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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 141 関白秀次の存在

2023年01月31日 17時11分15秒 | 貧乏太閤記
 秀頼の誕生は子をあきらめていた秀吉にとって予想外だった
「早まったか」秀吉は、自分の後継ぎをほぼ秀次に絞って、関白職も譲ったことを後悔している 「もはや子は産まれぬと思ったのが間違いであった」
我が子が産まれれば、家はわが子に継がせたいのは当たり前のことだ
だが長久手での大敗北はしたが、あれ以来、四国攻め、根来攻め、北条攻めでは立派な采配を振った、いまや秀次は秀吉の甥世代のリーダーであることは間違いなかった
しかも秀長の後を継いで大和100万石の主になったのが秀次の弟、15歳になる秀俊である、奥方は秀長の娘で未だ7歳であった。
 秀俊はこれから兄の関白秀次を支えていくだろう、秀頼が成人となる仮に15年後を想像すれば、秀次は42歳、秀俊は30歳と盛りである、15歳の秀頼に大人しく天下を渡すであろうか
その頃には自分は生きているだろうか、今と同じように天下を握っているだろうか?、15年後自分は73になる
 秀吉に寛大な心があったなら、秀次に秀頼の未来を託せばよかったのだ
秀頼に才覚があれば、秀次を従えるであろう、なければ秀次に従えばよいのだ
なまら血筋に頼って力もないのに無理をして家を滅ぼした大名は数多ある
その逆に、プライドを捨てて力ある者に従って生き延びた者もある
今も残る織田家の遺児たちは皆そうだ、信雄などは秀吉の提案を受け入れていれば今日も100万石の大名でいられただろう
逆らって僅か10万石足らずに落ちぶれたが、それでも秀吉のお伽衆として生き延びている、気楽な人生だ。
 だが秀吉は、そうは考えない、自分一代で築いた豊臣幕府は実子に継がせたいと思う、だから秀次の処置に悩むのだった

 そんな秀吉の悩みなど、秀次は知らない
秀次にしてみれば、今の状態で十分満足している、それは人生を秀吉に預けたからだ、秀吉が思っているほど野心は持っていない
秀吉が、武家の頭領としての「秀頼をバックアップせよ」と言えば、それに従うつもりである、今までもそうして生きてきた
 秀次は文化人としての教養を身につけていた、茶道も利休に倣い七弟子の一人として認められた実力を持つ
それを戒めて、「茶道にのめり込むな」と言ったのは秀吉だった
それは彼が利休を殺した後ろめたさが今も残っているからだ、しかも秀次は利休の高弟だったのだから。
 キリシタンを棄教せず、大名と言う地位を捨ててまでデウスに身をささげた高山右近もまた利休の七人の高弟の一人であった。
正室が明智光秀の娘である細川忠興も、利休七高弟の一人だった、秀吉にはそれも気に入らない。
しかも秀次に仕える木村、芝山、瀬田も利休の七高弟である、木村以外は秀次の意志で家臣に組み入れた者である。
キリシタンにせよ、利休の弟子にせよ、秀吉の命に背く者であることに変わりない。
 そんな思いを秀吉は封じて「関白よ、儂にもしものことがあれば天下の采配は、そなたが執るのじゃ、それを意識して毎日を励むのだぞ」、聚楽第に立ち寄った秀吉は、秀次に会うと開口一番、そう言った。
「秀次しかと承りました、なれど殿下は体も心も若いので、まだ10年や20年心配はござりませぬ」
「ふふ~ん、嬉しいことを言うのお、世辞がうまくなりおって、だが儂の命は天にしかわからぬ、その時の為に言ったのだ」
「はは」
「いずれこの国を5つに分ける、そのうちの4を関白に充てるから、1は拾いのものとする、そして拾いが15になったら、関白は儂同様に太閤を継ぎ、拾いを関白にして4を与え天下の仕置きを任せよ、そなたは隠居となって1を食い扶持とせよ、もっともそれ以前に、そなたに大明国100余州を与えて、唐国の関白となってもらうかもしれぬ」
「はは、必ずや拾い様を盛り立てまする」
「うん、頼むぞ、そなたが頼りじゃ」
秀吉は正気でそう思ったのか? 国を5等分すると言ってもそこには既存の大名が領国を経営しているのだ、それをとりあげれば反乱が起きるだろう
かといって名目だけの領地なら実収の年貢米が上がってこないだろう
降ってわいたような秀頼の誕生で、秀吉は混乱している

 関白秀次は26歳、秀吉の姉「とも」と百姓弥助の長男として生まれた百姓治兵衛が最初の名だ、彼が生まれた頃は武田信玄と徳川家康が密約を結んで、西と北から同時に今川領に攻め込んで、今川氏真を妻の実家、小田原北条家へ追いやり、駿河を武田、遠江を徳川が奪って分け合った事件があり
一方秀吉はといえば、前年、美濃斎藤家の稲葉山城を竹中半兵衛、堀尾茂助(吉晴)を使って落城させるという大手柄をたてて、信長から1万石の大名に取り上げられた頃だ
翌年には、信長が流浪の将軍足利義昭を奉じて上洛して、足利幕府を再興させた、それに伴い、秀吉も柴田、明智らと京都奉行職を命じられて、そこで「ふじ」と出会い、秀吉最初の子を授かった(初代秀勝)
今は亡くなっていないが、秀次は秀勝とほぼ同年代なのだ、だからこそ秀吉にとっても姉の子である秀次には特別の思い入れがあったのだ。
 幼児の頃から秀次は秀吉の勢力拡大に利用されて、宮部継潤の人質から養子になり、そのあと三好康長の養子になって三好信吉と名乗り、後に三好家2万石を継ぎ、政略結婚ならぬ政略養子のたらいまわしだが、次第に出世していくことになる。
後に木下、羽柴、豊臣姓を賜る。
その頃有力武将池田恒興(勝入)の娘、通称「若政所」を正室に娶り、恒興との関係ができる
 秀吉は、よくその手を使う、妹の朝日を家康の後妻の正室に送り込んだり、先日は政所ねねの甥を小早川家の養子にしたし、秀長の娘を毛利家の養子の正室にしたりしている、だがこれは秀吉に限らず、戦国大名の全てが行ったことである、いかに味方を増やすか、それが権力者として生きていく道であったし
弱い者は、強い者に従って出世するための手段であった。

