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鉄は樹木から

2007年09月21日 | 歴史
日本では森(山)は、砂鉄関係のひとびとのあいだで、「ひとめぐり三十年」といわれた。30年経つと山が復元し、また木炭にできるくらいに太ることをいう。禿山にするほうが難しいといわれるほどに樹木の復元力が盛んで、理由はモンスーン地帯のおかげで雨量が多いというだけのこと。多雨であるというこの一事が、日本史のある性格を決定づけているといえよう。

鉄の原料は、砂鉄だったろう。
ひと山を裸にするほどに木をかり、木炭をつくり、それを燃料にして砂鉄を熔かしてをつくり、ついで鉄を得る。古代産業としての製鉄が想像を絶するほどの自然破壊を生んだことは社会の歴史を見る場合、主要観点として重視せねばならない。朝鮮の山は木が根付きにくく降雨量も少なく木々が自然に復元するということは、まず困難だ。

中国・朝鮮のクワやスキの種類はおそろしく少ない。
砂鉄などはどこにでもある。裸になってしまった山々を見て古代朝鮮のタタラたちは、木を求めて海の向こうの日本-例えば、出雲-に移動せざるを得なかった。

日本の場合、モンスーン地帯で梅雨もあれば台風もあり、山々は水をしませたスポンジのようで木々をとって捨てておいても自然に3-40年たてば木炭になりうる太さに生長する。木が鉄を生みつづけて明治に至ったといえる。このことは、日本文化と日本人の性格をつくるのに、はかり知れぬほどの大きな要素になった。

たとえば大工、指物の工具が汎用的でなく一道具一目的というほどな農具が多種類に農家に揃えられているなら、何をつくってみようかという好奇心が触発されよう。

社会が沸騰した好奇心を失うとき、好奇心は悪であり善はいにしえに帰ることだという儒教が国教化されてゆき、停滞こそ社会の安定であり、開き直って善であるということになる。かつての栄光の古朝鮮はなく、教条的な儒教官僚と悠々たる太古そのままの古朴な農民という二つの要素で歴史的時間が流れた。朝鮮人のよさもここにあり、国家運営の難しさもこの長い歴史とかかわりがある。また新中国が見えざる古代が居座りつづけているということもいえる。
                   『砂鉄がつくった歴史の性格』司馬遼太郎より

樹木と人


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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
司馬遼太郎 (motoko)
2007-09-21 22:00:13
iinaさん、今晩は。
司馬遼太郎の本が、お好きなようですね。
私は読んだことがありませんでしたが、以前「胡蝶の夢」を読んだら、というアドバイスいただきましたが、まだ読んでいません。
司馬遼太郎短編全集“十一”」を読んでみましたら、
豊臣家の人々のことが書かれていて、大いに勉強になりましたが、最後のほうに、「胡桃の酒」というのがありまして、「胡」がついていましたので、間違って買ったということです。
今度は、書店に頼んで、間違いなく読んでみたいと思っています。
私の、失敗談の紹介で~した・・・・・。
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(motoko)さん へ (iina)
2007-09-22 10:41:26
iina宅も、ホコリをためないようにしなくちゃ。
司馬遼太郎は、自身の小説代表作として『燃えよ剣』をあげました。
しかし、末代まで残る作品には『街道をゆく』といいます。
25年間のライフワークになった作品で、紀行文のようでそうでない48篇です。
古文書等書物や事跡を読み歩きしたものを敷いて、読み応えあります。
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最近の山陰鉄考古学 (大和島根)
2008-11-02 11:07:47
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
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(大和島根)さん へ (iina)
2008-11-02 22:42:47
古いブログを掘り起こしてもらって嬉しiina~。
出雲族は、元々出雲に土着していたとも、奈良に居た種族が
ヤマト王朝に国譲りし、出雲に封じられたという説もありますね。
出雲の2大勢力の一方が、ヤマト王権を創った説はユニークですね。
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読了 (幸太郎)
2009-07-12 15:55:21
 それって、墓制と鉄の流通に着目した説ですよね。ものすごく興味深い内容でした。
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(幸太郎) さん へ (iina)
2009-07-12 21:06:09
司馬遼太郎は、いろいろな著書で鉄器をつくるための燃料に樹木が日本には
あふれるほどあったと説いています。
古代からの図式は、不変の様相です。

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神話と考古学の融合 (たたら)
2009-09-10 20:33:32
スサノオがアマテラスに天叢雲剣を渡したのは、出雲が大和へ鉄器を供給したという、考古学的な見地と対応するのではと思います。しかし出雲神にはスサノオとオオクニヌシという2人の大物の神様がいるのかというのは、弥生後期の出雲の状況を見ればわかります。島根県安来市を中心とする東部出雲王朝(スサノオ)と島根県出雲市を中心とする西部出雲王朝(オオクニヌシ)があったのです。東部出雲王朝は早期に発達し、長きに渡って繁栄しヤマトへの鉄器供給を行った。西部出雲王朝は東部の分家として発達したが、東部よりも発展しやがて、北陸あたりまでの日本海沿岸に渡る大国家を作りました。それで大国主といわれます。しかし、それより少し遅れて大和が発展し、西部王朝は短命に終わり、これが国譲りに対応します。一方、大和から見ても東部王朝は本宗家だったので、スサノオとアマテラスは兄弟と言う設定になっていますが、この事情のため滅ぼさなかったと考えられ、この子孫が蘇我氏のような大豪族になって行くと思われます。
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(たたら)さん へ (iina)
2009-09-11 10:48:34
ヤマタノオロチの頭上にいつも雲が覆っていたので名付けられた天叢雲剣
(あめのむらくものつるぎ)は、タタラの産地・出雲という解釈には賛同します。
http://iinad55.at.infoseek.co.jp/3.html

スサノオの息子がオオクニヌシとされていますが、出雲王朝に東部と西部の
勢力という説もあるのですか?

また、蘇我氏は、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖として
いますね。もっとも皇室から多く臣下に下ったこともありえますね?
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