前略、あけましておめでとうございます---。m(_ _)m
突然ですが、ロシア、中国、インド、トルコ、アルゼンチン等の国々がいよい悪貨$での取引をとりやめ、美輪明宏、大橋巨泉、室田明、サザンの桑田佳祐氏等の著名芸能人らが名指しでそろって阿部軍事政権を批判しはじめ、敬愛するサイエンス・エンターテイナーの飛鳥昭雄、医療ジャーナリストの船瀬俊介、さらにはあの副島隆彦氏等もようやく我が国のタブー「不正選挙」に言及しはじめ---うーむ、なんか、いい傾向っスよね?
これまでは「不正選挙」だの「人工地震」だの「MK機を落としたのはアメリカ」なんていっても誰も聴いてくれなかったもん。
でもね、そんなこれまでのことなかれの世界潮流、たしかに変わってきています。
歴史の水の流れがビミューに澄んできてる、これまでは泥とゴミと産業廃棄物まみれの超・汚い濁流でしかなかったのに。
期待するとがっかりするんであんまはしゃぎすぎないように自制してはいるんですが、今年はいい年になりそうだなあ、なんてほのかが予感が、いま胸のあたりに燭灯のようにほんのりと兆しています…。
と、まあ枕はこのへんにしといて、今回はまったく政治的じゃない、川端康成のお話---。
実は僕、哲学者の梅原猛先生とおなじく、熱烈な川端文学ファンでありまして、まあ出てる作品はほぼ読んでて、生前の逸話なんかにも結構詳しいんス。
徒然その142☆イーダちゃん、湯ヶ島をウロつく!☆では、「伊豆の踊子」の舞台になった伊豆・湯ヶ島の湯本館までいき、湯本館のすぐ目の前にある、川端さんがよく訪ねたという古い雑貨屋さんで、活字になっていない、生前の氏のいくつかの貴重なエピソードを仕入れることができました。
ただ、あくまでそれは間接的なご縁でしかないわけで、僕の人生と川端さんの実人生とが、なんらかの意味で交錯したわけじゃない。
文学という接点はたしかにあるんでせうが、僕的には、もっとリアルティーのある、より肉感的な接点が欲しかったの。
で、川端ファンになって以来、僕は、その種の接点を探しつづけてきたんですね。
私事ですが、僕、鎌倉生まれでして、川端さんが晩年居を定めていたのもおなじ鎌倉じゃないですか?
----こりゃあ、きっとなんか探せばつながり、きっとあるぞ---赤ん坊時分にたまたま同じ電車に乗りあわせたことがあるとか、そんなことくらいなら結構ありそうじゃん…。
とばかりに調べつづけたんだけど、いまさらそんなこと調べようがないのは自明です。
だもんで、まあ諦めかけてた---そんな矢先の去年末のこと---懇意にしてる知りあいの、ひとまわり以上年上の女性のI さんと話していたら、彼女の口から何気にこんな言葉がまろびでてきたのです。
----あら、あたし、川端康成にナンパされたことあるわよ…。
----!?(びっくりして息を飲んで)
----むかし、十代のころ…。鎌倉のね、邪宗門って有名な喫茶店で…。
----マジ! えーっ、それ、マジっすかあ…!?
その女性は若いころ結構美人さんであって---ウホン、いまでも華やかなオーラを撒き撒きする綺麗な方です!---当時、住んでいるヨコハマからよく近郊の鎌倉まで遊びにいっていたというのです。
で、鎌倉でウロウロしてたら、背広姿でよくそのあたりに出没していた川端さんに声をかけられた。
----ねえ、お嬢さん、これから僕と遊びにいきませんか?
と川端さん、あの独自に甲高い、関西なまりのイントネーション声でもって、若い女性とみると、誰彼かまわずニコニコと声をかけまくってたそうです。
----あの先生、エッチなのよ…。若いキレイなコがいると、すぐに声かけてくるの。ニコニコしてたけど、おっきな眼がちょっと怖かったわ…。
当時といえば、川端さんがノーベル文学賞をとったあと、いわば名声の絶頂にいたころ、だのに、なにやってんだか、この先生は?
しかし、富やコネや権威を利用すればいくらでも女性なんか調達できたろう大物である川端さんが、こんなフェアなナンパに明け暮れていたなんて、ちょっと好感がもてなくもないですね。
邪宗門っていう喫茶店はいったことないんだけど、どうも調べてみると、寺山修司と天井桟敷が関係してた店のようです。
2013年に残念ながら鎌倉店は閉店しちゃったようだけど、そのつながりでいくと、たしかに晩年の川端さんが訪れてもふしぎじゃない。
なーるほど、川端センセイ、あなた、栄華の絶頂にいたにもかかわらず、淋しくて淋しくて、素人の女性とふれあいたくて仕方なかったんですねえ?
でも、金と地位をひけらかさない、その素朴なナンパの姿勢は立派っス。
I さんは、邪宗門で川端さんと2度会って、2度目に彼氏といたときには、ふたりして川端さんからお昼をおごってもらったそうです---。
川端さんが自室で岡本かの子の原稿を執筆中に急に外出し、逗子アリーナで例の自死を遂げたのは、その1週後だったとか…。
僕は、自死だきゃあどうにも認められない。
日頃から生きたくっても生きられず亡くなっていくひとを大勢見てますし。
Honkowaの霊能者・寺尾玲子さんもみっちゃんも自死はいかんといってる。
ただ、川端康成さんの場合だけは、どうにも仕方なかったのかなあ、と思います。
あの異常に繊細すぎる感性を運びつづけるには、あれが、限界だったような気もちょっとはするんだけどね…。
<鎌倉の邪宗門:上図>
つい先日、僕も大切な友人を亡くしまして、久々になんとなく川端さんの著作をあたったりしてたら、やっぱりいいですねえ、川端さんって。
もう染みた。厭になるくらい染みたんだ、これが。
いま、これほど浸透性のある文章を書けるひとって、いないんじゃないんでせうか。
切れる文章、はっとさせる文章、水飴みたいに自在に伸び縮みするサーカスみたいな文章、思わず立ちあがりたくなるインパクトと密度のある文章を書くひとならわんさかといますけど、静かに、なんの気張りも気負いもなしに、読むひとの心深くにしんと染み入ってくる、こんなふしぎな文章を書くひとは、僕は、川端さんのほか知りません。
その川端さんがまだ若い時分、親友の作家・横光利一が亡くなったとき、実にいい弔辞を書いてる。
その一部を抜粋して、今回のこの記事の結びにしたく思います----
横光利一弔辞
横光君
ここに君とも、まことに君とも、生と死とに別れる時に遭った。君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして、僕に長生きせよと言ふ。これも君が情愛の聲と僕の骨に染みる。国破れてこのかた一入木枯にさらされる僕の骨は、君といふ支えさへ奪われて、寒天に砕けるやうである。
君の名に傍へて僕の名の呼ばれる習はしも、かへりみればすでに二十五年を越えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで續いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であった。恩人としての顔を君は見せたためしは無かったが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕を潤すのをひそかに僕は感じた。その恩瀬は君の死によって絶えるものではない。僕は君を愛載する人々の心にとまり、後の人々も君の文學につれて僕を伝えてくれることは最早疑ひなく、僕は君と生きた縁を幸とする。生きている僕は所詮君の死をまことには知りがたいが、君の文學は長く生き、それに隋って僕の滅びぬ時もやがて来るであらうか…
…中略…
君に残された僕のさびしさは君が知ってくれるであらう。君と最後に会った時、生死の境にたゆたふような君の目差の無限のなつかしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか。さびしさの分る齢を迎えたころ、最もさびしい事は来るものとみえる。年来の友人の次々と去りゆくにつれて僕の生も消えてゆくのをどうとも出来ないとは、なんといふ事なのであらうか。また今日、文学の真中の柱ともいふべき君を、この国の天寒く年暮るる波濤の中に仆す我等の痛手は大きいが、ただもう知友の愛の集まりを棺とした君の霊に、雨過ぎて洗える如き山の姿を祈って、僕の弔辞とするほかはないであらうか。
横光君
僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。幸ひ君の遺族に後の憂ひはない。
昭和二十三年一月三日
なんという見事な音楽でせうか…。
この文章につけくわえるコトバは一言もありません---お休みなさい---。(^.-y☆