ホッとしたい時間! *** yottin blog ***

ホームグラウンドは富山.長野.新潟
趣味、興味、好奇心、出会い、いろいろ書いています
お好きなジャンルでどうぞ

WI-FI環境になったけど

2019年02月09日 18時41分14秒 | 時代検証

時代の波には抗しきれず、我が店も昨年からWI-FIを導入した

導入したのだけれどWI-FIの意味がわからない

数年前にauの代理店が無料で設置させて欲しいと言って来たので、断る理由も無くOKした

ところが田舎ではDOCOMOがかなり強いので、さほどの喜びの声はきこえてこなかったのだった

今回は簡単なfree-spotのものを専任のCP販売会社に任せて設置してもらった

思ったより安い予算だったので喜んでいるが、これもまたピンから切りで、セキュリティの安全性と

接続の早さ、容量の大きさなどユーザーはなかなかうるさい

私もタブレットでいろんな通信をしているのだが、店にい持ってくればWI-FIで料金を心配しないで

接続(パケット通信と言うのがそれらしい)できるよと若い社員に教えてもらった

私もわからないと言いながらも、ガラケー2台、タブレット1台、パソコン3台を使っている

フェイスブックもLINEも去年から一部始めた、あまり時間を割くのが嫌だから「ともだち」だとか

「いいね」だとかは必要最小限度にしている

商売宣伝にいいよ」とも言われたが、それもネタがあってのこと、ネタを考えるのも限られた時間の中では

容易でない

会社のHPの更新、グルナビの更新、あっという間に月日が過ぎて冬になっても夏の特集を掲載している

ざまである、これでは逆効果というもの

ページ数をしぼって機能的なページ作りをしないと

WI-FIにもどるが、いままではパソコンの契約(今もパソコンはフリー)は使い放題だったので、通信料金を考える

必要が無かった、でも携帯とタブレットは2Gとか小さいのですぐに追加料金が発生する

特に携帯ではパケット通信は一切行わないので、DOCOMOからのお知らせなんて言うのも開示したことが無い

メールだけみるが、それも開けないでブラインドで見ている

でも今日、「ガラケーだって仕組みはスマホと変わらないのでは?、ならばガラケーにもWI-FIが適用できるのでは

ないだろうか」という素朴な疑問を持った

一昨日携帯を2台機種変したばかりだったので尚更だった

 

なぜか知らないが、電話屋がやってきて「機種変換するのにお得な時期がやってきましたよ」と3台あるガラケー

のうち2台を新機種に交換、1台は解約しましょう、と言った

確かに数年経ったからいいかもしれないと話に乗った、それ以前に今のSHの携帯には致命的欠陥があって

5月には解約か機種変をしようと思っていた矢先だったから、丁度よかった

何が悪いかというと、ほんの僅かな刺激でサイドのマナーボタンが作動して、知らぬうちにマナーモードになる

これで何度、お客様に謝ったことか、全く使えない携帯だったのだ

今回のものも同じサイドボタンなので「また同じなら要らない」とキツく言ったら、初期設定で作動しないようにできます

というので、それで手を打った

さて・・・問題はWI-FI受信機能がガラケーにあるかのかというのが第一の問題、様々な機能を探しまくったら

あった、すぐに2種類ある電波を同期させてみた、難しい方は{問題あり}メッセージ

簡単なほうは美味く同期出来た

 

でも考えて見た、会社にいる限りネットはパソコンで見ることが出来る、画面の小さい扱いづらい携帯で見る必要は無い

意味ないじゃん

それより見放題の契約になっているパソコンを一番安いプランにした方が得なのでは?と素人の私は思った

正解だろうか?(固定のパソコンだから)

パケットなどと言うが、どんな単位なのかまったくわからない、どれだけにすれば何が見られるのか、できるのか

大概はニュースを見たり、ゲームをしたり、音楽を聴いたり、小説を読んだり、いろいろ調べたりするんだろう

やることによって消費容量は違ってくるのだろう

ネットを携帯で利用しようとすると警告が出る、「高額のパケット通信料が発生する場合があります、お得な

パケット料金契約をお勧めします」

このお得がいくらくらいなのかも想像がつかない、私は1万円くらいと思っているが、若い子に聞くと3000円で

見放題ですよ」なんて言うのがいる(そんなバカな!)と思うが言い張るから、それ以上聞かない

昼休み中、スマホをいじっていてそんなわけないだろうと思ったが、それがWI-FI設置の恩恵なのだと

ようやくわかった

だがWI-FIの利用可能になった私の携帯だが、未だに疑心暗鬼でネットを見ることが出来ないでいる

 

 

 

 

コメント (6)

