神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉝ 最終回

2021年03月28日 07時00分01秒 | 光秀の本能寺
北条を滅ぼした秀吉は、奥州から会津にかけて勢力を伸ばし北条氏と組んでいた伊達政宗も攻めようとしたが
ギリギリセーフで許しを乞うてきた政宗を許し、臣従させた
更に北に攻め込み、唯一抵抗した九戸政実を滅ぼして、ついに日本国を統一した。
およそ200年ぶりに訪れた平和な日本であった
秀吉はさっそく論功行賞を行った、従った大名たち、家臣団にそれぞれの知行地を割り当てた
島津、毛利、長曾我部、上杉、徳川などの大大名はそのまま領土を安堵した
丹羽長秀亡き後の丹羽家は100万石の領地は若狭一国10万石ほどに削られた
代わりに秀吉の古き友、前田利家には加賀、越前で90万石を与えた
秀吉がもっとも苦心したのは北条の広大な関東の地であった
今でいえば群馬県の大部分、埼玉県、千葉県の一部、東京都、神奈川県、静岡県の伊豆という広大な土地である、未だ決めかねている

徳川家康は軍事、謀略、内政を本多正信、心のよりどころを秀明和尚に求めた
家康もまた、戦争が突然なくなったこの国で、これからどのように政治を行っていくのか見極めきれずにいた
そしてそれを秀明和尚に問うてみた
「和尚、これからの徳川家はいかに生きて行けばよいのであろうか、どのように豊臣家とつながりを持てばよいのであろうか」
「まずは秀吉殿に疑念を持たせぬようにされることが肝心かと」
「それは!」家康にも秀明のいう意味はすぐ分かった
秀吉にとってもっとも危険な人物は徳川家康に他ならない、あの織田信長さえ、もっとも安全だと思っていた家臣の明智に寝首をかかれた
まして外様の大物徳川は危険極まりない、自分がようやく統一した日本を家康に奪われてはたまるまい、機会あれば潰したい相手なのだ
「このままでは近いうちに無理難題を申し付けてくるやもしれませぬ、北条が消えた今、もはや豊臣に立ち向かう術はありません」
「ならばいかがする?」
「ここは苦渋の決断をせねばなりますまい」「なに苦渋の決断とは?」
「国替えを申し出るのです」「...」
「先祖代々の三河を譲り、北条亡き後の関東に移るのです」
「戯言を申すな」
「戯言ではありませぬ、殿が申し出ずとも秀吉公は必ずやその手に出てくるでありましょう、先手を打つのです」
「小田原はともかく鎌倉は狭く守りがたい、さらに奥地の武蔵など洪水と氾濫が頻繁に起こる荒地ではないか」
「それゆえ殿は秀吉公に歯向かう力を失うのです、なれば秀吉公は殿を攻めずとも安全と思うでありましょう」
「しかし先祖の眠る地を捨て去ることなどできぬ」
「殿は天下をあきらめられたのか? いかがでござるか?」
突然の危うい言葉に家康は一瞬返事に詰まった
「天下を得たならいつでも三河は取り返せましょう、その志なければいずれにしても三河は永遠に殿の手には戻りませぬ」

数日後、家康は使者を秀吉のもとに使わせて、今の領地をすべて秀吉に渡し、北条の遺領と交換したいと申し出た
「願うなら豊臣家の関東管領同様の御役目を与えて頂ければ、豊臣家の盾となって関東及び関東以北の敵あれば征伐いたします」
秀吉は、もともと徳川を関東に移封する気でいたから大いに喜び
「なれば、その心に報いて家康殿を関東管領といたし北条の遺領に加え、上總、下総、安房、下野も加えて与えよう」
なんと秀吉の大盤振る舞いである、相手を驚かせて感激させそれで臣従させるのは秀吉の得意な手であった
ところが、今度ばかりはあまりにも大盤振る舞い過ぎた、家康が得た新領地は250万石にもなった
いかに秀吉が家康に気を使っていたかがわかる
さらに家康は荒地が多く、水害も多いので土木、干拓、治水工事をする許可も願ってその承諾を得た.
また都から遠い武蔵江戸の地に居城を築くことも許された
秀吉の知恵袋、石田三成はこれを案じて「やりすぎでは」と秀吉に苦言を呈した
「武蔵など広いばかりで何の役にもたたぬ沼ばかりじゃ、案ずることはない
せっかくの蓄えも灌漑工事で無くなるであろう」
しかし秀吉は家康の忍耐強さを過小評価していた、江戸湾を埋め立てて天守を持つ江戸城を中心に着々と城下町を形成した
徳川四天王と呼ばれた重臣たちには関東の最前線に10万石程度の大名としただけで大部分を家康の直轄とした、家康が秀吉にケチと言われた由縁である
逆に秀吉は家臣や外様に大盤振る舞いをしたが、自らの直轄領は200万石程度しか残らなかった
家康は治山治水で米の収穫や商業の繁栄、江戸湾の整備、河川の改修で水路を巡らせ関東一円を船でつなぐネットワークを築いた
隅田川や利根川から遠く下野(栃木県)まで船で往復できる

これは琵琶湖から淀川、大阪湾につながるネットワークより、もっと大きく広いネットワークであった
徳川家は秀吉の知らぬ間に250万石よりはるかに大きな財を成す市場システムを作り上げた
それと同時に軍団の強化と武器の蓄えも進めていった、関東は当時は島流しに等しい田舎であった、故に好んで行きたい者もなく隠し事もしやすい土地でもある
しかし家康は田舎に居ながらも上方のことは手に取るように知っていた
京や大坂の上屋敷には情報収集や商才に長けた家臣を配置し、外国貿易も含めた最新情報を得ることにも手を抜かなかった

「殿、まずは国力をつけること、これは今のところ順調でございます」
「和尚、次はどうする」
「長生きすることでございます、秀吉公より長く生きていたら必ず陽の目を見る日がやってきましょう」
「それは神仏の加護にすがるしかあるまい」
「それではいけませぬ、健康でいるように不老不死の薬を飲み、毒殺されぬよう毒に耐える体も作らねばなりませぬ」
「しかし」
「武蔵の地は山も林も多く自然に恵まれています、優れた薬草や薬木も多くあります、私は美濃で若い頃薬草とりなどもしていました
この知識に加え、優れた医師を招き殿の体を100歳まで生きる体に作りかえましょう」
「ははは、そのようなことができるかのう」
「60や70までお子を作るくらいの力はつきましょうぞ」
「ははは 他愛もないことを言うのう」
しかし秀明和尚の努力のせいか、家康は75歳まで生きて、62歳で死んだ秀吉の天下を奪い260年の江戸幕府の礎を作った
徳川御三家末子水戸徳川家の祖、徳川頼房が生まれたのは家康が64歳の時である
秀明和尚もまた家康と競うように長生きをし90歳を越える長生きだったという

1600年に豊臣政権を脅かす家康を排除しようと考えた秀吉恩顧の石田三成が毛利、宇喜多などの西国大名たちと徳川家康に宣戦布告した
関が原に至るまでは日本各地で石田方(豊臣)と徳川方の戦いがあったが三成の西軍が有利であった、関ヶ原の本決戦で総勢15万余が戦った、しかしあっなく徳川の大勝利となった
それでも慎重な家康はそれから15年かけて1615年にようやく豊臣秀頼を滅ぼして徳川の天下を盤石にしたのだった
そして、それを見届けると同年家康はその人生を終えた

1600年の関が原戦の数年後、二代将軍徳川秀忠に長男家光が生まれた
母は江、豊臣秀頼の母で秀吉の愛妾淀の妹だ
家康は孫に乳母をつけようと人選をしていた、そして秀明和尚にも相談した
「さようですか、ならば良きお方を探してみましょう」
そして数日後、家康に報告した
「実は稲葉家の妻女でありますが、人柄、教養、度胸いずれにも優れております
『夫あれど、そのような名誉なことであれば離縁してでも主君に御奉公いたします』と申しております」
「稲葉とな、その誰の事じゃ」
「殿もご存じでありましょう、関が原で大手柄をたてられた稲葉正成様、その奥方福殿でござる、正成殿もこの件承知でござります」
「おお、正成か、良き働きをした、だが離縁とは穏やかでない」
「殿、福殿には深い思慮がございます、福殿の母方の御実家は美濃の稲葉一鉄様、父上は明智光秀の重臣斉藤利三殿でございます」
「うむ!.. みつひ!....和尚! しかと承った、家光を立派な将軍に育ててくれるよう頼むと伝えてくれ、正成は大名として取り立てよう」
福は家光の乳母となり、春日局(かすがのつぼね)と呼ばれた

二代将軍秀忠夫婦が愛し次の将軍につけようとしたのは次男の忠長であった、しかし、春日局の機転で家康は「長幼の順固く守るべし」と家光を嫡子と定めた
将軍となった徳川家光は居並ぶ大名の前で
「祖父も父もその方らと共に戦場を駆け巡った戦友でもあった、ゆえにお互い甘え許す気風があった、だがわしは生まれついた時から将軍である
これよりは主従の関係を厳格にすべし、意にそぐわぬものは弓矢をもってかかってくるが良い、しかと申し渡す」
と言ったとか言わぬとか、徳川三代将軍にして徳川幕府は盤石となった
そして家光は、自分を将軍にするために命がけで仕えた春日の局に感謝した
家光は自分が生まれる前の本能寺の変の話を祖父家康に何度もせがんで聞いた
その都度、家康は自分と明智光秀、武田信玄との切れぬ縁を話して聞かせた
それは春日局の父、斉藤利三とその主、明智光秀の名誉が回復された瞬間であった

                          おわり

*これはフィクションです、登場人物も架空の者が登場しています

















光秀謀反の本能寺なーんちゃって㉜

2021年03月26日 08時48分02秒 | 光秀の本能寺
1582年春
織田信長は嫡男信忠を総大将に10万の大軍で甲斐の名族武田氏を攻め滅ぼした
甲斐の国府では乱暴狼藉の限りを尽くし、武田信玄の師でもある快川和尚の恵林寺を和尚や弟子、信者たちもろとも押し込めて焼き尽くした
和尚はかっては信長の膝元稲葉山城下の寺にいたが立ち去って、信玄に請われて甲府の地で禅の教えを始めたのだ
武田信玄の風格と落ち着き払った行動、五分の勝ちの戦訓も師と仰ぐ快川和尚から学び取ったのだろう
一方、名僧に去られた信長は、面子はまるつぶれと捉えた、しかも長年の宿敵武田信玄のもとにいる
執念深い信長は心の内に、この屈辱を残していたのだろう
甲州攻めには明智光秀も一手の大将として加わっていた
実は快川和尚が美濃にいたとき光秀も師と仰ぎ、禅の講義を受けていたのだった
長年苦しめられた武田氏を滅ぼしたのは光秀にとっても痛快事であった
しかし何の罪もない快川和尚や弟子たちを焼き殺したことは強烈な不快感として光秀の心に突き刺さって抜けることがなかった
幾人かの若い僧は燃えさかる寺から火傷を負いながらも逃げ出すことに成功した
彼らは取り囲む織田軍の中に明智の旗を見つけて、すがる気持ちで逃げ込んだ
光秀も自分の兄弟弟子たちを、快川和尚に詫びる気持ちで彼らを落ち延びさせた
僧たちは下野国の黒羽の地を目指して落ちて行った

信長は比叡山延暦寺でも伊勢長島でも万余の僧と信者を焼き殺しなで斬りした
仏罰神罰などあるものかと神も仏も恐れず、自らを神と言い帝の上位になろうとした
帝、将軍、禅師を敬う、権威主義者の明智光秀にとってもはや信長の行動は悪魔としか見えなくなっていた
神経質な信長も、そんな光秀の心の動きを敏感に感じ取っていた
光秀の言動、態度にことある毎に腹を立て、光秀の手柄を否定し、波多野兄弟、長宗我部など光秀に降参した者たちを許さず、光秀の信用を貶めた
最後には光秀の領地を召し上げて秀吉の配下とすることを公言した
信長が武田を滅ぼし、快川和尚と恵林寺を焼き尽くした二ヶ月後、光秀は謀反を起こして本能寺で信長を討った

時は流れ、信長に代わり秀吉が天下人の最右翼に位置している
小牧、長久手戦争で秀吉は徳川家康の底力をあらためて確認した
全力で攻めれば勝つことはできると思う しかし背後の北条が家康を全面支援すれば10万の軍を相手にすることになる
その半分が命知らずの三河以来の固い絆の徳川家臣団なのだ、勝ったとしても味方の損害も万人に及ぶだろう
そうなれば西国の大名たちがどう動くかわからない、特に薩摩の島津が不気味だ
秀吉は敵対するのをあきらめた、そしてなんとか家康を臣従させようとあれやこれやと手を打った
朝廷への貢献は信長の何倍にも及び、ついに関白の位を得た、さらに織田家臣の時に上司だった柴田勝家と丹羽長秀の姓を一字ずつもらった羽柴秀吉
それを越えた今、帝より豊臣の姓をいただき豊臣秀吉となった
そんな秀吉でも徳川家康の存在だけは思い通りにならなかった
小牧の戦で家康は秀吉の大軍と互角に戦ったことで全国にその名声がとどろいた
しかも武田氏などと違い、秀吉の領土を奪う野心はなく、ほおっておけば毒にならぬ人物だったから、秀吉は和をもって接するのが得策と考えた

自分の妹を本妻がいない家康の本妻にと無理矢理、徳川に嫁入りさせたり
最後の手段として母親を人質に送った
さすがの家康もなりふり構わぬ涙ぐましい秀吉の大芝居に負けて、居並ぶ大名たちの前で形だけでも臣従することを約束した

これにより二人は敵対すること無く次のステップに進むことができた
九州で臣従している名族大友宗麟が島津に圧泊されて秀吉に泣きついてきた
それに応じて一気に九州をも平定しようと準備を始めた

家康は自分が治めている今で言えば愛知県三河地方、静岡県、山梨県、長野県南部の整備を行った
その中で、信長が焼き尽くした甲府の恵林寺を再建した
そして信長の殺戮から逃れ、下野国(栃木県)の雲巌寺に身を隠していた恵林寺から逃げ出した高僧を呼び戻した
その使いに家康が下野国へ送ったのは秀明和尚という人物であった
和尚の経歴を知る者は徳川家中でも家康だけであった
織田軍が甲州に攻め込んだ時、同盟している徳川軍も攻め込んだ、そのとき甲州内のどこかの末寺にいた秀明和尚の人物に家康が惚れ込んで連れてきたのだとか
美濃で快川和尚から禅の修行を受けた高僧と言うだけである、歳は50前後、眉目秀麗で阿弥陀仏のような優しい眼差しである
家康は常に秀明を側に置いて教えを請うているようであった
秀明には、いつも影のように付き従う従僕が一人いる、名を智念という
秀明和尚と智念は雲巌寺に着いた、そして恵林寺からの僧に恵林寺再興を伝え、住持を任せるという家康の言葉を伝えた

