神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

私を造った77冊(3)

2017年02月28日 08時32分27秒 | 読書

「11円で胃カイヨウは治る」 伊藤修 1981年初版

30代の私は酒もあまり飲まないのにやたら胃が病めた、多分問題があった子育てと、仕事に大変化がおこった

時期でストレスがひどかったのだと思う。

胃カイヨウかどうかは医者嫌いだったからわからないが、とにかくチリチリと胸焼けがおこった

そんな時、この本に出会った、1円と10円すなわちアルミと銅という組み合わせで体内に微量の電気を流す

と言うのが基本で、それを症状に併せて貼る場所を替えていくのだが、「信じる者は救われる」で結構効果が

あった。

これに酵素と藻の一種である「スピルリナ」の飲用を促すというものだった。

 

「会津落城」 星亮一 2003年 

会津戦争の研究では第一人者の星さんの著書、このほかにも多くの会津戦争に関する著書がある

司馬遼太郎が、明治維新を成し遂げた吉田松陰から始まる長州志士たちを英雄的に書き上げるのに対し

真っ向から立ち向かう。

明治新政府(長州、薩摩)から国賊と蔑まれて、侮辱と差別と徹底的な破壊蹂躙、過酷な仕打ちを受けて

晒し者になった会津藩藩こそ事実は日本一の勤王藩であり、薩長こそ偽の勅書で欺いて政権を奪取した

偽りの政権だと。

確かに会津城下で起こった戦争は、(この著書に寄れば)とても日本人同士の争いとは思えない有様だった

その事実はこの本を読めばわかるから書かないが、一つだけ例を取り上げれば

戦死した会津藩士を埋葬させずに野ざらしにして犬猫の食べるままに放置したとか聞けば、会津人ならずとも憤慨するだろう。

そして罪人として極寒の地に流された会津藩士と家族の苦難の生活も書かれている。

そして一方ではその後、差別と偏見の中で見事に花開いた会津武士や師弟の活躍を描き、会津藩の名誉回復をとげた日を

嬉しげに書き記している。

だが未だ福島県からは一人の総理大臣も輩出していない現実も・・・

平成に続く政治の流れがどのような過程を経てきたのか、人間はいくらでも残酷になる、血を見てエスカレートするという警告

正義が必ずしも勝つとは限らない現実、そもそも戦争に正義はない、そんな事を教えてくれた本である。

 

 

「閔妃暗殺」 角田房子 1993年

互いにアメリカと同盟関係に有る国同士であるが、韓国が日本に対する憎悪は北朝鮮や中国に対するものより

遥かに大きい、それは慰安婦像がどんどん設置されていることではっきりわかる。

そんな憎悪の原因の一つに閔妃暗殺が含まれている、当時の朝鮮国でロシアに近づいて、唯一日本に抵抗した

のが朝鮮を事実上支配していた閔妃だった。閔妃が殺害されて、その後1910年に朝鮮は日本に併合された。

日本と韓国が民族感情として打ち解けることは永遠にないと思われる、それは根本的に民族精神の根本が異なるからだ

恨みは7代、いや末代まで持ち続ける恨(ハン)の半島民族と、一晩寝れば恨みも忘れてしまう日本民族ではどこにも

妥協点はない、日本人の恨みの感情は、せいぜい江戸の仇を長崎まで引きずって行くくらいの時間でしかない

数百万人を犠牲にした太平洋戦争でもっとも激しく戦い、最後に原爆などで無抵抗な非戦闘員の市民を100万人

近く殺したアメリカに対しても戦後一番の同盟国として信頼している日本人の性質はとうてい半島国民には理解できない。

同じ地球人として親しくしている韓国人でも「併合時代」の話題になった途端、互いに愛国者となって意見が対立する

日本での唯一の例外は先に書いたように、一部の会津人が150年間持ち続けている長州人への怒りである

 

「悪の倫理」 倉前盛通 1977年

理想主義と現実は大きくかけ離れている、きれい事では国は回らず守ることも出来ない

地政学、いかにして国家維持をするために重要な地域を奪取するか、国家の最大の課題はそこにある

今は北方領土、竹島、センガク、南シナ海、沖縄が地政学上、東アジアの重要な地点なのだ、ここを実効支配している

国は何が何でも守る、一方そこを押さえられて困る国は何が何でも奪おうとする。

「あんな小さな島、くれてやれば」と言う人がいる、だが国の安全を考えればそんな単純なものではないのだ

もう現代には通用しない古い本になったが、地政学の何かを学ぶために新たなこの種の本を読むことを薦める。

なぜ日本帝国が朝鮮半島で日清、日露で争ったか、なぜ満州に傀儡国家を建てたのか、それもこの本でわかる

 

「青春とはなんだ」 石原慎太郎 1965年

ちょっと政治がらみが続いて疲れたので、ここで息抜きだが、またしても東京都政に欠かせない石原さんの登場

この頃の石原さんは、金持ちで、ヨットで遊び、かっこよくて、作家というお仕事で、弟は日本を代表するイケメン俳優

の石原裕次郎とくれば、誰もがうらやむナイスガイである。

その作品もこの本の通り、からっとしたスポーツ友情物語、さわやかな青春小説だ。

しかし体育系というのは、少し方向が変わるとスポ根から始まって鉄拳制裁にまで発展する事もある、石原さんも

政治家になってからは「青嵐会」という元気な若手グループを結成した、それが老いても「受けて立とうじゃないか!」

に繋がっている、だけどこの本は本当に青春そのもの、読んでスカッとしたなあ。

 

