優勝さえ経験できない恐れがあり、今年、大谷は移籍話が現実味を帯びている
早ければオールスター後などという、そんな話が出たとたんエンジェルスが急に頑張りだした。
去年はバタバタだったリリーフ投手陣がレベルアップ、クローザーも安定しないが去年よりは安心感がある
大谷、トラウト以外あてにならなかったが、今年は補強がうまくいき、さらに若手が台頭してきて活躍、投打ともにあきらかにレベルが上がっている。

昨日はエンジェルスが大爆発した、投手も好投でロッキーズを1点で抑えた
1イニング打者16人13点はタイ記録 総得点25点 安打数28点はチーム新記録
先発陣で一番さえなかったのは1安打の大谷だった
大谷以外の先発8人は全て複数安打 先発全員安打、全員打点 5打数5安打二人 復帰したばかりのフレッチャーも4安打 1号先制2ランを放った
メッツから移籍直後のエスコバーも挨拶代わりの2安打
前日逆転満塁打で敗れたエンジェルス、十倍返しで鬱憤を晴らした。

今日は現在6回表無死一三塁で1-3で負けているが、大谷は単打、3塁打、1打点

今日は蒸し暑い、部屋の中は30度、そろそろエアコンの短時間出動が迫っている


平和な時間

2023年06月23日 19時32分17秒 | 家庭菜園
野菜作りを始めて、今日までの収穫はキューリ7本、小葱8束、ナス1ケ、ニンニク10ケ分くらい(失敗作)
今はトマトの実が10ケくらいついて、キューリも2日に1本ペースでなっている
枝豆はなかなか伸びなくて、たぶん根が張れないのではないだろうか、それでも実がついているのが嬉しい。
1畳半くらいの畑はいまやスイカとメロンに占領されてジャングル状態、その中でナス3株、キューリ1株、ネギ3株が立ち上がっている
蔓に発育を邪魔されないように、毎日ナスたちのスペース造りが仕事だ
メロンとスイカも伸び放題にしているが交通整理は毎日やっている、蔓の伸びるのが早くて防鳥ネットに蔓を伸ばす
外にも誘導して、今は立体的に誘導している、二株を交配しやすいように並べる作業を終えたばかり
人工交配なんてやったことが無いので、少しやって見たが成果は不明
防鳥ネットで虫の往来は自由になっているので自然交配に期待する
小さな蜂が飛んでいるのでちょっぴり期待あり、ただテントウムシとホタルのあいの子みたいなのが葉を食べに来る
葉もたくさんあるから、少しくらいは奉仕の精神で見逃しているが、花や蔓先をやり始めると我慢できない
だが強力な殺虫剤&病気予防の農薬系は極力使いたくないので、蚊のスプレーで追い払う方法をとっている
臭いで追い払う程度だ、まあ根競べだ。 葉や根の病気、油虫などがでれば農薬系も止むおえまいが、いまのところ葉も健康に育っている
かぼちゃも瀕死の状態から葉をつけて生き返った、手を加えればなんとか実をつけるかもしれない。

作る作業も面白いが、ベランダでボ~っと緑を眺めている時間が長くなった
これが一番平和でリラックスしている時間、まさに神様からもらった時間なのだ。

いつの間にかプリンスメロンの実が大きくなり始めていた、たぶん自然交配だと思うが、育つかどうかはこれからの世話によるだろう。
今はビワくらいの大きさ


今日の手作りラーメン
醤油系タンメン




野球小僧

2023年06月21日 11時33分45秒 | 野球
今日の朝食
目玉焼き、厚切りベーコンステーキ越中醤油味甘口、朝取りネギ納豆
わかめ、油揚げ、さや、ニラの味噌汁


昼食 自家製塩ラーメン


その昔、戦後間もないころラジオからは灰田勝彦の「野球小僧」という軽快な歌が流れていた。
父が20代の頃、灰田勝彦に似ていると言われて結構モテたそうだ
確かに、灰田勝彦の写真を見ると似ている、私も父に似ればよかったと思うが・・
だが私を「お父さんに似ている」という人もいるが、それは「瓜二つ」という意味ではないから真に受けることはしない。

