イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その73☆追悼・小松左京さん☆

2011-08-02 00:35:25 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                                     

 中学のときからずっと愛読してきた、敬愛するSF作家・小松左京氏が先日亡くなりました。
 夜勤帰りのコンビニの新聞でその記事を見て、僕、心臓が文字通り「ドキン」となっちゃって…。
 いよいよくるべきときがきたか、と思いましたね。
 というのは、それまで亡くなった作家さんっていうのは、なんというか、大好きであっても同時代の方じゃなかったんですよ。
 むろん、小松さんにしても、僕よりはるか年輩の方であって、全盛期は恐らくわりと初期の、ほら、小松さんがテーマ委員を勤めた万博開催のころにあたっていたんでせうけど、でも、新作がでるたびに書店で購入して---初期じゃないですよ、「氷の下の暗い顔」とか「ゴルディアスの結び目」とか「さらばジュピター」とか70年代の末期のあのあたり---カウンターで店員さんに本カバーをかけてもらいながらワクワクしていた、なんて体験があるのは、僕には、ホント、小松さんだけですね。
 だから、今回の訃報は、とてもショックでした。
 思えば、僕、大学で小松さんの講義を受けたこともあったんだよなあ、むかしむかしの話だけど。
 そういうわけで氏の冥福を胸深く祈りつつ、311のおかげでUPすることをやめていた「幻の徒然その57☆」を加筆して、ここに公開することにいたします---。

            
               ×             ×              ×

 むかしむかし、ニッポンSF界には、3大巨匠ってのがいたんですよ。
 そうですね、ドイツ人がよくいうとこころの3大B---Bach、Beethoven、Brahms みたいなもんでせうか。いわゆる御三家みたいなやつ。 
 その3大巨匠と呼ばれていたのが、
 ショートショートの旗手・星新一さんであり---
 ハードSFから恋愛、怪談本まで、広範で異常な知識量を誇る「日本沈没」の怪物・小松左京さんであり---
 スラプステック・コメディで異様な世界を築きつつあった、新鋭・筒井康隆さん---なのでありました。
 当時は、まだ日本SFのなかで、スペース・ファンタジーは主流じゃなかったんですよ。
 よく読まれていたのは「百億の昼と千億の夜」の光瀬龍さんとか、「謎の転校生」の眉村卓さんとか、あとウルフガイ・シリーズの平井和正さんとかあのあたり---いや、懐かしいな…。
 栗本薫さんのグイン・サーガとか新井素子さんなんかがでてきたのは、だいたいこのあとの、80'S間際だったように記憶してます。中学の同級の読書好きの女の子なんかが一斉に読みだしまして、僕も仲のいいコに借りて読んだりしたんですけど、スペース・ファンタジーは正直あまり馴染めませんでしたね。
 イーダちゃん的にはやっぱり、どこか70年代的な熱い香りのするお話が好きなんです、どうしても。
 そうして、70'S ジャパンSFといえば、やっぱり小松さんなんですよね。
 そりゃあ、星さんの技も筒井さんの超絶ギャグも双方捨てがたいものがありますが、小松さんはまわりから「親分」といわれるくらいの重鎮であり、膨大な知識量を誇る<歩く図書館>ともいわれていましたし、なにより当時のSF界全般のシンボルでしたから。
 ただ、小松左京というと、皆さん、「日本沈没」とか「さよならジュピター」とか「復活の日」などを反射的に連想するかと思うんですが、いやいや、小松さんとは大変に奥深い方であられまして、そういった一般的知名度のあるスペクタクル物以外に、まだまだ見えない沼底の秘宝をたんと隠しもってらっしゃるんです。
 今回、このページで僕が紹介したいと思っているのは、氏のそういった知られざる沼底秘宝についてなんですよ。
 だって、凄いんですもの---これを知らぬまま死んじゃったらきっと後悔する! 僕としては、そんな無情なことはなるたけやりたくないんですよ、ひととして---というわけで小松さんの「女シリーズ」の紹介、そろそろいかしてもらいませう。