「石坂洋次郎著書」  1963年

名前はちょっと慎太郎さんに似ているね、こちらもさわやかな青春小説集だ

「あいつと私」は映画化されて、慎太郎さんの弟、裕次郎さんが主演だった、石坂さんの小説はわれわれ田舎坊主の

青春とはひと味もふた味も違う、大人びた青春だ、そんな青春に憧れていたが周辺環境でついぞ訪れなかった

今の方がよほど質の高い青春をしている、まだまだ理想に近づけるぞ

「鬼平犯科帳シリーズ」 池波正太郎  1975年頃~

大衆娯楽小説ながら人生と男のかっこいい生き方の教本でもある、テレビドラマでも毎日放送している「鬼平」

江戸時代の実在の人で、盗賊切り捨て御免の許可を持っている火盗改め方の長官だ。

悪人に対しては情け容赦なく「鬼の平蔵」と呼ばれるが、人情味が厚く、盗賊でも善良な心根を持っていると思えば

死刑を免じて配下として使う、部下へのいたわりも忘れない。

若いときは世をすねて無頼の仲間にもなったが、今はその時の悪仲間も情報源として利用している

女にももてるが、今は愛妻をいたわり若いときの様な悪さは一切していない様だ。

人の心の深いところががわかる男、あえて苦言を呈する男、ここ一番は妥協しない強さ、日頃の鍛錬、錬磨

追いつめながら、逃げ道を造ってやる心遣い、これぞかっこいい男の生き方

 

「剣客商売」 池波正太郎

こちらも池波さんのシリーズ、テレビ化もされていた、この主人公は鬼平と違い、剣一本で悪を懲らしめる

父子の物語、鬼平の後には権力と法があるが、こちらは浪人だ、だから堅苦しさが少しもない庶民的な

話になっている。

主人公秋山小兵衛はひょうひょうとした小柄な老人だが、どうしたことかまかないに来ていた百姓娘に手を

つけて、責任をとって女房にしたという男、息子も道場を持つ剣客で、悪名高い「老中田沼意次」の妾腹の

娘、女剣士「みふゆ」を妻にした。

老人は、どのようにしてモテるのかを教えてくれる、鬼平は血気盛んな中年、金離れも良く、さっぱりしていて

酒も強く、色気話もうまい、特に玄人にもてるタイプだ、ところが小兵衛はそうではない、ひょうひょうとして

血なまぐささもなく、金も潤沢に持っているわけではない、漂ってくるのは安心感だ。

老人には年齢だけの経験がある、いかに苦難を乗り越えてきたか、それが蓄積されている、そんな経験が

多いほど人間の厚みがある、そこが魅力なのだろう。

 

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私を造った77冊(2)

2017年02月27日 08時22分12秒 | 読書

「東京オリンピックガイド」 初版1963年

2020年、二度目の東京オリンピックがやってくる、本当は1940年代に第一回目の東京オリンピックが開催される

予定だったが戦争で中止になった。

そして1964年、ついに悲願のオリンピック開催となったのだ、当時14歳の私も胸躍らせてテレビにかじりついた

2020年のオリンピックは豊洲問題も絡んで、すんなりとは準備が進んでいない、この当時のオリンピックは様々な

知恵を出し合って成功させたと聞く。

このガイドブックはオリンピックの種目ひとつひとつの記録や見所が詳しく書かれていて、これを見ながら見るオリンピックは

格別だったのではないかと今、思っているが、当時の記憶はほとんど無い。

 

「未知の星を求めて」 関 つとむ 1966年

当時「イケヤ.セキ彗星」という日本人二人の名が付いた彗星が発見された、それも太陽に近づくにつれて素晴らしく長い

尾を見せる様になり、星ファンでなくとも気になる存在だった。

彗星は通常、発見者の名が付く、多い物で三人くらいの名が付いている、当然外国人と日本人の組み合わせもある

こうした彗星探しの人たちを特に「コメットハンター」と呼ぶ、より広範囲が見える様に40ミリとかの広角のファインダーを

つけた短焦点の天体望遠鏡で探す、もちろん天文台で探している人もいる

日本では倉敷天文台の本田実さんがダントツのハンターで、視力も素晴らしく「スバル星団」を肉眼で見たとき普通の人は

7~15ヶ見えるというのを、本田さんは25ヶとか30ヶとか見えるという話を聞いた。

本田さんに続くのが、この彗星を発見した関勉さんと、池谷薫さんだ、この本は関さんが「イケヤ.セキ彗星」に出会うまでの

自叙伝である。

私もこれに感化されて、反射望遠鏡を手造りしようと学校から帰ると、厚い丸いガラス板を研磨剤ですりあわえたものだ。

結局、レンズを傷つけて100ミリの反射望遠鏡造りは幻となってしまった。

 

「夜だけの恋」 藤原審爾 1975年

婚活時期の25歳だった、子供から大人への境目で、藤原さんの小説は都会の男の生き様がかっこよかった

そんな大人に憧れて読んだ本だった、女優の藤真利子さんのおとうさんだと聞いたことがある

男のかっこよさは、「仕事に命をかけながら、何事もなかった様なポーカーフェィスが出来ること」だと思った。

 

「脱走特急」 1965年

映画の小説化なのか、小説の映画化なのか知らないが、あまりにも映画が面白くて本も買ってしまった

男を演ずるには最高の苦み走った「フランク.シナトラ」が主役の捕虜軍人を演じている、戦争の脱走物では

スティブ.マックインの「大脱走」と双璧だと思う、この内容から得るのはリーダーの為すべき事である、最後に

リーダーは部下を逃れさせるために一人犠牲となって死んでいく、これがリーダーの辛いところであり

覚悟なのだ。

 

