一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

「奇跡の光景」(前編)

2016-07-23 23:36:53 | 将棋ペンクラブ
「将棋ペン倶楽部」2010年秋号に掲載された拙作「奇跡の光景」を、3回に分けて掲載する。
これは2007年秋号に掲載された「文化祭1982」の姉妹編である。このとき書き洩らした高校時代のエピソードがあり、それを活字化するために、ほかのエピソードで肉づけし、一編の文章にしたものだ。
なお本文は、加筆修正をほどこした。


奇跡の光景

かつて私が通った高校は男女共学だったが、その比率は男子4に対し、女子1だった。
むろんこの高校を受験する前からその比率は承知していたが、入学式で配られたクラス表を見ると、男女比1対1のクラスが目に入り、怪訝に思った。ほかに目を転じると、何と男子ばかりのクラスがあったので、私は目を剥いた。
こ…こんなクラス分けなのか!
誤解を恐れずに言えば、男子高校生の頭の中の9割は、女子のことで占められている。クラスに女子のいない高校生活など考えられないから、これは「共学クラス」に入るしかないと、私は共学クラスに自分の名前を探した。
が、どこにも、ない。
半分観念し、共学クラスのA組とC組に挟まれた、男ばかりの名前が連なるB組に目をやると、そこに自分の名前を発見し、目の前が真っ暗になった。名字は「お」から始まるのに、出席番号は「14」だった。
入学早々予想もしない事態になったが、現実は受け容れるしかない。もっとも、当時は私もプラス志向だったから、楽しい学園生活を送るよう努めた。
クラブのほうは、女子とお友達に成りたい気持ちはあったが、まさか華道部に入部するわけにもいかないので、予定通り将棋部に入った。
ちなみに野球部はこの2年前、夏の甲子園大会に出場し、ベスト8まで勝ち進んでいた。クラブ活動の花形が野球部なら、その対極にあるのが、オジサン趣味の代名詞である、将棋部というわけだ。
将棋部には先輩の女子もいたが、幽霊部員だったから、実質はゼロ。同級の女子もいなかったがそこはそれ、将棋部の活動は楽しかった。
住めば都とはよく言ったもので、クラスの男子も面白いヤツばかり。加えて「共学クラスには負けたくない」という妙な団結心が、クラスの結束を強固なものにしていった。
しかし2年生に進級する日はやってきた。叶うならこのクラスで3年間を過ごしたい…1年前では考えられない気持ちの変化だが、クラス固定など無理な希望だ。それより2年生になれば、今度は私たち男子クラスが、優先的に共学クラスに入れる。私は気持ちを切り替えた。
4月の始業式にて、待望のクラス分けが発表された。ほかの高校ではまず体験できない、運命の瞬間である。
…と言いたいところだが、当日の朝、ある級友が私に、
「大沢は男クラらしいよ」
と言った。私はそいつの宣託を心では否定したが、こういう情報は得てして正しいものだ。
私が担任に言い渡されたクラスに赴くと、やはりそこは男ばかりだった。ああ…このときの落胆を、何と表現したらいいのだろう。
私と親しかった級友はほとんど共学クラスに入った。私は疎外感を抱いたまま、クラス内を見回したが、ここがまたひどかった。
教室内部はグレーが基調になっていて辛気臭く、華やかさがまるでない。1年時と同じ級友も15人ほどいたが、ガラの悪いメンツが寄せ集まった気がした。
同じフロアのほかのクラスには、やはり男子クラスが2つあったが、その先にある共学クラスは、角に音楽室があったため、廊下が防音ドアで遮られ、行き来ができないようになっていた。つまり私たち3クラスが隔離された形になり、本当に男子校の様相を呈したのだ。
いや最初から男子校なら、まだ諦めもつく。しかし3階へ下りれば、まぶしい女子生徒が目に入るのだ。
当時わが校の制服は、男子の学ランに対し女子は青系のブレザーで、ブラウスも白のほかにブルーやピンクがあったから、現在の目から見ても、先進的だった。
そんな女子が黄色い声でキャッキャッしゃべっているのに、3階から4階へ上がるにつれ、その声が遠くなってゆく。そのたびに私は「男子校」に通っている不条理を痛感するのだった。
ごくごくたまに、女子生徒が我がクラスの級友に会いに来ると、私たちは平静を装いながらも、彼女をギラギラした目で見た。そんな雰囲気を察知してか、女子は用事が済むと、逃げるように教室を出ていく。そのたびに私たちは、ハァ~ッと深いため息をつくのだった。
そんな閉塞的状況をいくらかでも和らげてくれたのは、やっぱり「将棋」だった。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする