神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

やっぱり医者へ 久しぶりの注射

2017年01月31日 16時08分41秒 | 病気と健康

この頃ちょっと困るのは、保険証カードを忘れると受付でマジ顔されること

以前は「今日中にもってきてください」で済んでいたものが

「今もってこなければ全額実費の支払いになります、よろしいですか」にこりともせず言う

今日は60年来のつきあいの医院だったが、顔を知らない若い看護婦に同じような事を

言われて、家にとりに戻った、田舎の「顔パス」も通用しない時代になった

 

保険証をもって戻ってきたら、いつもの看護婦=わが家の隣の娘 が窓口にいた

「なあんだ、あんたがさっきいればこんなに動き回らなくてすんだのに」と言ったがむこうは

何の話しやらわかるわけも無い、きょとんとしてる

「咳が・・・」と言ったら 「風邪ですね」というので 「いや そうとは言い切れない」とわたし

以前、「あんたは医者か!」と医者に叱られたばかり、うかつに病名を推定で言うわけに行かない

体温計を腋にはさみながら、問診票を書く

「熱は無し 症状4日前、くしゃみ鼻水 2日前から咳」 熱は35.9度

血圧を測っていたら

「インフルエンザですか~」と看護婦の一人

「インフルじゃないね、熱は無いから」「でも最近は熱が出ないインフルエンザもあるのよ」

どうしてもインフルエンザにしたいのかよ

「インフルエンザの検査しますか?」「しません!!!」

「先生、**さんインフルエンザの検査します、yottinさんはしません」だって、嫌みかよ

血圧測定のシート見てびっくり147!!! 120台を越えたことが無いのに、もう一度挑戦

129、これでいいのだ「インフル検査なんて脅すからだよ」看護婦に一言

身長、体重も計ってここにきて10分で診察室に呼ばれた、町医者はこれがいいんだよな

「おはようございます」「ああどうも久しぶり」私より15歳くらい若い先生

この医院で私がかかってから3人目の医師、最初の先生の孫に当たる

まずはお口をあ~んと開けて見て、胸、背中、お腹を調べてから「注射がいいな、早く咳が止まる」

「のどに麻酔かけて注射」って看護婦に指示、「はいあちらの処置室ですよ」

「のどの注射なんて初めてだよ」ちょっと不安に、だけど麻酔すれば大丈夫だろう?

ちょと興味も出てきたが、カーテンの向こう側の処置室へ入ると

「はい、まずうがいしてください、最初は普通に軽くお願いします」

水盤に水の入ったプラカップ(これが麻酔なのか) 口に含んで「がらがら」

少しはピリピリするかと思いきや少しも感じない、まるで水みたい

「はい、次は『あ~』と言いながら3回うがいしてください」

「あ~」っと言うと確かに喉の奥まで入っていく、飲み込む寸前、麻酔薬を飲めば胃がしびれる

んじゃないか、だけど口の中でも少しも違和感が無い、これで麻酔大丈夫なんだろうか

「はい、ベッドに腰掛けて腕をまくってください、注射しますから」

「ええ? 腕? 喉じゃ無いの?」  「喉になんか注射しませんよ」   「?????」

「じゃあ、あのうがいは麻酔薬じゃ無い」 「うがいは水ですよ」 「???」

気を取り直して、腕をまくりはじめながら

「おれね注射痛くて嫌いだから、昔はここで注射と言われると腕じゃ無くて尻に打ってくださいって

いつも言って、尻に打ってもらったんだよね」

「ああそうですか、じゃあ、お尻でもいいですよ」

「ああ、今もいいんだ、それじゃお尻で」、ちょっと安心した私

「昔はねえ、おばちゃん看護婦だったんだけど、尻を出して待ってるとね『そんなに早く脱がなくても

いいですよ、もうちょっとズボン上げてて』なんて言われてね」

「は~い、まだ脱がなくていいですよ」

「それからいよいよ打つ段になってパンツを下げると『あらあら、そんなに見えるところまで下げなくて

いいの、もっと上げて』なんてよく叱られたなあ」私が大きな声で言うものだから、若い看護婦は笑いだして

カーテンの向こうで先生も吹き出している

そして看護婦「お尻の上の方に打ちますから、下げすぎないでください」だって

それにしても喉に注射を打つなんて言うのは、先生のギャグだったんだろうか、ちょっとマジに受け止めてしまった

先生も拍子抜けしただろうな

これだけ医院で楽しんで750円は安かった、町医者も捨てたもんじゃないね。

 