 秀吉と秀次、秀頼の関係は同様に毛利本家でも起こったが、こちらは輝元の嫡男誕生と共に養子になっていた秀元自身が、素早く養子縁組を解消して別家をたてて退いたので、問題は全くなかった。
ところが豊臣家はそうはいかず、のちに大きな禍根を残した、秀吉と毛利輝元
秀次と毛利秀元の人間性の違いが見えて興味深い。








空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 140 秀吉と小早川隆景の駆け引き

2023年01月30日 17時37分39秒 | 貧乏太閤記
 数日たって秀吉は真剣に秀頼の将来を考え始めた、何といっても自分の後継者として関白職にまで上げた秀次が一番の問題だ。
秀吉が考えたのは、自分の目が黒いうちに秀次から権力を奪い、秀頼に天下を渡すことである。
秀次はまだ24.5歳だ、秀頼は生まれたばかり、さすがに秀頼に政権運営は無理だ、少なくともあと10年は秀次で行くしかない、
だが自分はどうなる10年後は65.6か、まだいけそうな気はする、だが万一もあるし、もし秀次がかっての織田信雄のように有力大名に利用されるかもしれない、秀吉には甥の秀次がいかにも危うく見える
そこまで考えると、徳川家康、伊達政宗などが目に浮かんできた
今はまだ、前田利家殿、子飼いの宇喜多、加藤清正、福島正則らが居るから安定していると言えよう、だがもう一枚有力な力が必要だ
だが秀次が盤石になれば、今度は秀頼が危うくなる、秀次の力を限定すれば、徳川や伊達が出張る
「家康にはちょっと領地をやりすぎた」、関東250万石のことだ、秀吉の直轄地よりも大きな領土を持っている、
秀吉はあまりにも大盤振る舞いしすぎたのだ
それは秀吉の根本的な弱さであった、自分が織田信長の一兵卒である時に、家康はすでに信長の同盟者として三河30万石の大名だったのだ。
足元にも近づくことが出来ない大物であった、それがいまだに家康に対するコンプレックスになっている。
ほかにも前田利家に90万石、蒲生氏郷にも92万石、毛利は120万石、秀長の遺領大和100万石は甥の秀保に与えたが、秀次の弟だ。伊達、宇喜多、小早川、島津なども50~60万石を与えている
秀次も近江、尾張、伊勢100万石なのに、秀吉自身も畿内に100万石ほどあるだけで、前田、蒲生並みであった、これもみな過ぎたる気配りなのだ。

「毛利を我が物にするか!」ひらめいた。
毛利輝元は40過ぎたが男子が居ないのだ、ここに秀吉の一族を当てはめれば
毛利120万石は完全な親族となる。
(だれぞいたか?) 考えた「そうだ、ねねの甥の木下秀俊が良い」
早速、ねねの兄の木下家定に問い合わせると
「あれは五男坊でございますから、願ってもないありがたいお話です、だが勤まりましょうや、120万石の太守が」
「ははは、気にすることはない、毛利中納言はまだ若い、あと10年ほど頑張ってもらい、その間に秀俊は主君の道を学べばよいであろう。
この時、秀俊は11歳であった。
 秀吉は、安国寺恵瓊を呼んで、秀俊の毛利家の養子の打診を命じた
数日が立って、安国寺恵瓊が大坂に戻ってきて言うには
「毛利家養子縁組の件について、小早川隆景さまが大坂に参って殿下と直接、お話したいとのことであります」と書状を渡した。
「朝鮮から戻り、領国経営の立て直しの途中であり、旅程を加味して1か月の猶予をいただきたい」とのことであった。

 一か月後、小早川隆景が秀吉を訪ねて、大坂城にやって来た
秀吉がまだ信長家臣だった1582年には、備中高松城で対決していた両者であったが、今は天下人秀吉と、それを支える権大納言隆景と変わっていた
秀吉は56歳、隆景は60歳になった。
「この度は、わが本家の主、毛利輝元に太閤殿下のお子である豊臣秀俊さまを養嫡子にとの、勿体なきお言葉をいただき、主、輝元も感涙しております。
しかしながら我が弟、穂井田元清の次男が、すでに輝元の養嫡子として入っておりますので、ご辞退させていただくしかございません。
まことに失礼なことと存じながら、あえて申し上げさせていただきます
毛利一族として、太閤殿下との深き絆をより深くしていただければ、これほどの喜びはありませぬ
そこで、輝元のご養子となされるつもりでありました豊臣秀俊さまを、この私めの養嫡子としていただけますなら、これほどの喜びはありません
伏してお願い申し上げます」
秀吉も驚いた意外な提案を、小早川隆景が持ち込んできた
(毛利本家を儂に乗っ取られることを察して、隆景め苦心の一手を打ってきたというわけか、さすが毛利元就の息子じゃ、よお見透かして居るわ、仕方あるまい、小早川とて毛利を支える一番の名家だ、隆景めに花を持たせるしかあるまい)秀吉は苦笑いした。
中国地方で大内氏に仕えていた一領主であった毛利元就は、一代で中国十か国を切り取って支配した男である
次男、三男を吉川家、小早川家の養子に入れて結果的には乗っ取った、これが吉川元春、小早川隆景である。
信長も同じことをやっている、伊勢の神戸家に織田信孝を養子に入れ、次男の信雄を北畠に入れて、両方とも乗っ取ったのである、戦国大名の常とう手段である、それを隆景は秀吉から未然に防いだのだった。
「大納言、そなたは秀俊を嫡子に迎えると申すが、そなたには秀包(ひでかね)という立派な跡取りがいるではないか、それはどうするつもりじゃ」
「ああ、秀包でございますか、あれはもともと拙者の弟であり養子でございました、しかも殿下からすでにご領地をいただいておりますから、独立させるには何ら困ることはありません、秀俊さまがわが子となれば、すぐにでも廃嫡いたします」
「なるほど、息子かと思ったが弟であったのか、知らなんだわ
儂の人質となっておったが、儂は息子と思って、あらゆる戦に連れて行ったものじゃ、なかなか勇敢であったし手柄も立てた、だから大名としたのである、此度の朝鮮でもたいそうな働きをしたそうじゃな」
「殿下、話は変わりますが、この度、若君が誕生されまことにおめでとうございます」
「うむ、儂もこの齢で思いがけぬ天からの授かりものであった」
「いやいや、殿下、これからでありますぞ、まだまだ3人でも5人でも、お子を作りなさいませ」
「ははは、歳じゃ無理であろう、まもなく儂もそなたと同じ六十になるばかりじゃ」
「まだまだ、お若い、わが父、元就に秀包が生まれたのは71歳でありましたぞ」
「なんと、それは素晴らしい、それを聞いたら、なんだか元気が出てきて、やれそうな気がしてきたぞ」
「それはよろしい、是非、弟君をおつくりくだされ」
このようにして、秀吉の養子だった木下秀俊は、小早川隆景の養子となって小早川家を継ぎ、のちに小早川秀秋と名を改めた。
一方、毛利本家に後継ぎとして養子に入った、穂井田秀元には、秀吉が命じて故、豊臣秀長の娘を正室として娶らせた。
これで毛利家の子には豊臣家の血が混じることになった、秀吉もただでは起きない食わせ物であったのだ。



スキー場の思いで

2023年01月30日 08時55分51秒 | 時代検証
長野県小谷村の栂池高原の最上部から更に上った、2000m級のバックカントリーで雪崩が発生して、スキーヤー(ボーダー?)が巻き込まれた
驚いたのは、巻き込まれた人たちが全て多国籍の白人だったということ
もともと小谷村、白馬村はオーストラリア人を中心にスキー好きの外国人が多くやってくる場所で、ロッジなどのオーナーになった人も多い
ジャンプをはじめ、長野オリンピックの会場にもなって世界に存在をしれるようになった。
私も10代から40代まで、栂池高原の知人のところで遊んだり、ホテルにカジキを定期的に届けに行って、時には調理を手伝ったりして、夜にはオーナーの息子と飲んで一晩泊めてもらったりしたものだ。
あの頃の白馬駅付近の賑わいはかなりのもので、今は面影もない
もちろんスキー場の宿泊施設も軒並み満員で、夜もこうこうと灯りがともっていたものだ
この沿線は関東圏より、関西圏のお客さんが多かったように思う、まだマイカー所有者が少ない時期だった、中央線や北陸線で来ると言っていた
ホテルのスナックで神戸の女子大生と飲んだ時、初めて生の関西弁に触れて感動した。
知人のロッジオーナーは時々、栂池高原からバックカントリーをスノーモビルで岩岳方面へ行くことがあり、私も誘われたことがあったが、メカ音痴の私には無理だった。
高校時代からスキーと言えば、栂池高原や、ローカルな池の田だとか行っていたが、やはり有名なのは八方尾根だった
あの頃は白馬は「信濃四谷」と言ったが、なぜ「白馬」になったかしらない。
長いスキーを電車(ジーゼル)に持ち込むから車内は人よりスキーの方が存在感があった、大糸線のジーゼルカーで白馬大池まで行って、そこからバスに乗り換えて親の原まで上がる。帰りはつづら折りの道路を駅まで滑って降りてきたこともある。
馬の背コースが一番の難コースで、私はそこを滑る技術は無かったから、鐘の鳴る丘で、おこちゃま滑りをしていた。
社会人になってからは、新潟市に移ったので、上越沿線にかわった
苗場、湯沢高原、六日町、小出、石打丸山などに出かけた
スキーは仕事が忙しくなるにつれてしなくなり、40代でやめた。

今朝の雪の様子


空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 139 豊臣秀頼誕生

2023年01月29日 18時07分39秒 | 貧乏太閤記
 ここで秀吉の一族、親族を整理してみよう
秀吉の兄弟は、姉、弟、妹の四人兄弟で百姓の家の生まれだ
姉「とも」、百姓弥助と結婚したが、夫は秀吉の出世で武士に取り上げられ、三好吉房と名乗った、のちに息子秀次の家老となった
息子、秀次は秀吉に利用されて養子に出されたが武家となり、秀吉の甥の中では年長者でもあり、最期は秀吉の後継者と目されて関白に上り詰めた
次男、小吉は秀吉の養子となり小吉秀勝と呼ばれたが、去年朝鮮の巨濟島で病死した。三男は秀保と名乗り、秀吉の家臣となったが、秀吉の弟、秀長が死ぬと秀長の幼い娘と婚約して秀長の遺領大和100万石を継ぐ

秀吉の弟、小一郎も秀吉の出世で武士となり、生涯秀吉を支えた
人望があり、諸大名と秀吉の取次として、また多くの戦場にも出て秀吉の代理を十分にこなした。 大和大納言の官位も得たが1591年に病死

秀吉の妹 朝日は秀吉の政略に使われて、徳川家康の後妻として送られたが、天正18年(1590)に駿府で亡くなった。

秀吉の正妻ねね、は杉原家に生まれ、浅野家の養女となった、そして木下藤吉郎時代の秀吉と恋愛結婚した、しかし生涯、子は産まれなかった
その代わり加藤清正、福島正則、宇喜多秀家、黒田長政、小早川秀秋などを実子同様に育てた。

ねねの兄、木下家定には複数の男子があり、五男秀俊は小早川隆景の養子となり、小早川秀秋となる
三男延俊は、ねねのお気に入りであった
 ねねの妹、ややは浅野長政に嫁いだ 秀吉自体、実の男兄弟は秀長だけで
子も(成人したのは)50過ぎてできた秀頼だけである
弟、秀長にも男子が居ないので甥の秀保が養子になった。
後継ぎに苦労した秀吉である。

 3月より小西行長は明使、沈と会って講和の会談を開催した
そして日本と明は、互いの主張を持ったまま停戦状態に入った
だが頭越しに結ばれた朝鮮はこれを不服として各地で、日本軍と戦闘を行っただが6月に晋州城を日本軍が占領すると、南海岸沿いの陸地はほとんど日本が制圧した
そして講和会談によって明軍は遼東以北へ、日本軍は尚州以南へ引き揚げて
平壌、漢城を朝鮮王に返す準備ができた
だが疑心暗鬼の朝鮮王宣祖は、いまだに義州から平壌に移ったばかりである

  一方で朝鮮の首都、漢城でさえ日本軍は飢えと寒さと風土病に苦しめられていたのだが、南下したおかげで食糧事情も回復し、季節もあるが寒さも緩和された
秀吉は、朝鮮の使者が名護屋で秀吉にひざまずいたことで、大明国皇帝の万歴帝が、秀吉の威を恐れて降伏したと理解して大満足であった
(実際は明の万暦帝(まんれきてい)の知らぬところで、小西と沈と遼東副将がでっち上げた使者である。)
 秀吉は明使に「ゆっくりと京、大坂を見物していくがよい」と自ら黄金の茶室で茶をふるまったり、自慢できる場所を案内した
他にも諸大名にかわるがわる接待させたのであった。
これで明国も朝鮮も意のままになったと考えたのである。
得た朝鮮領を九州、四国の大名に与えて、宇喜多秀家を朝鮮総督として釜山に置くつもりである、そうすれば空いた九州、四国を他の大名に加増できると考えたのだ。
「いずれ、明国内の要所に家臣を配置して納税させ、天竺、ルソンなどの制圧の足掛かりにする、そのときには朝鮮、明国の兵を先鋒に攻め込む」というシナリオを描いていたのかもしれない。
いずれにしろ、秀吉の次はスペインとの戦(相手の出方では交易)、ポルトガルとの交易であった。
そんな矢先
 文禄2年(1593)8月、秀吉に待望の息子が生まれた、後の豊臣秀頼、幼名を「拾い」とした、実子としては「ふじ」が産んだ秀勝、淀が産んだ鶴松(二人共、幼くして亡くなった)、それに次ぐ三人目の息子であった。
秀吉の対外戦略は一気に消し飛んだ、急ぎ大坂に走って、伏見城から淀殿と拾いを大坂城に入れた。
「渡海軍は5万ほど残して各所の警備に充て、あとは帰国させよ」と三成に命じた、また人質の二人の王子を漢城に帰すよう命じた。
息子が生まれた秀吉にとって、もう戦のことを考える余裕は無くなっていた
それほどに大喜びしたのであった
伊達、宇喜多、上杉、織田秀信勢、長谷川など多くの大名衆に加えて、石田、大谷、増田ら奉行衆も帰国、その後からも毛利輝元、小早川隆景ら中国勢も帰国した
一方で加藤、小西、島津などの九州勢はそのまま朝鮮に残った
これは秀吉が九州大名に、朝鮮を分け与えるつもりだったのではないだろうか
だが、それさえ確かな決定ではなく、揺れ動く秀吉の心は朝令暮改を繰り返すことになり、三成や小西をはじめ、渡海軍の九州大名を右往左往させることになる。

 文禄2年秀頼(まだ「拾い」だが便宜上、以後秀頼とする)が生まれたことで様々なところで影響が出ることになった。
それは秀吉の甥たちがもっとも翻弄されることになる。

「淀よ、よおやった、よおやった、儂はうれしゅうてたまらぬ」
「はい、わたしも嬉しゅうございます」
「虎之助(加藤清正)が送ってくれた虎胆のおかげじゃとゆうて、朝鮮では家来どもが競って虎を捕らえて肉やら胆やら送ってくるので、いささか閉口しておる、家康や利家にも分け与えたが、余って仕方ないからもういらぬと朝鮮に伝えたのじゃよ」
「先日、下女が申すには、前田大納言様も側室に、お子が出来たともうしておりましたが」
「おおそうじゃ、前田殿も儂と似たような歳であるが、そうじゃそうじゃ、できたのじゃ、ははは、お互い達者であるかのう、いやいや虎のおかげか、ははは」
「殿下、殿下はこの先、どうお考えですか? 拾いはの立場はどうなるのですか?」
「うん? もう、先のことを思っておるのか」
「思いますとも、こう言ったら殿下は怒るかもしれませぬが、殿下と関白殿では齢が30も違いましょう、殿下が長生きされたとしても、関白殿はますます力を持っていくでしょう、それにお子たちも、拾いより年長の者がおります
親として、殿下の子である拾いより、自分の子の方が可愛いに決まっています、それを思うと拾いの将来が心配でなりません。
しかも関白殿の性は残忍であるとの噂です、拾いに万一が無いかと心配しています」
「ふうむ、そうか無理もない、無理もない、わしが何とかしよう、拾いの将来が盤石であるよう取り計らうから安心するがよい」





木曜以来の晴天

2023年01月29日 09時42分20秒 | 季節と自然/花
木曜は当地以外は大雪だったが、富山県から新潟県にかけた約100kmの海岸部だけが昼過ぎまで晴天だったのだ。
今日は朝から完璧な快晴で雪も融けるだろう。
昨夜までの降雪量は20~30cmくらいだったが、除雪の雪のやり場が次第に無くなって来た、でも今日の晴で解決しそうだ、でもまた火曜日頃から降るとか言っている。
テレビを見ていたら貴景勝の優勝が3年ぶりだそうだ、それは知らなかった
それにベテランだと思っていたが、30代がうじゃうじゃいる中ではまだ若い26歳だったんだ。
もうそろそろ引退かな?なんて思っていたのに・・・それくらい出世が早かったんだな
幕下突き出しの19歳落合も幕下全勝優勝で、昭和以降初の一場所で十両昇進を決めた
こうなると来場所の焦点は、貴景勝の横綱昇進問題、朝乃山の幕内復活&優勝争い、落合の十両での活躍となるか
それと若隆景、若元春の大関昇進レース、豊昇龍の復活。 来場所は今場所より見どころが多い、照の富士は足の具合を考えれば、新横綱誕生とともに引退になる公算大だ、それまでも休場は長引くだろう
協会は何が何でも看板力士の横綱出場が欲しいはず、13勝でも優勝、準優勝なら昇進させるだろう。
外国人旅行者が増えてきた、相撲を見に来た外国人に横綱の土俵入りを見せたら喜ぶだろう、それも二人いればなおのこと。
特例で照ノ富士の土俵入りだけでもやれないものか?

今朝の様子
北方向

東方向


空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 138 妓生(キーセン)ノンゲの話

2023年01月28日 17時21分11秒 | 貧乏太閤記
 どの大名の家来かも名前も知らぬが侍大将が居た、仮に、安野五郎三郎としよう。
安野は此度の晋州攻めでも手柄を立てた剛の者であったが、酒癖、女癖の悪い武士であったから、晋州の町に入って以来、町屋や小料理屋で狼藉を繰り返していた。
評判の悪いことは上司にも知れたが、これまでの長い間の転戦で皆、心がすさんでいたし飢えにも苦しんでいたから上司も多めに見ていたのだった。
ある小料理屋に酔った安野が、家来数人と入り、さらに飲んで「芸者はおらんのか、芸者を呼べ」と暴れんばかりであったから、驚いた店主はすぐに妓生(キーセン)を呼んだ
「なんだ、こんな女しかおらんのか、酒がまずくなる」と盃をたたき割った
「朝鮮にはファンジニとか言う絶世の美女がおると言うではないか、それを呼べ!」と怒鳴った。
通訳も安野の剣幕に恐れながら店主に伝えると、店主は困った顔をしたが
「ファンジニとは、大将様よくご存じでございますねぇ、しかし彼女は松都(平壌)の妓生で、しかも100年も前の人間でございまして・・・へ~い」
と薄ら笑いをした。
その顔が面白くなかったのか、店主に詰め寄って胸ぐらを捕まえて、後ろに押し倒した
「いないなら、つべこべ言わず晋州一番の妓生を今すぐ呼べ!、早くしなければ、この店に火をかけるぞ」
店主は驚いて「わかりました、いますぐ呼びますから短気を起こさないでください」、置屋へすっ飛んでいった
「大将様、妓生は準備がありますから、来るまで私で我慢しておくれやす」と
最初の妓生が機嫌を取ると
「仕方あるまい、来るまでお前で良いわ、歌でも唄って舞ってみよ」
見るもの、聞く歌、珍しいものばかりで安野も気分が治まったのか、ようやく良い酒になって来た
30分ほど過ぎて新しい妓生がやって来た
「おお、これだこれだ、こういう朝鮮の美女を待っていたのだ、店主おまえも一杯飲むがよい」
女はこの町一番と言うだけに客あしらいもうまく、安野も部下もすっかりご機嫌になった、「おい女、名前は何と申す」
「私の名前は、論介(ノンゲ)と申します、どうかよろしく」
歳は20歳を少し出たくらいであろうか、朝鮮一とは言わないが、かなりの美人でしかも雰囲気も良く、遊ばせ上手である
安野はすっかり気に入ってしまい、「親父、この女、連れて行くぞ」と帰りがけに言うと、店主は驚いて
「申し訳ありません、ノンゲはこう見えて亭主持ちなので、ご勘弁ください」と言った、そんな言葉で「はい、わかりました」などと言う、安野ではない
店主に掴みかかって怪我をさせる勢いである、周りにいた朝鮮の男たちも色めきたった。
一触即発である、中の一人がノンゲの亭主を呼びに行った。
やって来た亭主もなかなかの偉丈夫で「大将様、倭国のことは知りませんが、妓生と言っても人間でございますよ、まして亭主もいるのだから、どうか許してくださいよ」とはっきり言った。
すると安野はますます、いきり立って「無礼な!」と言うと、いきなり刀を抜いて亭主に切りつけた、
刀は太ももを切り裂いた、血が噴き出し、床に倒れる。 ノンゲは驚いて亭主のもとに走り寄って、チマチョゴリを引き裂くと腿をきつく縛って血止めしようとした。
すっかり興ざめした安野は「帰るぞ」と部下に声をかけて出て行った
ノンゲの亭主はその夜、出血のため家で息を引き取った
日本軍の誰にも抗議できず、泣き寝入りするしかなかった。

