攻寄る越石に、若武者も声を上げて応え、物々しやと思う間に槍を上げて突きかかってくる
縦横に討ち合うが、越石は新手でしかも老練の武者、ついに若武者の冑は突き落とされた
すると大童(おおわらわ)となった髪を振り乱し、その丈までの長い黒髪、よくよく見れば、年頃二十ニ、三の女である
眉を抜き、化粧して黒々と歯を染め、唇に紅を施した若武者は、小姓ではなく、為景の妾、松江という女であった。
この女、姿は妖艶美貌といえども、性質は勇力あって男子に勝れば、為景はことに寵愛して常に戦場に伴い、その都度、高名の手柄を上げていた
此度、為景の最期を見て、その身も討ち死にと定めているためその勇威には、当たりがたく、冑を飛ばされながらも松江は越石をも突き殺した
松江の勇威は、古の木曽義仲の愛妾、巴山吹と並び立つと思うほどのものであった
もはや一騎打ちで松江に向かう者はなく、ただ遠矢にて射るばかりであった
松江の鎧は蓑の毛のように矢だらけになった
そこへ蒔田主計と名乗りて疾風の如く松江に駆け寄る武者一騎、松江もござんんなれと、これを最後の戦と迎え撃ち、上に受け、横に流して戦ったが、もはや疲労の限界に達していた
松江の一撃が反れたのを見て、「いまぞ」と蒔田は槍を投げ捨て、松江に組み付き、共に馬から地上に落ちた
そして力に勝る蒔田は松江を幾度も叩き伏せて、ついに生け捕った。
蒔田は松江を縛って本陣に連れ帰った
神保はしばらく考えてから、この女の勇力を思い、蒔田に預けることにした
蒔田は壮年と言えども独り身であったから、松江を妻に迎えようと思ったが
松江は婦の道を守り、両夫にまみえるを恥じて、ことに敵国の夫に従うことなど有るべからずと、その夜、自害して果てたという。
かくして、長尾勢は散々に蹴散らされて越後に逃げ帰る者、松倉の城に落ち延びた者、引きも切らず
越中勢は敗残兵を追い、松倉の城に付け入らんと攻め寄せた
松倉城の宇佐美定行は、大将長尾為景討死を聞き、直ちに兵を送って迫りくる越中勢を追い返した。
そして敗兵を快く城内に入れて、兵を集めて休ませた
宇佐美定行がかっては長尾為景と五分以上の戦をしていた越後最高の智将であり勇にも仁義にも厚い名将であることは越中にも鳴り響いていた
越中勢も勢いのままに追ってきたが、迂闊に攻めることもできず、ただ遠巻きにして陣を構え、たまに矢合戦をするばかりであった。
宇佐美は、このような膠着状態にもはや、ここに居る意味も無しと考え、城中の蔵を開き、武器、兵糧を取り出し、城下の町人を招き入れ配り与えた
ねんごろに暇乞いをして越後にしずしずとひき退くのを、城下のものたちは、日頃の宇佐美の仁慈の計らいに感じ入り、数千人が弓鉄砲を持って、越中、越後の国境境川まで警護して見送った。
越中国の住民なれども、宇佐美勢を子が父母とわかれる如く涙を流して見送った。
編者(速水春暁斎)曰く
長尾為景は性質、勇猛大胆にして、数百回の合戦在り、これは世の将にも其の類を聞かず
また主を弑する悪逆ありと言えども、和歌に通じる風流も持ち合わせて数百首を残す、その中の一首
「蒼海のありとはしらで苗代の水の底にも蛙なくなり」
この一首、まことに叡感ありしとなり。
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