神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

久しぶりの雨の一日

2024年04月30日 17時58分56秒 | 知人・友人
 朝は6時に起きて早速庭を見たら、物干しざおに雨粒が滴っていた
「これはいけない」慌てて、干しておいた魚を取りこんだ。
昨日はずっと曇りで、寝るまでも降っていなかった、予報を見たら明日の夕方までずっと曇り予報で、降水確率は40%
雨が降らない60%にかけて干物の魚を夕方干したのだけれど、これが大外れ
雨に濡れた魚を洗いなおして、塩水につけて今日の午後に冷凍した。
大好物のヤナギカレイだったのが残念、塩焼きでも美味しいが干物にすればもっと美味しい。

一日中霧雨が降っている、畑の野菜や花はきっと喜んでいるだろう
野菜と言ってもまだスナップエンドウを植えただけで、そのほかの苗は用意してあるが、植えるのは温かくなる5月6日と決めてある。

今日はこれから6名の仲間たちと、電車に1時間半ほど乗って一年ぶりに先輩に会いに行く
先輩はもう77歳くらいになるのだろう、数年前にがん手術をして以来げっそり痩せてしまい、今は歩くこともなかなか大変らしいので、先輩の家で会うことにした。
その昔、奥様が腎臓病になって、その時も自分の腎臓を一つ移植したのだった。
残念ながら奥様は甲斐なく亡くなられた、お気持ちは私にはわからないが、それからも変わることなくお付き合いさせてもらっている。
全員で10名ほど集まる、久しぶりにみんなで笑い合いたいと思っている。


雨に濡れても  [日本語訳付き]   B.J.トーマス

友情と青春と宗教と

2024年04月02日 19時01分44秒 | 知人・友人
 日記の転記整理をやっていて思うのは
人生の季節ごとに友達がやってきて、友達が去っていく
青春の頃は「友情」「恋」「人生」「親友」などの言葉に酔っていて「愛」も「友情」も永遠だと信じていた
高校時代は自分は部員ではなかったが、女子ばかりの文芸部の部長と詩を書いたノートを交換したり、20ページも批評を書いたりして夢を語り合った




今になっても、そんな言葉に酔いしれる時間もあるけれど、「永遠の愛」も「親友」も「恋愛の情」と同じく(いっとき)心を支配した(本気)という幻であった。

「義理」「人情」を認め合った時に「友情は生まれる」、遊びだけの友達には友情は生まれない
どん底に落ち込んだ時、友情を知る、そう言う人に出会えた場合だけであるが
遠く離れて年賀状だけの便り、疎遠になっていくのは友だちではない
それは「ともだちだった」という、ほとんどがそれで、友情は毎日会っていないと持続できない

今の時代は、離れていても友情が続きやすくなった
それはスマホの普及によるもので、24時間いつでも話すことができるし、顔さえ見られるようになった
もはや遠距離は友情や恋の情を妨げる要素ではなくなった
友情でも恋愛でも、語り合うことが長持ちの秘訣だったのだ
しかも会う気になれば飛行機、新幹線、高速道で日本は狭くなった
時代と共に友達や恋人の持続度が変わっていくなんて

高校生の時にはクニッゲ、ボナール、ラ・ブリュイエール、、スタンダール、亀井勝一郎などの友情論、恋愛論、交際論、人生論、愛と無常をむさぼり読んだ
あれから60年近くたった今は、仏教について興味が湧いている
高校時代に読んだ「出家とその弟子」も読み返した、仏教は深い
宗教によっては他の宗教をすべて否定する、また金目当てのエセ新興宗教も多い、私は宗教を読むのは知識への興味からであって、信心の為ではない
私の宗教は、私自身が教祖で私だけの宗教なのだ、誰に強制されることも無い。




昔、一時的に付き合いがあった人が、私の現状を知って手紙をくれた
彼も健康面などで苦しんだ人で、今はある(大手)仏教に帰依して熱心な信者になったらしい、それで私にもそれを進めて来た
最初に書いた通りで、私は自分教の教祖であるから一度だけ返事は出したが、それ以後は互いの道を進めばよい
彼が信じる宗教は邪教ではない、真心と利他の心で私の人生を心配してくれている、そのことについては感謝している。

また別の友達も人生の岐路を今体験していて、新天地に移っていった
彼は週一くらいで連絡をくれるが、数日前から禅寺へ行って座禅をするようになったと連絡くれた
「それは新興宗教でもないし、自分を見つめることだから、とても良いことを始めたね、生まれる前は何もなかったのだから、すべてを真っ白にするのは良いだろう」と返事しておいた
「今度こっちへ来たら体験しますか?」というから、あいかわらず「自分は教祖だから」と冗談交じりに言っておいた
一時は世をはかなんだこともあったから、少しでも立ち直れるなら嬉しい。