キャッシュレス時代

2019年02月08日 10時51分45秒 | 時代検証

一昨年初めて訪れた台北の旅行社ツアーは、去年も一本来ただけだったが

今年は2月3月だけで5本予約が入った、ようやく信頼感ができたのかも知れない

いずれ中国観光客が・・・・と、その日のために10年前に中国人スタッフを雇用したのが

ようやく役に立った、もっとも中国人では無く、台湾ツアーなのだが効果は同じだ

2020年に向けて、というより今年の消費増税に向けて、ややっこしい法案を頭の良い役人が

いろいろ考えて国会でももみ合っているが、平民には増税以外チンプンカンプン

外で食べればどうとか、持ち帰ればどうとか、途中で気が変わって店内で食べればどうなるかとか

日本最高の人たちが考えたにしては、あまりにも幼稚な議論が続いている

老人世帯や低所得層のための対策とか、すべてカード決済にするとか、それも時限的なものなので

小商人は導入しても、数年で不要になるかもしれないとか、専用レジを導入すれば補助金が出るとか

もう支離滅裂で何から手をつければいいのかさっぱりわからない

世の中は確実にキャッシュレスに向かっていて、それを見越したかのように様々な大企業が

カード決済、スマホ決済に参入を始めた、もっと大きな物では仮想通貨市場だとか、いよいよ

昭和生まれの手には負えない世界になってきた

日本通貨(円)のように確実な安心があればいいが、ビットコイン(ピットコイン?)の安全性はまだまだ保証

されていないようだ。下手打てば小さな国家予算くらい吹き飛びそうなサギが起こるかも知れない

何もかもネット、SNSの利用が無ければできなくなる時代がくるかもしれない

いまだガラケーで抵抗している私だが、いまのところ不自由は感じていない、現金払いは安心で最強だ

税金にしたって社会保険料も含めて種類が多すぎる、あきらかに昔より税の重みを感じるようになった

いっそ消費税35%とかにして、それ以外の税金は「なし!」とした方がわかりやすい

どうせ全部足せば40~50%位にはなっているだろう

キャッシュレス市場では中国や韓国に大きく後れをとっている日本、日本の円の信頼度と強さがあるからだろうが

押し寄せてくる波に対応しないと、これからの商売は先細りになる

中国でも韓国でもアメリカでもどんどん来い!という盤石体制が必要だ、だが零細にとってカード会社の手数料

3~6%はバカにならない、これをうまく対処しないと売上増えて赤字なんて事もあり得る

より頭が必要な時代を迎えようとしている。

 

 

コメント (2)

一つの時代が終わっていく

2018年10月28日 06時44分57秒 | 時代検証

ちょっとショックな気分

昭和40年代から、父と共に魚組合を引っ張ってきた最後の長老が昨日の朝亡くなった

97歳だった

40年前には、流水で濡れたコンクリート床の上で立ちっぱなしの魚屋は、60歳までしか生きられないと

言われたこともあった

実際、父の一回り下の魚屋は40代から60代までに次々と若死にして、空白の世代であった

それは昭和一桁生まれの人たちで、少年時代を戦争の中で過ごした人たちだった、戦中、戦後と

10代20代を食料統制のひもじさを体験し、高度成長期に入った頃40代、一気に贅沢三昧の食生活

景気の急成長と共に暴飲暴食、遊び呆ける生き方に急激に変化して、体がついていかなくなった

一回り上の父たち大正生まれは、軍隊で心身ともに鍛えられた人たちで、高度成長でもバブルでも

羽目を外すこと無く堅実な生活を送ったから、たいがい80歳以上まで生きて、過去の魚屋の負のイメージを

払拭した

軍隊ではご飯一口、30回とか50回とか噛むように訓練されたという、だから子供時代から胃弱だった父も

軍隊で胃弱が治ったそうだ

60歳以上まで生きられないと言われた魚屋、ついに亡くなったYさんが最高記録97歳をうちたて

父も94歳、共に働いた母も93歳、父の親友だった魚屋Iさんも94歳迄生きた、他にも90歳を超えて

亡くなった先輩が数人いる

そんな魚屋の歴史を知る私の年代も既に65歳~70歳に至った、父やYさんIさんの熟年期の仕事ぶり

猛烈な個性、ひくことを知らない行動力、あのパワーも、この人たちのことも50歳以下の現役世代は

ほとんど知らない

39歳になる息子や、40歳の板前に「Yさんが亡くなったよ」と言ったけど、全く無関心だった

私たち以上の年代は魚屋の誇りを持って働いていたけれど、今の世代は自然消滅していく地方の魚屋の最後の姿

あの時代の熱気も活気もひとっかけらもない、10年後には市場の存続さえ無くなるのでは無いかと思う

なんだろう?華やかだった我らの青春時代と父たちの魚屋人生はダブる、今日土曜日、銀行へ行ってきた

私の青年期まで、人でごった返していたメインストリートも人っ子一人いない午後4時半、車さえ僅かに通るだけ

田舎の旧商店街は死んだ、若者は相変わらず熱気を持っていても、この町を生き返らせるより、より賑やかな

町を求めて出て行く、。 この町にいたとしても、この町の貧弱な商業をあざ笑って、都会で買い物をする

この町で育った子供たちは大学まで出してもらっても、この町には戻らない、この町で働いて給料を得る若者も

この町にお金を落とさない。

そう言いながら、わたしもネット通販の利用が多くなった、PCの中に店舗とアイテムが満ちあふれて迷う

小さな町の小さな店舗で僅かなアイテムの中から選ぶ時代は終わった、それでも少ないアイテムながら

客を引きつける商品ばかりを並べている老舗もあるのだから、やはり商いは地域性ばかりとも言えない

頭から田舎の店はダメだと決めつけない思考も必要だ、まずは現場を見ることだ

 