 小松左京さんは、1979年に「女シリーズ」と呼ばれる一連の連作を、角川文庫から出版してるんですね。
 表題は「旅する女」でした---ページ頭にUPしたのがそれです。
 小松フリークだった僕は、店舗にそれが並ぶやいなや購入して、家帰ってすぐ読んで……正直にいいますと、実はがっかりしたんです…。
 当時高校生だった僕は、この小説、題名からタイムトラベラーの話にちがいない、と頭からなんか決めこんじゃってたんですよ。
 さぞかし派手な活劇やら冒険やらあっと驚くようなドンデン返しとかが、話のなかにいっぱい盛りこまれてるにちがいないって。ヒロインがタイムトラベルしたさきの世界が、実は、現実の1枚裏手すぐのパラレルワールドで、ヒロインはそこにいるもうひとりの自分ときっと出会ったりしちゃうんだ、みたいな予測を自分内で勝手にたてていたりしたのですが…。
 ところがページをくってもくっても、そんなファンタジーがさっぱりひらけてこないんですよ。
 というより、なんというか、これ、すでにSFじゃないんじゃないの?
 ええ、純文学だったんですよ---この小松さんの「旅する女」って---。
 なんだよ、と失望して放りなげて…たしか、1、2年はそのままだったんじゃないかな? 2年後くらいの大学生活のときに偶然この本をひらいたら---そうしたら、もうとりこになりました…。

 日本の純文って基本的にカラーが女々しいじゃないですか?
 繊細はたしかに繊細なんだけど、自分の繊細さに酔ってしまうようなところが多分にある。そうして、自分の感受性の触手のとどく限りの小さなスペースに作品世界も限定されちゃって---なんというか、繊細ではあるけれど箱庭的な小宇宙、みたいな作品があんまり生産多過になっちゃう傾向っていうか。
 要するに、情事は書けても政治は書けない、とか---
 恋のかけひきの描写があざといくらい上手いのに、いざ世界構造の説明になると、教科書丸写しみたいな、気のぬけた棒読み文がだらだらと流れだすおひととか---。
 でも、ここでの小松さんは、まったくちがっていたんです。
 いつもだったら世界構造をまっすぐに直視する小松さんの理知的すぎるまなざしが、ここでは珍しくその視線の鋭さを和らげて、「女」を描こうとしゃにむになってる。
 しゃにむになって、多元宇宙や、時間遡行を追求するのとおなじあのまなざしで、自分の記憶の倉庫から、あらゆる「女」のデータをピックアップしてきて、作品のキャンパスに次から次へと塗りつけていく、そのタッチの正確で力強いこと!
 こういうデッサンの手法はそれまで見たことがありませんでした。
 あくまで理知的にデッサンされた「女」なのに、主情的に書かれた作家のどんな「女」より、はるかに女女してるんですよ…。
 むせかえるほど濃い情と---年下の恋人に対する残酷なくらいシビアな、値踏みの目線---。
 うーむ、なにをいってるか、たぶん、これじゃ分からんちんですよね?
 それではやっぱりなんですので、このあたりで作品内より抜き書きをちょい失礼させていただきませう。

----男は、たくみにかわしつづける彼女のあしらいに口説きつかれたのか、大きな溜息をつくと、がっかりしたような口調で、あなたには愛人でもいるのか、ときいた。----彼女が答えないと、いらいらした口調で、いったいあなたには、愛というものがわかっているのか? あなたには、何か愛するものがあるのか? とかさねてきいた。----彼女は、あとの問いに、ある、と答えて、ちょっと間をおいてぽつりと言った。
 「小さな犬……」
 男が背後で絶句する気配がした。----彼も、その言葉に、と胸をつかれて、思わずはっと体をかたくした。----彼はその時はじめて、彼女の魂が属している世界、ある種の荒涼さが感じられる世界と、そこに住む彼女の魂の孤独さを垣間見たような気がした。“……a little dog……”----かすかにハスキーがかった、独自のやわらかいアルトで言われたその言葉は、その後も長い間彼の耳底にこびりつき、彼女とわかれてからしばらくの間、折にふれてよみがえって来た。----どういうわけか、その声がよみがえると、同時にしょうしょうたる風のわたる音がきこえるような気がし、のちには逆に、夜半、空をわたっていく風音をきくと、ふとその風音の底に、彼女の声をきくような気がした。
----“……a little dog……”
                                                                       (小松左京「旅する女」角川文庫より)