この僧は織田軍の囲みの中、明智光秀に救われて下野国まで逃げ延び雲巌寺近くの黒羽大豆田村の豪農に匿われた
二ヶ月後、光秀が信長を討ち、その便りは初夏には黒羽にも伝わり、一年後安全を確認して雲巌寺に入り、修行を続けていた
雲巌寺も恵林寺も臨済宗の禅宗であり、恵林寺の祖である鎌倉時代の名僧無窓国師は夢窓疎石の頃、雲巌寺で修行をしていた
そんなことで雲巌寺と恵林寺は深いつながりがあったのだ
甲府に戻ると秀明和尚も恵林寺に籍を置きながら浜松の寺に在って家康に仕えた

こうして九州から中部北陸、越後、日本国の真ん中は秀吉が統一を果たした
そんな中で相変わらず小田原北条は秀吉の権威を無視し続けた
秀吉は家康を使い円満に臣従すれば関東の地を安堵と約束したが、北条氏政は百姓ずれの風下には立たぬと蹴った
家康もついに説得をあきらめて秀吉の北条攻めに力を貸せることに決めた
1588年北条は降伏して氏政は切腹、北条氏は五代100年で滅んだ

*歴史上の出来事をもとに創作したフィクションです


光秀謀反の本能寺なーんちゃって㉛

2021年03月24日 16時20分56秒 | 光秀の本能寺
*これは歴史上の出来事をベースにして書いたフィクションです

長久手では秀吉の甥、羽柴秀次の大敗北があったが
織田長益が犬山城を陥し、織田信雄不在の岐阜城も羽柴秀長が包囲しているなど全戦線で、大軍の羽柴勢が押し気味に戦っている
徳川家康にも焦りが見えてきた、こちらから積極的に動くことができない
敵は並の者ではない、織田家にとって代わる勢いの羽柴秀吉なのだ
そんな家康に追い打ちをかける情報が入ってきた
上杉景勝と真田昌幸の軍が松本城(深志城)の徳川方、小笠原氏を攻めているとの情報だった
家康以上に動揺したのは織田信雄だった、いざとなれば家康は本国三河に戻れば良いが、信雄は本拠の岐阜城に入れない
優柔不断な信雄は暴挙に出た、なんと!同盟者の家康に相談せず、直接秀吉に講和を持ちかけたのだ
秀吉は信雄などいつでもどうにもできると踏んで承諾した
いよいよ家康は窮地に追い込まれた、ここは決戦か退却かの分かれ道だ

ところが秀吉軍でも簡単に攻撃できない事情が起きていた
まずは陣中にて大和の太守、筒井順慶が急死した、更にあろう事か織田家全体に影響する越前100万石の丹羽長秀も死んだ
それだけでは終わらない、秀吉の養子、信長の四男羽柴秀勝が重態に陥った
池田家の当主、池田元助も長久手で戦死したし、さすがの秀吉もこれ以上戦争を続ける気力を失った
そしてどちらからとも無く、戦場からの引き上げが始まった
織田信雄だけが小牧城に取り残された形になった

小牧の戦は2ヶ月にも及んだが、なんともあっけない幕切れとなった
もともと秀吉と家康は、信長のもとでの戦友であった、それも秀吉と柴田勝家のように憎み合っているわけでもなかった
どちらかと言えば互いの力量を認め合ってきた感はある、それは互いに尊敬しあっていると言っても良い
今度の戦いも織田信雄に泣きつかれた家康が男気で味方しただけの事、秀吉も信雄を懲らしめようとしたところに家康が出てきた感じである
しばらくは両者の戦争は起こらないであろう
それにしても気の毒なのは池田勝入とその婿、森長可の一族であった
まずは長可の父、森可成が戦死、続いて本能寺で信長に小姓として仕えていた森可成の2男森蘭丸から4男までの3人が討ち死に
それから池田勝入が明智光秀との戦闘で討ち死に、森長可も討ち死に、さらに今度は長久手で池田元助までもが討ち死にした
残ったのは池田輝政と森家の末弟だけという有様であった、秀吉はこれを気の毒に思い戦後に二人の家名存続に気を使った

羽柴秀勝は看病の甲斐もなくついに亡くなった
秀吉はさすがに気落ちしてしまった、だが戦後処理はしっかりとやらなければならない、これまでは織田家に少しは遠慮していたが
今や羽柴秀吉が畿内、中部東海北陸の覇者と誰もが認める存在になっていた
秀吉は盛大に秀勝の葬儀を執り行った、秀吉に従う大名たちは争って葬儀に参列した、そして朝廷からも公家が遣わされた
また遠く中国の毛利、九州の大友、伊東、薩摩の島津からも弔文が届いた
北からも伊達、真田、佐竹などからも弔文、そして上杉景勝の重臣が名代で参列した

誰もが驚いたのは昨日の敵、徳川からも重臣中の重臣石川数正が参列したことである
秀吉はこれを讃えて近習に言った
「家康こそ真の武士である、戦場にあって全力を尽くし、戦場を離れれば花を愛でる心がある、今後はともに手を携えていく相手であろう」
しかし関東の覇者、北条家はなしのつぶてであった
秀吉は(いずれ北条を叩き潰す)と心に決めた

しばらく時が過ぎると、秀吉に活力が戻った
そしてすごいエネルギーで仕事を始めた、まずは朝廷の帝から女官まで金銀を献上し、内裏の補修を行った
これに感激した帝は関白を使い秀吉を招き、従三位の官位を授けた、また弟の秀長にも従五位を授けた

それから秀吉はこの一年二年の近江から伊勢、尾張、美濃の騒乱に対する論功行賞を行い、大々的な領地安堵、加増、移封、減封を行った
すでに秀吉に臣従を誓っていた上杉景勝には本領越後の他、越中、信濃川中島から仁科、松本まで、更に北上野の100万石の現有安堵と佐渡、庄内の切り取り自由を許した
前田利家には加賀一国35万石、蒲生氏郷には伊勢、南近江合わせて55万石、弟の羽柴秀長には大和、伊賀、河内、山城85万石
池田輝政に摂津30万石、織田長益には美濃で60万石を与え、三法師を預けて守役とした

外様の毛利は秀吉を嫌っていた吉川元春が亡くなり、友好的な小早川隆景が甥の毛利輝元を支えていた
毛利には備中以西の西国と四国の伊予、讃岐合わせて120万石を安堵した
以後、毛利と秀吉はより友好関係を結び秀吉を支えることを誓った
四国の土佐20万石は秀長預かりとしていた長曾我部元親にあらためて与えた、元親は感涙の涙を流して秀吉に忠誠を誓った
隣の阿波18万石は秀吉が放浪した少年時代に仲間に入れて育ててくれた蜂須賀小六を大名として取り立てた

尾張60万石は加藤清正、福島正則、加藤嘉明、山内一豊など近習に10万石程度ずつ分け与えて大名に取り立てた
細川幽斎、忠興親子は忠興が明智光秀の娘、珠子を奥方にしていることで秀吉に引け目を感じていた
しかし秀吉は実直で豪胆なこの親子を評価して丹後、若狭合わせて20万石を与えた
長久手で大恥をかいた甥の秀次にも丹波26万石を与えてきつく申し付けた
肉親が少ない秀吉にとって愚かであっても情は切ることができなかったのだ

そして秀吉は多くの財を得る立場となり、朝廷に対してより貢献を深めた
そのため帝は大いに喜び秀吉に官位を与えることを惜しむことが無くなった
秀吉は有り余る財力でついに信長を悩ました本願寺門徒の城跡地に大坂城を完成させた、信長が建てた安土城をはるかに超える大きな城であった
そして京の都に別邸として華やかな聚楽第を建築した、ここに秀吉の趣味ともいえる高家の姫たちを妾妻として集めた
織田信長、前田利家、蒲生氏郷などの名家の姫たちである、その筆頭は京極の竜子であったが、信長の姪でお市の方の娘である茶々もここに加わった

だが茶々こそ気位と誇り高い娘であった、秀吉に媚びることもなく従うこともなく思うままに暮らしていた
秀吉も茶々だけは腫れ物に触るように一歩下がった扱いをした、南蛮渡来の美しいガラス玉や豪華な美しい着物などを与えた
秀吉は50歳近くになっていた、当時としては初老の域に達したことになる
茶々の気高さは信長とお市の影をときおり秀吉に見せつけた、秀吉が扱いづらいこの世にただ一人の女であった

信長の関係者で秀吉が対処すべき者が、もう一人いた
織田信雄は秀吉の元を訪れた時、「筑前、わしの負けじゃ、尾張、美濃、伊勢を所望したがあきらめよう、尾張一国で我慢しよう」と言った
秀吉はこれを恫喝した「信雄!いつまで主気取りでいるか! 世間を見て見よ、お前とわしは立場が逆になったことに気づかぬか
もはや尾張一国もやれぬ、大垣にて15万石を与える故、叔父の長益殿に仕えよ
不満あるならいつでも兵をあげても良いぞ」
これほど恐ろしい秀吉を信雄は初めて知った、慌てて秀吉にひれ伏した
「これにて存分でござります」





光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉚

2021年03月21日 19時37分11秒 | 光秀の本能寺
ーーこれは約450年前の出来事を元に書いたフィクションですーー

秀吉は急に歯が痛みだしてきて不安を覚えた
40半ばになったが相変わらず元気さがみなぎっている
英雄色を好む、まさにその言葉は秀吉にぴったり当たっている
小柄でやせっぽちだが大男に対してもなんら体つきの引け目もないし、居並ぶ戦国の荒くれものたちを眼力だけで従えてしまう迫力がある
その秀吉も歯が痛いのには「これはたまらぬ」なのである
いったいどうしたというのだ、そういえば甥の秀次が3万の軍勢を引き連れて徳川家康の手薄になった三河攻撃に出た後、急に痛み出したのだ
「ストレスか」とは言わないが、そんな感じなのだ
秀吉は動くときは大胆、考えるときは緻密である、その秀吉が緻密さを欠いたまま秀次の申し出をいとも簡単に許してしまった
あれは間違いだったと、冷静になってみると心配な気持ちが増してくる
こちらが家康の三倍の大軍勢と言う安心感と、にらみ合ったまま日が立っていくゆるみが秀吉を油断させたのだ
「才蔵を呼べ」秀吉は言った、家康一の勇将が本多忠勝なら、秀吉方の勇将がこの可児才蔵だ、秀次に付いているが秀吉は手元に置いておいたのだ
「才蔵、すぐに兵500を引き連れて秀次の後を追え、そなたの力が必要になるやもしれぬ」
「承知!」才蔵はすぐに秀吉の元を去った

長久手は小牧、尾張、三河岡崎のどこからも同じくらいの距離にある
その近くには徳川方の丹羽氏が守る小城、岩崎城がある
よせばいいのに秀次の余裕綽々のむらっけがでた、3万もの大軍を動かすのは初めてのことだし、それだけの器量もないのは確かだ
池田兄弟も先方の蒲生氏郷も、秀吉が此度の事を許したことを不思議に思っている
すでに蒲生勢は長久手を過ぎ、秀次の3kmも先に進んでいる
秀次勢は大軍なので狭い裏街道を進むには長蛇の列にならざるを得ない
だから池田兄弟は秀次勢の3km後方をゆるりと進んでいる

岩崎城を落とせば幸先よし、自分の「はく」がつくと秀次は考えた、兵は多い、小城一つ落とすには2000もあればよいと兵を割いた
ところが城方はわずか数百だが善戦してなかなか落ちない、秀次は癇癪をおこしてまた3000の援軍を送った
そしてとうとう落城させて得意満面となった、だがここで2時間近い時間を浪費した、しかも鉄砲の音、怒声歓声がいりまじったからもはや隠密とはならない
前にいた蒲生隊、後ろにいた池田隊は驚いた、そこまで聞こえたのだから長久手周辺の徳川軍も当然音を聞いた
家康の耳にもそれは伝令から伝わった、もっとも長久手に近いところにいた榊原康政の3000に攻撃命令を出した
そして井伊直政にも3000を与えて敵の後尾を突くよう指示を与えた、そして本多正信に、本陣に動きが無いように見せかけるよう言いつけて
家康自らも5000の兵を率いて長久手に向かった

「秀吉殿、わしは退屈で仕方がない、秀次殿も岡崎で手柄を立てられるようだし、わしにも一戦させてはくれまいか、犬山を攻め落とそうと思う」
織田長益が陽気に言ってきた、秀吉は歯の痛みがますます辛くなってきてそれどころではない、判断力も鈍っている
「勝手にさっしゃるがよい」ぶっきらぼうに言ったが、長益はお気楽と言うのか喜んで、「さらば、直ちに行ってまいります」

昔、今川義元が3万の大軍で織田信長の尾張を攻めて、途中、田楽狭間という狭い谷間でわずか3000ほどの信長に討ちとられた
今、羽柴秀次が今川義元の轍を踏もうとしていた、この狭いところを早く抜けて三河平野に出るべきだったのだ
秀次本隊は行軍中だったのだ、動きもとれぬ大軍がひしめき合っているが前後の連携がとれない状況だ
西が僅か開けているだけで複雑な地形なので、兵もひしめきながらも分断されているような形でもある
そこに東の林の中から榊原軍が一気に攻め寄せてきた、岩崎城を落としてすっかり勝利に酔っていた秀次軍は何が起きたかまったく理解できなかった
たちまち円の外縁から打ち崩されていった、しかし中央の者たちはまだ敵の攻撃だということを理解していない
後方の池田勢はもっと悲惨だった、前が詰まっているところに横合いから井伊直政の徳川勢3000が錐の如く突っ込んできた
池田勢は分断された、そして前の方にいた兄の池田元助が真っ先に討ち死にした、そこに今度は後ろから徳川家康の本隊5000が雪崩のように飲み込んだ
池田隊は前後左右から突き崩され、散り散りに逃げ出した
井伊隊は逃げる池田隊を追って次々に大将首を挙げた
家康本隊は池田隊に構わず、まっすぐに秀次の本隊を追って突っ走った、そして追いつくと後尾から次々と秀次の兵を討ち取っていった
そしてついに秀次本隊に追いついた、秀次の旗本までもが我先に逃げ出した、秀次は青ざめて馬に乗って逃げ出した
ところが平地と違い低木や草地が凹凸のある地形の中で生い茂り、根を伸ばしているからついに落馬した
そこに徳川軍の先鋒が早くもやってきた、秀次の兵も数十が集まって大将を討ち取らせまいと防戦した
秀次はその間に逃げ出した、最初の部下たちは討ち取られていく、また別の家臣たちが数十現れて秀次を守る
そんなことを繰り返した時「殿は無事か!」大音声が聞こえた
これを秀次が聞いた、「おー才蔵だ、才蔵!ここぞ われはここにおる助けてくれ!」
秀次の声を聞いた可児才蔵は兵を率いて逆襲に出た、瞬く間に徳川の先鋒は切り崩されて退却した
「才蔵 才蔵 わしに馬をくれ」秀次は急に元気になって才蔵の馬を所望した
すると才蔵は「たわけ! 馬鹿者にやる馬など無いわ! その足でとっとと本陣へ逃げ戻るがよい!」