予測では2050年には、この町の人口は半分に減り、もはや市と呼べる人口では無くなるそうだ

我が町を中心に東西南北半径50km、直径100kmの半円の中の市町村の合計人口は50万人に満たない

過疎地域だ、人口がどんどん増えていた時代、元気いっぱいの町だった時代、人が活き活きと生きて助け合っていた

時代、今そんな時代は閉じようとしている。

 

 

コメント

魚屋

2018年09月17日 17時24分44秒 | 時代検証

手元に6つ切りをA3に引き延ばした写真がある

昭和47年、我が町の魚市場が新築移転した記念に撮った写真で、15名ほどの魚市場の職員と

魚屋が70名ほど写っている

一番若いのは、私と同年でスーパーの鮮魚係、父は写っているが私はこの中にいない

当時、鮮魚商組合員は90名を超えていた、その多くは約400平方キロのこの町の各地域に

店を構えて、住民の台所として活躍していたのだ

あれから45年以上がたち、写真の人たちの85%は天国に召された、頑張っていた父も今年2月に

先に逝った魚屋の仲間の元に旅立った

父が、この写真のすぐあとに鮮魚商組合だったものを法人化して協同組合に変えて初代理事長となった

「これでいつでも我々自身が魚市場を開くことができる」と言った

のを覚えている、結局組合は市場を開設することは無かったが、写真の魚市場が倒産したときが

唯一チャンスだったのだ、だが町中を巻き込んだ様々なしがらみがそうさせなかった。

その後、魚屋も市場の衰退と共に衰退していった。

今は組合員は40名になり、平均年齢は70歳超え、一番若い魚屋が40歳を過ぎた。

写真の頃には正組合員90名の他に、魚屋ジュニアの青年部があって、それだけでも25名ほどいたのだ

私もその一人で、多くが親のあとを継いで魚屋になった、それらの者も60~75歳くらいになって、その子で

魚屋を継いだ者は5人しかいない、その5人も40歳を過ぎ、その後は誰も居ない

40名の組合員で、町の中で小売店舗を構えているのは4人だけ、あとは鮮魚センター、料亭、魚問屋、

居酒屋、スーパーなどの法人ばかりで、移動販売や仕出しで生計を立てる個人が少し

もう鮮魚小売店は都会の飲食店などに地魚を送る、「送り」で生計をたてるしか生きる道は無いようだ。

そんな寂しい状況の中で、先日われわれの先輩である大分の78歳の元魚屋さん、尾畠産が、行方不明の2歳の男の子を3日ぶりに

救助した明るいニュース、「60歳まで、魚屋で儲けさせてもらったお礼に、ボランティアで恩返ししたい」と言っていたが

大金星だ。 様子を見ても、いかにも魚屋らしく、はきはきとものを言い、気早な性格も垣間見える

一心太助の時代から魚屋は尻が軽く(浮気者という意味とは違う)気早で人情があって、陽気でズケズケものを言う

一本気で正義感、金は無くても「へへいのへい」で愚痴など言わない

私は25歳から12年間魚屋をやったが、魚屋としては中途半端で一心太助のようなわけにはいかない

世の中も一心太助では渡っていけない、いやらしい世の中だ、だからこそ尾畠さんのスカッとした心根がまぶしい

「**ちゃんが僕を呼んでいるから、必ず見つかります」と捜索前に言って、出発後たった20分ほどで

発見した。 3日間大勢の人たちが探しても見つからなかったのだから、尾畠さんの本気度がわかる

人間の鏡、魚屋の英雄、こんな神様みたいな人が居るのが不思議だ、まだまだ俺も数十回焼き直しだな。

 

 コメントに答えて

 尾畠さんは、魚屋から全ての欲を抜き去った最終形の善人の姿だと思います。
昔の魚屋の心根は、地域の中で役に立つことを一番の喜びとしていたことだと思います
地域の情報も魚屋に集まり、地域の一軒一軒の家族構成を知っていて病人や老人を気遣い
貧しい人には掛け売りして催促もせず、「あるとき払いでいいから」なんて情も見せる
買い物に来られない家には、イワシ数匹でも配達するし、細かな調理も嫌がらずしてくれる
休みの日でも頼まれれば「はい、いいよ」と気軽にやってくれる
大手業者の台頭と消費者の意識、生活環境の変化でそんな魚屋がどんどん廃業していきました
人情が薄れていく世の中で久しぶりに魚屋さんの原型を見せてくれた尾畠さんです。

 

コメント (2)