 

 

 

 

 


我が儘老人が長寿なので・・・・

2017年01月30日 08時47分55秒 | 老人介護

温泉宴会から戻って以来、どうも風邪っぽい

最初は鼻水が一日中止まらなくて、昨夜からは肺ぐるみの咳に

これは治りかけの兆候といつも思っている、ただ治るまでは多少の痛みを伴う

65歳から5年ごとには無料で肺炎の予防接種をしてくれるということだが、痛いのが嫌で

受けなかった、だが風邪の度に肺に負担が来る様では70歳には、いや有料でも早く受ける

必要があるかもしれない。

一昨日の夕方、病院から電話が来て「おとうさんが言うことを聞かないので、夕食が終わるまで

付き添いをお願いします」

病院では今、インフルの流行を恐れて面会謝絶の措置を執っているが、そうも言っていられないくらい

父の我が儘、面倒が発生したらしい、これは今に始まったことでは無くて、医者や看護婦の態度が

気に染まないと、とことん喧嘩を売る様な態度に出る、それで本人は早く退院しようという魂胆なのだが

今回ばかしは、肺炎を起こして自分から病院に連れて行ってくれと懇願したのだ

それなのにもうこの態度で、家に戻ったところで悪化するのは目に見えている

基本的にこの病院が嫌いで、何度も医者に暴言を吐いては嫌われている「嫌な老人」になってしまった

それで町医者に行っているのだが、その町医者が手に負えなくてここに来たのにだ

 

病院の看護フロアーで早速看護婦が「どうされましたか?」というから「父の事で来る様にとので」

と言ったら、「どうぞ」とすぐに病室に入れてもらった

すでに妹が来ていて「にいちゃん、許可書をもらわないとダメだよ」と言うから

「いや看護婦は何も言わないで入れてくれた」と言ったら、自分は熱まで測らされてOKをもらい

首から入室許可書をぶら下げていた、それを聞いたので鼻水タレの私は部屋に入らず廊下で待機していた

中では父が意地悪く妹に不条理な言葉を連発している、妹も頭にきていて「いい加減にしてよ」とやり返す

どうみても父の方があきらかに悪くて、まったく理屈にならないことばかり言い張る

昔からへそを曲げてしまう性格で、そうなると実の子であっても喧嘩を売ってくる、子供と同じでぐずりたいのだ

相手にされない老人の訴えでもある、ただ聞いている方はタマラナイ、親だからひどいことも言えないし

せいぜい兄妹で愚痴を言って慰め合うしか無い、ここにいない弟をたまにやり玉にして溜飲を下げるというのか

なんの意味も無いので、その話しはすぐに終わってしまう

明らかに父は確信犯で、20年くらい前までは別の総合病院に行っていたのだが、そこの医師には絶対服従で

ガンを宣告されたときでも「先生の言うとおりにします、煮ようと焼こうとお好きな様にお願いします」などと言ってたし

病院に行く前にケーキ屋によって20数個もショートケーキを買って看護婦の控え室というのか、そこへ届けて悦に入る

ようなことが度々あった、僅かな出資もしていたのでその病院が好きだったのだが、理事長らの不正で倒産してしまった

以来、ここに転院したが外様という引け目があって、「だから粗末に扱うのだ」という被害妄想をもったらしい。

「この病院は嫌いだ」「**病院が無くなったために、こんな目に遭ってる」など医師に向かって言うものだから

どんな温厚な医師でも面白くない

先般は母の検査で数日、この病院に通ったけれど、長時間待たされる以外は、医者も看護婦も、検査技師もみんな親切で

とてもいい感じだった、患者が素直なら医者も気分がいい、以心伝心、相身互い、父の様に頑固だと大きな損だと思うが

子の言うことさえ聞く耳持たぬでは手の打ちようが無い、「誰からも愛される老人になりたい」と、この頃特に思う私です

 

 

 

 

 