「三島由紀夫.東大全共闘」 1969年

われわれの年代は、高校卒業した年「東大紛争」で東大受験が出来なかった、先日も書いたけれど小学校時代の友達も

そのアオリを食って京大医学部入学を余儀なくされたのだった。

その全共闘と東大OB(法学部)の作家の三島由紀夫の対談を記した本だ、三島の遺言かもしれない。

三島はこの翌年に市ヶ谷の自衛隊に仲間と(楯の会)日本刀を持って乗り込み、やじ馬や自衛隊員に向けて演説した

しかし平和日本に慣れた人々は耳を貸せず、悲憤した三島はその場で壮絶に切腹して45年の人生を閉じた。

三島は理想の日本と日本人を目指すと同時に、男の美学を貫こうとした、その一途さはまさに典型的なA型気質

ナルシスト的な部分も見受けられる、それはまさに男の理想化。  三島が目指したものは、この本の中にある

実は三島は切腹のリハーサルを行っている、それはこの1969年に公開された映画「人斬り」の中で

三島が演じるのは幕末の薩摩藩士田中新兵衛、実在の人間で土佐の岡田以蔵(この映画の主役=勝新太郎が

演じている)と並び「人斬り」と恐れられた殺人剣士である。

敵対する何者かに濡れ衣を被されて、言い訳を一切せずに腹を掻き切って死んでしまう

このシーンは切腹の壮絶さもさることながら、三島の鍛えた肉体美に焦点が合わされている、そこが三島のこだわりだったのでは

無いだろうか、五社監督も吹き出す血よりも、三島の筋肉隆々とした右の肩から背にかけてゆっくりと舐める様に写す

これを見て、三島のナルシスを感じずにはいられない。

この映画のシーンといい、またこの本の中ではっきりと三島は自分が法制国家に反して事を興し、それ故に割腹をすると

明言している、だがこの東大生相手の公開討論の場にいた者は、それを本気で受け止めてはいなかっただろう

ただ時間の過ぎゆくままに、集団心理で一時の熱に浮かされていただけだったのはその後の歴史が証明している

唯一、三島本人だけが本気で有言実行を果たしたのだったが、学生を含む大衆は冷ややかな反応しか示さなかった。

三島由紀夫を客観的にまとめれば、潔い武士道、強靱な肉体と肉体美、強烈な自己愛それぞれへの強い憧れを

持ち続けた人。

 

「愛の無情について」 亀井勝一郎  1967年

三島の壮絶な死に様とは正反対の穏やかな語り口で書かれた本だが、内容は辛辣だ

愛にも犠牲はついて回る、生きることもまた多くの罪を作りながら生きている

この本は私の高校時代のバイブルだ、これをもとにいろいろな思いを書いたり、友と語り合った

亀井さんはキリスト教徒らしく、そんな内容も散りばめられている、相手にばかり不幸を強いるだけでなく

自己犠牲も時に必要となる、思いやりと自己主張は対立する、対立しながら人は成長していく

絶望させたり、勇気を与えたり、青春の場面場面で辞書引きすれば良い手引き書である。

この本から受けた影響は半端ではない。

 

「リルケ詩集」 

高校時代は詩にのめり込み、大学ノート5冊びっしり書いた、それは今でも持っている

男で詩というのも校風に似合わず、誰にも話さなかったが、女子だけの「文芸部」の存在を知って、その女子部長に

近づいて、彼女らの詩集を見せてもらうことに成功した。

それを読んで、ノート10数ページに一つ一つ評論を書いて渡した、達成感があった。

私はリルケの詩を読んで、その激しさと孤独を感じた、それからリルケを何冊か読んだが、詩は訳者によって微妙に

ニュアンスが変わることを知った。

 

「高村光太郎詩集」 昭和25年

智恵子抄の「あどけない話し」はあまりにも有名で、私も何行かはそらんじることが出来る

知恵子の故郷、二本松は3回ほど行ったけれど生家は一度も見たことが無い、この本をきっかけに

高村光太郎と智恵子の生活や作品などの本を5冊ほど買って読んだ、高村の詩の多くは智恵子の事が

書かれている、芸術家と芸術家の夫婦の日常的でない生活風景、実は我々の生活にも日常的でない要素は

多く含まれているのだ、胸に手を当てればわかることだ。

 

「正子絶唱」 片山正子.片山寿満江1967年

1965年、21歳で亡くなった片山正子さんの詩集とエッセイ、その詩は常に死と向かい合っているから飾りも

何も無い、あるのは一日一日のいとおしさと大切さだけ、だからわかりやすく書かれた詩だ

リルケの詩の様な激しさも、あきらめに似た高村の戸惑いも正子さんの詩には無い

どんな気持ちで毎日生きていたのだろうか、それはこの本から、うかがいみるしかない

自分が何事も無く生きている幸せ、同時にこの日々を大事に使わなければならないよと言うメッセージでもある

 

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私を造った77冊(1)