父の戦争 最終回

2018年08月19日 14時23分55秒 | 時代検証

3月10日の東京大空襲のあと、小笠原諸島の重要軍事拠点、硫黄島が占領された

およそ2万人の日本軍守備隊は一ヶ月以上小さな島で戦い続け、アメリカ軍に多大な損害を与えたが

日本軍はほとんど全滅した。 アメリカ軍は5日で占領出来ると考えていたが30日以上かかったのだった。

しかし硫黄島を占領した意義はアメリカにとって大きかった、硫黄島には三つの飛行場があり、そこから

飛び立つ戦闘機によって、更に南のマリアナ諸島から日本を爆撃に行くB-29を攻撃する

それを避けるためにB-29の編隊は硫黄島の東西を大きく迂回しなければならず、帰りの燃料不足になって

海上に墜落、不時着することがあったからだ。

ここを占領したことで今まで航続力が小さいためにつけることができなかった護衛戦闘機もつけられる

これによりB-29の日本爆撃はより多くなり、護衛機がついたので低空爆撃も安全になった

そして高速の戦闘機は単独で飛行場や工場、列車や艦船を銃撃するようになった

そうした攻撃は調布の飛行場にも行われた、そして迎え撃つ為、砲を操作していた兵隊が銃撃に遭って

四名が戦死したのである、高射砲隊ではこの戦争での唯一の死者であった

三名はすぐに身元がわかったが、一名だけどうしてもわからなかった、この基地の兵隊では無かったのだ

その後、我が隊からそちらへ行った**が戻らないが?という問合せがあって初めて身元がわかった

たまたま調布に用事に来ていた兵隊が空襲に巻き込まれてしまったのだった。

 

東京は、もう一度大爆撃に遭った、3月10日以上の規模だったが、それを教訓にして市民はいち早く逃げた

そのため犠牲者は遥かに少なかった、しかし東京市の大部分が焼けてしまった。

もう爆撃する市街地も無くなり、B-29は別の都市の爆撃に変更して東京に来なくなった

そうすると帝都防衛の飛行機も高射砲も閑になった

ある日、飛行場に飛燕だけで無く、様々な飛行機が勢揃いしていた、父たち高射砲隊は驚いて見ていたが

やがて全て飛び立って、調布の戦闘機だけが戻ってきた。

後に知ったが、これらの飛行機は特攻機として鹿児島へ飛び立ったのだった、それを調布の航空隊が護衛して

途中まで行ったらしい。

その後、飛燕の部隊の一部も空襲が激しい名古屋方面に転属していった。

そして、12センチ高射砲も取り外されて、富山の港へ移送されて港の防衛に使われた。

調布のそれ以後は、たまに訪れるアメリカの戦闘機と迎え撃つ日本の戦闘機の空中戦があるくらいで、爆撃機を砲撃する

事はほとんど無くなった。

そして8月15日の終戦を迎えた。 父たち通信兵はアメリカ軍の日本向け放送も受信していたので、日本の敗戦を

確信していた、そして仲間の兵隊たちにもそれとなく話していたので、知らぬは蚊帳の外の大隊長ばかりであった。

玉音放送を聞くと、大隊長は整列している兵隊の前で崩れ落ち、やがて自室にこもって出てこなかった。

 

終戦と共に、日本兵は一般市民に戻り、それぞれの故郷へ家へと帰っていったが、父は通信兵として残された

通信業務が重要な仕事となったからである、ようやく解放されたのは9月半ばであった、同じく残された炊事班長が

「みやげに持って行け」と言って、米と砂糖をリュックいっぱいに入れてくれた。

父は入隊して1年足らずで上等兵になったけれど、下士官にならないかという話しを仲間の兵と共に上官から

言われたことがあった、激しい戦闘で戦地の下士官は次々と戦死して、下士官不足に陥っていたからだ、

そんなことは父たちも内地でも知っていて、敗戦色が濃くなった消耗率の高い下士官に志願するものは居なかったそうだ。

除隊した父だったが、亀戸の家も家族も無くなって行くところが無かった、とりあえず上野に住んでいる上官で友だちだった

遠藤さんを頼って行くと、上野車坂の下宿屋を紹介してくれて、しばらくはそこをねぐらにしていたが、思い立って

長野市の善光寺の僧侶に嫁いでいた、義父の姉のところに行った、実はそこの娘と許嫁に(いいなずけ)なっていたのを

親も家も無くなったことを理由に解消する為だった。        おわり

 

 

 

コメント

父の戦争3

2018年08月18日 08時54分57秒 | 時代検証

昭和20年、既に太平洋ではアメリカとの全面戦争で国の全資産と国民を投入した消耗戦を繰り広げて

既に3年が過ぎ、一時はオーストラリア本土を攻撃したほどの広大な支配地も、今のインドネシアの島々や

グアム、サイパンを占領され、ついに南はフィリピン、西は硫黄島まで攻め込まれていた

大陸では中国軍と8年にわたる死闘がいよいよ泥沼化していた、こちらは兵器より兵対兵の陸軍の戦闘が

主であった

またインドシナ半島(ビルマ、ベトナム、マレー半島)ではイギリス、インド、フランス軍を相手に19年のビルマ、

インパール作戦の大失敗(5万人以上の戦死者、餓死者を出した)で追いつめられていた。

国内では日増しに食料が不足し、兵器に使う鉄なども無くなり、お寺の釣り鐘や家庭のアルミ、鉄類の炊事道具まで

国に取り上げられた、国民は質素倹約を常とし、戦争に関係の無い工場は閉鎖されて、軍需工場に代えられた

、国民も個人生産では無くこうした工場に割り振られて「お国の為」「贅沢は敵」「欲しがりません勝つまでは」などの

スローガンの元、必至に働いた

当然国内生産が無い石油は占領地での自給以外無いので、極端に不足して軍艦や飛行機を

自在に使うことができなくなってきた。

このためB-29が編隊で飛んできても飛行機が迎え撃つことが少なく、ほとんど高射砲に頼るしか無くなってきた

アメリカ空軍は自由自在に太平洋岸を爆撃出来るようになった、特に東京は危険で小学生を学校ぐるみで田舎に

疎開させ、更に一般市民も田舎を頼れる者は、疎開を始めた

父の家族、義父と母も福島県三春の、母の従弟が「こっちにおいで」と言ってくれたので、3月8日に行く予定だった

ところが父の休暇が3月8日で帰ってくるので、3月12日に予定日を延ばしたのだった。

これが運命の分かれ目であった

父は8日に今は平和な家庭に落ち着いた家で楽しい一夜を過ごして、調布の兵舎に戻ったのだが

3月10日の午前零時過ぎ、空襲警報が鳴り響き、父たち部隊はそれぞれの配置についてB-29を迎えたが、後手に

まわり、奇襲攻撃となった。

B-29の編隊は最初江戸川、上野、千住、砂町の四角形に油を撒いて火災を発生させた、これは住民を逃がさない

作戦だったという説もある。

そのあと、数百機の大編隊が2時間にわたり、四角形の中、上野、浅草、日本橋、亀戸、錦糸町、千住一帯を焼夷弾

(爆発するよりも、大火災を引き起こす爆弾)で焼き尽くした、この中には東京市民100万が暮らしていたけれど

10万人以上が殺害されて無残な黒焦げの遺体となった。

この様子は、東京墨田区本所の関東大震災と東京大空襲の犠牲者の慰霊堂(両国第一ホテルの北隣)に行けば

見ることが出来る、相撲見物や大江戸博物館見学のついでに立ち寄ってみてはどうでしょうか。

広島、長崎の原爆、東京大空襲、これが10万人前後の一般市民の犠牲が出た太平洋戦争の「日本三大.都市殺傷爆撃」

である。 「これによって戦争が早く終結してアメリカ人青年の死者が少なく済んだ」と戦勝国は言った

ともあれ、この空襲で父の義父と母は今日まで骨の一片も発見されないまま73年経った

 

調布の部隊からも下町の空が真っ赤に燃えているのが見えて、仲間の兵が心配の言葉をかけてくれたがどうしようも無い

翌日外出の許可が上官から出て、急いで亀戸に向かった

上野駅で省線から下車して外に出ると、一面の焼け野原とくすぶる家屋の残骸、普段は見えない筑波山が上野駅から

見えた。

歩いて浅草を通って、亀戸に向かった、浅草の惨状もいずことも同じであった、一番仲が良かったセイおばさんの家も

隣の帝劇ガールだった美人のおねえさんの家も、他の残骸家屋同様で、どこにあるかもわからない

心が次第に急いてきて、早足になった。 わが家の場所は北十間川の福神橋交番の位置関係ですぐにわかった

しかし、わが家も焼け残った木材がくすぶって煙が出ているだけで、一目でダメだとわかった

そこらからにゅーっと出てきて「おい!かず!」と呼びかけられる気がする、しかしそれは願いでしかなかった

焼け跡ばかりで無く、十間川には多くの遺体が浮かんでいて、消防団なのか鈎に引っかけては引き上げている

道路にもあちこちに遺体が転がり、それを運ぶ人たち、ケガをして呻っている人、地獄絵であった

そのうちに隣の住人に偶然で会い、その日の夜のことを聞くと、一緒に亀戸天神まで逃げたが、人でごった返して

とても居られないので、千住目指して福神橋を渡ったが、父の親たちは亀戸駅の方に行ったのを見たのが最後だと

言った。 亀戸駅方面での死者は多いが、錦糸町公園の救護所に行けば何かわかるのではと言ってくれた

錦糸町公園には遺体が山積みになっていて、どんどん運ばれてくる、聞いてみても拉致があかず、探してもとても

わかるはずも無かった、それで今度は浅草寺目指して歩き出した

途中、浅草松屋デパートの地下壕の現場は凄惨な有様だった、半焼け生焼けの遺体は、ギュウギュウ詰めの

地下壕の中で酸欠になり、表に出ようとしてそこで焼かれ、あるいは空気も燃えたという中でまたしても酸欠

もがき苦しみ抜いて死んだ恨みの表情が生涯まぶたに焼き付いて忘れることができなかった。

浅草寺の裏手がセイおばさんの住んでいた浅草象潟(きさかた)町だった、ここも全滅だが浅草神社は残っていた

境内には錦糸町同様に遺体の山積みがそこかしこにある、もうどうしようも無い脱力感が襲ってくるばかりだった

不安と苛立ちと焦り、そんなとき境内の紙に目がとまった「御本尊無事」と書かれていた

「こんなに悲しいときに、人を救うべき坊主が自分さえ良ければ嬉しいのか!」無性に腹が立った、そして

(神も仏も信じるか!!)、その日から父は無神論者になった。

今日は夕方までに隊に戻らなければならないので、後ろ髪を引かれる思いで省線に乗った

翌日、今度は1泊2日の特別休暇がでたので、最初に千住のおじさん(義父の弟、セイの兄)を訪ねた

父より20歳以上も年上なのに、顔を見るなり「どうすりゃいいんだよ、オイオイ」と声を上げて泣き出したので

(こりゃあ頼りにならない)と思い、そうそうに退散することに決めた、それにしても妻が乳飲み子を抱いていたので

この空襲の日々に子作りとはと、半ばあきれた、この子が三人目の娘で、終戦後4人目も生まれる(全員女)

結局、何の成果も無く、その夜は品川田町へ行き、入隊前に勤めていた会社が焼け残っていたので、そこに

泊めてもらった。                                          つづく

 

 

 

 

 

 

コメント

父の戦争2

2018年08月17日 09時56分23秒 | 時代検証

昭和16年12月8日に始まったアメリカとの戦争は17年末までは日本が有利だったが、同年の5月には

海軍はミッドウェー海戦でアメリカに敗れ、主力航空母艦の大半を失ったため、南方での制空権(飛行機による

戦闘能力)は大幅にダウンした、そのため昭和18年に入ると、海戦能力では互角だが、航空機力でアメリカが

圧倒して、日本の艦船を空から攻撃した

そのため輸送力が落ちた日本軍は武器弾薬食糧不足になり、日本軍が占領していた南方の島々が次第に

アメリカ軍に占領されていった。

日本本土に近づけば近づくほどB-29の活動範囲は広がり、往復時間も短くなる

父が入隊する2ヶ月前の19年7月にはサイパン島の守備隊が全滅、住民女性(日本人)たちが島の端の

崖から大勢飛び降りて自決した悲劇はあまりにも有名だ

今や観光地となって戦争を知らない世代が陽気に遊んでいる島で74年前に、同年代の若い女性たちが

戦争の犠牲になって亡くなったことは忘れ去られようとしている

翌8月にはグアム島の守備隊が全滅、アメリカ軍は占領したこれらの島にB-29が滑走出来る飛行場を

あっという間に作った。

これで今まで距離的に不可能だったB-29による日本爆撃が可能になった

これで父たち防空部隊が俄然忙しくなってきた

などと文字で書けば簡単だが、この間既に100万前後の兵隊さんが戦死しているのだ

兵隊さんと言ったって、この前までは大工さんだったり、教師だったり、サラリーマン、魚屋さんなどの平凡な市民だ

 

父は軍隊生活であるが、休暇をもらえる、こうしたことが毎日が地獄の一丁目で寝ることさえママならぬ南方軍の兵士

と違う内地兵の気楽さでもある

父のように近くの兵は月3日一泊、ちょっと向こうは月2回の2泊、遠方は月一回の3泊だったそうだ

父が亀戸に戻ると、仕事嫌いだったはずの義父が近くの軍需工場に働きに出かけて、いくばくかの賃金を稼ぐので

母は喜んでいた、そして義父は思いがけぬ事を父に言った

「イチ(母の名前)は、おれっちの籍に入れたから、晴れて本当の夫婦になった」

これには驚いたが、10年前から東京で一緒に居ながら、今日まで入籍していなかったことも驚きだった

更に「この際だから、おまえにもおれっちの籍に入ってもらいたい、オレたちは跡取りがいないからよ、おめえに頼みたいのさ」

このあと様々な経由を経て、父は代々続く家の総領の地位を捨てて、義父の籍に入った、それが今の私の姓でもある

この籍の転向は軍隊の中でも公に広報される「*月*日をもって、**二等兵は**の姓名となる」

 

秋になるとアメリカ軍の大攻勢が始まった、フィリピン、台湾、沖縄への爆撃や上陸戦がはじまり、海軍ではフィリピンのレイテ湾で

大海戦があり、戦艦大和の兄弟艦「戦艦武蔵」をはじめ、多くの主力戦艦がアメリカ空軍の餌食となって全滅した

わが日本の航空隊はといえば、戦局が不利に傾いたことで圧倒的な米軍艦船に立ち向かうため、ついに神風特攻隊を考え出して

第一陣が体当たり攻撃を行った。

兵隊もどんどん消耗していくので、17歳以下の少年まで軍隊に志願することを許可した、いわゆる少年兵である

多くがにわか作りのパイロットとなって、神風特攻隊に編入されていった。

11月末には、サイパン、テニアン、グアムからB-29の編隊が飛び立ち東京を空襲した、日本の航空隊も迎え撃つが何しろ高度が

違いすぎて、せいぜい一撃しかできずに戻るしかなかった。

B-29と言っても漠然としかわからない人が多いだろう、アメリカ軍の当時最新鋭爆撃機、プロペラエンジンがが4つ、日本の戦闘機が

せいぜい6~7000m位が活動範囲だが、B-29は一万メートルの高空を悠々と飛ぶ、速度も600kmもでる

しかもグアムから東京を往復して余る6000kmの長大な航続力がある。

長さ30m、翼長40mのスーパー爆撃機、一万メートルの高度でも10人の搭乗員は酸素マスクなしで活動出来るのは

今の旅客機同様、与圧システムがすでに搭載されていたからである

 

調布の戦闘機、飛燕はもともとエンジントラブルが多い機種だが、それが一万メートルまでやっと上っていって攻撃をしても

B-29の三機編隊だけでも40丁もの機関銃が四方八方に火を噴く、機械システムも万全で日本の飛行機よりはるかに

命中精度が良い、逆にやられてしまうパターンが多い

ただ高空からの爆撃なので、爆弾の命中精度は非常に悪かった、それで新しく空軍司令官になったルメイ将軍は、人命より

命中精度にこだわり、B-29の爆撃高度を一気に3000m以下に引き下げた、そのため命中率は格段に上昇して、工場や

飛行場などが大被害を受けた。

飛行場がやられると飛行機も大打撃を受ける、しかもあっても穴だらけの飛行場から飛び立てない、そんなことで戦闘機での

B-29撃墜は難しくなった、その反対に父の所属する高射砲は高度が低い分、命中するようになってB-29に大損害を与えた

また調布の飛燕部隊も銃撃から体当たり攻撃に作戦を変更、飛燕の機関銃を全て取り外して機体を軽くして上空で待ち受け

低空でやってくるB-29の翼をめがけて体当たり、パイロットは体当たり前に脱出して落下傘で生還する、だがすべてうまく

いくわけでは無い、戦死者が日ごとに増えていった。

そして運命の昭和20年3月10日が近づいて来た                つづく

 

 

 

 

 

同盟国の中国へ逃げ込む作戦だった。

だがB-29は基地から基地へ戻る性能がある、

 

 

 

 

 

 

 

コメント

父の戦争

2018年08月15日 09時03分19秒 | 時代検証

戦後73回目の8月15日になった

日本の対米戦争敗戦とアメリカによる占領統治の開始、アメリカの対日戦争戦勝日、朝鮮の対日独立と同時に

米中ソによる朝鮮分割統治のスタート、それが昭和20年8月15日

 

父は徴兵制では最後に近い昭和19年9月の徴兵された兵隊だった

東京亀戸3丁目に住み、品川田町の軍需工場で働いていた父は20歳と1ヶ月だった

召集の日は香取神社に集合だったが、勝利勝利と浮かれていた18年までとはかわり

兵隊は父ともう一人だけ、送ってくれるのも町内会長だけという寂しさで、旗を振って

兵隊のあとを大勢で行列した賑わいなど全く無かったそうだ。

それでも運の良いことに、父は玉砕相次ぐ海外では無く、都内の調布の防空部隊配属になった

しかも通信学校を出ていたので先頭の第一線では無く、若干安全な防空壕の中の通信基地だった

ただ湿気が多く狭い穴の中に数人で居るから、蒸し暑く不快度は外よりはるかに高い

入隊して3ヶ月間は通信の方法を学ぶため、成城の通信学校へ弁当を作ってもらって毎日通った

教師は女学校の先生だった(男)

 

調布の基地は東京(当時は帝都東京という)防衛の最前線で、調布飛行場には最精鋭の飛燕部隊があり

その周囲を父の部隊、高射砲隊が敵のB29を狙って林立している

敵は駿河湾から侵入して、富士山を目標にやってくる、それから調布に近いゼロ戦などを製造している

中島飛行機工場を爆撃に来る、そして工場を破壊してからは東京市内の無差別爆撃に目標を変えた

こちらは厚木の航空隊、調布の航空隊が迎え撃ち、帰り道では松戸の航空隊が追い打ちをかける

高射砲隊も久我山の150センチ砲をはじめ、調布の120センチ砲など5つの高射砲基地が一斉に打ち上げる

だが数千発に一発当たれば良い方だとか。

なにしろB-29は一万メートルの高空を600kmの速度で飛んでくる、それを6000m位が活動限度の日本の

戦闘機が上昇して下から迎え撃つ形になるので、酸素不足もあってなかなか思いどおりに撃墜出来ない

高射砲は射程一万mのものもあるので、たまに命中する

だから、勝利を確信した米軍はそんな高射砲を避けて行くようになる、そうすると閑な部隊になりやることが無い

そんな日が続くと、近在からもらってきた稲藁でわらじ作りが始まる、手間がかかる軍靴より戦闘の無いここでは

わらじの方が活動しやすい、しかし素人が作るので大きさも形もまちまちで、同じようなものを組み合わせて使ったという

 

兵舎は学校の体育館のようなもので、ずらりと木のベッドが並んでそこに藁を敷き詰めて敷き、毛布をかけて寝る

日本軍の悪しき習慣、下位の兵への鉄拳制裁もたびたびあったという

父は少年時代は不良少年で喧嘩三昧の毎日だった、そんな性質を見ぬいて同じ穴のムジナが寄ってくる

それが上等兵や兵長といった上官なので父はけっこう楽な世渡りならぬ軍隊渡りをしたようだ

とくに兵長殿は炊事班長だったので、おいしいところをいただけたのでは無いだろうか?

この兵長殿は自ら炊事班を志願したそうで、その理由は息苦しい兵舎から、買い出しの名目で外の空気を毎日

吸えるからだそうだ、そして兵役中に買い出し先の八百屋の娘をハントして結婚に至ったのだからたいしたものだ

                                                                 つづく

 

 

 

 

 

コメント

フェイスブック始めて半月たった

2018年08月12日 08時40分00秒 | 時代検証

ボランティアの会のフェィスブックを見るために試行錯誤で始めたフェィスブック

人に聞くのが嫌で、意味もわからぬままに始めたけど、好奇心が強く、やっぱり自分のページも開設してしまった

始めて10日ほどで友達が30人到達、いかんせん同級生レベルはフェイスブックをやるのが少なく、結局自分より

若い人と友達になる。

友達だとか「いいね」の意味がわからなかったけど、「友だち」はネズミ講みたいなものなんだと・・・知った

私の周囲に「おれは親戚が多い」と自慢するのが居る(意味不明?)

そんなに多くないはずだが?と聞いてみると、「女房のいとこの夫の弟の嫁の実家」程度の親戚がどんどん出てくる

フェィスブックの友だちがそこまで増えていくとは思えないが、案外なところで共通の友だちが出てくるのは面白い

だけど友だち関係などのプライバシーは丸見えだね、自己顕示欲が強くない人にはむかないな

どの程度で進化をやめるか、行くところまで行くか、友だち500人とか私の「友だち」に大勢居るけど、さっきの

親戚の話しじゃないが、ずいぶん薄まった水割りみたいな友だちも多いんだろうな、私もリクエストされた中には

会ったことも無い、話したことも無い人が居るし

案外親戚に多いのは驚いた。

コメント (4)

パソコンの思い出

2018年06月22日 11時45分19秒 | 時代検証

ブログを拝見して、たまたま思い出したのは私の「パソコンはじめ」のこと

初めてパソコンを購入したのは40年近く前の事で、NEC PC-6001という機械

結婚して、女房殿の姉夫婦が富山で家を新築したので遊びに行ったら、旦那様の書斎に

PC-8001があった

彼は富山県を代表する大企業YKK吉田工業で機械設計の仕事をしていた

湘南出身の慶応ボーイで高校は逗子開成高校、ちょっとレベルの違う方だったけど

「yotinnさんも興味があるなら、始めてみたら」と背中を押してくれた

初心者故に8001ではなく、ゲームマシンとも言える6001にした

女房殿の兄貴が電気店に勤務していたので、割引価格で購入できた

8万円くらいだったと思う、あまりにも昔で記憶も曖昧になっているが、テレビゲームみたいに

別売りのディスプレーにつないで、ゲームなどを入力するためのテープリーダーも買って接続

RAMのメモリは32kbだったかな、今のパソコンと桁が違いすぎて笑っちゃいますが、それでも

いろんな事が出来た

電源を入れるとカーソル点滅だけの画面で、そこからスタート、もうやり方も忘れてしまったけど

画面下にテンキーが5ヶ並んでいて、切り替えで10ヶ使えて、自分で設定できる

[ロード][セーブ][ラン][go to][プリント]など記憶させて、ワンタッチでスタート

面白かったのはベーシックでプログラムを作ることができる

ベーシックは、とても簡単で50ヶくらいのコマンドを覚えれば、初期的なゲームも作る事が出来る

YKKの義兄はさすがでマシン語やC言語を操っていたけど、私はベーシックだけ

一番の傑作は「競馬ゲーム」、トランプの4つのマークを競わせる、一ヶ毎にランダム数字を割り振って

競争させる、そして賞金倍率を計算する

でも、これは子供を遊ばせるためのゲームで、幼稚園児だった長男は結構喜んでいた

でもまもなく「スーパーマリオ」が大ヒットして見向きもしなくなった

 

このパソコン、夢中でプログラム作りをすると、すぐに容量オーバーの「オーバーフロー」になる

よく知らなかったから、番地一つに一つの命令を書き込むと改行していたからだった、そのうち

一つの番地に、256だかの文字数まで、いくつか命令を書き並べることができるのを知って

それからはちょっと長いのが出来るようになった

それでも足りないで、8トラカセットみたいな大きな増設RAM32kbを差し込んで、ようやく64kbに

市販ゲームをするときは、カセットテープのソフトで5分くらいロードする

「ピーピーガーガー」とわめくカセットをじっと待つ、そして終わると「Run」キーでゲーム開始

終わると、また5分間のセーブでデーター保存

「川中島の決戦」ゲームなんかは黒と白の陣地マークが一個ずつ「コットン」って感じでゆっくり

交互に進んで行く、まるで将棋をしているような感じだが、戦略、戦術を楽しめて面白かった

本当にのんびりした動きだった

だからスーパーマリオが任天堂の簡単な機械で、素早い動き、様々な隠れ道、盛りだくさんなのを見て

驚いた! あの薄い基板1枚にPC6001の******倍くらいの情報が詰まっているのだから

 

その後、まもなく家庭の事情でパソコンができなくなった

それから20年くらい経って、仕事上で再びパソコンを使うようになったが、全く別物になっていた

自分が作るのでは無く、様々なアプリを利用して作業をする

動きも速く、写真も事務もゲームも、便利になったけど寂しくもあった

あのとき買ったのはウィンドウズ98だった

DOSパソコンからWindowsに、その後もどんどんバージョンアップして、今は写真一枚でも4MGbとか

膨大な情報量になったが、なんなく処理するPC

私が高校時代に考えていた21世紀は、タイムマシーンでも空飛ぶ自動車でも宇宙旅行

しかし現実は「IT社会」という想像もしない社会になった

宇宙衛星によって一人一人がその位置情報を自ら発信し、その行動は監視カメラに捕らえられ

個人番号やクレジットカード、通販で資産状況、お金の使い道、行動心理まで把握されている時代

どこまでエスカレートしていくのだろうか

 

 

 

 

 

 

何をしたくて買ったかと言えば、やっぱりゲームです

 

 

コメント