職人という言葉がカッコ良かった

2017年01月29日 15時45分34秒 | 時代検証

いつ誰から聞いたか忘れたが、技術に優れた日本人が作って、商売上手な中国人がそれを売れば

最強のタッグになるって話し、中国と日本が組むなんて我々が生きている内には実現しないだろうけど

ともあれ、日本人の技術力を認める話しではある、またイザベラバードも華僑の商いに対するしたたかさは

とうてい日本人が及ぶところではないとも書いているから、かなり的を得た言葉だ。

 

日本人の技術力とは近年では重工業や自動車工業などを指す様だが、昔は日本人の器用さ職人技を指す

言葉でもあった、今でも重工業を支えているのはベアリングやネジなどの精密且つ正確な部品である

それが機械に組み込まれてこそ初めて、故障の少ない自動車や船や電気製品が作られるのだ。

そうした技術を持ついわゆる職人がどんどん減っている、人件費の高騰は機械による大量生産へと移転され

更に土地も人件費も高い日本を離れてアジア、アフリカ、南米へと生産拠点が移った、当然、人的にも技術的にも

従来のメイドインジャパンには遠く及ばない製品となっている。

在日中国人が「中国へのお土産にしたいから、メードインチャイナでない日本製の日本メーカーのカメラを

融通してほしい、中国人はメードインチャイナを嫌がるから」というから「お安い御用」と**電気へ行った

そこで初めて、キャ**だとか、**ソニックだとかという日本企業の製品でもメードインチャイナの刻印の

商品が多いことを知った、これじゃ中国人が探せないわけだと思った。

それで通販なんかであるかと思ったが、3万円以下だとだいたい日本製では無いことがわかった、これだって

電話で確認しないと平気でメイドインチャイナの日本メーカー商品が送られてくるのだ。

 

これは余談で、実は昔の板前のかっこよさを書きたかったのだ

私が18歳で板場修行に入ったとき、その店の事情で入社前にいた10人近い先輩職人は全て退社した

そのため私はいきなり、この店のナンバー4になったのだったが、時々そのやめた先輩たちが遊びに来る

どれもこれもスカッと角刈りにした、見るからに「板前」という風情で(当然だが)男っぽくてかっこいい

いきなり全員がやめたわけでは無く、二年くらい前からぽつぽつと抜けていった様で、先輩の中の2人は

新潟市内の花街の料亭で板前をしていたし、もう一人は月岡温泉の割烹旅館の板前なのだ

特に花街の2人は、30歳くらいともう一人は私より2歳年上の20歳だがいずれも中学卒業と同時に

この業界に足を踏み入れたので、経験15年と6年、しかも才ある人だから充分にベテランの域に達していた

おれたち新入りにお手本の様に腕前を見せてくれたが、包丁の切れ味と、一直線にスカッと立ち上がる刺身を

見ただけで胸が躍る気分だった。

当時は高校進学は、田舎とは言え、我々が住む市役所所在地では90%くらい

だったが田舎の農村部では20%以下だった、経済的な理由とか勉強が嫌いとかだったが、高校へ行かないのなら、

調理人とか大工とか美容師とか、手職をつけるのが食いっぱぐれが無くて良いという風潮だった

たしかに、これから以後はバブルに向けて大工さんの賃金はうなぎ登りで日当3万とか4万とか聞いたことがある

板前はそこまでは無かったが、この2人の先輩の様に苦み走ったり、優男だったりの板さんともなると随分

芸者さんや仲居さんにモテたらしい。

オレたちの店には芸者は出入りしないから、そんな心配も無かったし、よしんば来たとしても田舎っぽいイモ見習い

ではモテるわけも無かった、まだコンパニオンなんてのはない時代だった。

たまに船に乗っている先輩も顔を出した、先輩とは言え私とは同年で、ただしこの人も中卒だから3年先輩になる

この人はなぜ来るかと言えば、この店にいる下働きの少女とも先輩後輩の間柄で、その娘と訳ありの様で

寄港すると訪ねて来たのだった。

訳ありと言えば、この店に入社する娘は中学校卒の少女だったり、高校中退の本当に訳ありの娘だったりと

なかなか面白い青春時代の初まりでもあったのだ。

技術を学びながら、様々なこの世界の生き様も学んだ、人の心の表と裏、裏の裏、裏の裏にある真心と嘘

ダイレクトにものを言っても世の中に通じない人たちには、それなりの生き方が備わってくる、水商売の生き様は

エリートサラリーマンの社会とは違った面白さがある、手職で生きていく板前の世界でも最高技術となれば

世界の表舞台に飛び出ることが出来る、それはもはや芸術家である。

 