 ちなみこれ、同棲している年上の「彼女」が、本命らしい外人の見知らぬ男と、喫茶店で話しこんでいるところを偶然見つけた主人公の「彼」が、すぐ後ろの席に陣取って、彼等の会話を盗み聴きしてるときの描写なんですよね。
 で、彼女のハスキーヴォイスがいった“……a little dog……”というのが、その「彼」のことなんです。
 ああ、自分は「彼女」にとって、愛玩用の小さな犬でしかないんだ、という残酷な啓示。
 けれども、その言葉にこめられた断絶の気配よりも、そうしたストイックで厳しい道をあえて選びとった「彼女」の宿命的な孤独の相のほうに、はっと胸をつかれる「彼」…。
 このときの言葉が別れたあとまで耳に残って、折りにふれ蘇るなんて、なんとも苦いリアルじゃないですか。
 肉感的で、美しいひとりの年上の女。あらゆるモノを残酷に突きはなしているくせに、心の奥底にはあふれんばかりの愛を抱えている、色白の、いつでも自分より少し先の人生の道を歩みつづけている、不器用な、中年まじかの、孤独な女……。
 うーむ、いま読んでも、これはそうとう効くよなあ…。
 学生のときに付きあったこの年上の「彼女」の面影を求めて、この「彼」は世界中を旅するんですよね。
 そうして、二十幾年かたったある日、ハワイのワイキキで、あの「彼女」と似た翳りを帯びた、日本人の「女」の旅行者と巡りあうんです。
 どうにも魅かれて、酒に誘って話してみると、その中年の「女」も「彼」と同様に旅をしてることが分かってきて---。

----「誤解しないで……。主人はまだ生きているのよ。愛人がいる事はわかっているけど、別に離婚もしてないわ。私が旅をつづけられるのも主人のおかげだし、かえる所といえば、主人のもとしかないの……」夫人は、窓の外の、暗い海を見た。「四年前---子供を失くしたの。男の子……もし生きていれば、十六になるわ」
 「病気は何だったんですか?」
 「そうじゃないの---行方不明になったの。パリで……」
    (中略)
 「一年たって、私、自分で子供を探そうと思って、旅に出たの……」と夫人はいった。
 「警察がだめでも、母親の執念で、必ずさがし出して見せると思って……どんな所にでも行ったわ。伝染病患者がうじゃうじゃしているような所でも---命の危険のあるような所でも……だけど、ふと気がついたら、子供を探して旅をつづけているのか、子供を失った悲しみをまぎらすために、旅をしているのか、わからなくなっていたわ……」

 ねえ---みんなの思ってる「大柄な」小松さんのイメージとまるきりちがうでせう?
 なんというか、文と文との隙間に、思いもかけない仏師の眼がひそんでる、と僕はこれを読むたびに感じます。
 目線の運びが、通常の作家とまったくちがってるの。恋愛の成就だとか、人生上の成功だとか、そんなものをまったく視野に入れていない、この作家独自の繊細な感性と強くしなやかな思弁とが、いままで誰も見たことのない物語の終結に、読者をぐいぐい導いていくんです。その剛腕には、ちょっと無類のものがある。
 オアフ島のハナウマ湾---そこにまた偶然現れたあの「女」---そして、謡曲「隅田川」を引用した、むせび泣くような衝撃のラストが訪れるんです……。
 
 この「旅する女」は、まちがいなく日本文学が誇るべき傑作だ、とイーダちゃんは思うておりまする…。
 僕、これを最初に読んだとき、滂沱と泣いたもん---「アルジャーノン」を読んだときよりずーっとね---哀しくて、痛くって、でも、それと同時に、なんだか有難いような独自の読後感がありまして。
 深さ的にいえば、ええ、裕に川端級の限界ラインまで達してるんじゃないかなあ。
 ただ、川端さんの場合は「尖らした感性」をノミにして己が作品を彫っていったのに対し、小松さんは「理知と慈愛」でもって自分の世界を彫りぬいていってるんですね。
 それでいて作品が同じくらいのレベルに達しているっていうのは、これは、凄いことっスよ。
 ええ、本当の小松左京を知らない貴方のために、是非にも推薦させていただきます。
 小松さんのナンバーワンは、絶対コレ、「旅する女」ですよって!
 あの筒井康隆センセイだってこういってられる、

----「秋の女」が発表された頃のこと、ある編集者が口ごもりながらいった。「小松さんの『女シリーズ』というのは、あれはもしかすると、大変なものなのではないのですか」
 ぼくはとびあがり、あんた今時分何を言うてるんですかと叫んだものだ。
                                                                       (「小松左京論」筒井康隆)

 というわけで、イーダちゃんの小松左京一押しの作品は、高校のころからいままで、この「旅する女」でありつづけているんです。ええ、いまに至るまで微動だにしていません---。(^o-)r


                            ×          ×           ×

 ただ、小松さんはあくまでSF作家ですからね---SF作品もセレクトしておかないと片手落ちになっちゃう。
 ということで苦吟して選んでみたのは、昭和57年に角川さんからでた「氷の下の暗い顔」あたりでせうか。
 これ、四つの短編集からなっている一冊でして、なかでも「劇場」と「雨と、風と、夕映えの彼方へ」っていうのが、とっても絶品。
 大学のとき、僕、この両編のとりこになって、寮の部屋の枕の下に毎晩入れて読んでましたもんねえ。
 宇宙版・萩原朔太郎みたいな、暗い情緒がたまんない一編です---超・お薦め! 

 あ。あと、小松作品で忘れちゃいけないのが、実は、怪談なんですよ。
 「保護鳥」なんて、これがでたとき、出版界が静かな騒ぎになったとかいういい伝えが残ってるくらいの出来。
 最後に地元の森でクルマが故障しちゃって、歩きはじめた「彼」のまわりにアルプ鳥が何羽も、歓喜の声をあげて集まってくるあたり---これは、マジ怖いです---。
 あと、短編になるけど、「霧が晴れた時」とかね---これ、マリー・セレストに絡めた話なんだけど、このハイキング先での消失話がコワイことコワイこと…。お茶屋でいなくなった奥さんと娘の声が、霧のむこうからいつまでもおぼろに聴こえてくるような禍々した感覚が、読後も確実に残ります。

 有名どころでは、あの伝説の怪物・件(くだん)を扱った「くだんのはは」とかね---。
 これは、実は、関西某市で戦後ずっと語り継がれてきた、実話怪談の伝聞ともいわれている、ある特殊なお話でして……。
 あの「新耳袋」の木原・中山さんの例のコンビも、たしか作品中でこの小松さんの話をこわごわ取りあげていたように思うんだけど。

 ほかにも佳品は目白押し---精神病者の夢のなかをいくエクソシストの話「ゴルディアスの結び目」なんか、もう大好き。
 「牙の時代」「神への長い道」「怨霊の国」なんてのもよかったな。




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 小松さんがこれからも大作家として語り継がれていくかどうかは、はっきりいって僕には分かりません。
 ただ、青春期の貴重な一時期に、氏からかけがえのないモノを多量にいただいた、というのは動かしがたい事実なんですよ、僕にとって。
 そういう意味で、小松さんは恩人、感謝してもしきれないひとなんですよね。
 小松左京さん---人間の空想の自由さを謳った、極上のお伽話をあんなに提供してくれて、いままでホントに有難う!<(_ _)>


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