ようやく前方の蒲生隊が危機を聞いて秀次隊まで戻り、兵をまとめた
徳川軍もそれ以上深追いして、小牧が秀吉に攻められれば全滅の危機であるから急いで小牧へ戻った
蒲生氏郷は可児才蔵とは違って秀次を労わって秀吉のもとに送り届けた
この戦で秀次軍は1000近い戦死者を出し、けが人は数多であった
秀吉はとうぜん、秀次を怒鳴りつけた、そして「顔も見たくない」と言って早々に秀次を戦場から去らせた
諸将の前で親戚を優遇した秀吉の面目は丸つぶれであった、しかし織田長益が見事に犬山城を奪い返したと聞くと大喜びした
「あっぱれじゃ、これで歯痛も治ったぞ」




光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉙

2021年03月17日 19時16分00秒 | 光秀の本能寺
秀吉は畿内の大名のほとんどを動員して20万と言う大軍勢になった
池田勝入の息子、元助、輝政兄弟、秀吉の親友前田利家、秀吉も一目置く生一本織田家の重鎮丹羽長秀
加藤清正、福島正則らかっての暴れん坊の小姓衆、堀尾茂助、堀久太郎、藤堂高虎、筒井順慶、蒲生氏郷数多の諸将が徳川と信雄軍に向かって並んでいる
一方の徳川軍も三河、駿州、遠州の主だった歴戦の勇士を率いて一歩も譲らない

さすがの秀吉も一部の隙もない徳川家康の布陣に攻め口を見いだせずにいる
徳川家康もあまりの秀吉の大軍勢にうかつに攻めかかれない
こうして両軍は半月経ってもにらみ合うだけで動こうとしなかった
秀吉軍は大軍勢であるけれど背後に直轄地を控えているまさにホームゲームだから兵糧には困らない
敵を目の前にしての持久戦は、敵と言えども殺戮することを嫌う秀吉の得意な戦法である
高松城、鳥取城などでもわかるように半年、一年の攻城戦を行ってきた秀吉にとって半月など待つうちに入っていない
しかし気の長いことにかけては徳川家康も負けない、長い今川の人質生活に辛抱してきた男である、短気を起こすことなどめったにない

秀吉には茶目っ気がある
ついに敵味方の真ん中近くまで一騎駆けで飛び出した、そして後を追う家来たちを制して、大声で徳川軍に叫んだ
「家康殿、ご覧あれ」馬から降りると小柄な体でひょうきんな百姓踊りを始めた、徳川の将士は呆気にとられたが
「今が秀吉を討ち取る絶好の好機なり、一発で仕留めて御覧に入れる」
しかし家康は「捨てておけ、秀吉殿はわしとの戦が面白くて仕方ないのであろうよ、われらもお返しせねばなるまいがわしは無芸じゃ、誰ぞおらぬか」
すると戦場に出ること数十回、取った首は数知れず、しかしただの一度も傷を受けたことがないという強者、本多忠勝が
「おう!承った、わしにお任せ下され!」
秀吉めがけて愛馬三国黒に乗りまっしぐら、その手には名槍蜻蛉切を高々と掲げている
「殿が危ない」秀吉の家臣は色めきだった、すぐに加藤清正が大槍を携えて馬を走らせて秀吉のもとに行った
「虎! 慌てるな!唐国(からくに)の関羽、張飛にも劣らぬ漢(おとこ)ぞ
その目玉を開いてとくと見よ!」
既に忠勝は秀吉の20歩ほどまで近づいていた、秀吉は再び大声で叫んだ
「おう! 忠勝であるか!とくと槍の妙技を見せ賜え」
秀吉の大声は有名である、敵味方ともに知らぬものはない
それにも負けじと忠勝も「おうよ!」と答えて、馬を円を書いて走らせた。そして馬上で数多の敵の血を吸った蜻蛉切の槍をこともなげにうち回し
見事な槍術の技を秀吉とその軍勢に見せつけた
秀吉は興奮して扇を振って「あっぱれじゃ! あっぱれじゃ! さすがは天下一の豪傑よ!これを進ぜよう」
そういうと自分が羽織っていた陣羽織を脱いで清正にわたし「これを忠勝に与えよ」
清正は驚いたが何も言わず、馬を走らせて忠勝のところまで行くと「わが殿から下賜じゃ、受け取れ」
忠勝はそれを見て「ははは ありがたきことなれどこれは受け取れぬ わが殿家康様からであれば喜んで受け賜るが、わしは秀吉の家臣ではない」
受け取りを拒否した、短気な清正は今にも忠勝に襲い掛かりそうだったが
秀吉は「まあ良い! 虎の助戻れ」それからまたしても大声で言った
「忠勝!良き忠臣じゃ! だがお前の主はケチ故、陣羽織などくれるものか
惜しいことをしたのう! いずれわが軍門に下った時、今一度渡してやる」

互いに自分の陣に戻っていった、そしてどちらからともなく勝どきが起った
そしてまたにらみ合いが続いた
また10日ほどが過ぎた、すると秀吉の姉の子である秀次が秀吉の前に出てきて「殿様、わしに3万の兵を与えて下され、目の前の徳川はほぼ全軍ゆえ
岡崎城は手薄でございます、わしが敵が気づかぬうちに岡崎を攻め落としますゆえ
秀吉は驚いた、まだ実績がない秀次だ、だが子がない自分の養子にしたばかりでもあり手柄をたてさせたい親心もある
もしこれに成功すれば親戚が少ない秀吉にとって秀長同様心強い身内となるだろう
秀吉は許した、しかし心もとないので池田元助、池田輝政、それに蒲生氏郷を与力としてつけることにした
秀次が15000、池田兄弟で1万、氏郷が7500を引き連れ総勢3万有余の軍は長久手方面に進軍を開始した






光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉘

2021年03月16日 18時03分54秒 | 光秀の本能寺
織田信孝は武者としては勇猛果敢であるが、根は純真で単純である
そういった点では柴田勝家に似ている、だから秀吉のような狡猾な男の手にかかれば脆い
今は小牧方面から攻めよせてきた徳川軍と秀吉の二つの大軍団に気を取られているが、抜け目のない秀吉はすでに伊賀から伊勢に向けて蒲生の一隊を進めていた
伊勢方面は滝川一益が信孝と同盟して守備している
信孝にしてみれば後詰と遊撃を滝川一益に期待していたのだが、それも水泡に帰した
蒲生氏郷は池田元助の軍を合わせて15000で伊勢に向かった、そして砦や要害を攻め落としていった
滝川一益は急いで桑名城に戻り、守りを固めた
しかし今度は徳川家康の遊撃隊が手薄になった長島一帯を攻め落として滝川の背後に迫った
ついに滝川一益はお手上げ状態になり、蒲生氏郷に降参した
こうなると日和見していた筒井順慶も慌てて羽柴陣営に加わり尾張に出陣した

秀吉は織田信忠の遺児三法師と羽柴秀勝の連名で尾張地内で信孝に与力している諸将に通告した
「宗主謀殺と言う畜生働きをした信孝に味方して、三法師様に手向かう輩は織田宗家への反乱軍とみなして一族郎党から家族まで皆殺しに処す」
これに驚いた地侍や将が相次いで秀吉陣営に投降してきた、秀吉はそれらを最前線に配置して那古屋城を攻めたてた
那古屋城を落とすと全軍が清洲城を囲んだ、逃れる道は無くなった
徳川軍も小牧の信孝軍を信雄と共に攻めて、ついに小牧山城を陥落させた
これにより援軍ん見込がなくなった織田信孝は降伏の決意を固めて秀吉の軍門に下った