 

 

 


歳をとるって よくわからない

2017年01月29日 08時46分57秒 | ライフスタイル

昨日、魚屋の先輩がこう言って嘆いていた

「突然、自分がもうすぐ70だと言うことに気づいて愕然としたんだよな、普段は全然そんな風に

考えてもいないし、ニュースなんかで70の**というと他人事で、70歳か・・・って思うだけで

自分がその70だなんて考えてもいないだろ、ほんとに70かよって思うよなあ、ほんと」

私も、これには全く同感で「そうでしょ、そう思うよね」と思わずうなずいてしまった

この先輩、ドラえもんのジャイアンがそのまま70歳になっている様な、頑強で乱暴者の雰囲気

すなわち元気100%そのもの体力も根性も30代にもいまだ負けない様に見える

ただ髪の半分が白くなっているくらいだ

 

20歳までの年月が一番長かった、待っても待っても20歳にならず、早く20歳になりたくて仕方が無かった

20歳を過ぎるとどんどん時間の経過が早くなり出して、そんな中でも35歳から50歳の間が本当に短い

きっと子育てと仕事の忙しい盛りで時間を忘れていたからだと思う

そして今だって50歳くらいの気分で毎日を過ごしているわけだが、遊ぼうと思ったときに現実に戻る

実年齢で考えると遊びの範囲が実に狭まっていることに気づいて愕然となるのは先輩と同じ気持ちだ

まず出てくるのは「年がいも無く・・・だ」という否定の言葉

「年がいも無く派手な色のセーターを着て」とか「年がいも無く、若い娘といちゃいちゃして」とか

「年がいも無く無理するからケガをする」なんて具合だ

年がいも無くとは何を基準に言うんだろう、何歳から年がいも無くなんだろうか、実は年齢なんて時間と同じく

人間が生活のために考え出した法則でしかない、一人一人の成長や老化は、そうとう個人差がある

40歳で歯が全て抜けてしまう人もいれば、80歳でも歯が揃っていて何でも噛める人もいるし

三浦雄一郎さんのように未だアルペンに青春をかけている人、ミックジャガーみたいに70代半ばでも子作り

してしまう男もいる。

外見は確かに老いて見えても、肌のつやつやを維持している人、肉体的に頑丈な人、全く健康な人はたくさんいる

その逆の若い人もいる

寿命も延びたが、健康寿命も延びている、健康食品の宣伝では無いが60歳、70歳でも美しさをキープしている

女性が多くなった、いわんや40代、50代の女性はまさに女盛りと言って良い時代になった

自分の年齢を単に数字の通りに考える必要は無い、年齢など考えずにやりたいことをやって、楽しめば良い

私のまわりにはそんな50代60代70代が大勢いる、私も66歳の今からやり始めようと思うことがいろいろある

若い時にしか出来ないことと同様に、歳をとってからでないと出来ないことがある、だから人生まんざら悪くない

いちいち歳を考えてなんかいられない、過去を振り返るには年齢が必要だ、だが未来を語るのに年齢はいらない

50歳までの人生もあれば、100歳までの人生もある、終着駅が誰にもわからないのに終点を決める必要は無い

40歳でゴルフを始めた、35歳から酒を飲み始めた、ホームページを作り始めたのは40歳、ブログをはじめたのは

60歳、韓国語の勉強をはじめたのは55歳、英会話と中国語に興味を持ったのは60歳、

簡単英語でメールのやりとり、漢語での手紙のやりとりも3年前から始まったばかり

海外旅行も33歳が初めて、2回目は45歳、ようやく毎年海外に行ける様になったのは53歳からだ

30歳でタバコと麻雀をやめた、パチンコとスキーをやめたのは25歳、登山をやめたのは20歳

これからどうする何をする

大学生になるのもいいがこれは夢で終わるだろう、もう必要性を感じなくなった、外国語に再トライも

いいかも、絵を描き始めようか、もっと海外旅行?、それより国内を先にまわってしまおうか

いやいや小説を書き上げなければ、まてまてまだまだ商売を広げなくっちゃ、家もリフォームしたいな

夢は果てしなく多い、まだまだ呆けてはいられない。

 