現役高齢者

2024年03月28日 20時33分29秒 | 知人・友人
 人生の大半を商売に携わってきたので友達はやはり経営者や商売人が多い
サラリーマンの友達と言うと、大半は同級生か女性だ。

昭和の時代はサラリーマンは55歳か60歳前で定年を迎えた、私たちが60歳の時は既に平成の半ばであったから、55,60で定年が来ても再雇用が定着していて一時定年後65歳までは短時間、低賃金で働き、更に70まで伸びること少なくなかった。
町工場や、従業員10名程度の商売だと70になっても人手不足もあって嘱託という名前で再々雇用もあった。
私も同級生を数人雇用したが、一番長かった人は、わが店に45年勤務して店を畳む71歳までいた、まさに「相棒」であり「弥次喜多道中」と言える男だった。今も介護老人施設で働いている。

今は73~74歳だが、同級生は従業員数名の個人経営の場合、未だに経営者として働いている人がいる。
ほとんどが飲食、技術系、昔風に言えば家内職人だが自分が一番の技術と経験があって、離れられないという。
しかし彼らと話すと「辞めたいがやめられない」「あそこが(体)悪い、痛い」と話すことが共通している。
それだけではなくて、金銭的には余裕があっても、後継者がいない、辞めた後何をしてよいかわからない、というのもある。
弁当総菜業、工務店、土木関係、行政書士、司法書士、損保代理店、宅配業者、貴石販売業、スナック経営、美容院、理容業、配管業、不動産、鮮魚商、食料品店、数えだせばキリがないほど70過ぎで現役をつづけている。
これも高齢化率が40%に達した田舎町ならではの特性かもしれない、投資もしない、社員も増やさないから発展もしなければ倒産もしないで自然消滅まで続ける、これが田舎の商人の実態だろう。

関連会社10数社を親から引き継いだ同級生もいるが、ここまでくると各社に優秀な城代家老がいて彼自身は「御名御璽」程度しか関わらないで、ほとんど一日手持無沙汰でいるようだ
去年、たまたま会って30分ほど立ち話をしたが「君は辞めてよかったなあ、俺もやめたいんだけどなあ・・・」というから
「あんたは立派な後継者がいるんだから、いつ辞めてもいいんだろ、もう先は見えて来たから、奥さん孝行で温泉巡りとか、世界一周旅行するとか、ゴルフ三昧でもいいんじゃないか」と言ったが、ヘビースモーカーの彼は「何もしたいと思わないんだよなぁ」とため息交じりに言った
億千万の資産があるのに、私でもできる温泉旅行さえやる気にならないというから、わたしからみたら(勿体ない話、勿体ない人生)に見えた。
もっとも本人はそれで満足なんだろうが?

社員千人以上の地元工場に今も勤務している同級生がいる、早い者は60歳で定年になっているから、これは特殊だ、しかも奥さんに聞いたらフル出勤だそうだ、役付きでもない平社員なので、いったい何をしているのか聞いたら、外国人労働者の教育係なのだという、学生時代はチャラ男で、そんな風に見えなかったが、人の才能とは人生を生きていくうちに備わっていくんだと驚いた。





もらってうれしい年賀状

2023年12月13日 05時47分44秒 | 知人・友人
 そうだ、そうだ! 今年も年賀状書くのを忘れてた
ここ3年間ずっと年賀欠礼が続いていたから、もう存在すら忘れていた

だけどちょっと気持ちが揺れてる、世間の風潮が年賀状廃止の方向に傾いていて、前にも書いたけど同級生辺りから、新年のあいさつはLINE
そんなことを聞いたら「なるほど、それもありかな」って思う

だけどねえ・・・年賀状ってなんなんだろう
子供の頃というか大人になるまでの間は今年は年賀状、何の写真にしようか、どんな挨拶にしようか考えるのが楽しかった。

元日になると、年賀状が届くのが楽しみで、好きなあの子からくるかな?なんてワクワクして待っていた記憶がある

それと切手シートしか当たらんけど、小正月の15日の抽選が楽しみだった
あのワクワク感は、今、年賀状を辞める人には無かったんだろうか
・・・云 そうじゃないな
私も今では、あのワクワク感が薄まっている・・齢のせいなんかわからんけど