2017年02月26日 14時42分28秒 | 読書

人が人になるのには、いくつかの要素が絡み合ってその人が出来ていく

個人というが、個は様々な集合体で出来ている

最初に体が出来、そこに魂が入って考え出す、先祖代々血脈の体質と、考え方の遺伝子が加わり

それに固有の感情(短気とかのんきとか優しいとか)が加わり

やがて様々な経験と対処法がインプットされていく、対処に成功すれば自信となり、失敗すれば負の精神が宿る

そこに人間関係が加わり、人生の師とも言える人や、支えになる良き伴侶、親友と呼べる友と出会えば、大きな力

になり、自分自身のスケールも大きくなる。 逆にどうしようもないワルに出会い、迎合すれば無駄で危うい人生になる

更に本来の精神ベースをアップさせるには読書という方法がある、読書の良さは自分に必要な物だけをピックアップ

することが出来ることだ、何かの講演の様に不必要な部分が多すぎることがある、読書はそんなところを飛ばしたり

本そのものを読むのをやめれば時間の無駄がなくなる。

同じ事象でも様々な人の様々な考え方を経験できるし、ゆっくりと判断することも出来る、それを素に人と討論も

出来るし、本の活用は人間形成で重要な位置を占める。

私も小学校5年で読書の楽しみを知り、夏休みに10冊ほど読んで感想文を書いたら、先生から褒められた

それが嬉しくて、ますます読書好きになり、図書館の虫の小中時代だった。

こうしたささやかな経験が人間を造っていく、yottinという人間がどういう過程を経て出来ていったのか、自分自身も

興味あるところだ、改めて自分探しをすることにワクワクしている

 

「雨月物語」「太平記」「太閤記」

漫画以外でもっとも最初に読んで印象に残ったのは、この3冊だ

「雨月物語」は「耳無しほういち」のような幽霊の物語が主で、怨念がおどろおどろとして現れる怪談集である

こんな本を小学校5年の時に、しかも読書始めで読み始めたのだから、かなり変わっている

「太平記」も戦に破れて栄華の日常から、滅び行く人間の悲惨悲哀を書いた物だ、ここにも亡霊が登場する

これで学んだのは「人は死ぬ、必ず死ぬ」という恐怖だった。

幽霊の怖さより、自分が必ず死ぬという恐怖が勝った、そして自分もへんな死に方をすれば幽霊になるという恐怖

小学生の頃、町のどこかで「地獄曼荼羅」の掛け軸の展示らしきものがあって、多分親と行ったのだろうけど

地獄の恐ろしさを身に焼き付けた、「良い子になろう、正直になろう」という気持ちが今でも心の根になっているのは

その時の強い恐怖心からだろう、私の心に宗教心(宗教に従うのではなく)が芽生えたのはここからだ。

欲望を満たすための行動は、並みの人間である私にも人並みにあるし、そうもする、だが人間として(大概は道徳感)

それ以上が道を外すというところに来ると、急に欲望は萎え、臆病者になる、すなわち人間に戻る。

こうした陰気な邪の体験から始まったのだが、その反動なのか「太閤記」が大好きだった

誰が書いた物か知らないが、最初は簡単な単行本で秀吉が信長のもとで大手柄を立て続けて、ついに信長から

城をもらって城主になり、田舎で水飲み百姓をしている母と弟と妹を迎えに行き、家族が驚くところで終わる

この最後の場面が嬉しくて嬉しくてたまらず、何十回も読んだ、あれでサプライズを贈る楽しさを覚えたのだ。

「邂逅」(かいこう) 初版1968年 この本でこの言葉を覚えた高校時代  終戦間近の時代に文通していた気高く

清潔な男女

次第に男は女に惹かれて行き、手紙は崇高な愛情の表現で満ちていく

そして清潔で崇高なはずの自分も、平凡な男の欲望をもった人間であることを恥じて自己嫌悪にも落ち込む

息苦しいほど、丁寧で相手を思いやる文章で満ちあふれ息苦しい本なのだ。

私も当時は、日暮里と岐阜の二人の女子高生と同時に文通していたけど、中身は全く子供だった。

 

「クローニン全集」1968年 全部で10巻ほどの全集で、その中で当時の自分の気持ちに合ったのを2冊買った

もう1冊は「孤独と純血のうた」という本だった

まさに青春時代の生き方を走り抜ける様なスピードで書き抜いた小説で、一気に読み終えた

と、本の背の裏表紙に18歳の私の書評が書いてあった、内容は忘れたが面白かったのだろう。

 

「単独行」加藤文太郎 1965年  登山にのめり込んでいた高校時代には、新田次郎をはじめ山岳関係の

ノンフィクションや小説にものめり込んでいた。

加藤文太郎はパーティを組まず、冬山であれ岩場であれ常に一人で行動した登山家で、その遠因は

並みの学歴、並みの収入でありながら、当時は金持ちでなければなかなか出来なかった登山に挑んだことだ

そして貧しい装備、しかも単独というハンディの中で次々と難しい登頂を果たしていく。

猛吹雪の山稜でも、穴を掘って寝袋に入って寝れば遭難することもないという彼が山で遭難して亡くなる、

小説に寄れば、その時彼は気が進まぬままパートナーと登山中だったと書かれている

この本は加藤文太郎自身が書いたものである。

 

「新田次郎の山岳著書」1960年代~

新田次郎は武田信玄などの著書もあるが、山岳小説をたくさん書いている、山男に悪い奴はいないと言うが

山男の屈折した心理や犯罪、傲慢さ、愛の憎悪などが引き起こす事件をも書いている。

新田次郎の山岳本もほとんど読んだ、その中には上記の加藤文太郎の足取りを書いた「孤高の人」もある

 