 

 


また病院通いに

2017年01月27日 08時52分40秒 | yottin日記

この数日は、結構憂鬱な日々で、それなのに良い人が次々訪れてくれてハッピーだったり

良いのか悪いのかわからないこの頃なのであります。

今は初歩的認知症の人とマンツーマンで仕事をしているのだけれど、最初はけっこう人助けで

良いことをやっているつもりで自画自賛していたけど、だんだん現実を知るに従って

ストレスが溜まってきた気がします。

それだけに集中できればいいけど、私の24時間は48時間働かなければ存在価値がありません

だけど、この一件に関わっていると、24時間に8時間しか働けない状況になっていたのです

まずこの場所を離れることができない、一人にしておけないからです、一人にしたために随分と

「あ~あ~やっちゃった」という場面がありました、別にいいんだけど、なんか時間をどんどんロスして

大事なことができなくなっている気がする

それを軽減するために最近は政権委譲する場面を増やしはじめているのですが、長いことワンマンで

きたので、社員も思い通りには動ききれていない

そこが辛抱なんでしょうが、ジレンマ? ストレス? でも私には「忘れる」「体を反らせてかわす」という

得意技があります、これは長年かけてあみ出したストレス回避法、一番いいのは嫌なことは追求しないで

忘れてしまうことです、それから良くなる事だけ考えます

まったく良いことと悪いことがすれ違っている、別次元にいるという形にします

いわば相殺です、悪いことがあっても良いことが現状を支配すればそれは現状は良いと言うことに

ほかなりません、そこに行くまでは仕方ないから吠え続けます

愚痴ったり、独り言を言ったり、自分を虐めてみたり、ブログで書きまくったり

ストレスの原因は考えずに事象だけを書きまくる、でもそんなに長い時間ではありません

だけどストレスも負けてはいません、これでもかと今日というたった一日でさえ、3つも重なって来て

最後のは父が軽い肺炎を発症して夕方入院してしまったのです、2日前の早朝、転んで起き上がれないで

寒い部屋で1時間以上震えていたらしい、私も時間が時間だけにぜんぜん気づかず、トイレに

起きて発見したのだけれどかなり冷たかった、その後38度近くの熱が出て、それが肺炎に転移したのでしょう

又一つ面倒が増えた思ったけど、妹がずっと付き添いをしてくれたので助かりました

仕事が一段落して病院へ行ったけど、廊下中「面会謝絶」の看板だらけ、インフルが流行しているので面会は

極力控えてほしいとのこと、まあ大病でもなく比較的元気そうなので安心です、いろいろ世話をしているうちに

父の悪い癖が出て、言葉尻を捉えてそれが自分を責めるという風にとってしまう、それで急に怒り出して・・・

男にとって最大の敵は親子関係とか兄弟関係といいますが、一代苦労の連続で一家を築いた父は

90を過ぎてもプライド高く、60代の息子を従えようという気持ちはかわりません。

あっという間に平和なムードが壊れてしまい気まずい雰囲気に、妹が目配せします(帰った方がいいよ・・・)

それで「じゃあ又明日」って帰ってきましたけど、これは50年も続いている悪癖です

油断大敵です、たった一言がたいへんな事になるのです、でもこれだってありがたい、今まであったストレスを

忘れさせてくれたのですから、それに父がいないと今のテレビを占領できるというありがたい状況もおきますし

冷たい言い方ですが父の病状の軽重はしっかり把握しているから言えることです

 

人間には忘れるというありがたい性質があります、又明日、また新たな一日がゼロから始まればいいのです

くれぐれも夜中に悩むことだけはやめましょう、意味ありませんからね。

午後は温泉で宴会をしてくることにします、温泉に入って、酒を飲んで・・・嫌なことは何も考えずに無視

それでいいのだ!  考えただけで幸せな気持ちになります。

 