秀吉は実のところ信孝の処置に迷っていた
腹を切らせるか、遠方に流すか、許して小大名として使うか
本当は腹を切らせてしまえば簡単なのだが、それでは家康を味方にしている織田信雄を勢いづかせることになる
信雄は信孝よりかなり武将としての資質で劣るが、欲の深さでは信孝や信忠の比ではない、出家したことも偽装だと秀吉は思っている
そんなふうに思っていたところになんと信雄が家来を引き連れて訪れたのである
「筑前、この度の働き大儀、殊勝である この信雄そなたの働きに大いに感銘を受けた 兄信忠も父上もさぞ喜んでおられるであろう
後日、存分の恩賞を与えよう」完全に上から目線である
誰にも案内されたわけでもないがいつのまにか秀吉の上座に回って信雄は座っていた
秀吉も思わず苦笑した、すると黒田官兵衛が口を挟んだ
「信雄様、宗家三法師君が只今おいでになられますので座を一つお下がり下されたく...」
周りの雰囲気に押されてしぶしぶ信雄は席を立った、そして幼い三法師を抱き上げた秀吉は信雄の上座に座り耳を三法師の口に近づけた
「叔父上には此度の岐阜城攻め見事である」と申されております
いくら信雄が愚鈍であってもこの臭い芝居はわかる、信雄は顔色を変えて抗議しようとした
すると横から丹羽長秀がさえぎって
「まことに信雄さまの御働きは見事でありました、われらも清州城を攻め落としましたが、あの難攻不落の岐阜城を攻め落とすよりはたやすい」
老臣の大人、長秀に言われるとまんざらでもない信雄だった
そして気を取り直して秀吉に言い放った
「信孝の逆心許さず! 即刻切腹を申し付ける」
秀吉の迷いは消えた「信雄様の心中あいわかりました、神妙に承り直ちにお腹を召されるよう申し付けます」
今、腹を切らせれば諸将の前で声を張り上げた信雄の命令によることは明白である、秀吉が汚名を着せられることはなく信孝を抹殺できる
その日のうちに織田信孝の命は消えた、織田三兄弟で一番資質が劣る信雄が唯一生き残った
秀吉と官兵衛は顔を見合わせて笑みを浮かべた

翌々日、羽柴秀吉、丹羽長秀、織田信雄、蒲生氏郷、織田有楽の5名が清州城に集まり今後の織田家の運営と領土の再配分の会議を開いた
これを第二次清須会議と後世の人は呼んだ
そしてここでの主導権争い、領土の配分で秀吉と信雄は真っ向から対立した
信雄は怒り狂って岐阜城に引き上げた、そして徳川家康の助けを確約してもらうと小牧城まで軍を押し出した
驚いた織田有楽は巻き添えになってはたまらぬと兵を率いて尾張まで逃げ出して秀吉の陣営に入った
徳川家康も信雄との盟約を守って5万の軍勢を率いて小牧から長久手周辺に陣を張った
一方羽柴勢は信長の4男羽柴秀勝を旗頭にして蒲生氏郷をつけた
播磨からも弟の羽柴秀長の軍を呼び寄せた、さらに近江、大和、河内、伊勢
の軍勢を集め、丹羽長秀の軍と共に陣を張った
秀吉軍の総勢20万、対する織田信雄、徳川家康連合軍は7万である
小牧および長久手周辺での大戦が始まろうとしていた
後世、小牧長久手の戦いと呼ばれることになった










光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉗

2021年03月15日 19時44分54秒 | 光秀の本能寺
戦国時代の始まりは、鎌倉幕府の前北条氏から政権を取り戻そうと動いた後醍醐帝の戦からだと考えます
それは1330年代のことで徳川家康が豊臣家を滅ぼして一頭!(一党ではない)独裁政権を手に入れた1615年までの約300年
その間に初期の多くの守護地頭大名、荘園貴族が滅んでしまった
そして地の中から新しい権力者が数多発生してきて戦ってのし上がるもの、滅ぶものに分かれて行った
それは10億年の昔から、隕石で滅んでしまう6000万年前までの古代獣からジュラ紀繁栄の恐竜の盛衰に似ている気がする

勝ち残った者より、滅んでいった者たちへの興味が尽きない
とかく一般的な歴史ファンは戦国時代の英雄に心躍らせる、信長、秀吉、家康はまさに戦国御三家
その前は上杉(長尾)、武田、今川、北条の関東甲信越の陣取り合戦が華々しく行われていた
結局、この4大強国も明治まで生き延びたのは上杉家のみ
戦国御三家も秀吉の豊臣はたった2代で滅び去った、織田家も明治まで生き延びたが脇役にもなれなかった
唯一、徳川家が戦国トーナメントの勝者となって250年の長きにわたって日本国を支配したのだった

敗れ滅んだ者たちには当然様々な原因がある
一番わかりやすいのは圧倒的な敵に攻め滅ぼされるパターン
それから兄弟や叔父甥の内部権力争いで力が衰えた時、外敵に攻撃されて滅ぶパターン、
上杉家は本能寺の変がなければ1582年に武田家に次いで滅んでいたはずだ
同じく四国の長曾我部も織田信孝、丹羽長秀の軍勢に滅ぼされ、
毛利もまた秀吉の応援に行った信長と光秀の加勢でおそらく備後から安芸まで攻め込まれて降参しただろう
1583年には織田家は西は関門海峡から福岡まで、そして四国、東は新潟、長野、群馬、栃木、山梨、
そして同盟者の徳川の静岡県まで勢力範囲として、次には関東の北条攻めが始まる、それはまた信忠が総大将で滝川が副将となるだろう
森長可も池田勝入も明智光秀も柴田勝家も健在だ、もちろん信長も
秀吉が北条を攻め滅ぼしたパターンで北条氏はあっけなく滅ぶ、いや信長が相手なら早々に降参して関東数か国を安堵してもらうかも
柴田勝家は5万の軍団を率いて山形に攻め込み、信長の命令で徳川家康と北条は福島に攻め込み、最上、伊達を挟撃して降参させる
それから九州攻めだ、九州は大友がすぐに同盟を申し込んで長曾我部とともに
先鋒として働く
西海軍団長羽柴秀吉が10万で佐賀、長崎の龍造寺に攻めかかり、九州攻め総大将の織田信孝が20万を率いて九州最強の島津に向かう
いずれにしても織田の勢いは止まらず1585年には日本統一を成し遂げる、その頃には信長は53歳、信忠は30歳、まさに絶頂期である
織田幕府が京の都に開かれ、信忠が政務を取り、明智光秀、細川幽斎がそれを助ける
信長は九州日田あたりに大きな城を建てて秀吉を九州探題として九州全域に目を配らせる
また肥前唐津に安土城以上の城を建てて自らそこに住み、南蛮語を覚えて自ら海外貿易の采配を振るう
長崎と鹿児島に貿易船団と護衛海軍を作って東南アジアからインドまで乗り出す

信長は古きものを嫌い、新しきものに興味を示す、そういう点で九州の大名はほとんど滅ぼさず活かすだろう
海外貿易の軍団長として彼らを使う、勇猛な島津は海軍、瀬戸内の海賊衆はことごとく長崎に呼び寄せる
九州全土にキリスト教の布教を許す、但し本土での布教は許さない
スペインは唯一の交易国だが信用がならない、信長は利用しながら警戒を緩めない、だから史実の徳川家康同様いずれオランダを重宝するだろう
そしてよく歴史家が言うが、スペイン艦隊と信長の日本艦隊がマレー沖海戦を行う日が来るだろう
信長軍団は陸戦が圧倒的に強い、スペインが占領しているフィリピン、台湾、東南アジアまで信長は占領してしまうかもしれない
この頃の中国は明の時代だ、そして半島は李氏朝鮮国、北では満州人を中心に明や朝鮮を狙っている

まだ若い野心家の伊達政宗を信長は側近大名としてそばに置くだろう
上杉景勝に用はないが側近の直江兼続をブレーンとするだろう
日本は一気に国際化する、300年早く国際化した日本が訪れる
これはIF?「信長が死ななければ」での空想の通説でもある
信長には死んでほしくなかった、どんな2021年の日本になっていたのだろうか、1582年、まだアメリカには近代文明国家はない