それに、そう言う年回りになったのか「年賀欠礼」が多すぎて誰が誰やらわからんようになった
そういう対処にもLINE一斉は便利が良いかも

すべてラインというわけにもいかんし、もう惰性や忖度で書くのはやめて、本当に消息を伝えたい人だけにしよう
そうだ、そうしよう

「会うことがない人には出す意味がない」というのはどうかと思う
なかなか会えないからこそ、年一回の年賀状で消息を伝え合う
そう言うことなんだと思う。
少ない枚数なら丁寧な手書きもできるし、心もこもるだろう

いつまでも手元にとっておきたい知人、友人からの年賀状は今でもアルバムに張り付けてある
そんな年賀状を、私も今年から送りたいと思う。












































同級生でしんみりと語り合った

2023年11月25日 09時46分52秒 | 知人・友人
 昨夜はいつもの仲良しメンバー(男3、女2)で一杯やりながら語り合った。
Y子が亡くなってもう一周忌が終わった。 5人でY子宅を訪れて仏壇にお参りした後、旦那さんと息子さんと30分ほど、あれこれ思い出話をした。
一周忌には40名以上が参列して式場の社員が「最近の葬儀の人数より遥かに多い一周忌参列者は珍しい」と目を丸くしていたそうだ。
Y子は県の体協の幹部もしていたので、そんな広い人脈と人懐こい性格、面倒見の良い親分肌だったから、慕う人も多かったのだろう。

そのあと居酒屋で軽く飲みながら3時間ほど語り合った
最初は70過ぎてからの体の変調を赤裸々に語り合い、自分だけではないと言う年相応の症状にお互い一安心した。
参加者のA子は一度も声を荒げたことが無い優しい旦那様が難病で寝たきりになり、ずっと看病してきたオシドリ夫婦
しかし数年前に若くして旦那様は亡くなって、今は一人暮らし
B子は数十年も病弱な旦那様の介護をしてきたがいよいよ要介護5になり、仕事を辞めて、自分のことは一切あきらめて旦那の面倒をみて忙しく暮らしていたが、Y子の呆気ない最期を見て、ようやく献身的介護だけでなく、自分の楽しみもしなくては悔いが残るとの思いに至った。
旦那を説得してショートスティを利用するようになり、こうして夜でも友達との楽しい時間を持てるようになった。

Cは食品関係の自営業を家族と営んでいるが、働きづくめの生活
腰を痛めて手術してからは歩くのも難儀して、その後には転倒して腕を骨折するなど災難続きだが、商売を辞めるにやめられないと、未練なのかムチ打って家族と頑張っている。
つー君は畑仕事やら、孫の成長を楽しみに暮らしているし、私はと言えばブログに書いた通りの生活をしている。
人間いろいろ、人生いろいろ、たまに集まって近況報告するのも刺激となって良い。

今朝の食事



義兄の田で作られたコシヒカリ みそ汁=妙高産のなめこ、つー君にもらった大根とネギ、豆腐、麴味噌
地元の蕪の甘酢和え  越中黒部の昆布巻かまぼこ 醤油も黒部の甘口刺身醤油

気が合う恩師

2023年03月06日 09時50分33秒 | 知人・友人
12年間の私の学生時代は思い返しても、ただただ遊びの場以外の何物でもなかった。
大人になって知ったことだが、もう小学生時代から、自分の将来の夢を持っていた人たちの多きこと、そんなこともつゆ知らず
ようするに幼稚だったのだ、毎日友達と何をして遊ぶか、それが最大の関心事だった、家の手伝いは良くしたが。
日記の整理をしていて、それがわかった、とにかく毎日の口癖は「明日から勉強をがんばろう」だった。
明日になれば、またその日の明日に先送り、危機感は持っていたが、それはテストの順位だけのこと、卒業後からの人生は頭になかった。
結局、中学校から高卒まで勉強らしい勉強をしたのは高校受験の一週間前だけで、あとにも先にもそれ以上勉強をしたことがない。
とにかく将来の夢とか、何をしたいと言う概念が無かったのだから、そんなありさまだった
「その時が来れば、なんとかなるだろう」いつもそんな気持ちだった
それは中学生時代に既に自分の一生の鉄路を受けいれたからだ
決まっていた人生のレールに乗って走り出したミニSLだった、今思うと不思議なことである、抵抗もなくレールに乗ったのだ、逆に言えば他力本願の私にはもっとも安心な方法だった。
「こうしたい、こうなりたい」なんて言ったこともない、夢も希望もない
敷かれた線路の上を進むこと50年、最期に脱線してそれは終わった、そこで呪縛も解けた。
こんな人間だから、小、中、高の恩師の名前が思い出せない。
全てではない、その中で影響をいただいた数名は覚えているし、その先生にはほかの生徒よりよほど深く長い付き合いをした。
小学校1~2年を習ったS先生、中1のF先生、中3の担任U先生、副担任H先生、高1の副担任A先生、この5人だけが思い出深い
それを今日は書いてみる
小1~2の二年間担任だったS先生は他のクラス担任と違い40代の女の先生だった、だがら「ばあちゃ」と陰で呼んでいた。
S先生は学校から15kmくらい山に入った村に住んでいて、当時はバスで1時間かかった
言葉も飾らない方言丸出しで、私たちに接したので、そんな人が好きな父はいっぺんでファンになったらしい。
私も祖母みたいなS先生といると安心感があったし、勉強どうこう言うより自然体で教育するのが上手だったようだ
クラスは生まれ月順に編成されていて、私たちのクラスは4月、5月生まれが多く即ち成長が早いクラスだった。
関係はどうか知らないが、55人ほどのクラスからは田舎では数少ない国立大に入った者が4~5人いた、東大医学部もいた。
S先生は3年の時に、その先生の村の小学校に転出された、後日知ったが偶然にも女房殿の兄(義兄)の担任になった。
中学、高校に行っても先生の家に夏休みになると小1~2の同級生数人で遊びに行ったものだった。
先生が亡くなる数年前まで、実に40年間くらい年賀状のやり取りをしていた
病院に義兄の見舞いに行ったら、S先生も入院していると聞いて二人で先生の見舞いをした、その時は初めて義兄がS先生の教え子と言うことを知ったのだ
S先生が亡くなったとき、私は因縁あって火葬場まで送迎してお骨拾いに付き合った、そして家まで送った。
54人の同級生の中で私だけが、先生の人生最後の日まで恩返しできたことが誇らしかった。