 半月後、この町で一番の楼閣に、各大名の侍大将クラスの士官が集まって饗宴を行った、妓生も20人ほど呼ばれて、大宴会となった
ここにノンゲと安野が再会した。
「おお、おまえはノンゲと申したな、この前は亭主に悪いことをしてしまった、傷はどうだ? 治ったか? これは些少だが薬代にしてくれ」
などと、さすがに士官クラスが居並ぶ中では悪酔いもできず、過日の安野ではなかった。 しかしノンゲの目は鋭く光り憎悪を一瞬映したが、すぐに商売顔に戻り
「大丈夫でございます、かすり傷でしたから、もう仕事にも行っておりますよ
これはせっかくですからいただいておきますから、もう済んだことは忘れて大いに飲んでくださいな」
安野は、ノンゲの亭主が死んだことは知らない、かすり傷と聞いて安心した
また、ノンゲが優しく接してくれるので、良い気分になり、ますます気に入った。
「大将様、どんどん飲んでくださいましな」
「おいおい、大将はやめてくれ、安野と呼べばよい」
「あら、そうですか安野様、私にもいただけますか」
「おお、よいとも、忘れておったわすまぬ」
「私も、けっこういける口ですの、飲み比べをしましょうか」
「ははは、酒なら儂は負けることはないぞ」
「そうですか、それでは」
二人の飲み比べが始まって、両隣のさむらいたちも面白がってはやしたてる
ノンゲは商売柄、同じ量を飲むと見せかけて、実は安野の半分も飲んでいない
「ああ、さすがは安野様です、私はもう飲めません負けました」というと、安野の膝に崩れた
「おお、儂の勝じゃ、これ酔ったのか」
安野は膝にノンゲの体温を感じて悪い気がしない
「酔ってしまいましたよ、少し肩にもたれて良いですか」
「よいとも」ノンゲがもたれかかると、頬にひんやりとしたノンゲの頬が触れて、さすがの安野もビクッとした、若い妓生のほのかな甘い香りがして、中年男の安野は目がくらみそうになった。
彼もまた日本に妻と子を置いて、はるか遠い朝鮮の地で、望みもしない戦に駆り出されている一人の犠牲者であった。
急に安野の心臓が高鳴って来た、その様子に気が付いたノンゲは
「安野様、酔ったのではありませぬか、外で二人だけで風にあたりませんか」
と誘うと、勘違いしたのか安野は喜び
「そうじゃのう、風に当たるのもよいな」と言って立ち上がった
二人は肩を組んで立ち上がると、ノンゲは、隣の妓生に頼んで安野の、もう一方の肩を支えてもらって、楼閣の中庭に出た
風が涼しく頬を伝い、良い気持ちである
(ここまで会話を書いたが、もちろん日本人と朝鮮人の会話であるから、互いに言葉は通じない、酔った勢いで身振り手振りと口調と表情でも結構、通じるものである、読者にはそう解釈していただきたい)
ノンゲは、もう一人の妓生に言った、もちろん間に居る安野にはどんな会話かはわからない、それに急激に飲まされた安野の足はふらついている
「ファンゲ(華介=もう一人の妓生の名前)私の夫はこの男に殺されました、今仇を討つ絶好の機会です、この男を突き落として私も死にますが、あなたは『酔った二人が過って落ちたと、皆に伝えてくださいな」
「そんな」
「いいから、夫が居ないこの世に未練はありません、子もいないし、仇を討てれば喜んであの世に行って、夫に会えますから」
「・・・」
この楼閣は南江に切れ込む断崖の上に建つ、絶景の妓楼として有名である
庭は、まさにその南江を望む絶景の地にあるのだった
「安野様、こちらに来て私を抱きしめてください」
ノンゲが両手を広げて、ふらふらしている安野を招いている
「そなた、やはり儂を好いていたのだな」
安野は喜んで、ノンゲに近づいていった。 ノンゲが崖を背にしているとも知らずに
安野が抱きついた瞬間、ノンゲの体は後ろに倒れて、二人は一緒に南江へと落ちて行った
「きゃー!!!」
ファンゲの叫び声に、宴会場にいた者たちが庭に出てきた
「二人が、二人が酔って崖から落ちました!」

この話は、国が戦場となって苦難にあえぐ朝鮮人民に、寡婦の仇討として広く伝えられることになる。



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 137 勝っているのか負けているのか

2023年01月27日 17時27分01秒 | 貧乏太閤記
 秀吉は何をしていたかと言うと戻って来た小西行長を叱責していたのだ
「行長よ、そなたは清正の非の数々を治部少に伝えたそうじゃな、それは良い
清正には帰国を命じ、謹慎処分を言い渡した。
だが、そなたも清正とは逆の罪があることがわかった」
「それは・・・?」
「口を挟まず話を聞け! 平壌を捨てて逃げ出したとというではないか、これは敵前逃亡である、すでに島津家臣と豊後の大友義統を同じ罪で改易した
そなたも改易! と言いたいところだが、渡海以来第一線で苦労を重ねていることを考慮して今回は見逃そう、明日朝鮮に戻って励むがよい、借りを返せよ」
大友は九州の名門、大友宗麟の嫡子でありながら敵勢に怯えて、平壌の前線で苦戦していた小西勢を見捨てて後方に逃げたのだった。
これには小西も立腹を越えて、首を刎ねたいほどの衝動にかられたのだった。だから最前線で二年も戦い、兵員の半数近くまで犠牲になった小西からみれば、「大友などと一緒にされてはたまりません」と言いたいところであった

 小西は、しばし日本で休養かと期待したのに休む間もなく朝鮮に返された、しかし明の使節は6月末まで日本に滞在して秀吉から厚くもてなしを受けた。
その間、6月下旬には名護屋に帰っていた石田、大谷、増田の三奉行が秀吉から新たな命令を受けて朝鮮に再び渡った。
「漢城を失うのじゃ、代りに、もくそ城(晋州城)を何が何でも攻め落とせ
全羅道、慶尚道、江原道、忠清道は全て押さえよ」という命令であった。
昨年10月に晋州城攻撃は失敗したが、善戦した敵の城将の金時政の役職を牧使と朝鮮人が言うのを聞いて、発音をまねて城名として日本軍は「もくそ城」と呼ぶようになったと言う。
秀吉は、その「もくそ城」を再度せめて占領せよと命じたのだ。
これを落せば李舜臣の水軍基地を叩くことも可能となり、叩かずとも陸に近づけぬように城を築くことが出来る。
すでに釜山を中心にいくつもの城を築いている、これは秀吉の心の中にも「万が一」の気持ちが出てきたからである、諸将からの連絡もどことなく厭戦気分を感じるのだった。
黒田官兵衛などは朝鮮から戻ってきて、秀吉にこの度の晋州城攻めに抗議をしてきたのである、これが他の武将であれば秀吉は直ちに改易か切腹を申し付けたであろう。
さすがに毛利攻からの軍師であり、今の太閤秀吉があるのも半分は官兵衛の功績と言ってもよいのだ、それでも秀吉は官兵衛を𠮟りつけた、もう昔の秀吉ではない、天下人の誇りがある、過去に縛られていれば示しがつかぬ
官兵衛に即刻朝鮮に戻るよう厳しく言った、官兵衛は不満を持ったまま戻っていった。

