ホッとしたい時間! *** yottin blog ***

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パソコンの思い出

2018年06月22日 11時45分19秒 | 時代検証

ブログを拝見して、たまたま思い出したのは私の「パソコンはじめ」のこと

初めてパソコンを購入したのは40年近く前の事で、NEC PC-6001という機械

結婚して、女房殿の姉夫婦が富山で家を新築したので遊びに行ったら、旦那様の書斎に

PC-8001があった

彼は富山県を代表する大企業YKK吉田工業で機械設計の仕事をしていた

湘南出身の慶応ボーイで高校は逗子開成高校、ちょっとレベルの違う方だったけど

「yotinnさんも興味があるなら、始めてみたら」と背中を押してくれた

初心者故に8001ではなく、ゲームマシンとも言える6001にした

女房殿の兄貴が電気店に勤務していたので、割引価格で購入できた

8万円くらいだったと思う、あまりにも昔で記憶も曖昧になっているが、テレビゲームみたいに

別売りのディスプレーにつないで、ゲームなどを入力するためのテープリーダーも買って接続

RAMのメモリは32kbだったかな、今のパソコンと桁が違いすぎて笑っちゃいますが、それでも

いろんな事が出来た

電源を入れるとカーソル点滅だけの画面で、そこからスタート、もうやり方も忘れてしまったけど

画面下にテンキーが5ヶ並んでいて、切り替えで10ヶ使えて、自分で設定できる

[ロード][セーブ][ラン][go to][プリント]など記憶させて、ワンタッチでスタート

面白かったのはベーシックでプログラムを作ることができる

ベーシックは、とても簡単で50ヶくらいのコマンドを覚えれば、初期的なゲームも作る事が出来る

YKKの義兄はさすがでマシン語やC言語を操っていたけど、私はベーシックだけ

一番の傑作は「競馬ゲーム」、トランプの4つのマークを競わせる、一ヶ毎にランダム数字を割り振って

競争させる、そして賞金倍率を計算する

でも、これは子供を遊ばせるためのゲームで、幼稚園児だった長男は結構喜んでいた

でもまもなく「スーパーマリオ」が大ヒットして見向きもしなくなった

 

このパソコン、夢中でプログラム作りをすると、すぐに容量オーバーの「オーバーフロー」になる

よく知らなかったから、番地一つに一つの命令を書き込むと改行していたからだった、そのうち

一つの番地に、256だかの文字数まで、いくつか命令を書き並べることができるのを知って

それからはちょっと長いのが出来るようになった

それでも足りないで、8トラカセットみたいな大きな増設RAM32kbを差し込んで、ようやく64kbに

市販ゲームをするときは、カセットテープのソフトで5分くらいロードする

「ピーピーガーガー」とわめくカセットをじっと待つ、そして終わると「Run」キーでゲーム開始

終わると、また5分間のセーブでデーター保存

「川中島の決戦」ゲームなんかは黒と白の陣地マークが一個ずつ「コットン」って感じでゆっくり

交互に進んで行く、まるで将棋をしているような感じだが、戦略、戦術を楽しめて面白かった

本当にのんびりした動きだった

だからスーパーマリオが任天堂の簡単な機械で、素早い動き、様々な隠れ道、盛りだくさんなのを見て

驚いた! あの薄い基板1枚にPC6001の******倍くらいの情報が詰まっているのだから

 

その後、まもなく家庭の事情でパソコンができなくなった

それから20年くらい経って、仕事上で再びパソコンを使うようになったが、全く別物になっていた

自分が作るのでは無く、様々なアプリを利用して作業をする

動きも速く、写真も事務もゲームも、便利になったけど寂しくもあった

あのとき買ったのはウィンドウズ98だった

DOSパソコンからWindowsに、その後もどんどんバージョンアップして、今は写真一枚でも4MGbとか

膨大な情報量になったが、なんなく処理するPC

私が高校時代に考えていた21世紀は、タイムマシーンでも空飛ぶ自動車でも宇宙旅行

しかし現実は「IT社会」という想像もしない社会になった

宇宙衛星によって一人一人がその位置情報を自ら発信し、その行動は監視カメラに捕らえられ

個人番号やクレジットカード、通販で資産状況、お金の使い道、行動心理まで把握されている時代

どこまでエスカレートしていくのだろうか

 

 

 

 

 

 

何をしたくて買ったかと言えば、やっぱりゲームです

 

 

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英会話教室はじまり

2018年04月17日 08時34分17秒 | 時代検証

いよいよ田舎にも外国人旅行者がポツポツ訪れるようになり、準備をしておかないと急な対応が

できない。 特に宿泊の場合はプレッシャーが大きい。

とりあえずは、カード決済と、フロントで簡単な英、韓、中くらいで対応できるようにしておかなければ

その後は、外国語メニュー、外国語での観光案内、部屋や設備や料理の見直しへと

昨日は新人と四年目の2人の女子社員の英会話勉強がスタートした

先生は、中高生向きの英会話教室を開講している女性で数年間、イギリスで暮らしていたそうだ

毎週一回、とりあえず半年は続けてみたい、自分でも習ってみたい気もあるが、法事を終わらせて

その後は会社の決算で忙しくなるし、秋まではやれそうもない

この前、話しをしたときにはビートルズの話しで盛り上がった。 彼女が滞在していたのはリバプールの

近郊だったと言うことで、ますます盛り上がった

年齢は親子ほどだが趣味の話になると年齢差はない、ただリアルタイムでビートルズを追った世代を

うらやましいと言っていた。

 

 

 

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インバウンド(田舎はつらいよ)

2018年03月21日 08時32分36秒 | 時代検証

ちょっと斜陽化してきた安倍政権だが、安倍政権の功績の一つとして、外国人観光客の誘致がある

細かい数字は覚えていないが、5年前と比べても数倍の数千万人が日本を訪れた

長野県や新潟県、北海道ではオーストラリア人のスキー客が激増している

更に中国、韓国、台湾、フィリピン、タイなどからの観光ツアーは京都、東京などのメジャー観光地から

地方観光に流れ込みだした。

日本人さえ忘れている、日本の原風景を外国人が求めている

そんなわけで観光業の端に位置する我が店にも去年は、台湾団体ツアーの食事、韓国人夫婦宿泊

個別に訪れるレストラン(和食)客なども次第に増えている

こんなわけで、いよいよ「田舎だからいいや」と目をつぶっていた何点かも、いよいよ無視できなくなってきた

その1は「外国人との会話」中国や台湾の為に中国人を10年前から雇用していることは以前にも書いた

韓国人には、最少必要事項の片言くらいなら私が話すし、問題は英語だ

これは我が町全体に言えることなので、町も10年くらい前からインバウンド対策に力を入れ初めて来た

欧州から観光アドバイザーを雇用して常駐させ、外国人誘致や、その対応の講習会などを開催している

昨日も外国人接遇講座があって、我が店からも男女1人ずつ参加させた

さらに4月から4年目と、今期入社する女子社員2人に個別指導で英会話を学ばせることにした

私も習おうと思っていたが、父母の相次ぐ死や、会社の定款変更や決算など様々な手続きだけで

5月いっぱいまでは何も出来そうもないのであきらめた

もっともジャマイカンと適当に会話が成立するのだから、その程度でもいいやとも思っている

 

昨日もレストランにふらりと30~40代の白人女性が訪れた

単語の組み合わせとメニュー表でスムーズに行ったし、トイレの案内、道案内も小学生並みの単語で

出来た。

あとは会計システムだ、田舎町ではクレジットカードを使える食堂は少ない

わが家では宿泊もやっていたので30年前に導入したのに、使っていた風がない

とうとう先日、カード会社から解約通知が来た、機械の返還も求められたがどこにもない

私が入社する以前の話しで、当時の社員の半分以上が天国にいる、聞いてみようも無い

それで新たに導入すべく、今銀行と話し合っている、やはりネックは手数料だ

献立も含めて、急いで解決すべき課題である

 

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父20歳の3月10日

2018年03月11日 10時23分15秒 | 時代検証

昭和20年東京。 前年からアメリカ軍の無差別都市爆撃は激化してきて、東京もただ事では無くなってきた

そのため、子供達をいち早く長野県などに集団疎開させた

一般住民の中にも、危険を感じて東京から地方へ疎開する人たちも出始めた

父は調布飛行場で兵役に就いていたが、父の父母(私の祖父母)は亀戸に住んでいた

しかし福島の三春の叔父さんから「東京も危ないようだから、こちらに疎開してこい」と言ってきた

それに甘えて、父の父母は3月5日に福島へ疎開することを決めていた

ところが、父が8日に休日をもらって家に帰ってくることになり、疎開の日を11日に伸ばしたのだった

これが生死の分かれ目になったのだから皮肉なものである

 

父は8日に亀戸を訪ね、一家団欒を楽しみ9日の朝には調布の部隊に戻った

そして10日の深夜0時、アメリカのB29が数百機の編隊で東京上空3000m以下という低空で

爆弾を落とし始めた、(通常は安全な8000m前後でやってくる)もう日本に迎え撃つ戦闘機がほとんど

無いことを知っての行動だった

低空だから確実に目標に命中する。 今回は軍需工場でも飛行場でも軍の施設でもなく

明らかに民間人が密集して住んでいる下町、上野、浅草、日本橋、亀戸、砂町といった住居地への

爆撃だった。

東京市民が寝静まった深夜0時から侵入して、まず可燃性が高い油を住宅地にまき散らし

その後に発火する焼夷弾という爆弾を大量に落とした。

これは爆発させて破片で殺傷、破壊するのでは無く、木造の日本家屋を燃やすための爆弾なのだ

日本の家屋を徹底的に研究して、いかに効率よく激しく燃やすための実験を何百回も繰り返して研究した

爆撃方法だった。

あっという間に下町で数千戸の家が燃え上がり、どんどん延焼していった、そこにまた新たな爆弾を

落としていく。

2時間の間に100万戸の家屋が燃え尽くされた。 空気は湿度0、周囲は全て発火点に達していて

走り逃げ惑う馬が一瞬で炎に包まれたという証言もあった

衣服は火をつけなくても燃え上がり、炎の空気が咽から肺を焼き尽くし、熱さに耐えられぬ人たちは

橋の上から隅田川や十間川に飛び込んだが、川面はB29が撒いた油に火がついて燃えており

潜れば3月の冷たい川水で瞬く間に凍え、上は焼熱地獄、下は氷結地獄で瞬く間に人々は死んで

流され、下流の橋桁の周りは焼け焦げた遺体で川が見えないほどだったという。

防空壕に逃げ込んだ人々は安心も束の間、入り口が爆弾で塞がれた上に、酸素不足になって

みんな金魚のようにアップアップしながら窒息していく、奥に潜んだ者は灼熱地獄の中で蒸し焼きになって

死んでいった。

オーブンの中で焼かれたに等しいから、ナチスが行ったアウシュビッツのガス室と同等の残虐行為であった

こうして10万人の市民がむごたらしい死に方をしたのだった。

 

空襲が始まる前から警報が鳴りはじめ、父の高射砲隊もB29に向けて打ち始め、数機に被害を与えたが

米軍の攻撃に、さしたる支障はなかった。

同じ部隊の兵が父に「どうもきみのご両親が住むあたりがやられているようだが、何事も無ければ良いが」

と言った。 調布は高台なので浅草方面が火の海となって南国の夕焼けのように燃えているのがわかる

(横浜が爆撃されたときも真っ赤な空が見えたという)、気が気ではないが、戦闘中に私情は禁物だ、

やきもきするがどうにもならない

朝になって、下町出身の兵隊に半日の偵察休暇が与えられた、父は直ちに上野を目指して省線に乗った

上野で下りると、一面がれきの山で、都会の景色が何もかも無くなっていた、そして普段は建物の影で

絶対見えないはずの筑波山が見えた。

一緒に上野で下車した砂町の出身という上等兵と二人で城東区を目指して歩きだした

あちらこちらがまだくすぶっていて、時々炎を上げたりしている

空襲が終わって、まだ8時間ほどしか経っていないのだから当然である、通りは黒焦げや半焼けの遺体が

半端でない程の数で転がっている、最初は目を覆いたくなる景色だったが次第に慣れて平気になった

とにかく早く、亀戸へ行って父は(父の)父母の安否を確かめたかった

ようやく亀戸に着き、自宅あたりらしきところへ行ったが、どこもかしこも焼き尽くされて家などどこにも無い

ここだ!とわが家らしき焼け跡を見つけたが、木材がぶすぶすと煙を上げている

父母の遺体らしきものも見当たらず、手がかりは無いかと探し回っていると、偶然隣に住んでいた加藤さんに出会った

慌てて両親の消息を聞いたら

「ああ、逃げ出したときは一緒だったんだ、とりあえず香取神社に逃げたんだけどさ

もう人で一杯だし、焼夷弾が火を噴いて落ちてくるし、危ないからってオレたちは福神橋から向島に逃げたんだよ

そうしたら、まったく燃えていないところに出て命拾いしたのさ。 だけどね、あんたんとこの両親は亀戸駅の

方に行くと言って、そっちに行っちゃったんだよ、あっちは錦糸町から砂町までほとんど全滅したらしいよ・・・・・

大丈夫だとは思うけどさ、そっちを探してご覧よ」

それから、駅方面に向かい、錦糸町に向かった、ときどき救護所があって、そこで聞いてみても消息は全く

わからなかった。 錦糸町公園には遺体が次々と運び込まれて積み上げられていった。

更に探しまわったが見つからず、ついに兵営に戻る時間が来た。 後ろ髪引かれる思いで亀戸を後にしたのだった。

(父の)父は50歳、母は45歳という若さだった

 