ともあれ昭和30年代、私は小学生で遊びと言えば、やはり野球だった
この頃、少年雑誌に寺田ヒロオさんの「スポーツマン金太郎」という野球漫画が連載されていて、野球少年を夢中にさせた。
山奥の金太郎少年が巨人軍に入団して活躍する漫画で、村でライバルだった桃太郎も西鉄に入団して競う話
巨人には当時のスター王、長嶋もチームメートとなる、監督はV9の川上さん
西鉄にも中西、豊田、稲尾というスーパースターが居て、巨人と日本シリーズで熱戦を繰り広げた。
私は個人的には子供ながらアンチ巨人で、国鉄スワローズのファンだった、もちろんエース金田正一投手が大好きだった
捕手は根来選手、たしか後に監督をやったような気がする
飯田、土屋、箱田、町田、宮本、徳武とか選手がいたように記憶しているが60年前の事定かではない。
常に大洋、広島と3チームでBクラスを競っていた国鉄だが、金田投手は今では考えられぬ働きで、全試合の半分くらいに登板していたようだ
ダブルヘッダーで先発の後はリリーフで登板するとかあったらしい
10何年か連続で20勝以上をあげていたが、弱小チームでこれだけ勝つのだから
いかにすごかったかがわかる
去年までのエンジェルスの大谷選手に似ている、国鉄で300勝あげたのだからこれだけでもすごさがわかる、巨人に移籍して積み重ね日本選手初の400勝投手になった、打撃も良いので代打出場もあった。

小学校2年の時に、海に近いところに住むスポーツ万能のT君と数名で砂浜で野球をして遊んだ
あれで足腰が自然に鍛えられたと思う、高学年になって運動会のリレー選手に私とT君、同じく野球仲間のS君も選ばれたのだから確かである。
S君は後に東大医学部に進学して、田舎町では天才少年と言われた男であった。(東大紛争で試験なく、最初の年は仕方なく、京大医学部に現役入学)

私の家は最初は海辺にあったが、父が行商の先行きを危ぶみ、1km内陸の地区に引っ越して小さな鮮魚店を開店した、昭和32年の事である
家の隣は、かっては沼だったと言う、それを砂で埋め立てて300坪の砂場が出来た、そこは出入りが自由で子供たちの遊び場として開放されていた
学校から帰ると、カバンを玄関から放り投げて、砂場で野球をして遊んだ
毎日野球をやった
竹を切ってバットにした、ボールはゴムボールだったからデッドボールでも痛くない。
右打ちがレフト方向にホームランを打つと、それは我が家を直撃した
左打ちは距離が短くて国道にボールが出るとホームランになった、右と左のホームランは飛距離が半分だったから、断然左打が有利だった
中学生のケンちゃんが一緒に遊んで、左打でシーズン100ホーマーを記録した
私は右でシーズン16本だった、中学生が小学生とやるなんてずるいと思った

中学生もいれば幼稚園児もいて弟は年長、私は小4だったが弟の同い年にM君が居た、この二人も小さいながら野球の中に混じって駆け回っていた
このM君が高校三年生の時、わが母校初の甲子園出場を果たしたが彼がキャプテンだった、一回戦で完封負けを喫したが、翌年も連続出場してエースのK君がプロ野球選手になった、生涯一軍成績は0勝1敗だったが球団親会社の経営陣として迎えられた。

これより5年前にも私の一年先輩Sがプロ野球に入団、一軍で生涯成績25勝くらい上げた
Sと一緒にプレーしたショートのNは我が家に隣家の長男で私が生まれて初めての友達、小学校入学して引っ越すまで遊んだ
野球センスは良かったので、本人もプロを目指したが叶わなかった

働くようになってからは25歳ころから朝起き野球のチームに所属したが
魚屋の青年部のチームを再結成(父たちの時代にチームがあったが、長い間やっていなかった)「サンマーズ」というチーム名で、それは先代の時と同じだった、これは魚屋の県大会もあって、そこで優勝したからなかなか強いチームだったのだ。
他にも、乾物問屋の野球好きが作ったチーム、自動車工場が作ったチーム、テナントで入ったスーパーのチームにも所属した
最後には、昨日書いた麻雀仲間で作った「タイガース」というのもあった
これが唯一勢いで作ったチームで、麻雀メンバーに定時制高校野球部の連中を引きづりこんでやっていたが、彼らの地区大会の応援に行ったことから、サポートメンバーだった年上の我々も参加してタイガースを作ったのだった。
酒のみの虎と、寅年生まれの虎の集まりでタイガースと名付けたのだった
最後は地域の商工会のチーム、私はタイガースと商工会チームで初めて存在感を現した。
タイガースでは名誉発起人となり、商工会ではマネージャー兼スコアラー兼選手として頑張れた。

