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いつつめ(最後)の整理

2014-11-21 12:13:04 | 日記(~2023年)
これで私のドロドロした気持ちの保存メールは最後となりました。
これが一番辛かった時の私の気持ち
1回目の手術の8ヶ月前に書いたもので、心身ともに限界でした。

信仰に絡むことなので、第三者に相談することは難しく、当時は主人も姑も私の気持ちを理解してもらえなかった。というか、私の気持ちより信仰に対する思いが大事だったように思います。

洗濯を干す時、ベランダから地上を眺めて、飛び降りたらどうなるだろう…と何度も思いました。

このメールを書いてから約2ヶ月後、夢に母が現れ「もう大丈夫だから」と言ってくれました。
それからまもなく状況が一変し、積極的な治療ができるようになりました。

辛かった時の気持ちは忘れたいですが、でも忘れてしまうとまた同じことを繰り返してしまうかもしれない。
ドロドロした気持ちを持ち続けるのは辛いですが、整理した気持ちを持つのはそれほど苦にはならないと思う。

あの頃の気持ちを忘れないように、心の整理と一緒に辛かった時のメールを残そうと思います。

40歳でもこのままの状況なら離婚して、新しい人生を歩もうと思っていました。
しかし、少しずつ主人も姑さんも変わり、離婚するまでには至りませんでした。

そして41歳2ヶ月、これからの人生を前向きに考え始めました。
辛かったことも私の人生の1ページ

ようやくそんな風に思えるようになりました。




(メール保存日 2010年2月18日)

私は生きている意味があるのだろうか?
何のために生きているのだろうか?
分からない
分かればそれに向かって生きていけそうな気がする

私がいなくても仕事はどんどん進む

私でないとダメなものはない?
私生活でも私でないとダメなものはない?
つまり私は必要とされていない?

もし私がしたいことができれば私の気持ちはどうだっただろう…
テニスしたり、ドライブしたり、旅行したり、自分が好きな服をきたり、自分が欲していることが満たされれば私はもう少し穏やかにいれただろうか…

素直に人の幸せを喜べないのは思うように人生がいかないから?
子供そして病気、病気による様々な制限された生活
もしこれらが改善されれば嫉妬もなくなる?

人の幸せを喜べない心の狭さに情けなくなる
そんな自分が嫌でたまらない
自分の幸せを誰かと比較してしまう自分もいやだ
今の私にはこれというものがない
自分は必要とされていない?
生きていると実感できるものがない

心の底に自分が優位に立ちたいという気持ちがあるのだろうか?
今はそういう私のダメなところを直すための時間かもしれない
日常にこれだけの制約がないと私は理解できないからこういう状況なのかもしれない

もしこの制約が少なくなれば気持ちも変わるかもしれないが、こんな状況でもそういう心を持つように今があるのかもしれない

我を忘れるくらい夢中になれることができない…体を動かせればしばし忘れることもできるだろう
したいことができない自分が惨めに思う
走ったり、自転車、自動車の運転すらできない
旅行や運動はもちろん外出することさえままならない

病気だけれども必死に生きている人の特集とかがある。
障害を持っていても登山やマラソンや水泳など頑張っている姿を見てもらう事で誰かを励ます。
しかし、反対に嫉妬や妬みも出てくるような気もする

自分が思い描いていた人生とは180度違う
でも他の人は私のような制約に縛られずにそれなりに進んで行ってる

生きている意味が分からない
頑張るって何?
魂を進化させるために必要な苦なのか?
自分らしい人生を歩みたいと思うのは我が強い?
どんなに悩んでも誰かが変わってくれるわけではないし、気持ちを理解してほしいと思うことは以前ほどない
だから余計に孤独に思う

心が孤独ならいっそ独りでいるほうが気が楽かもしれない
誰かに責任転嫁することもなく自己責任だから…
今の私はまだ誰かの責任にしようとするだろう

今になって母が入院してたときの気持ちが少し分かる
もっと母の気持ちに寄り添っていれば、母ももっと穏やかに生きれたかもしれない

40歳になれば第3の人生を歩みたい
そんな私を責める人が身近にいれば私はおそらくそこから離れるだろう
天罰だとか宿命などと言われるかもしれない

もし私の気持ちに寄り添うことなく責められれば私は独りで生きる
それを許されないのならお母さん早く迎えにきてください