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薄れ行く記憶 1945年3月10日東京大空襲

2018年03月10日 07時29分32秒 | 時代検証

アジア太平洋戦争があったことさえ知らない世代が増えてきた

「太平洋戦争で、日本はどこの国と戦争したか?」と問うたら、その若者「韓国かな?」と

自信なさそうに言った。

昭和20年(1945年)もう73年前になる、当時の記憶を鮮明に持つ最低年齢10歳としても

もう83歳だ、まだまだ大勢の証人が生きている、次世代に伝えるのは今のうちだ

この戦争では多くの犠牲を伴う悲劇の連続だった。 兵隊同士が戦い殺し合うのは国際法でも

認められている、しかし兵隊が武器を持たない民間人を殺すのはいかなる言い訳でも許されない

だが「敗戦国が勝利国に物言う権利はない」の一言でかたづけられている、それは今も同じだ

「勝てば官軍」それが戦争の全てだ、戦争は勝たなければ悲惨だ

当時の世界地図を思い出してみよう

イギリス、フランス、オランダ、など第一次世界戦争の勝利国は今のベトナム、カンボジア、インド

インドネシア、ミャンマーなどを植民地として搾取していた。

同じく、戦勝国だった日本も今の韓国+北朝鮮を日本に併合して、彼らを日本国民とした、形式上

朝鮮民族は世界地図から消えた、それが今でも尾をひいている。

しかし日本人は彼らを日本人として日本流の教育を行い、優秀な者には日本本土への渡航高等教育も日本人同様に

受けさせた、また甲子園の高校野球大会の前身である野球大会には朝鮮や台湾からも学生が参加して

活躍した。

王宮以外は汚れた町だった首都京城を近代建築と都市計画で近代都市に作り上げ、北朝鮮には莫大な国費を

つぎ込んで巨大ダムを造って発電を行った、それによって貧しい北朝鮮に工場が次々とできあがった

日本が統治したことで500年以上進歩が無かった朝鮮が近代国家に生まれ変わったことは歴史の事実である 

確かに日本人の半端ない数の者が、朝鮮人を見下していた事実も知っている、だが何の差別偏見無くつきあった

日本人は遥かに多い

それは先日のピョンチャンでの韓国人の反応と同じだ、北朝鮮と韓国のアイスホッケー合同チームに際して

韓国人の多くは歓迎したが、韓国選手が可愛そうだという反対意見も少なくは無かった。

しかし相手の立場で考えれば、いくら自分の国が外国の力で良くなろうと、自分が自分の国では無く、占拠して

乗り込んできた国から生む言わせず、その国民にさせられたのでは屈辱であり、やりきれない。

日本が敗戦と同時に、今日からおまえ達はアメリカ人だと言われればどんな気分になっただろうか

もっとも、中学、高校まではアメリカ人に憧れていたけれど・・・・・

もっと封建的で、独裁的な国家だったら、やはり嫌だろう。

結局、国民の苦楽は、国の政治家の資質で決まるのだ

結局朝鮮に優れた政治家がいなかったのが朝鮮人の不幸だったのだったのだろう

 

台湾も日本が統治して、その他太平洋の広い範囲のグアム、サイパンなどの小島も日本が統治していた

アメリカはフィリピンを占領していた

強国ドイツは第一次世界戦争で負けて、ひどい経済状態に陥っていた、そこに現れたのはドイツ国民の

ヒーロー、ヒトラーだった。 ドイツは瞬く間にオランダ、バルト、ポーランドに攻め込み占領した

その勢いでフランスも占領、ほぼ無抵抗のフランスはドイツのなすままに任せた

そして海の向こうのイギリスをも占領しようと爆撃を重ねていた、イギリスもピンチだった

しかしイギリスにも偉大なる指導者チャーチルがいた、ドイツとイギリスは一進一退の戦争を行った

ドイツは遠い日本と同盟を結んで、イギリス、フランスなどと戦った

日本はアジアでイギリス、フランス、オランダと戦って勝ち続け、次々とアジアの植民地を解放して日本の

教育をおこなった。 だから今でもそれらの国々に片言日本語を話す老人がいるのだ

同時に日本は中国大陸で中国と激しい戦いを約10年近く戦った

アメリカとソ連の2大大国は積極的に動かなかったが、ソ連はドイツの侵攻で目を覚ました、首都ペテルブルグ

を攻撃されてから激しい反抗を行って、冬将軍の味方を得てドイツを破った

当時ソ連は日本とお互い攻め込まないという条約を結んでいたから、日本方面は安全とみてドイツ戦に全力を

注ぎ込めたのだ。

世界一の軍備と資金を持つアメリカは母国、イギリス、フランスの危難についに立ち上がりノルマンディに上陸

ドイツ軍を次々と破って、パリの解放に向かった

太平洋では1941年12月、日本軍のハワイ奇襲で受けて立ち、日本との戦争が始まった

最初は不利だったが、ミッドウェイ海戦でアメリカは大勝利して、それからは日本がどんどん押され始めた

国力が日本の10倍以上もある大国アメリカは軍艦、飛行機、武器全てで日本軍を圧倒した

ついに日本の最前線、グアム、サイパンを占領すると、そこから大型爆撃機B29を飛ばせて、東京を空襲した

硫黄島を全滅させると、今度はB29に護衛の戦闘機をつけることが可能になって、ますます空襲が激しくなった

そしてついに沖縄を占領、日本は最期に本土にアメリカ軍を呼び込んで一億国民全てが死に絶えるまで戦う

総玉砕戦さえ考えたのだった、そのため女子を集めて竹槍でアメリカ兵と戦わせようと真剣に考えたのだった

織田信長が相手でも竹槍では勝てるわけが無いのに、敗戦続く軍幹部はやけくその集団パニックになり始めていた

それは神風特攻隊の出現でもわかる、最初は奇襲に驚いたアメリカ軍だったが次第に慣れると、特攻隊が

来る度に「鴨撃ち」だと言って娯楽の一つにしたという、それは速度も遅く、操縦技術も未熟な若者に絶望的な

自爆を強いたからに他ならなかった。ドイツが降伏して世界中が敵になった我が国

無抵抗になった日本の空を自由にB29が飛び回り、県庁所在地の都市の大部分を焼き尽くし、20年3月

10日には東京上野浅草から城東地区(千葉県より)に低空で計画的な爆撃を深夜0時から行って、10万人の

東京市民を焼き殺し、100万世帯を焼き尽くしたのだった、その中に私の祖父母もいた

未だ遺体は見つからす、骨も無いまま73年が経った

この戦争では、サイパン島、沖縄、満州、東京をはじめとする爆撃された都市、原爆の生体実験に使われた広島、長崎

の20万人以上、後遺症に苦しむ被爆2.3世、戦闘員では無い、民間人がむごたらしく殺された悲劇の場所である

朝鮮人(韓国人)が未だ日本を許せないという、それに比べて我が国民は何もかも忘れ去ってしまった

戦争があったことさえ知らない世代があるのだ、学校でもそんな悲惨な歴史に触れないのだろうか

戦争の反省ばかり教えるが、一体なにに対して反省するのかを深く教えていない気がする

世界に謝ることばかり教育された日本人と、日本を許さない教育を続ける被害を受けた隣国の教育、噛み合うわけが無い

国民性とはいえ、あまりにあっさりしすぎる。 恨みを持つことは無いが、こんな惨い過去が日本人にあったという記憶だけは

持ち続けなくてはならない

さもなければ、再び愚かな戦争に勇ましく飛び込んでいくだろう。

 