7勝25敗の弱小チームが、最後の大会で優勝候補に勝利して3位になった、私は生まれて初めて4番セカンドでフル出場、高校球児だった相手投手から3打数3安打3打点1四球の活躍、神がかりだった、これが草野球最後の試合となった。
まるで「がんばれベアーズ」みたいな幕切れだった。







日記の転記で見えた20代後半

2023年06月20日 10時27分40秒 | 時代検証
昨日はなぜかやたら疲れていて、夕飯を終えると、もはや無意識にベッドに倒れこむようにして寝てしまいました。
いろんな夢を見て目が覚めると21時になっていました、2時間半ほど寝たようです、これで楽になり風呂に入ってから日記の転記をはじめました。

今は1977年です、27歳大人になりました、色っぽい話、艶っぽい話、友達の送別会をするために飛び込みで料亭に行ったら、案の定、芸者は全て予約でいない
「年寄りでもいいから」と頼み込んだら40過ぎの芸者がいて来てくれた。
こっちは20代3人だから母子で飲んでいるような感じだったが、店が気を使ってくれて、30歳くらいの芸者が空いたからと言って交代してくれた。
この芸者が滅法明るい人で、歌が大好きで最後は大合唱になり、帰り際に店から連れ出して喫茶店で酔い覚ましのコーヒーを飲んで話をしていた。

翌日、スーパーのテナントで仕事をしていたら、なんと彼女が5歳くらいの子供連れで買い物に来てびっくり
お互いびっくりして言葉も出なかった、どちらも夜の顔と昼の顔が違いすぎて

同い年の従兄弟や同級生、妹も結婚して、また同級生の女子は子供を連れて歩いているのを見て、いよいよ自分にも結婚という焦りが出てきたころだった。
すれ違いみたいな男女関係が続いていて特定のステディはいなかったが、ちょこちょこ・・・遊びはあったようだ
というのは、自分では忘れていたが日記にはしっかり書いてあり、それを見て当時を思い出した次第であり、年相応のことはしていたのだと少し自信になった。
結局、この年の秋に女房殿と出会って、翌年結婚したのだった。

この年は仕事の上でも大きな転機があり、我が家としては父の飛躍の年であり、それは多難な年でもあったのだ
私が結婚を急いだ原因の一つは、母が病弱で松本の大学病院に長期入院してしまい、また一昨年に妹も結婚、弟は東京の大学に入学して、我が家は父と私の二人だけ
それなのに商売の規模が3倍にもなり、仕事が終わると二人で毎日、ホットプレートでキャベツと豚肉を焼いて食べる生活で、うんざりしていたのだった。
まさに現れた女房殿に、父は私以上にラブコールを送ったのだった。
めでたしめでたしの結婚とも言えなかったが、まあ今日まで何とか一緒にいるのだから、それはやっぱりめでたいのだ。

今思うと、その頃の自分はけっこうハチャメチャな生活を送っていた、すべて日記を今になって客観的に見ることが出来るからわかったことだ。
将来的な定まった夢や計画など持たず、一か月のうち半分以上は麻雀にうつつを抜かし、それも徹夜麻雀が多く、その家で泊まってくることも度々
結構みんなに迷惑をかけていたのだ、その頃はたしかに麻雀はブームだったが

翌日休みの日は朝6時まで打ち続け、家に帰ると昼まで寝てからパチンコ、その足でまた麻雀に行く
平日は深夜2時3時まで打って帰宅して3時間4時間寝て仕事を始める、と言った状況で、とても仕事に身が入る余地など無かったのだ。
私の人生の失敗は、そのころであらかた決まったようだ、そのくせ自意識が強くて仕事は結構やっていたつもりでいたから、意見する父としょっちゅう対立していた、今振り返ればまことに愚かなことだったのだ。

仕事はダメ人間だったが、遊び友達には恵まれていた
ゆえに仕事がダメだったとも言えるが、面白おかしく生きた人生だったともいえる、その天罰を受けても仕方がない

あらためて日記で振り返る自分の人生は、小説を読んでいるような面白さがある。


「推し活」青春

2023年06月19日 10時38分35秒 | 時代検証
大谷2試合連続24号、トラウト久しぶりの15号アベックホームラン
レンヒーフォー、1イニング2回ボール直撃の珍プレー
デッドボールで一塁に出た後、次打者の1.2塁間のヒット性の当たりを足に受けてアウトでチェンジに、2度も痛い目にあってアウトになるとは、持っている人?

昨日テレビの報道番組で「推し活」というのが都会で流行していると言うのを見た。 初めて目と耳にした言葉だった
よくわからないが、自分が応援する(ファン)グループやネットキャラなどのイベントに参加するだけでなく、そのフィギアやさまざまな関連アイテムを集めることに喜びを感じ、「生きがい」と言い切る
私の世代でも「おっかけ」という言葉はわかるし周りにもそういった人たちは、かなりいた。
「推し活」と「おっかけ」の違いが判らないが、「推し活」の若者はファッション的にも「コスプレ」のいでたちでイベント会場に集まる。
小学生から20代の姿が多かったが、アイテム集めのために数万円から数十万円を使うと言う、社会人だと累計数百万円も使ったと言う人もいた。
学生はアルバイトの掛け持ちで資金作りに励むと言ってた、週に8日分働くと言った人もいた

見ていて、老人性の批判がまず頭をよぎり、「今どきの若者は」という常とう句も浮かんできた。
「今どきの若者は」とは結婚して子供が生まれてから45年間使い続けている言葉、もう口癖と言ってもよい

だが若者からしてみれば余計なお世話だ、私にも「今どきの若者は」と言われた時代があった。
「アメリカかぶれ」「ビートルズきちがい」などと言われ、休日にはエレキギターをバイクにくくって練習にいったりもした。
だから、いつの時代も「今どきの若者」は何かに夢中になることで青春を過ごす、それは同じ嗜好の若者同士の出会いの場であり、(つらい)現実から離れて生きがいを感じる瞬間でもある。

高校生の時「エレキバンドなんかやっていると不良になる」なんて先生や親に言われたこともある
でも、あの時のメンバーで不良や反社会的団体の構成員になった者などは一人もいない、家庭を持ち、子を持ち、個人事業者、会社員、あるいは自衛隊員になって、みんな社会に貢献した。

大人になって平穏な生活を送ると、子供たちのすることが危険で危なっかしく見える、お金がかかると知ると、良くないことでお金を必要以上に欲しがるのではないかと心配する
だが、いつの時代でも、お金の為に犯罪や危険な思いをする若者の比率は同じだと思う、我々だってそうだったのだ
夏休みは、ほとんどがアルバイトをした、それでバイクを買ったり、旅行をしたり、エレキギターを買った。
20歳の時、大学生たちとドライブして交通事故で死んだ美人の同級生女子もいた、いつだって青春には危険がつきものだ。

若者は甘い蜜の香りに誘われ、美しい花に集まり群れるミツバチ
その花が咲き乱れる季節を青春時代という
「今どきの若い者は」と批判するのは、殺虫剤を花園に撒く頑固爺さんか、心配性の爺さんだ。
花園に群がるミツバチをのんびりと眺めている爺さんになりたいものだ。



久しぶりの手製生寿司

2023年06月18日 10時08分09秒 | 料理を作る・食べる
1年半前とは全く変わってしまった食生活
魚中心から、野菜中心になった
でも1か月もたつとさすがに生魚が恋しくなる・・さしみ、寿司
昨日、久しぶりに寿司を握った、酢飯の旨さ、自分で選んで、自分でカットするネタ



ぶりの薄腹 すずき 生サーモン マグロ赤身 地元産甘えび
甘えびの卵(軍艦) スルメイカ手毬 おぼろ昆布 たらこ
口直しに自家製キューリの漬物  寿司16かん 満腹!






新湊大橋を渡って反対側を歩いてみた 若い外人たち

2023年06月16日 08時28分58秒 | 散歩道
今日もまた「海王丸パーク」へ行って来た
降っていないが、平日で雨模様なので人はほとんどいなかった

今回は、前回発見した歩行者専用通路を渡って対岸に下りてみた
乗り口近くの駐車場には10名くらいの外国人が英語で話している
女性も何人かいて全員自転車を持っているのでサイクリングで日本を見て走っているらしい
この歩行者通路は自転車も一緒に渡ることが出来る、但し乗ってはいけない押して歩いて渡る
エレベーターも十分広いので5人と5台くらい乗っても十分スペースはある

また空想した
(「ここは自転車も通れますか」と外人に聞かれたら、どう答えればいいんだろう)と
前に書いた通り、私は「英語が話せません」だから、すぐに答えが出ない
自転車は「バイシクル」だったよね? 「自転車は押して歩いて渡ってください」どう言えばいいのかいな?
一緒には「with」「together」だったっけ? これをどうつなげばいいのかいな? 語順は・・・・・などと悪い頭で考えながらエレベーターまで歩いた