北軽の林道


転校生

2022年06月17日 08時58分57秒 | 知人・友人
小学生の頃は転校生がどういう家庭の子供なのか理解できなかった。
後年、弟の子供、姪、甥が転校生になることも夢にも思わなかった。
どこからか来て、先生の紹介でみんなの前で挨拶する転校生
その多くは都会的で、あか抜けた衣服、頭のレベルもたいてい私より上、自分のことを「ぼく」と言うから最初は「ぼくちゃん」と言うニックネームがつく
それが仲良くなった2~3年後に突然、前に立ってお別れの挨拶をして、どこかの星に行ってしまう不思議なエイリアン
一番短期だった転校生は一ヶ月で消えたサーカスの子、名前も知らない
サーカスを見に行ったら鼓笛隊の太鼓みたいなのを叩いていた。

一番最初に行ってしまったのは小2での片思い、初恋の由美子ちゃん
入学した時から一緒だったから転出していっただけ
我が家のすぐ近くだから彼女の家にはよく遊びに行った
弟がいて、私たちはたいてい坊主頭だったが、彼は坊ちゃん刈り、上質のあか抜けたファッション、姉、弟二人ともツルツルのきれいな顔 
勿論ニックネームは「ぼくちゃん」、転校生のイメージモデルは彼だ。
お母さんは保健婦さんで、お父さんは保健所職員だと母がいってた。
お母さんは優しそうな人だった
2年生のある日、由美子ちゃんは教室で挨拶して、どこかの星に行ってしまった、由美子ちゃんがエイリアンだったことを理解したのは高校生になってからだ。
ぼくちゃんには何年か後に、もう一度会った、でも恥ずかしくて由美子ちゃんの近況を聞くことができなかった。

それからも次々とエイリアンは来ては去って行った。
ともだちになると居なくなってしまう彼ら。
銀行員の息子、和夫くん
電電公社員の息子、おっちゃん
警察官の息子、ペコちゃん
電力会社員の息子、かずのり
警察官の息子、なべ
国鉄マンの息子、啓二 
そして母親の病気療養で京都から来たアキラくん。
アキラくんはおっとりした性格で頭が良く、女子に母性本能をくすぐらせるタイプだった。
よい子なので女担任のお気に入りだった。
六年生になると級長になった。
中学生になって間もなく再び京都へ帰って行ったが、ずっと文通していた、大人びた美しい字に憧れて真似た。

アキラくんは大学卒業後、大手信託銀行に就職した、世田谷支店配属まで手紙のやりとりが続き、そこで音信が途絶えた。
そして50代なかばの頃、インターネットで友だちの同姓同名検索して遊んでいて、アキラくんと同姓同名のしかも同じ信託銀行の長野支店長を見つけた。
恐る恐る、銀行に手紙を出したら電話が来た
やはり彼だった、30数年ぶりの奇跡的な再会だった
それから一ヶ月後、彼が訪ねて来た、一緒に飲んで思い出話を語った。
間もなく定年になって習志野に住んでいると手紙が来た
そして中学校の還暦の同級会の案内を送った
習志野から封書が届いた、彼の奥さんからだった。
「夫、アキラは昨年、病気で亡くなりました」
彼は本当に星に帰っていったのだ
奇跡的な、ただ一度だけの思い出を私に置いて。