*今回の記事はコメントを控えさせていただきます

 

 

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インパール作戦

2018年02月11日 09時09分51秒 | 時代検証

昨日は本家の葬儀でのおときで、いろいろはなしをしたのだけれど、親の戦争体験の話しもでてきた

例のYくんも、自分の母方の祖父がアジア・太平洋戦争でビルマのインパール作戦に従軍したと言った

ところが祖父はほとんど戦争の話しをしようとしなかったと言うことだった

よほど残酷で辛い体験だったのだろうと言う

ところが、その隣に座っていたNさんも「うちの親父もインパール作戦に参加した」と言って

「おれは婿養子だから詳しいことは何も聞いていないが、yottinさんは、親父と親しかったから知ってるよ」

ということになり、でしゃばりyottinはまたしても口を挟むことに

以前もブログで書いたが、大概の人は忘れただろうから、もう一度書きます

 

今朝6時、偶然にNHKでインパール作戦の証言ドキュメンタリーを放送していた

昭和19年4月インド方面から米英の連合軍が日本が占領していたビルマを奪還するため攻勢をかけてきた

それに対して日本軍の牟田口司令官が逆攻勢を提案、補給困難であるという参謀達の言葉を押し切って

強引に作戦を遂行した、補給計画の無い短期決戦勝利という精神論だけの計画だった

10数万の日本軍が3方向からインドのインパール制圧に向かった、そのもっとも北方の軍団にN家のおじさんも

参戦していたのだった。

北方軍は第31師団、そのなかでも勇敢で経験豊かな第58連隊(越後)高田連隊に所属していた

中国との戦争時は、中国軍も日本のどの部隊と戦っているかには敏感だったらしく、新潟や東北の部隊は

強く勇敢な部隊であることを知っていて、逃げ腰の戦闘を行い、大阪とかの部隊だと弱いとみて果敢に攻撃を

仕掛けてきたそうだ。

そんな高田連隊はインパールの北方コヒマを占領する為に出動、ここはインパールへの中継地点でここを

押さえればインパールを日干しに出来ると作戦司令官は考えたようだ

2000mの深い山中を旧式の大砲などを分解して兵士達が担いで登って行く、それだけでもたいへんな苦行であった

牛に物資を運ばせるが、言うことを聞かず谷間ではすくんで動かず、無理に歩かせると物資もろとも牛は谷底に

落ちていくと言った有様だったようだ

それでも、コヒマを占領することに成功した、だが米英の強力な大軍が重装備&近代兵器で反撃してきた

日本軍には武器弾薬、大砲の弾、食料医薬品、あらゆるものが不足してくる、補給を要請しても「精神力で戦うのが

日本軍の伝統だ」と牟田口が言って、ほとんど送らなかったそうだ(番組より)

Nおじさんの体験談でも、それを語っていた

「敵さんは毎日、雨あられのように大砲を撃ってくるんだが、こっちは弾一つ無いので隠れて耳を塞いでるしか無い

そしてたまに、砲弾が送られてくるんで、さあやるぞ!と張り切って一発撃つと、敵陣地から10発100発とおつりが

飛んでくる、こりゃたまらん、こっちの居場所を教えるために撃っているようなもんだから、撃つのをやめてしまった」

いかに敵味方の補給の差が大きかったことがわかる、食料にも事欠いたようで

「たまに偵察を命じられる、敵陣地に向かって草むらの中を歩伏して行くのだが、そのうちに体や手にごつごつと何かが

当たる、見るとそれはパイナップル、いそいでポケットに詰め込んで、もう偵察どころでは無い」

ところがNおじさんにも運の尽きがやってきて

「敵さん、これでもかとこっちに砲弾を撃ち込んでくる、こっちは逃げるだけで、そのうち近くで砲弾が破裂した、すると

立っていたのに足の力が抜けて、前のめりにグズグズと倒れ込んでしまった、おかしいな?と思って違和感のある足を

触ってから手を見たら血がべったりさ。 やられた!と思ったが痛くはなかったなあ、衛生兵がやってきて見てくれた

『N、貴様は運が良いぞ、破片は右腿から左腿まで貫通しておる、足の中で止まれば足は腐って切断、もう少し下に当たれば

皿がメチャクチャになって、直に死んだろだろう、運の良い奴だ』と言われた」

「運が良かろうが歩けんのだから、どんなものなのか・・・それからは毎日寄ってくるハエをおうのが仕事だった、

冗談じゃ無いぞ、これがたいへんだ、あっちのハエは繁殖力が強くて傷口に卵を産むとすぐに孵化して蛆になる

その蛆が傷口からどんどん奥へ入っていくんだ、その痛いこと、おれは大丈夫だったが、かかとの中に蛆が入り込んだ

奴は泣き叫んでいたよ」

だんだん日本軍の戦場は悲惨な状況に落ち込んでいく、敵も迫ってくる

「ある日、部隊が転進するという事になった、歩けないおれはどうするのかと思っていたら兵隊がけが人に何かを配っている

俺の両手にも一つずつ握らせた、見たら手榴弾2ヶ、敵が来たら一つ敵に投げて残りで自決しろと言うことだった

捕虜にはなるなと言うことだ。  部隊は撤退していった、おれたちけが人は取り残されて、おれは木にもたれて座っていた

時々手榴弾が破裂する音が聞こえてくる、重傷者が自爆したんだろう・・・・・おれはなんだか心細くなってきて

(これでおれも死ぬのか)と思ったら情けない気持ちでいっぱいになった、だがまだ死ぬ気にはならないでじっとしていた

それから、どれくらいたったか知らないが誰かが『Nはどこおるか?』と大声でおれを呼んでいる、『ここだ』と返事を

したら馬を引いた兵隊が二人来て、オレを馬に乗せた。 傷口が馬の胴に擦れてとびあがるほど痛いので『痛い痛い』

と叫んだら『無駄口は言うな!』と怒なり飛ばされたので我慢して、いったいどういうことだと聞いたら、兵隊は

『おまえは果報者だ、中隊長殿が[Nはどこか?]と聞いたので『Nは傷病兵につき、置いてきました』と言ったら

[それはいかん、ただちに戻って連れてこい]という命令だ』、それで合点がいった、中隊長殿はおれと同郷で何かと

気をかけてもらい可愛がってもらった、だから中隊長には足を向けて寝ることができないんだ」

こうして命拾いしたNおじさん、しかし終戦と共に部隊丸ごとビルマで武装解除されてイギリス軍の収容所に入った

終戦と共に各地で日本軍は武装解除されたけれど、もっとも悲惨だったのはソ連に降伏した部隊で50万人以上が

捕虜として酷寒のシベリヤへ送られて強制労働をさせられ、長い人で5年以上も抑留、5万人以上疲労凍死させられた

だがNおじさんが収容された、イギリス軍はさすがに紳士のお国柄で直接は日本人を管理せず、収容所内に

日本軍の組織をそのまま維持させ、日本人に日本人を管理させる軍隊システムを継続させた、こうすればイギリスは

日本軍のトップ一人だけ管理すれば良いので効率的である、こうして英日互いに楽な収容所生活であったようだ

Nおじさんの話しも、収容所の話になるとまるで落語だ、もともと楽天的なおじさんだったから、あまりインパール作戦の

話しを悲惨には語らない、だがNHK番組では戦死した兵隊3万人以上に対して飢え死に、病死した兵隊は4万人以上

だったという、マラリア、アメーバー赤痢、餓死が多かったという、参加兵の半分が死に、退却路は死んだ兵隊の遺体

が散乱して白骨街道と米英軍は名付けたという。

補給無視の精神論だけの牟田口司令官の作戦があたら10万の若い命を無駄死にさせたという結果になった

牟田口は終戦後も生き延び、戦犯としても軽い刑ですまされ77歳の豊かな生活で天寿全うした。

Nおじさんも牟田口と同じような年齢で他界した、故郷に帰ってきてからは戦争での身体障害者と認定され、毎年1回

フリーパスのJR旅行に夫婦で行くのを楽しみとしていた。

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勝海舟の120年前の予言

2018年01月29日 14時23分39秒 | 時代検証

「氷川清話」、明治30年頃の勝海舟語録集

明治維新を生き抜いた英傑の言葉にはリアリティがある

西郷隆盛や坂本龍馬、山岡鉄舟、人斬り岡田以蔵にも会っている

その時の談話も載っている

家茂将軍の上洛のお供で、遅れて京にやってきたが、突然のことで宿も無く

坂本龍馬がつけてくれた用心棒の岡田以蔵と夜、当てもなく歩いていたら

抜刀した3名の壮士に襲われて危うくかわしたが、その瞬間、以蔵が抜き放ち

一刀のもとに一人を真っ二つに切り倒した、驚いて2名は逃げ去った

それで勝は後日、以蔵に「人斬りは良くない、先日の様な事は決してするんじゃないぞ」と言ったら

以蔵は「先生、しかし、あのときオレが居なかったら先生の首はあの晩のうちに刎ねられていましたよ」

と言ったので、さすがの勝も返す言葉が無かった・・・・と書いてある

 

明治27年~28年に日本は日清戦争で清国に勝ったけれど、勝海舟はそれ以後の日本を戒め

清国を逆に褒めている、それは現代に通ずる事なので、面白いから書いて見ます(要約)