「司馬遼太郎の歴史著書」1960年代~

司馬遼太郎の歴史物は長編が多い、特に明治維新~明治にかけてのものは個性的でエネルギッシュな登場人物が

多く、その一人一人がそれぞれの小説になる要素をもっている。

黒船来航の幕末から日露戦争の終結までのおよそ50年間は日本がもっとも大きく動いた時代である

この時代を書いた本は、何を教えてくれたのか、娯楽的要素が多いけれど「為せばなる、ならぬ事も為せばなる」

あるいは「絶対的権力も僅かなほころびから崩れ去る」「時代は変わる」「何もしなければ新しい物も古くなる」

ということか

「たった一人の30年戦争」 小野田寛郎 1995年

固い目標を持って貫けば、いかなる困難にも打ち勝つことを証明した小野田さん

太平洋戦争、フィリピンでは日本の敗残兵が山中に逃れ悲惨な戦闘と逃避行に疲れ切っていた

戦艦武蔵の生き残りの兵士も慣れない陸上戦と飢えと病でほとんど亡くなった。

そんなとき、孤島のルパング島では現地諜報の任務を受けた小野田少尉と部下数名が兵隊として立派に活動を

続けていた。  終戦後30年間たっても小野田さんの中ではアメリカとの戦争は続いていたが、結果的にはフィリピン

警察や地域住民との戦いだった、それにしても30年間武器を実践できる様に管理していたことは素晴らしい

昭和51年、かっての上官から戦闘中止の命令を形式的に受けて帰国した。

それより2年くらい前だろうか、グアム島の洞窟で発見された日本兵は名古屋の民間人だったが、発見当時を

比べると明らかに一般人と軍人の違いがわかった。

小野田さんの精神力と体力は、まことに素晴らしいものだ、様々な無責任な評論もあるが、大概の人間はこれだけの

ことは出来ないだろう、小野田さんには勝者の風格さえ漂っていた、その上、優しい人であり、また帰国後は農業を

行ったり、青少年の育成にも貢献した。

帰国後数年目に、陸軍中野学校の同窓が主催して、我が店で講演を行った、その時色紙と共に、署名入りのこの本を

頂戴したのである。

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フキノトウと野鳥と昆虫と

2017年02月26日 08時24分33秒 | 花鳥と昆虫・爬虫類・魚

わが家の周辺で今年も「フキノトウ」が出てきた

草色のいかにも草の様な草

天ぷらが最も簡単かつ美味しい食べ方だ、ほかには「ふきんと味噌」にすることもある

いずれにしろ、ほろ苦い味と香りだ、強烈な香りではないので食べやすい

おいしさを期待する様な食べ物ではないが、「春を食べてみる」で良いのでは?

 

わが家は町の中心部から600m程の山手だが標高10mほどで山ではなく、普通の住宅地

大昔は川の底ではなかったろうか、と思われる、それは自宅の前と後が5~10mほどの土手に

なっていて南はゆっくり標高が上がって行くし、北は海に向かって下っている

しかもわが家の隣は300坪の企業所有地だが、そこは70年前までは沼で、それを埋め立てたという

やはり水の通り道だったんだろう、幅は30m程ある

そんな環境だから、わが家の背(東)は土手で笹藪と雑木が生い茂り、そこに山桜のような大きな木が

枝を広げている、そして名もわからぬ様な木は実をつけ、昔はアケビも生っていたくらいだ

ヘビイチゴや、別の赤い実もなり、しかも藪が深いので冬でも春でも野鳥が訪れる

温かくなれば毎年「ウグイス」もやってくる、朝には例の甲高く鋭い美声を聞かせてくれる

今は燕の様に尾が長い、すらっとした鳥が真冬から遊んでいる、燕の2倍はあるかっこいい鳥だ

ツガイでけっこうけたたましい鳴き声をだす

この辺りは狭い土手に沿って、畑や杉林も有りキジもたまに見かける、イタチかテンかしらないが、金色の

尾が太い生き物も住んでいる。

去年は庭先に蛇が出てきて、へび年生まれの女房はパニックになって大騒ぎした、私は足が多いのは苦手だが

足のないのは平気なので、ウナギの要領で追っ払ったら5mほどのローリエの木に登って逃げていった

暖かい日にはトカゲがひなたぼっこをしたり、時にはスポットライトを浴びながら堂々と交尾している

困るのは真っ赤な目をした10cm程のムカデが生息していることだ、真夜中に首筋をかまれて深夜3時に病院へ

行った、そして対処方法を覚えた、毒は咬んだ周辺にとどまるだけで全身にまわることはないので痛みだけですむ

処置は40度の温度で温め続ければ良いとのこと、腕や足なら風呂で温めれば簡単だ

首は熱いタオルを当てる

ムカデよけの殺虫剤を撒いたが、雨などで流れるとその水をペットが舐める可能性がある、それで去年は犬が行かない

ところに撒いた

あとはヤモリも多い、家族でいるらしいがヤモリは愛嬌があって好きだ、夏の夜になると窓硝子にへばりついて蛾や蚊を

食べに来る、ヤモリはその名の通り「家守」で守り神ならぬ守り爬虫類だ(ほ乳類かも)

私の海岸沿いの店には「ふくろう」がやってきたが、こちらには以前「山鳥」の巣があった

雛なのに成人したネコくらいの大きさがあった、その巣が土手から転げ落ちてきたので、それを助けて屋根の上に箱を置いて

そこに入れた、親鳥が心配して上空を旋回して行方不明の子を探している

子も親を見つけてピーピー鳴きながら屋根伝いに歩き出し、親がそれを見つけた、だが子は飛べないし、ネコが来れば

ひとたまりもない、ハラハラしてみていたが、意を決して子が羽ばたいた、浮き上がったが数メートル羽ばたいただけで

隣の家の屋根に墜落!

