昨日は本家の葬儀でのおときで、いろいろはなしをしたのだけれど、親の戦争体験の話しもでてきた
例のYくんも、自分の母方の祖父がアジア・太平洋戦争でビルマのインパール作戦に従軍したと言った
ところが祖父はほとんど戦争の話しをしようとしなかったと言うことだった
よほど残酷で辛い体験だったのだろうと言う
ところが、その隣に座っていたNさんも「うちの親父もインパール作戦に参加した」と言って
「おれは婿養子だから詳しいことは何も聞いていないが、yottinさんは、親父と親しかったから知ってるよ」
ということになり、でしゃばりyottinはまたしても口を挟むことに
以前もブログで書いたが、大概の人は忘れただろうから、もう一度書きます
今朝6時、偶然にNHKでインパール作戦の証言ドキュメンタリーを放送していた
昭和19年4月インド方面から米英の連合軍が日本が占領していたビルマを奪還するため攻勢をかけてきた
それに対して日本軍の牟田口司令官が逆攻勢を提案、補給困難であるという参謀達の言葉を押し切って
強引に作戦を遂行した、補給計画の無い短期決戦勝利という精神論だけの計画だった
10数万の日本軍が3方向からインドのインパール制圧に向かった、そのもっとも北方の軍団にN家のおじさんも
参戦していたのだった。
北方軍は第31師団、そのなかでも勇敢で経験豊かな第58連隊(越後)高田連隊に所属していた
中国との戦争時は、中国軍も日本のどの部隊と戦っているかには敏感だったらしく、新潟や東北の部隊は
強く勇敢な部隊であることを知っていて、逃げ腰の戦闘を行い、大阪とかの部隊だと弱いとみて果敢に攻撃を
仕掛けてきたそうだ。
そんな高田連隊はインパールの北方コヒマを占領する為に出動、ここはインパールへの中継地点でここを
押さえればインパールを日干しに出来ると作戦司令官は考えたようだ
2000mの深い山中を旧式の大砲などを分解して兵士達が担いで登って行く、それだけでもたいへんな苦行であった
牛に物資を運ばせるが、言うことを聞かず谷間ではすくんで動かず、無理に歩かせると物資もろとも牛は谷底に
落ちていくと言った有様だったようだ
それでも、コヒマを占領することに成功した、だが米英の強力な大軍が重装備&近代兵器で反撃してきた
日本軍には武器弾薬、大砲の弾、食料医薬品、あらゆるものが不足してくる、補給を要請しても「精神力で戦うのが
日本軍の伝統だ」と牟田口が言って、ほとんど送らなかったそうだ(番組より)
Nおじさんの体験談でも、それを語っていた
「敵さんは毎日、雨あられのように大砲を撃ってくるんだが、こっちは弾一つ無いので隠れて耳を塞いでるしか無い
そしてたまに、砲弾が送られてくるんで、さあやるぞ!と張り切って一発撃つと、敵陣地から10発100発とおつりが
飛んでくる、こりゃたまらん、こっちの居場所を教えるために撃っているようなもんだから、撃つのをやめてしまった」
いかに敵味方の補給の差が大きかったことがわかる、食料にも事欠いたようで
「たまに偵察を命じられる、敵陣地に向かって草むらの中を歩伏して行くのだが、そのうちに体や手にごつごつと何かが
当たる、見るとそれはパイナップル、いそいでポケットに詰め込んで、もう偵察どころでは無い」
ところがNおじさんにも運の尽きがやってきて
「敵さん、これでもかとこっちに砲弾を撃ち込んでくる、こっちは逃げるだけで、そのうち近くで砲弾が破裂した、すると
立っていたのに足の力が抜けて、前のめりにグズグズと倒れ込んでしまった、おかしいな?と思って違和感のある足を
触ってから手を見たら血がべったりさ。 やられた!と思ったが痛くはなかったなあ、衛生兵がやってきて見てくれた
