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ブログによって新たな自分を発見!?

よっつめの整理

2014-11-19 10:10:36 | 日記(~2023年)
携帯電話に書き溜めていた私のドロドロした気持ち…
思い出しては書き足し、更新し、そんな保存メールが溜まっていました。
少しずつ気持ちの整理をし、残り2通となりました。

読み返してみると、あの時の辛さが思い出されます。

苦しみの中にいるときは、どうにかしてそこから抜け出したくて、でもそのことに捕らわれてしまい、正常な考えが出来なかったし、自分の思いを行動に移せませんでした。

周りの意見に自分を見失うのではなく、どんな状況においても、まず自分自身というものをしっかりと持つことが大切だと思いました。

自分自身とは何か、自分はどういう性格なのか、自分はどういう人生を生きていきたいのか、とことん考えると自分の中に芯が通る感じがします。

その芯は細くて構わないと私は思います。
あまり太すぎると周囲との軋轢が生じるような気がするから…

人生の中で‘つまずく’ことも大事ですが、自分の中に芯があると、つまずいても立ち上がれるような気がします。
私はこれまでの‘つまずき’を無にしないよう、自分の人生をしっかりと生きていきたい



さて、メールはおそらく2回目の手術直後あたりに書いたもの
当時の信仰への不信感、Aさんへの怨みが詰まっています。
それから年月が経ち、不思議なものでAさんへの思いは薄らいできました。
私が知らないうちに犯した罪の償いの苦しみだったのかもしれませんし、Aさんもいつか自分のしたことを悔んだり苦しんだりする時がくるのではないかと思えるようになりました。

因果応報には時間のずれが生じるらしい
それを知っていれば誰かに対する憎しみや怨みが薄らぐような気がします。



(メール保存内容)

今の私は信仰によって救われ幸せになるどころか、Aさんに心身を傷つけられ、人生を縛られ、Aさんのご機嫌とりに疲弊してしまった。そして、あの時点から怨み憎しみが増幅し、人の不幸を願うような鬼のように醜い心になっている。鬼になるくらいなら私はAさんから遠ざかりたい。

遠ざかったことによって奇跡がもらえなかったことを誰かに責められても平気ではないが、以前のように傷つかない覚悟もできた。
もしこのことで離婚になることも覚悟できている。
鬼になるくらいなら恩知らずと罵られてもいい。


奇跡を願い、その奇跡に縋り、現在の人生を犠牲にする生き方もありなのかもしれないけど、保証されていない未来のために今を犠牲にする生き方なんて私にはできない。今自分に置かれた状況の中でささやかに生きてはいけないのだろうか…

Aさんにお願いすることで、観音さまの大きな奇跡をもらえるのかもしれないが、大きな奇跡は分不相応の奇跡ではなかろうか。それならいつか歪みが出てくるし、その恩に一生縛られるようになる。そして分不相応の見返りを要求をされる。これはもはや信仰ではないと思う。

幸せや奇跡は自分の中にあるものだから、それを外に求める限り本当の幸せに気づかない(青い鳥と同じ)。そんな人生を送るほうが虚しい…

私は鬼になりたくない