「シナ人はスケールが大きい、日本人は戦争で勝ったと言って得意絶頂で大騒ぎだが、シナ人は

『日本に、負けたのか』程度で他人事のようにあっけらかんとしている、それもそのはずで

外国にシナが負けようが、シナの朝廷で戦争して皇帝が何度も変わっているが、シナの市民は

『さようでございますか』くらいで気にも留めない、なぜなら市民生活は戦争に負けようが、皇帝が

変わろうが大昔から少しも変わらないからだ。 日本人は鉄砲戦争に勝って喜んでいるが、経済で

負ける方がよっぽどひどいことになる、日本人は経済戦争ではシナ人にとてもかなわない、

おれはそれが心配だ。」

「日本人とシナ人を一緒だと思っちゃいけない、日本は立派な国家だが、シナは国家じゃ無い、

あれはただの人民社会だ、だから政治なんかどうなろうと関係ない、自分さえ儲かれば良いと思っている

だから外国に領土を占領されようとも気にもしないし、欧米強国が都市に進駐すれば強い用心棒を

雇ったくらいに思って、かえって喜んでいるかもしれん。

占領された土地だって、その国がまた斜陽化して出て行く日がくるだろうから、そのとき賠償金をとれば

いいと思っている。 外国がいくらシナを自分のものと思っても、香港も上海もシンガポールもすべては

シナの実力のうちにあるから、シナ人は少しも慌てないのだ。」

「シナはさすがに大国だ、気短な日本人と違い、一種気長く大きいところがある。 日清戦争で自慢の

艦隊が全滅し、旅順など日本の手に落ちてしまったが、少しも驚かず平気だった。

日本人はそれを見て無神経な奴らだとあざ笑うけれど、その無神経さに大国民の大きさが見える

北洋艦隊の提督で日本との戦いで全滅し責任をとって自決した丁汝昌なども大国の気風をもった人物だった

話したことがあるが『我が国は何事につけても貴国(日本)より、ずいぶんと遅いけれど、そのかわり一度

始めたことは決して退歩しませんよ」と言っていた。 シナの恐るべきところはここだよ、日清戦争には勝ったけれど

日本とシナを比べてみたとき、おれは日本の将来を案じるよ」

 

この予言、どう思います?

 

 

 

 

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欲望ある? ない? わからない?

2018年01月08日 08時58分28秒 | 時代検証

ストレートに言えば欲望  欲しい物だらけ やってみたいことだらけ

実際私たちの年代では、リタイヤした人でも、出来ることは気兼ね成しに実行している人が多い

すなわち人生をエンジョイしている

 

バブルの頃、田舎の商売人も景気が良く、建材関係の地元企業の慰安旅行は毎年

台湾や東南アジア。  魚屋だって台湾に沖縄、個人的にも若い連中は韓国、フィリピン

グアムなどへ。  

工務店の友達もよく言うけど、「当時はサッシ何枚か買うと「韓国ご招待」って時代だった、裏金が溢れて

処理するのに四苦八苦の会社が結構あってね」などという

当時30代の私も海外旅行に行きたかった、父に行きたいと言ったら「海外旅行など60歳過ぎてからで

いいもんだ、若いうちは働け」と身も蓋もない

飛行機が苦手な父の代理で、フィリピンと台湾に行ってきたけど、フィリピンは完全に営業で知らない人ばかり

面白くも何ともなかった

ようやく父から「ちちばなれ」した50代から、日本の外?に遊びに行くようになったけど、やっぱり年代別の旬がある

どうやって見ても30代の楽しさは60前後では味わえない

60には60の楽しみ方があるけど、あの頃の楽しい仲間達とののびのびした遊びの復元はあり得ない

過ぎ去りし日々は戻らず、せめてと子供(といっても40近い)に「今のうちに遊んでおけよ」と甘いパパだが

今の時代の若者の感覚は、バブル時代の我々とは大いに隔たりがある

心の奥からウキウキとしてはしゃぎまわった我々に比べ、何の欲望も欲も無いように見える

確かに50歳までの男が半分結婚していないなんて、我々90%以上の世代には理解できない

ウキウキしている30代、40代をあまり見かけない、話しかけても反応はないし、何を楽しみに生きてるんだろう?と

いつも思う。 だけど何か楽しいことはあるんだろうな、でもそれがわからない

だから「大いに働いて、稼いで遊びに行こう!!!」などと親父時代のエールで激励しても無反応、無表情

 

若い頃の、我々年代の遊びの手の内は、父の世代には全部バレバレだった、なぜなら父親世代とほとんど遊び方が

変わらなかったからだ

飲んで騒いで酩酊して、気がついたら家の布団の中だっただとか、下水に顔を突っ込んだまま寝ていたとか

赤提灯の店ではママも酩酊して「勝手に好きな物飲んでよ、私はもう面倒くさいから」などと一緒に大騒ぎしたり

それが30代40代の遊びだった・・・・・・けっして褒められるようなものではないが、みんな元気だったなあ

今の時代は不思議な世の中だと思う、息子世代の考えがわからない、将来の夢だとか何も語らないし

ウキウキ浮かれることも無い、欲しい物もあるだろうけど、それも口に出さない

テレビで長嶋一茂が同じような事を言っていた、「今の若い人は何々がほしいって言わないよね、おれたちは

欲しい物だらけだったな」

同感だ、欲しい物だらけ・・・・・・・今だって同じ・・・・・・欲しい物だらけ、やってみたいことだらけ

 

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おいらの部屋にも「こたつ」

2017年12月29日 11時07分25秒 | 時代検証

今日は穏やかな朝です、さいわいに今回の大雪注意報も我が町では空振り

まったく雪は消えてしまって、まれに空き地に白くなっているだけで、道路も乾燥しています

ただしどんより空はやはり北国だ

今日は昼に富山市へ雪を見に行ってきます。

 

二十年くらい寒い冬を越してきた、寒い部屋で、そしてそれに慣れた

ところが今回のPねこの入院で、自分の我慢が女房殿、わんこ、にゃんこには過酷だったことに

ようやく気づいた。

冬でもエアコン無し、こたつ無し、女房殿の部屋は石油ストーブ、私は背中に700Wの電気ストーブ

そして熱燗か焼酎お湯割り、それと布団で冬を過ごしてきた、さすがに年齢と共に厳しくなって

去年900円のミニ電気あんかを買って布団に入れるようになった。

 