しかし生命とは素晴らしい、一時間ほど試行錯誤してとうとう飛んだのだ(見物しているオレも暇だね)

親について森の中に消えていったとき、全身の力が抜けた。

 

 

 


映画を見る

2017年02月25日 17時43分14秒 | 映画/ドラマ/アニメ

映画を見るのは趣味の一つ、だが我が町に3つあった映画館は40年以上前に全て無くなった

それでも青春時代は新潟市で暮らしたおかげで、たまの休日には映画のハシゴも出来て、映画好きを

満喫できた。

日活、松竹、グランド、小林、テアトル、東映など、スクリーンライフは充実していた

貸本屋で「スクリーン」の最新号を借りてきて、一ヶ月の映画館巡りのスケジュールをたてる楽しみ

前売り券の半券は全て写真アルバムに貼り、パンフレット、ポスターも必ず買ってきた。

主に洋画ばかり見ていたが、唯一見る日本映画は高倉健、藤純子などの任侠物「網走番外地」「緋桜牡丹」

のシリーズを欠かさず見た、年末年始に田舎に帰らず徹夜で見たこともある

それと梅宮辰夫の「不良番長シリーズ」、あとは「仁義なき戦い」シリーズ

板前というとなぜかこんな映画に惹かれるらしい、もっとも仕事一筋の立派な板前さんはこうじゃないんだろうけど

うちの店の料理長専務が、こういう映画が大好きでその影響だったんだろう、因みに100kgもある人で

若山富三郎みたいな風貌だった、口癖は「若いときは”ぶくろのエンちゃん”と呼ばれたものさ」だった

60歳で亡くなってしまった、「まさか!」と思ったけど・・・・面倒見の良い親分肌の人だった

 

本命の洋画だが、残念ながら板前仲間に同じ趣味のものが一人もいなかったから、孤独だった

オードリーヘプバーンが好きで古典の「ローマの休日」や「おしゃれ泥棒」なんかを見た

「ウェストサイド」は何回も見に行った、いかにもプエルトリコっぽい風貌のナタリーウッドが大好きで

アンマーグレットの「バイバイバーディ」、カトリーヌ.ドヌーブの「シェルブールの雨傘」と共に

ミュージカル映画好きにしてくれた作品だ。

当時でも、映画館は音響や銀幕が日進月歩で良くなっていたから、その迫力は小学生の頃の田舎の映画館とは

雲泥の差であった。

そんな中で画像の印象深い映画はジュリーアンドリュースの「サウンドオブミュージック」、ぎりぎり遅れて行って

映画館の扉を開けた瞬間、冒頭の場面(ヨーロッパアルプスをバックに広い草原で走ってきて歌い出すヒロイン)

いきなり「ど~ん」と来て圧倒された、あれ以来あのシーンが頭から離れない、サウンドトラックの18cmLPも

買った、今でも衛星放送で何度もやる度に、その最初のシーンだけは見ている。

もう一つはソフィアローレンの「ひまわり」、あのひまわり畑の黄色一色のシーンは切なくも有り、忘れがたい

助演のリュドミラ.サベリエワは初めて見たソ連の女優、ソビエトの女性があんなにも綺麗とは知らなかった

だが中年から何倍にも太るのがソビエト(ロシア)人女性ということも知らなかったが

 

さて、そんな中で私にとっての永遠の映画がある、それは小学生から今日まで、いつ見ても面白く迫力満点の

「ゴジラ」だ、バブル当時マンネリ化してしまいコミックになってしまた時期もあったが、これではいかんと

恐ろしい悪役ゴジラが復活して嬉しい、アメリカでまで米製ゴジラが誕生した、こちらは超巨大イグアナみたいな

すばしっこいゴジラだが、迫力は評価できる。

子供の頃は小学校の廊下にゴジラが入り込んで恐ろしかった夢を何度も見た、因みに私が見る恐ろしい夢は

これと、高波(津波とは違う、100m程の範囲に津波級の波が単発で襲ってくる)が押し寄せてくるのに足がすくんで

なかなか逃げられない夢、これは幼児体験が焼き付いているのだ

 

最初に書いたとおり我が町には映画館がない、見たければ40km離れた隣町まで見に行かなければならない

だが今はスカパーやWOWOWなどがあって、単に映画を見るのならテレビで十分だし、見きれないほどだ

だがゴジラや大作はやはり映画館に限る、私にとって最大の驚きはスピルバーグのジュラシックパークだ

あのCGを駆使して1億年前に滅んだ恐竜を生き返らせたのだから、あれは恐竜少年にとって夢の様な出来事だ

ノーベル賞物だ。

あれこそ大画面で見るべき映画だ、一言言いたい「映画大好き! 映画万歳!」

 

 


ホッとできない、疲れる友達

2017年02月25日 09時39分44秒 | 知人・友人

ワコさんとお茶をするのは半年ぶりだ、先輩と3人でコーヒーを飲みながら2時間話した

彼女はマイペースな性格で、典型的なAB型人間

個室タイプのお店では注文はすべてハンディの機械で調理場に飛んでいく

「私が注文担当するわ」までは良かったが、自分が頼んだ品はあっという間に来たけれど

私が頼んだ、ざるラーメンが待てど暮らせど全然来ない

「あら、あなたコーヒーはまだ来ないの?」なんて呑気に言ってくれるが、コーヒーを飲んでから

ラーメンじゃねえ

いくらなんでも遅すぎるから「本当に注文してくれた?」って聞いても「注文したわよ」と

取り合ってくれない

それで機械で注文履歴を確認したが、デザートが注文してあるだけで、ざるラーメンは注文してない

「確かにしたのになあ・・・」と自信なさげだが、どうも注文番号を押しただけで、注文ボタンは押さなかったみたい

結局、あまーい生クリームのデザートが最初で、半分も食べたら口の中がなぜか脂だらけで気持ちが悪い

そこに、ざるラーメンが来たので何とか付け汁でさっぱりすることが出来た

コーヒーを飲みながら話をした

6月に一泊の旅行を企画中で、もう温泉宿は予約が済んだ

「ねえ、あなた以前男女2カップルで昔の町並みのところに行ったでしょ、わたしそこに行ってみたいんだけど

どう?」

「どう?って言われても、どこのことだろう?」

「ほら、ほら、ヨンコさんと、ハナさんと行ったじゃない」

「ああ、会津の大内宿」

「そうそう、そこよ、そこへ行かない?」

「それは無理だわ、ぜんぜん方角が違うもの、そこへ行くったらもう一泊しなけりゃ無理だよ」

「ええ! そうなの? でも行きたいわ、行こうよ」

「そんなこと言われても、帰り道なのにどんどん遠ざかっていくよ」

まったく地理不案内、というより、そもそも自分が行きたいところと宿の位置関係がまったくわかってない

距離にして200㎞はある、200km戻って、そこからまた家まで300kmじゃ結構な旅になってしまう

第一、二人だけのデートならともかく、団体旅行なんだから

「二人で行くなら、いくらでも案内しますけど」なんて言っても、乗ってくる相手ではない

そのくせ「旧軽のハーベストの特別宿泊券があるけど行かない?3月までだけど」などと唐突に言って驚かせる

「二人で?」と聞き返すと

「それは無理よ、他に誰かいないかしら」などと言う

思いつきが多くて、支離滅裂で、ほとんど話しがまとまったことがない

それでも何年か前には、この3人を含んだ男3人、女2人の仲良し旅行クラブで韓国旅行や、東北旅行を

したこともある

その韓国旅行も珍道中で面白かったが、それはまた機会があれば思いだして書いてみたい

僅かな月謝で子供たちに習い事を教えているけど、夜と昼と正反対の生活をしていると言っていた

もう10年以上つきあっているけど、今もつかみ所が無い人だ

時々、気が病んで何ヶ月も寝込んだりする、のほほ~んとしているみたいだがストレスの固まりなのかも

おとぼけ話はまだまだたくさんある人、私の性格とは全く反対、だから逆につきあっていけるのかも

 

 

 

 

 


たった39光年先に、地球型惑星数個発見

2017年02月24日 17時00分00秒 | 宇宙.神秘

宇宙の果ては膨張を続けて、数百、数千億光年どこまでも広がる

光でも追い越せない、永遠の果てだ

そんな途方も無く広い宇宙で、たった39光年のお隣に、水をたたえた海をもつ地球環境の惑星が

何個か発見されたそうだ、一つくらいは人類っぽい生命があるかも、いよいよ未知との遭遇か!

さあみんなで、宇宙の隣人に会いに行こう

10億光年の広さの、我が銀河系の中でも、本当に近い39光年の隣人

「どれだけ~?」

日本列島、北海道から鹿児島まで2000kmとしたら、10億光年の中の39光年は、たった8cm

隣人どころか手の平の半分の距離

そんなに近いのか「よーし行くぞ、何秒で39光年に着くのかな?」

それでは星の光をエネルギーに、時速1000kmの旅客機に乗って出かけましょう、420万年の旅に

 

*数字はそうとうアバウトです、もしかしたら1000桁くらい間違っているかも、それでも宇宙の広さでみたら

さほどの間違いではありませんが。

 

 


日本海にかかるレインボウブリッジ

2017年02月23日 14時58分31秒 | ドライブ

南の雲の合間に青空が見え、北は冬の灰色の雲、頭上には細かな雨

そんな中で日本海に出来たレインボーブリッジ

日中 日韓の架け橋? んなわけないか!

日中悪化 日韓険悪 東アジアの泥水の中でバトル 白人が「やらせておけ」って、わらってら


2.22今日は、にゃんこ「ニャンニャンニャンディ」だって

2017年02月22日 18時23分45秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん

Pねこが私に助けを求めてもう8ヶ月になる、でもまだ一歳にはなっていない

この頃は盛りがついて、もう大人になった様だ、春になったら不妊手術だな

年間数万匹も殺処分されているという身寄りの無い犬猫、Pねこを拾ってしばらくは

病院通いが続いたPねこもようやく健康になった、獣医さんも「殺処分になりそうなネコを

一匹救ってくれて感謝感謝」と言ってくれる。

昔から犬猫は好きで何匹も飼っていたが、私自身の動機で飼うのはPネコが初めて

こんなネコでも恩義を感じているらしくて、昼間は女房殿にべったりだが、私が帰宅すると

私にべったり、女房殿が焼き餅をやくほどだ。

こうなれば可愛さが100倍になってくる、家に帰って待っている人(ネコ)がいると思うと帰るのが

楽しみになる、もう、ずうっ~~~~と待っていてくれる人がいなかったから尚更だ?????

