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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (110) 長尾家 23

2024年06月13日 19時23分16秒 | 甲越軍記
 越中で守護代の長尾信濃守為景が討死、松倉城に在った宇佐美定行も越後に撤退してきて、府中の城内では「越中勢が勢いのまま府内に攻め込む」という噂が広がり、上へ下への混乱となった。
事実、神保、江波、松岡の越中の軍勢は国境を遥か超えて府内に迫っていた

しかし越後は大国である、たちまち府内には、まずは長尾の一族古志駿河守秀晴、長尾平六俊景、上田越前守房景、館四郎兵衛景高、上田修理進景国、刈羽相模守景親、栃尾佐渡守景冬、飯野右馬允景久をはじめ、長尾与力の諸将、追々府内にかけ集まり城中の詰まり詰まりを厳重に固めた
これを見て、府内に在った為景の家士、照田常陸介、同将監、その子、黒田和泉守、金津伊豆守を始め、大いに力を得た。
そして越中勢が攻め寄せたなら、我らは真っ先に打って出て駆け散らさんと勇み立つ。

神保ら越中勢は国境に陣を張っていたが、越後国府に長尾の一門衆が続々と集まっていると聞いて「為景亡き後、長尾勢は弔い合戦の意味もあって死に物狂いで仇を討つ戦をするであろうから迂闊に手を出しては、こちらが危うい」
神保修理はそう言ってから「このような状況で勝利するには、敵を謀で内部から崩れさせるのが一番である、幸いに為景の旗本である照田常陸介親子は欲深く、欲を持って誘えば、こちらに寝返る気持ちは大である」
そして腹心の勇士、松野小左衛門を呼んで言い含め、越後府中に遣わせた。

しばし膠着状態が続き、越中勢の攻め寄せる気配も無く、府中では為景の仏事作善を営み、嫡子、長尾弾正左衛門尉晴景をもって館と定め、みな忠誠を誓った。
晴景、このとき四十歳、性質は暗弱にして父の仇を果たす気概など毛頭なく、深閨に美女を集めて夜となく昼となく酒色にふける有様であった。
政治も怠る様を見て、忠誠を誓った諸将もいささか疎かに感じるのであった。

そんな中、中越後の三条には長尾一門の、長尾平六郎俊景という領主があった
その祖先は長尾高景入道魯山の嫡子、長尾上野介入道性景の五代孫である。
代々三条に住めば、三条長尾殿と一門から呼ばれて一目置かれている
俊景の武勇は人に勝り、周りもそれを認めるがために、俊景は常に府中の長尾家を押し倒して越後をわがものとする欲望を秘めていた
しかし為景がいるうちは、流石に手を出せずにいたが、この度為景が討ち死にしたのを幸いに、暗弱な晴景に反逆の意をあらわにした、これは越後守護上杉兵庫守定実にも背くことである。
いよいよ府中へ攻め入ろうと考えて、味方を募った。
これに呼応して、下越後、中越後の諸将、柿崎和泉守、同弥三郎、篠塚宗左衛門、森備前守などが三条に集まり、たとまち近隣を侵して、従わざるものは討ち取り、あるいは放火をして、士卒らは民間の家々に押し入り、略奪を繰り返し、婦女子を奪い乱行は目もあてられない。

平六郎俊景は、府中の館、長尾弾正左衛門は年長と言えども愚将ゆえ、少しも怖れぬが、末子の喜平治景虎は幼年と言えども、行く末恐ろしき者であると思い、後々の災いとなる前にこれを滅するべしと考えた。
幸いにも、景虎は為景の不興を買って今は家臣も無く下越後の浄安寺にいるので、殺すはやすしと股野荒河内という猛将に「急ぎ景虎の首を討って持ち帰れ」と命じた。