Pねこ入院中に、Pねこの為にこたつを買った、わが家にこたつが来たのは20年ぶりくらいだろうか

こたつに入ってテレビを見ていた記憶はある

一昨日の夜、自分の部屋で思ったのだ「この部屋にこたつがあれば、横になってうたた寝出来る」と

4畳半の部屋には木製4段の本棚が2つ、6段の和箪笥、開きの洋ダンス、そしてベッド、3段物入れ

そしてテーブル1にはテレビとモニターとコンポステレオとレコードプレィヤー

残るは畳3分の2の空間だけ、その半分はパソコンが乗ったテーブル2が鎮座

電気屋へ行って3800円のこたつを買った、最大出力300W、因みにネコちゃんのこたつは5000円

700W

テーブル2を片付けて、こたつを置いてみた、なんとか横になってこたつに入れそうだ

もう全てぎりぎり、仮住まい故しかたない、女房殿に明け渡した本宅の風通しの良い10畳間が恋しい

 

この狭い部屋を見て昔を思い出した

新潟市で板場修行していた昭和44年~、当時は日本中で学生が安保反対運動を展開していた

新潟市も例外ではなく、中学時代から仲良しであったKが新潟大学工学部に入学して、高校卒業と共に

一緒に新潟市に移り、夜な夜な行き来していたのだった

彼のアパートは学校町にあった、下宿屋だ、県高(新潟高校)の近くで2階建ての古びた大きなアパートだった

その中には日本中から集まった新大生(新潟大学生)が下宿していた、たまに遊びに行った

そんな中で岡崎から来ていた農学部の学生Hとは気が合った

市内の県庁付近でおこる学生デモの中心は新大生だったが、HもKも学生運動には無関心なノンポリだったが

このアパートには学生運動の猛者も何人かいた

そいつの部屋を覗いたことがあるが、まさに今日の私の部屋の如くで、狭い部屋の真ん中には小さなこたつ

本来教科書が乗るべきテーブルには「ガリ版」が置いてあった、その横には刷ったアジビラどっさり

今の若者には「ガリ版」はわかるまい、当時としてはプリントゴッコが発売されるまでは一般人にとってもっとも

効率よい印刷機だった

蝋を薄く塗った紙をやすりのようなざらざらな板の上で、鉄の芯の鉛筆(鉄筆)でガリガリ音を立てて字や絵を描く

それを謄写版に貼って、インクをつけたローラーで一枚ずつわら半紙に印刷していくのだ

そういったアジビラ(アジテートびら)作りをしていたのだった

乱雑に散らかった、いかにも安保反対闘争学生の部屋、今自分の部屋を見ながらそれを思い出していた

彼らも卒業後は何事も無かったかのように、ぼさぼさの長い髪を切り七三に髪をわけて社会人となり

バブル時代を戦う企業戦士に変身していったのだった。

 

 

 

 

 

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世代間ギャップ

2017年11月24日 08時07分00秒 | 時代検証

テレビやラジオでトレンディな情報が耳に入るようになってきた

先日は、男子トイレで、そのままジッパーを下げるのは昭和育ち、ベルトを外してから

ジッパーを下げるのは平成育ちと言っていた

気になって、それとなく気をつけるようになったら・・・「なるほど」だった

じゃあ一体、それは何故なのか考えてみた・・がわからない

最近、細身のズボン(今はパンツというらしい)を買ってみた、それで謎が解けた

昭和育ちと言えば、まあ60歳以上をさすのだろうが、このあたりから上の年代は結構

前部分がゆったりしたズボンを履いて居る、というかそういうズボンデザインが多い

だからジッパーも自然長めで、前を開くのがゆとりがあって楽なのだ

ところが今風の若者向けのズボンはローウェストで股上が上がっているから、あれを

出すときは窮屈だ、故にベルトを緩め、ホックを外さないでするとたいへんなことになる

そうだったんだ、ひとつトレンディな疑問が解けた

 

日曜には待ちに待った同級生との京都旅行、東京近辺や名古屋、京都からも同級生が集まり

20人ほどのお楽しみになりそうだ

そんな話しを会社の昼休みに女子社員としていたら、25歳の女子が「社長、私もお休みもらって

京都へ行くんです」言った、私より1日多い二泊三日だそうだ

大阪まで電車で行って、たこ焼き何とやらに寄って、それから京都入りだそうだ

予定は相手に任せてあるので京都ではどこへ行くのか全くわかっていないという

「どこのホテルに泊まるんだ」と聞いたら「名前わからないけど、写真見たらめっちゃ凄いホテルなんです

凄く広くて**風呂があって、あれもあって、これもあって、ジャグジーもあってetc・・・・・・」

「おいおい、そっれってまるっきしラブホみたいだな」と驚いて言って見たら

「そうですよ、ラブホテルですよ」とからっと言う、おじさんちょっとドキっとして、あらぬ事を想像しそうに

なったけど、そういえばラジオか何かで聞いたことがあった

「そうか、今はラブホでの女子会が大流行なんだってな」ときわどいところで知ったかぶりが出来た

「社長、知ってるんですね、そうなんですよ安いし、私たち何回もやってますよ」

なんとか女子の前でカッコがついたyottinでした

 

 

 

 

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