蛇足でした。

 

とってもお行儀が良いお嬢様です

Twoショット

こんなにやせっぽちのチビだった

今じゃじゃじゃ馬ねこ

虎のごとく吠える(あくび)

高いところが好き

上から何かを狙うのは習性

仲良しだったジョンおじいさんと

 


夢中問答集を読んで見た

2017年02月22日 08時49分24秒 | 宗教

最近わたしの人間性が粗雑になってきたようです

まあ、二重生活を続けているので、立ち位置が今ひとつ定まっていないせいかもしれません

どんな生き方が正しいのか、かなりアバウトに考える様になりましたが、これはいけないことです

なにか漠然とした生き方の指標がほしい

昨年も同じような事を思って「高嶋暦」を買って一年間指標にしましたけど、世界中の人間を9分類でくくってしまうのは

ちょっとどうなのかと思いました

神頼みも良いですが、やっぱり自力で生き方を考えた方が価値がある気がします

それにしても拠り所とかヒントが無いと凡人故なかなか思いつきません

そこでず~っと2年ほど本棚で眠っていた「夢中問答集」を引っ張り出しまして勇気を出して挑戦します

なぜならこの書は、禅宗、臨済宗の高僧「夢窓国師(夢窓疎石)」と足利尊氏の弟「足利直義」の禅問答なのです

しかも南北朝時代の古典で仏法の本です、よほどの覚悟が無いと読み切れません、集中しないと何が何だかわからない

と思います。

さ~て、夜中のほうが集中できる、ということで23時から読み始めました、それで思ったのは、これは「千夜一夜」方式

で読んだ方が良いと。

一日一話の法話、これならいけそうです、そしてこの一話一話を噛みしめて、ノートにこの話しの意図を毎日書くことにしました

徳川家康は毎日「南無阿弥陀仏」を書き続けたそうです、何事も続けることと根気が成功の素です

さっそく第一番目の問答を読んで見ました、今から700年くらい前の名僧と征夷大将軍の弟との禅問答

質問者は足利直義さん、答えるのは夢窓国師です

直義さんが問いかけます

「僧は庶民が幸せになるように導くものなのに、庶民に富を求めることをやめよと言うのはなぜか?」

国師は答えます

大衆は士農工商にかかわらず、誰もが富を求めて働いているが、それは欲心からである

ただやみくもに働くだけで、一生を終えるときでも何も残っていない

たまに良いことが一つあっても、その何倍も悪いことがおきる、また、かなりうまくやって財をなす者があるが

大概はそれ以上の悪業を行っているのだ、それでは来世は地獄界に落ちる

愚衆の根本が欲心だから、うまくいかないで富を失うと、悪人や政治や世の中のせいにして嘆く

しかし富を失うのは自らの前世の報い、今世を欲心で生きているからだ

これでは来世もうかばれないだろう

 

昔、インドにスゴウ長者という人がいた、たいへんな財産家で倉という倉は財宝でいっぱいだったが、運が尽きたのか

老年の頃には一家離散して家僕もなく、老夫婦だけになった、たくさんの倉の中身も何も無くなってしまった

とうとう米も尽きて、倉の隅に何か無いかと探し回ったらマスが一つあったので、これを米4升と替えてもらった

これで2~3日は生き延びられると夫婦は喜んだ

スゴウ長者は用があってどこかへ行った、老妻が家にいると僧が乞食(僧の修行の一つ)に戸口に立ったので老妻は

米を1升与えた、すると今度は2人僧がやってきたので米を2升与えた(これでは今夜食べたらおしまいだなあ・・・)と

老妻が途方に暮れていると、またしても僧が一人来たので、とうとう残った1升も与えてしまった。

(これでは爺さんが戻ったら、こっぴどく叱られるだろう)と思うと泣けてきた

そこにスゴウ長者が帰宅して妻が泣いているのに気づいて「どうしたのだ?」と問うと老妻は全てを正直に話した

スゴウ長者は「仏・法・僧、を尊ぶ事は大切なことだ、例え我らが飢え死にしようとも物品を惜しむ様なことをしてはならない

おまえが行ったことは正しいことだった」と褒めた

それでも腹が空くので、まだマスなどがないかと倉を探そうとした、ところが倉という倉の全ての扉が開かない

スゴウ長者はとうとう一つの倉の扉を打ち破った、すると中は金銀財宝で溢れていた、全ての倉がその通りで

スゴウ長者は昔と同じ財産家になったという。

実は4人の僧は釈迦とその高僧だったのだ、この話しは釈迦が米の御礼に財宝を与えたと言うことではない

スゴウ長者夫婦の心根が無欲で信心深い故に、自らの行いで得たものなのだ

だから仏教は、欲心で富を得ようとする気持ちを制するのです

 

第一の問答おわり

これについて私なりの考えを言いますと、凡人は「なんだ最後は金銀財宝じゃないか、第一いくら長者が善人で

信心深いとはいえ、こんな手品みたいな事が起こるわけがない」と思うだろう、その通りだ。

第一先の短い老夫婦が倉いっぱいの財宝を得たとしても何の意味も無い、一日米一升あれば十分だ

足利直義さんも、そう思ったろうか? 天下の副将軍であるよ。

夢窓国師は多分、天下の政を預かり国家の民を導く直義殿には、「倉と財宝が何を指しているかくらいのことは

お見通しでしょ」という謎をかけているのでは。

臨済宗は禅宗の大きな根の一つですが、大衆仏教の親鸞聖人の浄土真宗でも「心を空にしてただひたすら

【南無阿弥陀仏】を念じなさい、そうすれば悪人だとて前世の悪業から救われるのです」と言っています。

人間の安らぎは心を空にして生きる、というのが仏教の教えなのです、人はただ一人裸で生まれ、裸で旅立つのだから

「この世は来世での暮らしの為の修行の場ですよ、魂の汚れを洗い落とす修行の場ですよ」って言いますよね