菅平

2017年01月25日 18時15分22秒 | ドライブ

天気予報を見ていたら「長野県の菅平」が氷点下二十三.何度とか言っていた

そんな寒くなるのか知らなかった、確かに夏は涼しい高原で、学生たちの夏合宿で賑わう

オリンピックの金メダリストがトレーニングで走っているのに出会ったりする町

軽井沢の様なおしゃれでレトロな町では無いけれど、広々とした空間は気持ちが良い

四阿山(あずまやま)の稜線にある長野・群馬県境の鳥井峠をはさんで菅平から嬬恋村にかけては

キャベツ(レタスもあるのだろうか)の一大産地で、季節には一面綠に覆われる

キャベツ畑から見る浅間山の広い裾野ラインは素晴らしいの一言につきる

この高原に至るには長野県の須坂から、あるいは上田市から、更に群馬県の長野原、嬬恋村から

のルートもある、須坂から登ってループ橋への間でたまに猿の群れに出会う事がある

一番多かったのは30匹ほどの群れで、国道までエサを求めてやって来たのだった

目線が合ったけど我関せずで食べ続けていた

ここから上は大小の半円カーブの連続で、ぐんぐん高度を上げていく、これが逆になった時の

冬が怖い、何年か前の今頃、ここを下ったけど夕方の5時頃だった、道路は凍っていて、「しまった」

と思ったが、バックは無理下るしか無かった

いくつ目かの大きなカーブが見えてきたが、自損事故の5トントラックが止まっていて、警官が一人

両手を開いて「止まれ止まれ」とやっているが、ブレーキなんか踏める状況では無い、おっかなびっくり

20kmそこそこで下っているのにだ、しかも急な下りでカーブ、それでもひつこく合図するからブレーキを

踏んだ、停まるわけが無い、ロックしたタイヤはそのまま滑る、トラックにぶつかるか警官にぶつかるか

左に切って谷底に落ちるか、選択は3つ

しかし頭というのは瞬時にたくさんのことを考えるものだ、この5秒ほどの間にこれだけ考えたのだから

しかも結論は一か八かギアをパーキングに入れるという判断だった、もう左手が動いていた

瞬時に車は停まったが、警官の2m程手前だった、警官も驚いたみたいだった

ここで停める理由がわからないので、ちょっと絡んでみたくなった、が警官は「行っていいです」だとさ

最初から停めるなよ、スキーで言えば初心者のボーゲンの前に突然飛び出してきた様なものなのだから

停まったからいいものの、停まらなきゃどうなったか、あるいは車が壊れる危険性も大いにあったのだ

ともあれ、菅平の苦い思い出はこれだった、それ以後、群馬から来たときは上田に下りる様になった。

 

菅平には牧場もある、森の中のまっすぐな一本道を登っていくだけの快適な細い道、今は知らないが

道路脇に入場料の関所があるんだが人がいないことが多くて、勝手に料金箱に入れて登っていく

ある日、番人のおばあさんがいたので、料金を渡そうとしたら「牧場へ行くのかい?」と言うので

「はい」と返事をしたら、「行っても何も無いよ」だって、意味がわからん

「何度も来ているから、大丈夫だよ」と言って、ここを離れた、何も無いと言うけど子連れのピクニックには

いいところだよ、ガチョウだかアヒルだかもいて、子供が喜んでいた

もうずっと長いこと行っていない、25年以上かな2人の子供も30代半ばと後半になったしな

牧場は行かないけど、菅平は毎年3回くらいは通過する、通過するだけでも気持ちが良いところだ

プロミュージシャンでルアー作者、そして菅平のホテルオーナーという方からいただいたジャズのCDは

宝物として今も時々聞いている

女房殿と結婚後初めて家族旅行で訪れたのもこの菅平だった、湿原を見に行った記憶があるが

もしそうなら、もう一度行って見たいなあ

 

 

 

 

 

 

 


