一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

「奇跡の光景」(後編)

2016-07-25 21:50:38 | 将棋ペンクラブ
いつだったか、書道の時間にルービックキューブで遊んでいた級友が先生に見つかり、キューブをその場でバラバラにされたことがあった。
書道の先生は温厚だっただけに、その過激な行動に私たちは唖然としたものだ。
その先生でさえそうなのだから、ほかの先生に見つかれば、推して知るべしである。
まさか将棋盤を真っ二つにされることはあるまいが、まあ、没収は必至である。私も共同正犯の罪は免れず、職員室へ盤駒を引き取りに行くハメになるだろう。挙句は教室での将棋も禁止になり、部長の私は謹慎を言い渡される。
…などという最悪の状況が頭に浮かんだ。
幸いこのときは、将棋盤は見つからなかったが、この件については、授業中は将棋盤を見ないよう、みんなに厳重注意をした。
そんなエピソードを交えながらも、将棋を指す級友は、どんどん増えていった。もう、部室にある折り畳みの将棋盤全部が、我がクラス(と一部のクラス)に移住していた。
ただし、この年新たに購入した二寸盤と高級駒は、さすがに持ち出さなかった。
とにかく休み時間になると、みんながこぞってパチパチやる。もちろん人数分の盤はないから、指せない級友はヒトの将棋を見物した。誰も廊下に出てこないものだから、隣のクラスの男子が覗きにきたこともあった。
私はハッと気づき、頭を上げる。誰もが忌避すると信じていた将棋を、クラスのみんなが楽しんでいる。運動部も文化部も関係なく、みんなが楽しんでいる。それはまさに「奇跡の光景」だった。
私にはそれが感慨深く、将棋を「陰湿な競技」と捉えていた、己を恥じた。

授業中に机の棚の中から将棋盤を出す級友はいなくなったが、今度は休み時間が終わると、教室の後方にある個人用ロッカーの上に、そのまま将棋盤を置く手合いが現れた。
教室内の見えるところに堂々と置かれることに若干の不安は覚えたが、ロッカーの設置位置は高いから、先生の視線からは、薄い板が置いてあるくらいにしか見えないだろうと思った。
しばらくそんな状態が続いたが、果たして先生に注意されることはなかった。
するとそれにならう級友も増え、休み時間が終わると、ロッカーの天板に将棋盤が4~5面並ぶようになった。
これだけ増えると、さすがに教壇からの目は気になるが、もう級友を制止できる雰囲気ではなくなっていた。
そんなある日、私はためしに、教壇の上に立ってみた。先生の視点から、本当にロッカーの上の将棋盤が見えないのか、という疑念を払拭するためである。
――驚いた。そこからは、局面が丸見えだったのだ。私は背が高いので、先生方の平均的身長に合わせて屈んでみたが、やっぱり局面が見える。ロッカーは意外に低かった。こ…これが先生方に見えないわけがない! 私は心底アオくなった。
しかしなぜ、いままで注意されなかったのだろう。大事にならなかったのだろう。私は理解に苦しんだ。
また、別の授業のときだった。ある先生が室内をゆっくりと歩く。先生だって、1時間ず~っと教壇で教鞭を取っているわけではないから、これは起こるべくして起こったことである。
しかし私は、ロッカー上の将棋盤を見つけられやしないかと、気が気でない。あっ! いまロッカーの上を見たんじゃないか!?
しかし先生は何も見なかったかのように、そのまま歩を進める。ど、どういうことだ?
そういえばいつだったか、教室の後方から眺めたとき、ある級友の机の中に、将棋盤が隠れているのが見えたことがある。先生はそれも目に入らないのか、やはり何のお咎めもなしだった。
また別の日の授業だった。化学の先生は気むずかしく見えて実はおもしろい人だったが、授業は厳しい。
その先生が、またも室内を歩く。教室の後方についた。先生がロッカーの上の将棋盤を覗き込む。
み、見つかった…。これは完全に「アウト」だ。
ところが先生は、うん、とうなずくと、その場を離れた。
これは…!!
――私はすべてを理解した。
先生方は、この将棋盤の陳列を、最初から知っていたのだ。知っていて、見て見ぬフリをしてくれていたのだ。
私たち教師だって、休み時間に将棋を指すことはある。生徒が休み時間に楽しむぶんには、構わないだろう。
そんな慈悲が、諸先生方にあったのだ。まさに、知らぬは生徒ばかりなり。まるで新見南吉の「手ぶくろを買いに」である。
私はそれまで、「奇跡の光景」は、我がクラスの級友によって造られたものと認識していた。
しかしそれは、微妙に違っていた。私たちに授業を行う先生方も、この光景に陰から参加してくれていたのだと、私はこのとき、知ったのだった。
(おわり)
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする