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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

もう一度、お盆になって考えたこと

2024年08月15日 20時12分57秒 | 雑記
 今頃になって気づいたけれど、終戦の日は「お盆」だったのですね
昭和20年のこの日、生き残った国民は終戦と先祖が戻ってくるお盆とを、どんな気持ちで迎えたのだろうか
思うほどに複雑な気持ちになります。

人類の歴史はいつからか、build&scrap 作っては壊し、壊しては作るの連続
それが戦争と平和のサイクル、賽の河原、満れば欠ける、欠けては又満る
平和が続けば、人は満ちてあふれ出す 人があふれれば飢餓が起こる
飢餓が起きれば、死を待つか略奪するかの二つ一つ
戦争は大量殺人と略奪しか目的はない、いくらきれいごとを言ってもその二つしかない
自分と同胞が生き残るために、その他を滅ぼすのも必要悪と割り切る
獣の世界、畜生の世界と何ら変わらない人間界
生きるために殺すことは悪なのか それは人間が持って生まれた業であるから仕方がないことだと言う
故に「悪人こそが第一に救われるのだ」と親鸞さんは言う
たしかに生きるために他を殺すのは最も悪いことであるが、殺さなければ死ぬとなれば、ましてや我が子が死ぬとなれば、他を殺すことは悪と言えるだろうか
それは悪に決まっている、決まっているけれどみすみす目の前のわが子の死ぬのを見ているのは辛い
すなわち人間は生まれてきたこと自体が悪であり、生まれて来た人間が悪人とは言えないのだ。
これは動物の世界が顕著だ、ライオンは他の動物を襲って食べてしまう、食べられる方に同情するが、農業が出来ないライオンは生きるためには他の動物を襲うしかない、子を育てるためにも他の動物を殺さなければならない
そんな生きざまに作った方に罪があるのではないだろうか、あるいはライオンを懲らしめるためにライオンに生まれさせたのだろうか
いずれにしてもライオンには罪はない

悪人でないのに悪なのは生まれてきたことに、生まれる自然の摂理にこそ否がある、悪とわかって生まれさせる天には、いかなる意図があるのか?
天は人を救い、そして苦しめもする、この矛盾の中で愚かなる人間は何もわからぬまま生まれて死んでいく
人生で苦労を重ねて築いた物もすべて置いていかねばならない、これほどの無駄はない
こんなことを思うと、やはり行きつくのは「人は何のために生まれて来たのか」というところにたどり着く
しかし、いくら考えても答えは出ない、その答えを得るために大昔、釈尊など一部の人たちは仏門に入って命がけの修行に励んだのだ
そんな仏門の修行も現代の仏教のなかには微塵もない、観光ルートになった有名な寺院では若い修行僧が札勘定を観光客から見えるところでやっている
どうかと思うが、それも現実だ。
僧侶に現金、どう考えてももっとも似合わない組み合わせに見える。
せめて見えないところでやってほしいものだ。






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