6月26日に藤井聡太四段が公式戦29連勝を達成し、翌27日は各紙で大々的に報道された。
その片隅に大内延介九段の訃報が載っていたが、こちらはあまりにも小さな扱いだった。
6月23日逝去。享年75歳だった。
大内九段は1963年4月、21歳で四段デビュー。中飛車を得意とし、豪快な棋風と江戸っ子カタギのまっすぐな性格で、多くのファンがいた。
大内九段を語るうえで欠かせないのは1975年の第34期名人戦である。当時名人の中原誠と戦い、第5局の終了時点で3勝2敗と、名人をカド番に追い込んだ。
続く第6局は敗れたものの、第7局の1日目で圧倒的優勢になり、誰もが大内新名人の誕生を思った。
が、2日目に中原名人も反撃し、形勢は混沌。ここで大内八段が▲7一角と打ったのが大悪手だった。▲4五歩△同銀と利かすべきところを、先に▲7一角と打ってしまったのだ。
そこから泥仕合になり、最後は持将棋。指し直しの「第8局」は精彩なく敗れ、長蛇を逸してしまった。
当時の「名人位」は現在の竜王や名人とは比べものにならないほど重みがあった。大内八段の無念、いかばかりだったか。
しかし大内八段は実力があった。翌1976年、新設の第1期棋王に就いた。
では、大内九段の名局を紹介する。
昭和51年(1976年)11月12日
名人戦復帰特別棋戦・トーナメント2回戦
持ち時間:6時間
於:東京・将棋会館
主催:毎日新聞
▲棋王 大内延介
△棋聖 大山康晴
初手からの指し手。▲7六歩△3四歩▲5六歩△5四歩▲6六歩△6二銀▲6八銀△4二銀▲6七銀△5三銀右▲7五歩△4四歩▲7八飛△4三銀▲4八玉△4二玉▲3八玉△3二玉▲2八玉△4五歩
▲1八香△4四角▲1九玉△2二玉▲2八銀△3二金▲3九金△1四歩▲5八金△8四歩▲9六歩△1五歩▲7四歩△同歩▲同飛△7三歩▲7六飛△5二金▲9七角△3三桂▲7七桂△9四歩
▲4八金寄△3五角(第1図)
1976年、日本将棋連盟と朝日新聞の間で名人戦の契約金問題がこじれ、最終的に毎日新聞に移管した(現在は朝日と毎日の共催)。ただ、次期の名人戦および順位戦の開催には間に合わず、1年間休むこととなった。
毎日新聞は王将戦をスポーツニッポン紙に移管したが、将棋欄の空白を埋めるため、選抜棋士による臨時棋戦を行った。それが「名人戦復帰特別棋戦」である。これは棋戦の名に恥じず、過去名人戦に登場した棋士11人による、トーナメント戦(升田幸三九段は不出場)。観戦記者も高名な作家らを起用し、豪華だった。
大内棋王ももちろん出場し、1回戦で丸田祐三九段を破り、2回戦で大山康晴棋聖と当たった。それが本局である。
大内棋王は三間飛車から穴熊。大山棋聖は金銀を盛り上げて端攻めを窺い、両者の持ち味が出た進行となった。
第1図以下の指し手。▲5八銀△6二銀▲5七銀△5三角▲同角成△同金▲6五桂△5二金▲2六角△3五角▲同角△同歩▲9五歩△同歩▲7二歩△同飛▲4六歩△6四歩▲4五歩△6五歩▲4四歩△同銀(第2図)
第1図で大内棋王は▲5八銀と引き付ける。角を成るなら成れ、という強手だ。もし△6八角成なら▲5三角成△同金▲6五桂△5二金▲7三桂成で先手よし。
大山棋聖は△6二銀と控え、以下2度の角交換を経て、大内棋王は4筋に攻め筋を見出した。
大山棋聖も△6五歩と桂を取り、こちらも形勢に自信があったはずだ。
第2図以下の指し手。▲6一角△6三銀▲7四歩△4七歩▲3八金寄△4五桂▲4六銀△6七角▲7三歩成△同桂▲7二角成△同銀▲7一飛△6二金▲4一飛成△4八歩成(第3図)
大内棋王は▲6一角。大山棋聖は△6三銀。これで受け切れると見ている。
以下、嵐の前の静けさのような攻め合いになり、大山棋聖は△4八歩成。
第3図以下の指し手。▲7三飛成(途中図)
△7三同銀▲3四桂△3三玉▲4五銀△同銀▲2五桂△2四玉▲3二竜△3四銀▲3三竜△1四玉▲1六歩(投了図)
まで、95手で大内棋王の勝ち。
△4八歩成に▲同金寄は△4三歩で粘られる。そこで▲7三飛成! と行ったのが大内怒濤流の一手。当時の観戦記には「大内刈り」と記された(と記憶する)。
以下、流れるような手順で大山玉を受けなしに追い込み、ここに大内棋王の会心譜が誕生した。
以後も大内棋王は勝ち進み、決勝で中原名人を破り、「幻の名人」に就いたのだった。
大内九段はその後、日本将棋連盟の専務理事を務めるなど棋界の隆盛に貢献し、2010年、引退した。
A級に昇級し、名人戦の舞台に立ち、タイトルも獲った。棋士としては大成功の部類に入るが、大内九段には「名人位を獲り損ねた悲運の棋士」のイメージがつきまとった。本人も、「▲7一角」を忘れたことは一日もなかったと思う。
大内九段には昨年1年間だけだったが、新橋駅前での名人戦および竜王戦の解説会で、とてもお世話になった。
今年の名人戦でも同解説会はあったようだが、私はいろいろあって行かなかった。
「必至」を「シッシ」と発音してしまう江戸っ子口調を聴けたことが、せめてもの慰めである。