『N、貴様は運が良いぞ、破片は右腿から左腿まで貫通しておる、足の中で止まれば足は腐って切断、もう少し下に当たれば
皿がメチャクチャになって、直に死んだろだろう、運の良い奴だ』と言われた」
「運が良かろうが歩けんのだから、どんなものなのか・・・それからは毎日寄ってくるハエをおうのが仕事だった、
冗談じゃ無いぞ、これがたいへんだ、あっちのハエは繁殖力が強くて傷口に卵を産むとすぐに孵化して蛆になる
その蛆が傷口からどんどん奥へ入っていくんだ、その痛いこと、おれは大丈夫だったが、かかとの中に蛆が入り込んだ
奴は泣き叫んでいたよ」
だんだん日本軍の戦場は悲惨な状況に落ち込んでいく、敵も迫ってくる
「ある日、部隊が転進するという事になった、歩けないおれはどうするのかと思っていたら兵隊がけが人に何かを配っている
俺の両手にも一つずつ握らせた、見たら手榴弾2ヶ、敵が来たら一つ敵に投げて残りで自決しろと言うことだった
捕虜にはなるなと言うことだ。 部隊は撤退していった、おれたちけが人は取り残されて、おれは木にもたれて座っていた
時々手榴弾が破裂する音が聞こえてくる、重傷者が自爆したんだろう・・・・・おれはなんだか心細くなってきて
(これでおれも死ぬのか)と思ったら情けない気持ちでいっぱいになった、だがまだ死ぬ気にはならないでじっとしていた
それから、どれくらいたったか知らないが誰かが『Nはどこおるか?』と大声でおれを呼んでいる、『ここだ』と返事を
したら馬を引いた兵隊が二人来て、オレを馬に乗せた。 傷口が馬の胴に擦れてとびあがるほど痛いので『痛い痛い』
と叫んだら『無駄口は言うな!』と怒なり飛ばされたので我慢して、いったいどういうことだと聞いたら、兵隊は
『おまえは果報者だ、中隊長殿が[Nはどこか?]と聞いたので『Nは傷病兵につき、置いてきました』と言ったら
[それはいかん、ただちに戻って連れてこい]という命令だ』、それで合点がいった、中隊長殿はおれと同郷で何かと
気をかけてもらい可愛がってもらった、だから中隊長には足を向けて寝ることができないんだ」
こうして命拾いしたNおじさん、しかし終戦と共に部隊丸ごとビルマで武装解除されてイギリス軍の収容所に入った
終戦と共に各地で日本軍は武装解除されたけれど、もっとも悲惨だったのはソ連に降伏した部隊で50万人以上が
捕虜として酷寒のシベリヤへ送られて強制労働をさせられ、長い人で5年以上も抑留、5万人以上疲労凍死させられた
だがNおじさんが収容された、イギリス軍はさすがに紳士のお国柄で直接は日本人を管理せず、収容所内に
日本軍の組織をそのまま維持させ、日本人に日本人を管理させる軍隊システムを継続させた、こうすればイギリスは
日本軍のトップ一人だけ管理すれば良いので効率的である、こうして英日互いに楽な収容所生活であったようだ
Nおじさんの話しも、収容所の話になるとまるで落語だ、もともと楽天的なおじさんだったから、あまりインパール作戦の
話しを悲惨には語らない、だがNHK番組では戦死した兵隊3万人以上に対して飢え死に、病死した兵隊は4万人以上
だったという、マラリア、アメーバー赤痢、餓死が多かったという、参加兵の半分が死に、退却路は死んだ兵隊の遺体
が散乱して白骨街道と米英軍は名付けたという。
補給無視の精神論だけの牟田口司令官の作戦があたら10万の若い命を無駄死にさせたという結果になった
牟田口は終戦後も生き延び、戦犯としても軽い刑ですまされ77歳の豊かな生活で天寿全うした。
Nおじさんも牟田口と同じような年齢で他界した、故郷に帰ってきてからは戦争での身体障害者と認定され、毎年1回
フリーパスのJR旅行に夫婦で行くのを楽しみとしていた。