 秀吉の心境は複雑である、時には気弱になり、時には世界征服をも企てる大胆さを持ってみたりする。 
別の言い方をすれば、精神不安定、情緒不安定ともいえよう
秀吉は天下平定したけれど、老域に達していた。 なにが寂しいと言えば、突然に自分が客観的に見える瞬間である
気持ちは少しも衰えていない、命がけの金ケ崎の退き陣、明智や柴田を攻め滅ぼした時の勢いそのままの記憶がよみがえる、だが現実の戦は諸将に戦わせて、自分は後方でゆうゆうと采配を振る戦ばかりになった。
四国、九州、小田原、すべて鉄砲玉が飛んでくる現場にはいなかった、戦後処理だけで、淀殿や京極殿を連れての物見遊山のような戦ばかりだ。
「老いたのか」それを感じるのは、駆け抜けてきた人生の中で出会った敵味方の多くが、この世にはもういないというのを思った時だ
指折り数えてみる「浅井、浅倉、武田、明智、柴田、北条、上杉謙信、織田信長、蜂須賀小六、竹中半兵衛、斎藤道三、市姫、母、秀長、秀勝、於次秀勝、小吉秀勝・・・・・」数えればきりがない
あの頃「にっくき敵」と思った人々が妙に懐かしい、一対一で向き合い、互いの全力を出し切って戦った、今の大掛かりで退屈な戦ではない。
浅井長政、柴田勝家、明智光秀、今は褒めたたえたい、それらの家臣にも自分の家臣にしたいほどの猛者や勇士がいた
そんな敵だった者たちはもういない、だが敵対したが今は共に朝鮮に向き合っている者も少しはいる
徳川家康、島津兄弟、長曾我部、毛利一族、足利義昭、六角などがそうだ
そう思うと、急に彼らの存在が泣きたいくらい愛おしくなってきた。

 秀吉から命じられた三成が朝鮮在陣の諸将に伝えて、6月20日より晋州城への攻撃が始まった、今度は最初から義軍に備えて輜重隊は厳重に守られた
その為、晋州城は一週間の籠城戦の末、全滅して占領された
晋州城の城将の首は名護屋に送られて、晒された
晋州城落城の日、明の使節は秀吉からの講和条件を持って帰った
その内容は次のようだったと言われている
この度、大明国皇帝が日本国に従うことを決めたのは、まことに殊勝である
以前より申した通り、儂は大明国を攻めることは中止する
また大明国皇帝は今まで通りに国を治めることを許す。
今後、朝鮮の宗主国は日本となるので、大明国は朝鮮への全ての権益を放棄して、日本の指示に従うべし。

1,明の皇女を日本の帝の側室に差し出すこと、朝鮮の皇子と大臣を各一名、人質として差し出すこと
2,明と日本の勘合貿易を足利時代同様に復活させる
3,有事には朝鮮は日本の先陣として出陣する
4,日本は朝鮮全土を収めたが、大明国に北部の四道を返還するから、明はその四道を朝鮮に与える、などなど

 秀吉は明国の使者が、まさか沈と小西が和平のために送った偽使者とは思いもよらず、明を従えたつもりで考えた条件提示であった。
使者はこの文書を持って、釜山に渡り、そこで待っていた沈に渡した、これで偽使者の役目は終わった、彼らは遼東軍の副将の家臣であった。
ここから先は、小西と沈の仕事である
まさかこのような秀吉からの正式文書を明の皇帝に出すわけにはいかない、怒った明皇帝によってたちまち戦争が再開されるからだ
そこで、今度は明の皇帝には倭の国王秀吉が、明の皇帝に臣従すると全く逆のパターンを伝えることにした。
 晋州城を落して日本軍が入城した、苦労して手に入れただけに諸将の喜びはひとしおで、その家来たちともなればなおさらであった。
久しぶりに腹いっぱいに食べ、飲んだ






1月23日から1月26日のこと

2023年01月27日 08時00分02秒 | 散歩道
大雪予報には驚かされたが、わが町では昨日はほとんど晴れ間が見えて、雪はほとんど降らなかった。
だが一昨日降った数cmの雪が氷点下4度で凍って、道路はガタガタでどの車も、ゆっくり走っていた、ただ国道だけは完璧な除雪で一ミリの雪もない。
我が家の水道は大丈夫だったが、洗面所の給湯器だけが凍って、湯がでなかったが、昨日の夕方には出てきた。
昨日は天気のよさに浮かれて、国道を40kmほど走ったが、新潟県の豪雪地帯はずっと降りっぱなしで、積雪も1m~2.5mだそうだ。
長野県の菅平は昨日は日本一の寒さでマイナス17度ほどになったそうだが、インタビューの小学生は「慣れてますから」なんてさらっと言ってた。
私は10年くらい前に、ここでマイナス6度の凍った坂道でビビった思い出がある、それさえ問題にならない寒さ
もっとも北海道ではマイナス25度を超えることもあるようだ。
以下の写真は、23日に散歩した河川敷の風景です。
のどかで1月下旬と言うより、春みたいな景色でした。