光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉖

2021年03月12日 16時24分32秒 | 光秀の本能寺
信孝はピンチに陥った まさか家康と秀吉が同時に攻め上ってくるとは思いもしなかった
信忠に代わって織田の宗主となって織田軍団に号令しようと思ったが、時代はすでに変わっていたのだ
いまや家康にも秀吉にも織田家の庇護などいらぬ力が付いた、もはや邪魔な存在でしかない
織田にとってかわって天下を狙える地位に上ったのだ、チャンスであった
家康は順番から言えば信孝より上位の織田信雄を手に入れた、秀吉は信長の直孫三法師と信雄の弟、秀勝を擁している
さらに飛び込んできた蒲生氏郷の奥は信長の長女であるから、正当性においては秀吉が絶対有利であった、だから続々と織田の旧臣は秀吉の傘下に集まった

挟撃されたような形になった信孝は岐阜城、清州城のどちらに籠城するか選択に迫られた、やはり本領の清州に居座った
末森城、那古屋城、小牧山をはじめ尾張から美濃にかけてのネットワークを固めて抗戦を決意した
また北伊勢の滝川一益とも連携して助け合うことを確認した

信長の弟、織田長益(有楽)は大垣城で岐阜城の信忠を補佐していたが、信忠の突然の変異と死亡で行く先を考えていた
そこに秀吉と家康が信孝めがけて進軍中との情報が入ってきた、いずれこの三将の誰かにつかなくてはならぬ
長益は値踏みを始めた、自分にもう一つ箔をつけた方が高く売れると考えた 長益はとぼけているがなかなかの策士でもあり勇敢さもある
近くの犬山城はかって信雄の家臣が守っていたが、信雄が逃げると一緒に徳川に走った、そこに信忠の家臣が入った
ところが信忠が岐阜城を離れると信孝は岐阜城と犬山城も接収して家臣を入れた、だが守りはどちらもかなり手薄であった
長益はそこに目を付けた、岐阜城はさすがに自分だけでは落とすことはできない、そこで策を講じて犬山城を攻め落としてしまった
同じころ家康は信雄を旗印にして一軍を滝川の抑えに、井伊直政を岐阜城へ、そして家康と信雄は尾張の支城の攻略を始めた
信孝も勇敢であるからこれに対抗してゲリラ的に急襲を繰り返した、さらに背後から滝川が攻撃を仕掛けて長島を取り返した
家康は苦戦した、信雄の威光では信孝には通じない、武将としての資質では信長の息子トップ三兄弟の中では信孝が秀でていた
信長の激しい気性を一番受け継いだのは信孝だと家臣は口を揃える
信忠も10万の兵を率いて武田を滅ぼした実績があったが、あれは徳川、北条まで参加した戦であった
果たして信忠にどれだけの資質があったかは不明である、信長なきあとは衰退するばかりであったのだから

困った家康は打開策を織田長益の取り込みにかけた、
織田長益なかなかしたたかな古狸だ、南近江、美濃、尾張のいずれかをくれるなら参戦すると信雄に伝えた
だが信雄も家康も天下人ではないのだ、そういう点ではこの近畿東海はまた戦乱の時代に戻ったといえよう
信長健在の時には日本の戦国トーナメントはベスト16まで進んでいたのだったが、ここにきて信長が代表だった東海ブロックは
東海地区だけがベスト4に戻った感がある、すなわち徳川家康、羽柴秀吉、織田信雄、織田信孝だ
今は三者で信孝をつぶそうとしている状況だ
ともあれ戦国人に理屈や常識、法律は通用しない 力あるものが正義で法律なのだ
だから家康と信雄は、信益の条件を飲んで仲間に引き込んだ、そして信孝の家老が守る岐阜城を長益を大将にして徳川の軍団が加勢して攻めた
6000が守る山城を25000の大軍で攻めて3日で落城させた
そしてそこに織田長益を入れた
かわりに大垣城には家康の軍勢が入り、犬山城には美濃勢の稲葉一徹を返り咲かせた
次に狙うのは小牧山城である、ここは信長がかって美濃攻めの拠点として築城した重要な要の城だ、それだけに守りは固い
その頃、ようやく秀吉の軍が近江までやってきた、そして長浜の兵に加えて丹羽長秀も1万を率いて合流した
秀吉によって越前をもらった長秀は一気に100万石に迫る領地をもらいすっかり秀吉に臣従していた
しかも長秀は織田家中では人望に於いて秀吉よりはるかに勝っていた、秀吉は嫌いだが長秀が居れば安心と言う者も多い
秀吉にはこうした長秀がまことに使い勝手がいいのである

家康がすでに美濃を攻略したことは秀吉の耳にも入っている、だが秀吉は慌てない
近江を経て関が原に至った、そして大垣城を横に見ながら進んだ、大垣城へは使いを走らせ三法師の名で「ご苦労でござる、われらも信孝退治に参る」
大垣城の稲葉は茫然として5万の秀吉の大軍を見送った
そして徳川軍と信孝軍がにらみ合う小牧山に向かった









光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉕

2021年03月08日 17時53分59秒 | 光秀の本能寺
なぜなのか? 織田信忠は思った
次々と重臣が離れていく、とうとう信頼していた丹羽長秀まで国に帰った
いまや信忠に従うのは美濃の家臣団、稲葉などわずかである
後は近江、伊賀を任せた蒲生、全て集めても4万の兵が精いっぱいなのだ
これで織田宗家と言っている自分がおかしくて仕方ない
どこでどう間違えたのか? こんなはずでは無かった 父、信長の威光は自分をも同じように主君と崇めるのではなかったか?
自分の一声と采配で万余の軍団が示す方向にひたすら駆けていくのではなかったのか
今や自分に横柄な秀吉などは父の前ではネコの前のネズミの如く脅えていたではないか
それに比べると自分の小ささがこの頃はより強く思うのだ
父と同じ力を受け継いでいると子供の時から思っていた、なのにどうしてこれほどの差がでるのか
武田を滅ぼしたとき自分が采配を振った、自ら指揮して高遠城の武田の仁科五郎信盛を一日で攻め滅ぼした
あれは自分の力であった、たしかに自分が滅ぼしたのだ。 10万という大軍が自分に従ったのだ
だが今の自分の身を思えば、あれは自分とは違う人間だったのでは無いか?
そんな風に思えば思うほど心が萎んでいく、信忠にはもはや天下に号令する気力は失せていた
(いっそ信雄とおなじように出家しようか)
今や思うのは天下布武ではなく、静かな暮らしであった
我が身を恨む、父、信長を恨む、農民のように自由気ままに暮らせたらどれだけ幸せか

「殿、たいへんでございます」小姓が青ざめてやって来た
「何ごとか?」
「信孝様が攻め寄せて城を取り囲んでおりまする」
「さもあらん」信忠は落ち着いて答えた
「信孝の使いを此処に呼べ」「はは!」
信孝の重臣が目の前に平伏した
「信孝の望みは何か?」
「恐れ入りまする、主の言葉を申し上げまする
ご宗家様には速やかに政権を信孝に譲り、京の何処かの寺院にてお健やかに過ごされまするように、との事でござりまする」
「ははは! さすがは弟よ、わしの気持ちを全て知っておるわ
あい分かった、信孝の申すこと余さずききいれようぞ
明日にも、この城明け渡し都へと参ろう、そう伝えよ!」
「承知仕りました、これにてごめんいたしまする」
使者は信忠の返事に面食らった、当然戦になると思っていたが意外な返事であった、何かたくらみがあるのでは?
いともあっさりと申し入れを全て聞き入れたのだから
信孝は疑い深かった、信忠が素直に受け入れたことになおさら疑念を抱いた
(もしや秀吉を頼って反撃するのでは?)
そう思うといても立ってもいられなくなった
そして刺客を送った。 都へと向かう信忠一行を山科への峠道で襲って皆殺しにした、ここに織田信忠の命が消えた
1584年1月の事であった
中原で生き残った織田の有力候補は織田信孝、ただ一人となった