「自転車も通れます、自転車は押して歩いてください」の注意書きの下に
「Walk your bicycle」だって・・・なんじゃ簡単、Withを略している気がするが・・「あなたの自転車 あるく」へぇ~~~
「Walk your dog」でもいいんかい? 「Walk My girlfriends」な~~んちゃって。
などと退屈しのぎで歩いていた。 反対側に初めて降りて見た、こちらは港の中というか川なのか景色が良い

反対側は思いがけず住宅地でしかも町を形成している、商店街は見当たらないが「渡し船乗り場」なんてのがあった、しかも県営らしい


脇道へ入って見る

なんか「矢切の渡し」の一節が浮かんできた、風流だねえ、どれどんな所なのか、わき道に入って見た
この橋が出来ても、歩くのがたいそうな老人とかは渡し船の方がいいんだろうね、きっと渡し船も営業は続けているんだろう・・・でも客はいるのかなあ?

通りを歩いてみたが特別変わった通りではなく、ただ所々に神様が鎮座しておられる。 きっと古くからの町なんだろう。




20分ほどプラプラして、戻るためにエレベーターで2階へ上がったら、外にはこちらへ降りるさっきの外国人が5人ほど自転車を手に待っていた
降りるのを待ってくれていたので、愛想に片手をあげて「Thak you」というと同時に彼女が「こ・ん・に・ち・・・」と言って目と目が合って笑った
私はマスクだけど・・・ 少し行ったら遅い彼女がまた一人自転車を押して歩いてきて、英語で何か言った
「Hellow!」私も知っている英語の全てを出し切った
すぐ後から外人男も来たが目を背けて通り過ぎたので何も言わなかったが、外人にもシャイなのはいるらしい。
まだ「Good morning」が残してあったのに 残念!

けっこう良いウォーキングになった、6500歩ほど
刺激もあったし楽しかった。






昨日の「らんまん」で学んだこと

2023年06月15日 08時07分00秒 | 映画/ドラマ/アニメ
昨日の「らんまん」を見て、シナリオライター誰か知らないけど「時々教訓めいた良いセリフを言わせてるなあ」って思います。

「何かを得るためには、何かを捨てなきゃいかん」というのも心に響いたし
この日は、「人間の器を満たしていくことが人生だ」「万さんを見ていると人の器というのは考えている以上にたくさん入る」「努力していない自分は、器が空っぽだった」
*正確な表現ではありません、イメージです。

自分を思い返すと、72年の人生でどれだけ自分の器は埋まっていたんだろう?
もし入っている経験が水であったら、深い井戸の底を流れている程度なのか、
3分目くらいまでは行っているのか?
いずれにしても揺らせば「ぽちゃん ぽちゃん」と水しぶきが舞い立つほどスペースが空いているのだと思う。
万太郎の容器には、水が隙間なく詰まってはちきれそうになっているのだろう

日記の転記も25歳当時にまで来た、自分の歩んできた道を日記を通して見ている
記録しただけで見返したことは一度もなかった、この作業をやらずに捨てることもできたが、これを始めて良かったと思う
その頃の心境や、自分の立場、父との対立や協力の繰り返し、日々の行動、友達関係、異性関係などが赤裸々に記してある。

こうした記述を見ていると今日の自分がどういう形で出来上がったのかがわかって興味深い
まさにいつも言う「因果応報」この若き日があって、今の自分がその結果なのだ、今更やり直すことはできないが(あの時代をもっと真剣に生きていたら)とか(もっと学ぶことがあったはず)などと改めて思ったのだ。

こんな経験も、人生の器の中にしまい込まれたけれど、それは酸素濃度が極端に少ない血液みたいなものだった、無駄に過ごした日々の多き事
酸素量の少ない血液を毎日送り込んでいたにもかかわらず、その時の自分は充分立派に生きていた気でいるのが読みかえして面白い(自虐的)

「大丈夫だよ、今からやればいいんだよ、今からでも遅くない」というようなセリフも昨日の「らんまん」にあった。
4月から本格的に取り組み始めた畑作業は、73歳から始めた第一歩だ
この齢になっても新しいことに取り組むことが出来る
今までは消費一筋の仕事で生きてきたが、初めて生産の仕事を始めた
未知の世界に飛び込んで、新しい知識と経験を一から始めると言うことは、人の器を満たす作業をまた始めたことに他ならない
まだまだ畑以外にも未知の世界が広がるかもしれない、いろいろやって空きスペースを少しでも埋めていきたい。