心よりご冥福をお祈りいたします。
その片隅に大内延介九段の訃報が載っていたが、こちらはあまりにも小さな扱いだった。
6月23日逝去。享年75歳だった。
大内九段は1963年4月、21歳で四段デビュー。中飛車を得意とし、豪快な棋風と江戸っ子カタギのまっすぐな性格で、多くのファンがいた。
大内九段を語るうえで欠かせないのは1975年の第34期名人戦である。当時名人の中原誠と戦い、第5局の終了時点で3勝2敗と、名人をカド番に追い込んだ。
続く第6局は敗れたものの、第7局の1日目で圧倒的優勢になり、誰もが大内新名人の誕生を思った。
が、2日目に中原名人も反撃し、形勢は混沌。ここで大内八段が▲7一角と打ったのが大悪手だった。▲4五歩△同銀と利かすべきところを、先に▲7一角と打ってしまったのだ。
そこから泥仕合になり、最後は持将棋。指し直しの「第8局」は精彩なく敗れ、長蛇を逸してしまった。
当時の「名人位」は現在の竜王や名人とは比べものにならないほど重みがあった。大内八段の無念、いかばかりだったか。
しかし大内八段は実力があった。翌1976年、新設の第1期棋王に就いた。
では、大内九段の名局を紹介する。
昭和51年(1976年)11月12日
名人戦復帰特別棋戦・トーナメント2回戦
持ち時間:6時間
於:東京・将棋会館
主催:毎日新聞
▲棋王 大内延介
△棋聖 大山康晴
初手からの指し手。▲7六歩△3四歩▲5六歩△5四歩▲6六歩△6二銀▲6八銀△4二銀▲6七銀△5三銀右▲7五歩△4四歩▲7八飛△4三銀▲4八玉△4二玉▲3八玉△3二玉▲2八玉△4五歩
▲1八香△4四角▲1九玉△2二玉▲2八銀△3二金▲3九金△1四歩▲5八金△8四歩▲9六歩△1五歩▲7四歩△同歩▲同飛△7三歩▲7六飛△5二金▲9七角△3三桂▲7七桂△9四歩
▲4八金寄△3五角(第1図)
1976年、日本将棋連盟と朝日新聞の間で名人戦の契約金問題がこじれ、最終的に毎日新聞に移管した(現在は朝日と毎日の共催)。ただ、次期の名人戦および順位戦の開催には間に合わず、1年間休むこととなった。
毎日新聞は王将戦をスポーツニッポン紙に移管したが、将棋欄の空白を埋めるため、選抜棋士による臨時棋戦を行った。それが「名人戦復帰特別棋戦」である。これは棋戦の名に恥じず、過去名人戦に登場した棋士11人による、トーナメント戦(升田幸三九段は不出場)。観戦記者も高名な作家らを起用し、豪華だった。
大内棋王ももちろん出場し、1回戦で丸田祐三九段を破り、2回戦で大山康晴棋聖と当たった。それが本局である。
大内棋王は三間飛車から穴熊。大山棋聖は金銀を盛り上げて端攻めを窺い、両者の持ち味が出た進行となった。
第1図以下の指し手。▲5八銀△6二銀▲5七銀△5三角▲同角成△同金▲6五桂△5二金▲2六角△3五角▲同角△同歩▲9五歩△同歩▲7二歩△同飛▲4六歩△6四歩▲4五歩△6五歩▲4四歩△同銀(第2図)
第1図で大内棋王は▲5八銀と引き付ける。角を成るなら成れ、という強手だ。もし△6八角成なら▲5三角成△同金▲6五桂△5二金▲7三桂成で先手よし。
大山棋聖は△6二銀と控え、以下2度の角交換を経て、大内棋王は4筋に攻め筋を見出した。
大山棋聖も△6五歩と桂を取り、こちらも形勢に自信があったはずだ。
第2図以下の指し手。▲6一角△6三銀▲7四歩△4七歩▲3八金寄△4五桂▲4六銀△6七角▲7三歩成△同桂▲7二角成△同銀▲7一飛△6二金▲4一飛成△4八歩成(第3図)
大内棋王は▲6一角。大山棋聖は△6三銀。これで受け切れると見ている。
以下、嵐の前の静けさのような攻め合いになり、大山棋聖は△4八歩成。
第3図以下の指し手。▲7三飛成(途中図)
△7三同銀▲3四桂△3三玉▲4五銀△同銀▲2五桂△2四玉▲3二竜△3四銀▲3三竜△1四玉▲1六歩(投了図)
まで、95手で大内棋王の勝ち。
△4八歩成に▲同金寄は△4三歩で粘られる。そこで▲7三飛成! と行ったのが大内怒濤流の一手。当時の観戦記には「大内刈り」と記された(と記憶する)。
以下、流れるような手順で大山玉を受けなしに追い込み、ここに大内棋王の会心譜が誕生した。
以後も大内棋王は勝ち進み、決勝で中原名人を破り、「幻の名人」に就いたのだった。
大内九段はその後、日本将棋連盟の専務理事を務めるなど棋界の隆盛に貢献し、2010年、引退した。
A級に昇級し、名人戦の舞台に立ち、タイトルも獲った。棋士としては大成功の部類に入るが、大内九段には「名人位を獲り損ねた悲運の棋士」のイメージがつきまとった。本人も、「▲7一角」を忘れたことは一日もなかったと思う。
大内九段には昨年1年間だけだったが、新橋駅前での名人戦および竜王戦の解説会で、とてもお世話になった。
今年の名人戦でも同解説会はあったようだが、私はいろいろあって行かなかった。
「必至」を「シッシ」と発音してしまう江戸っ子口調を聴けたことが、せめてもの慰めである。
心よりご冥福をお祈りいたします。