ところが事は信孝の思い通りにはいかない
美濃で信忠に仕えていた稲葉一徹は三河の徳川家康のもとに逃れた、そして事の顛末を伝えた
家康は、ただちに兵を整えて国境の守りを厚くした、さらに出家していた織田信雄を還俗させて浜松に呼び寄せた
信雄は庶腹の三男坊信孝以上に織田家相続の正当性がある。 信忠と同腹の次男坊なのだから
家康は信雄を旗印にして尾張、美濃の奪取を描いていた
ところが家康以上に速く動いた者がいた、それは河内にいた秀吉であった
近江の南部一帯を信忠から任されていた蒲生氏郷が秀吉傘下になることを条件に主君の仇討ちを願ってきたのは信忠殺害の2日後だった
秀吉にも仇討ちの他にも大義名分がある、それは信長の4男秀勝を自分の養子にしているからである
条件的には伊勢の神戸家へ養子に入った信孝と同じである、信雄も伊勢の北畠へ養子に入った身である、まさに養子同士の争いになった
そんな中で秀吉は一枚上手だった、岐阜城から蒲生の元に落ちてきた信忠の側近が連れてきたのは信忠の嫡子三法師であった
秀吉はこれを蒲生氏郷から受け取った、これは養子の秀勝を旗印にするよりもたしかな旗印となる
何といっても信長の直系の孫で総領なのだから、この時三法師はまだ4歳の童であった
そんなことにはおかまいなく秀吉が5万と言う大軍を率いて河内を出たのは信忠が死んだわずか5日後であった
中国大返しを行った秀吉ならではの神業であった、だが今の秀吉にとってこれくらいは朝飯前である
すでに信長の軍団編成にも劣らぬ組織を持ち、日頃より兵糧から武器まで徹底して準備していたし、堺や瀬戸内の流通から上がってくる資金は莫大であった
とても信孝ごときの前近代的な武士とは300年も頭の構造が違うのだ
そういう意味では田舎者でがちがちの三河武士の徳川家康もかなわない
むしろ青苧の生産で日本海海運交易をしている上杉景勝の方がよほど開けている






光秀謀反の本能寺なーんちゃって㉔

2021年03月07日 20時23分49秒 | 光秀の本能寺
徳川家康は織田家の内輪もめをのうちに、尾張半国を手中にして
更に清洲も落とさんと狙ったが、さすがに守りは固く諦めた
だが手に入れた知多半島、渥美半島には昔からの徳川と親しい海賊衆がいる
それを使って伊勢長島と伊勢に軍を送り込んで滝川一益を挟撃した
滝川はたまらず清洲の信孝と大和の筒井に援軍を要請した
しかし信孝は清洲と伊勢の通路も徳川軍に押さえられているし
清洲から兵を出せば守りが薄くなって自分の方が危うくなるので援軍を出せない
筒井は徳川と織田の力関係を計りかねて兵を出し渋っていた
そんな中、伊賀から蒲生氏郷が5000の兵を引き連れて伊勢を救援に来た
感激した滝川一益は勇気100倍となって、徳川軍を撃退した
しかし伊勢長島は徳川軍が占領して橋頭堡を構築してしまった
長島は川と水路が複雑に交差して大軍に守られると攻め落とすことが難しい
滝川単独ではとても無理なのであきらめた、こうして三河から伊勢湾岸北部まで
徳川が占領した
ここを押さえてしまえば美濃、尾張、伊勢どこへ行くにも便利である
まさに徳川は要の要地を押さえたのである

信忠の安土城天守閣工事は遅々として進まない。 ところが半年前から秀吉が着手した摂津の城は着々と出来てきた
それは信長と10年にわたって戦った末に退いた石山本願寺の跡地に建てている城である、秀吉は浪速城と呼んでいる
本来は主君の織田信忠の許しを得るべきだが報告すらしていない秀吉であった
今や内緒であるが毛利を味方に引き込み、四国、淡路、備前、播磨、摂津、山城、丹波、河内、越前、近江長浜まで
直轄領と与力大名で固めた秀吉の支配地は実に400万石前後に拡大していた
毛利の助けが無くとも10万の兵をたやすく動員できる力を持ったのだ、これは信忠と信孝の領地を合わせたよりも多い

徳川家康もまた駿、遠、三、尾張半国、信濃の七割、甲州、北伊勢を支配下に置いて250万石ほどに広がっている
しかも背後には親戚となった300万石を誇る北条氏が控えている、これに北陸、越後を抑えた上杉景勝でほぼ中央は固まった
その上杉にも秀吉は誘いの手を打っていた、同盟して徳川、北条に当たろうという誘いである
さすがに織田を倒そうとまでは言わない、だが上杉の参謀直江兼続には秀吉の意図がよく分かる、心は秀吉に傾いている

四国から長宗我部が消えて地方の有力大名は九州に島津、龍造寺、大友
関東に佐竹、奥州には芦名、伊達、最上、南部、九戸といったところだ
九州では島津と龍造寺が戦い勝者が九州全土を手にするだろう、その後は毛利との対決か安定か?
奥州は動きが鈍く統一は遠い、いずれ中央の覇者に飲み込まれる運命となるだろう

信忠に呼び寄せられて安土城に駐屯している丹羽長秀も頭を悩ませている
信長から「米の五郎左」と言われたほど勘定を任せられる堅実な武将である
きまじめで冷静な大人の風格を持つ
柴田勝家と共に古くから織田家に仕えた老臣だ、年齢も信長とほぼ同じだから
まさに信長一筋で仕えてきた人なのだ
しかしこの頃は(どうもいかん!)なのである、なにがいかんのかといえば
信忠、信雄、信孝の年長の三兄弟の仲が悪すぎる。 信忠を中心にして力を合わせれば織田家は安泰だったはず
ところが信忠の命で信孝が信雄を攻めて、恐れた信雄は徳川家康を頼りに遁走した、それが原因で徳川と戦争になり三河全土と北伊勢を取られた
しかも信孝と信忠の仲も険悪になり出した、信忠の戦は全く計画性に欠けている
上杉にも徳川にも手玉に取られているとしか見えない
大事な功臣が次々に戦死した、池田勝入、森長可、柴田勝家、佐久間盛政、佐々成政たちである
唯一、羽柴秀吉だけが四国を制圧し、上杉が占領した越前を取り返した、今や織田家と羽柴家がひっくり返ったような気がしている長秀である
安土に信忠がいたときには幾度も諫言したが聞こうとせず煙たがるばかりだった
今は岐阜に行ったきり閉じこもつてしまった
これでは織田家の先が見えない、どうして良いか途方に暮れている、前田も島も信忠を見限ったのか尾張から去っていった
そんなある日、秀吉がわずかな家来だけ連れてふらりと訪ねてきたのだ
「丹羽様、今は危急の時でござる、織田家の危機でござる
こんな時こそ多くの兵を養うが肝要かと」
「いかにも申すとおりじゃ、だがわしは若狭の兵があるだけじゃ」
「丹羽様ほどの功臣を若狭一国で放っておく信忠様の気が知れぬ、いかがでありましょうか、わしが治めておる越前70万石もお頼みしたいと思うが?」
「..なんと!」
丹羽長秀は絶句した、越前を得れば一気に4倍の領土100万石の大身となる