2月まじかにジョギングできるとは





春の雪解けのような川の流れ



まるで3月



この鳥は何でしょうか? 群れていましたが






空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 136 南蛮人、唐人

2023年01月26日 17時25分52秒 | 貧乏太閤記
 秀吉の禁教令や伴天連追放令が霞んでいる
1543年薩摩の対岸種子島(たねがしま)に難破漂着したポルトガル船から、日本との関係が出来て、イエズス会の布教が九州から中国地方に広まった
その後、交易がはじまり日本貿易を独占する。
ただ堺の商人は、ルソンまで乗り出してスペインと交易をおこなっていた。
唐入りの前に秀吉は伴天連追放令と、キリスト教の禁止を明言した
この時、日本にはキリシタン大名がけっこういたのだ、高山右近、小西行長、大友宗麟、黒田官兵衛、京極高次、蒲生氏郷、毛利秀包、細川忠興の奥(明智光秀の娘,珠)大村、有馬、織田秀信、伊達政宗も家臣団をローマ法王に送り込んでいる、この他にもまだまだいる
なのに、秀吉の禁教令をまともに受けて大名をやめてキリシタンに固執したのは高山右近だけである
後の大名は秀吉に罰された様子が無い、小西や前田などは改易された高山右近を匿っているし、領地の天草にはキリシタンを支援して教会を建てたり、後には徳川幕府と一戦交えた天草四郎などが排出される)
他のキリシタン大名も古来の仏教寺院を破壊するなど、のめりこみが尋常ではない。 しかし・・・
 天下を取ってしまった秀吉にとって、もはや何を言っても、何を覆しても通るという意識があって、朝令暮改も気にならなくなったのではないか
それを「秀吉の気まぐれ」としてとらえた大名が適当に対処していたのだと思われる、高山のように真正面から取り上げずともやって行かれたのだろう
小西の肥後天草でのキリシタンの拡大は、秀吉の政策の正反対をいっているが
秀吉は重用している。

 3月、小西は大明国の講和使、沈らと講和条約の会談を秀吉に伝えて、講和条件を求めた
秀吉は朝鮮のことについて明と日本のすべきことで次の条件を示したという
(これは、あくまでも朝鮮の戦後処理だけで、明と日本の二国間条約は後日決める)
1.明の使節を名護屋によこすこと(これは、明が降伏した証)
2.明は朝鮮から撤退する
3.日本は漢城から撤退
4.捕虜の朝鮮王子を返す
5.朝鮮は新たに王子1名を人質によこし、大臣も人質として1名、来日させる
など
 沈は、この条約の内。1項を除いて遼東の明軍総帥、李如松に伝えると、李も納得して北京に伝えた。
「これで明皇帝の方はとりあえず片付いたが、明の使節はどうするのだ」
小西は沈に聞いた、するとこともなげに
「それは我々が準備して倭国に送りこむ」
「それでは明の皇帝の承認がないではないか」
「そんなものは今は必要ありませんよ小西殿、明の皇帝と太閤殿下の両方が満足すればそれでいいではないですか」
「それはそうだが」
「前にも言いましたが、明の皇帝が倭国に降参する必要はまったくありません、だがそれではまた戦争です、もう倭国の兵は戦えないでしょう、明だって朝鮮の為に自国の兵を死なせるのは嬉しくありませんよ。
明の皇帝は日本軍が撤退して、皇子を返してよこせば朝鮮から感謝される、倭の王は、明が降伏したと満足する、それで丸く収まる
これが本当か嘘かなど、互いに調べることはないでしょう、倭の王にしても朝鮮の使節が行くことで降伏したと思い、一年や二年はあらためて確認をすることはありますまい」
「ふむ、それではわが方からも明へ使者を出すとしよう、儂の重臣を送るからこちらも秘密が漏れる心配はない」
「ははは、小西殿と儂は馬が合いそうですな、これからも明と倭国の平和のために協力を頼みます」
「同じ国に生まれていたら良き友であったかもしれぬ、残念じゃ」
「この先、そうなるやもしれませぬぞ、よろしく頼みます」
「うむ、こちらこそ頼み申す」
出自も定かでない沈が、なぜ明国の代表的な外交官になれたのかは誰もわからない
日本で言えば、斎藤道三、伊勢新九郎(北条早雲)、滝川一益の類ではなかったのだろうか?

 4月半ば、日本軍は全て漢城を去り、尚州へと向かった
朝鮮軍に途中襲われぬよう、あるいは明軍の追撃が無いように二人の王子を人質として連行している。
そして、それを見届けると小西行長は「これより明の使節を伴って名護屋に向かいます」という手紙を秀吉に送った。
たちまち名護屋の大名や町人、兵たちに噂が広がり
「明から降伏の使者がやってくるそうじゃ、どの面下げてくるものやら、石でも投げてやればよい」などと不穏な雰囲気になって来た
その話を聞くと秀吉は近習に命じた
「もし明の使節に乱暴狼藉を働く者があれば、その者はもちろん、その主も極刑に処すと大名、商人、寺社、名主、町役人に触れを出せ」
秀吉が此度の明使に和平の期待をかけているかがわかる、どこで秀吉の心が変わり始めたのか、一気に唐入りできると思ったが目論見が狂ったのが原因なのか、朝鮮の風土、民心、気候、何より世界一安全な水を飲んでいる日本人にとって、朝鮮の水はからだに悪い、生水を飲むとたちまち下痢をした
これは昔の朝鮮に限らず、現代も日本人には外国の水は合わない
冬の寒さも日本の比ではない、北海道ならそれはわかるが、当時、日本人はまだ北海道に住んでいない
このように、屈強な日本の戦士が敵には負けないのに、朝鮮の自然に負けてしまった、これは秀吉にとって予想外だったと言えよう。

 5月の半ばに小西は2名の使節を連れて名護屋に到着した、秀吉はしばし仕事が溜まっており会えぬが「丁重にもてなすように」と奉行に伝えた
当分は徳川家康と前田利家が使者の面倒を見て、宿舎としてそれぞれの屋敷の一室を提供した。



晴れましたよ

2023年01月26日 10時24分10秒 | 散歩道
朝から良い天気

でも北越四県(福井、石川、富山、新潟)の予報は100パーセント雪、安心できませんね
午後から雪かな?
一昨日から今朝までの予報は60cmだったけど3cmしか降らなかった
はて?今日の予報は当たり?外れ?