旧知の仲

2022年03月30日 09時50分58秒 | 知人・友人
土地のトラブルが発生しそうになった、それで早速に地主宅を訪問した
トラブル解決は時間を空けるほど深刻になっていき、取り返しがつかなくなる
スピードが勝負なのだ、後回しするほど根は深くなり解決から遠ざかる
今できることは今やるのが正解だ、それが私のモットーでもある、跡回ししたって結局やらなければならないのだから。

地主さんの家に行ったらご主人は庭の手入れをしていた、土地もちの優雅な農家だった、ご主人は国内トップ企業の地方事業所の所長だった人だ。
奥さんは私の高校時代の親友の奥さんの姉だ、何十年も前からつきあいがあるご夫婦である。
大事なことなので慎重に話をきり出したが、親子二代にわたるつきあいで私を少しも疑うこと無く「玄関では話も出来ないから、上がってください」と食堂へ案内してくれた。
yottinさん歩いて来たと言ってたから飲んでも大丈夫だよね」と言って、つまみと缶ビールを出してくれた
ご主人も酒が好きなのだという、のんべい同士、気も合う、話も合うで一時間半も思いがけない長居をしてしまった、私はビール、ご主人は焼酎、夫婦二人暮らしで私同様人間に飢えているんだと思った。
おみやげに自分の畑でとれた葉野菜をいただいた。

思いがけない楽しい時間を得ることが出来た、商売人同士、地元の人間関係には裏の裏まで知っているから話も弾んだ
こんど名古屋にいる親友の夫婦が、「この家に来たときには一緒に飲みましょう」と言ってくれた、顔をみるまで不安感はあったけれど先手を打って失敗した例は記憶に無い、今度も積極的に早く手を回したゆえの成功だと思う
これからも嫌なことほど先に片付けて行くのが正解、それだけは守り通そうと思っている。






僕の好きな先生

2022年01月21日 19時18分37秒 | 知人・友人
越後美人さんのブログに恩師とのことが書かれていたので、私も久し振りにお世話になった恩師を思い出しました

二人の好きな教師
1人目 小学校1年と2年の担任だったS先生(女性)
人生最初の教師がS先生だった、他の5クラスはみな若い先生だったのにS先生は初老域に入っていてニックネームは「ばあちゃ先生」
町の中でも田舎の農村地域に住んでいたんで方言丸出しの飾りっ気が無い落ち着いた先生だった、小学校低学年の私たちにはまさに、おばあちゃんだった
先生から学んだのは「のんびり、ゆっくり、あわてない」それと「愛情」
三年から担任が代わったが、私と少数の同級生は高校進学後も先生の家に遊びに行っていた
亡くなるまで40年間ほどずっと年賀状のやりとりをしていた
S先生が亡くなられた後、葬儀のおときを私の店でやったのですが、途中で火葬場へ骨拾いに家族が行くので私がバスで送った
何という奇跡だろうか、家族の方が先生と私の関係を知っていてお骨を拾わせていただいたのです
54人いたクラスメートで先生のお葬式とお骨拾いまでさせてもらったのは私だけ、悲しいけど嬉しかった思い出です

2人目 中学校3年生の時の担任U先生(男性)
蝶々の研究家で県の研究所にいたけれど教師として赴任、最初は拉致された、めぐみさんの中学校に赴任(当時は事件前だったけど)、そのあと私たちの学校に来た
正義感の強い熱血教師(体育会系ではない)天体と生物に詳しい先生で写真も趣味だった、「和」という字が好きな先生
高校生になったあとU先生のクラスだった同級生10人ほどで会を作って学校は違えど毎週日曜に集まって遊んだ
そして顧問としてU先生にときどきお出まし願った、夏休みには海岸の近くの先生の家に行って、海で貝やウニを捕って鍋で煮て食べたり、灯台がある丘に登ったり
笹ヶ峰から火打山に登り小谷温泉へ下りたりとかのキャンプをしたりして楽しんだ、高原の星空の下で輪になって語り合った想い出は今も残る
会の名前は先生が「和.友の会」と名付けてくれた
卒業に際して先生が贈ってくれた言葉は「若者よ、若者よ!いつも正義と共にあれ」それは今も忘れない。先生は90才は超えたと思うが今も健在だ
毎年、蝶の版画の年賀状を送ってくれた、それは今もアルバムに貼ってとってある