ダラダラ雪が嫌でタマラナイ

2017年01月25日 08時51分51秒 | 季節と自然/花

今が一番の辛抱しどころ、冬は長い、長い様で短い

今年は極端に雪が少ない、今朝がこの冬最も雪が多く積もった、それでも海岸で15cm

住宅地でも25cm程度だ、この数日は一番寒くなった、ようやく氷点下

昔は12月から降り始めて、3月までびっしりと降った、積雪量も1mは普通で胸まで積もることも

あった。 4月の雪なんて映画もあったが、5月にさえ降ったことがあったのだ

この十数年は、比較にならぬほど少雪だ、今年みたいに1月半ば過ぎまで積雪無しだと

一番降雪が多い2月にどかんと来ても長続きはしない、50cmほど積もって1週間以内に無くなる

この1月下旬から2月中旬が一番悪い季節だ、だらだらと積るでも無く晴れるでも無く、毎日灰色の

空、北海道の様に乾燥した痛い寒さで無く、じめじめとした雨に濡れる冷たさが北陸の冬だ

湿った重い雪、そうした雪が降っても昼になると水分を含んで重くなる

冬は何もかもできなくなる、当たり前のことだけ当たり前にするだけで、それ以上に発展させる元気は

雪国人にはない。

辛抱、忍耐、あきらめ、10年くらい前の今頃、千葉の親戚の葬式で港近くのホテルに泊まった翌朝

朝5時から、快晴の空の下、車も人も活発に動き回っている、我らの8ヶ月の経済活動は関東では

12ヶ月フルに行われている、雪国と太平洋側との経済格差、賃金格差の根源が見えた

雪など30歳を過ぎれば、友達でもロマンチックでもない、ただ邪魔なだけだ

大雪になれば一日の労働は半分以上除雪で終わってしまう、体はくたびれきって新しい活動に支障をきたす

こんな風に田舎の疲弊は確実に進んで行く、全ての経済活動の目は雪の無い地域に向いている

お金をかけて子供を育て、都会の労働力に供出して抜け殻の様な老人ばかりが残る地方

石川啄木の時代から今日まで、その図式は変わらない

優秀な子供であればあるほど田舎には戻らない、その頭脳を利用するだけの経済活動も無ければ

文化、政治の基盤も無い、吉幾三の「おら東京さいぐだ」は全くの作り話では無く、それに近い環境の田舎は

たくさん存在している、たとえ人口5万人~10万人の地方都市でも。

ただ地方独特の伝統文化が守られていることだけがありがたい、都会に汚染されていない唯一の宝

だがこれとて、田舎者の自己満足でしか無いかもしれない

「田舎はいいなあ」と都会に住む人間はたまに遊びに来てそういう、ならばなぜ田舎に住もうとしないんだろう?

オレたちは思う「都会はいいなあ」、じゃあなぜ都会に行かない、

田舎を捨てることができない、親を捨てることができないのが律儀な田舎者なのだ。

だけどこれから頑張って、田舎に住んで都会で遊ぶ、そんな夢を叶えるぞ!


広島男子駅伝 新潟グレィト!

2017年01月24日 17時36分29秒 | マラソン/駅伝

新潟が県最高記録の8位入賞を果たした

1区高校生区間で横山くんが47チーム中12位でタスキ渡しの快走

3区では箱根で区間賞の東洋大エース服部 弾馬がチームを7位まで押上げた

4区も7位をキープ、これは凄いと手に汗握って見ていたが 5区から11位に

このまま順位を下げて、県の新記録10位以内どころか15位以下になるのではと

思った(それでもたいした成績だが)

アンカー勝負、どんどん前とは開いていき、新潟は11位のまま差が開いてゆく

ところが中盤過ぎでは、なんと団子状態のママ、前の8位グループに追いついた

新潟県のアンカーは帝京大の畔上、箱根でもそれなりのペースで4区でチームを4位まで

引き上げた、結局ゴールは驚きの8位入賞、畔上は3人抜きで県の最高11位を大きく更新

それにしても新潟は、吹雪の京都女子駅伝でもアンカーの中村萌乃さんが8人抜きで20位に

前回もアンカーで区間7位の好走だった(1区の小泉直子さんもトップ7秒差の5位だったけど)

わが北信越勢では長野が圧倒的に強くて、男子は今回優勝、優勝回数もトップ

女子も惜しい10位だった

残念ながら富山、福井は下位争い、石川も30位台から抜け出せない、女子は福井が44位

富山は最下位の47位だった

男子も福井は40位、富山は41位だった

今回の駅伝で一番注目してみていたのは、1区で完全に出遅れて最下位の47位だった徳島

46位とは1分20秒近いビハインドの単独最下位、それが終わったときには43位まで上げていた

たいしたことの無い下位争いに見えるけれど、こうした地味な戦いに熱い物を感じたのでありました。

 

 

 

 

 


忘れる 痴呆 認知症 アルツハイマー 

2017年01月24日 09時21分52秒 | 老人介護

韓国女優ソン.イェジン主演の「私の頭の中の消しゴム」と言うのがあった

「夏の香り」で見て以来、すっかりファンになった

この映画は、脳がだんだん壊れていく女性の話で、最初は物忘れから始まり

だんだん症状が進んで行き、例えば携帯の使い方がわからなくなる、そのうちに携帯そのものが

何をする道具かわからなくなる、夫さえも認識できなくなり、介護無しでは日常生活が不可能になっていく

これは映画だが、実際に何人もこれに近い症状の人とつきあったり出会ったりしている

60歳前位だと若年性アルツハイマーと呼ばれる

一緒に遊んでいた友達がこれにかかった、ある日電話がかかってきたので「やあ久しぶり」

と言ったら 「あなた誰ですか?」と怒られた

「yottinだよ」と怪訝に思いながら返したら 「私、知りません!」

「何言ってるんだよ、そっちから電話かけておいて」「私はかけていません」

それで彼女の症状がかなり進行したことを知った

 

今も、一人の男と週4日一緒に仕事をしている、というより保護監視している様なモノだ

短い仕事をたくさんするのは苦手、それで一つの仕事を2時間3時間続けさせるが

初めてする仕事は、一度自分の中で決めてしまうと何度言っても修正がきかない

例えば、表にしなければならないモノを裏と決めると、毎回毎に「表だよ」と言った時だけ

表にするが、次の者に移るともう裏にしている、根比べというが根比べにならない

一つをやっている内に、もう忘れてしまうのだから、結局この仕事はさせてもダメと言うことになる

そうして仕事の幅はどんどん減っていく

うまく行っているな、と思う仕事も数をやっていくうちにだんだん不安になってくるらしい

「こんなにたくさん作っていいのだろうか? 自分は言われていない仕事をやっているんじゃ無いだろうか?」

そういう思いが頭をもたげてくると言う、「大丈夫、それだけやる様に言ったのだから」と言っても

失敗を庇ってくれているのでは無いかという疑念を持つ

家庭の中で妻に「失敗するな」と何度も念を押されているのだそうだ、それがプレッシャーとなって「失敗では?」と

考えるらしい。

かれも小さいながら経営者として頑張ってきた男だ、年齢も同じなのでショックである

 

認知症、アルツハイマー、痴呆の違いは素人にはなかなか理解できない

近所のおばあさんは「息子にご飯を食べさせる」と言って、何度もご飯を持ったまま徘徊して保護され

最後は山中でご飯を持ったまま亡くなっていた

 

老人介護施設へ行ったら、一代で飲食店を成功させて数億円のビルと自宅をもった経営者がいた

私の弟の同級生、そんな彼も認知症なのだという

話していると全く普通なのだが、15分もすると同じ話を繰り返す、何度も何度も繰り返す

15分前に話したことを忘れるのだ

同じ症状の大先輩とも年に2回、グループでゴルフをして飲むが、やはり前出の経営者と同じ症状

1日一緒にいる間に少なくとも20回は同じ言葉を繰り返す

こちらは昨年まで社員数十名の会社の会長だった人だ、立派な経営者ばかりなので驚く

 

自分自身も、ど忘れを頻繁にするようになって困っているが、同年代に聞くとたいてい同じ事を

している、これは「物忘れ」で深刻な脳の病気とは違う様だ

それにしても部屋に入った途端、何をしに来たか忘れるのはよろしくない

元の地点に戻ると思い出すという特徴がある

今使わない物を手に持ったまま歩いて「邪魔だなあ」と思ってから気づいたり、捜し物も多くなった

思いついたアイデアも夕方には忘れてしまうから、その都度メモをとることが大事になってきた

約束を忘れるとたいへんだからスケジュール管理だけはしっかりと行っている。