先日、知りあいの絵好きの女の子と、上野の東京都美術館で開催されている「バルテュス展」にいってきました。
バルテュスは前々から気になる画家さんだったんですが、いやー 想像を超えて凄かった。
会場の角を曲がるたびに、次の絵が与えてくれるだろう衝撃を予測して自然に息がつまってくる展覧会なんて、僕は、ひさしぶりでした。
バルテュスは、繊細で、神秘的で、かつ、ちょっと淫媚であり、もう素晴らしかった。
僕の評価は、どっちかというとリルケ寄りの立場です。
ええ、ピカソより、はるかにバルテュスのほうがいいと思う。
ただ、僕、まえから思ってるんですが、絵の印刷ってテクノロジー的にまだダメなんじゃないですかね?
ええ、音楽の再生のほうが、テクノロジーとしては、絵の再生よりよほどうまくいってるように感じます。
対して、印刷技術のほうは、だいぶ遅れをとってるんじゃないのかな?
バルテュスの絵のどんな紹介写真も、実際の作品の、あの形容を絶するような、異様に繊細な色彩の調和と光の錬金術とを伝えきれてない、と僕はまず感じちゃいました。
うん、冒頭にあげたのはバルテュスの有名な「美しい日々」という絵なんですけど、写真集で見るかぎり、それほど凄い絵じゃないよなあ、と正直僕はタカをくくっていた部分も少々あったんですよ。
ですけど、実際に実物のこのバルテュス絵と対面してみると、
----えっ? これがあの絵なの? うそ…?
と、もう息を呑んじゃった…。
写真の再生、ぜんぜんうまくいってないっスよ。
というか、それとこれとはまったくの別モノだっていっちゃったほうが、むしろ正しいかもしれない。
冒頭にあげたフォトは、ネットで拾ってきたなかでは比較的解析度もいいほうの部類なんですが、実際の絵にいちどでも生で触れちゃうと、正直、まともに比較しようって気すらなくなってきますねえ。
まず、色調の繊細さがぜんぜんちがう。
冒頭のフォトだと、バックの色もわりかし単調でべたっとしたモノトーンめいた気配が濃いめなんですが、実物絵は、まったくそんなもんじゃなかった。
暖炉の炎の光はある部分ではもっと鮮烈かつ強烈だったし、また、別の部分ではもっと微妙な淡い陰影が、幾十層もの複雑な諧調を伴なって、絵全体の深みを途方もなく深いものにしていました。
冒頭フォトの「美しい日々」から分かりやすい具体例をあげるなら、このモチーフの少女、いるじゃないですか?
この子の両脚---それが、実物と上記写真とじゃ、もう彼岸と地獄ほどのひらきがあるの。
上記写真で見ると、この少女の両脚、質感がちょっと陶器じみて見えてもくるじゃないですか。
でもね、実際のバルテュス絵で見ると、陶器なんてとんでもない、この子の左足のほうの膝頭の照り加減で、ほんのそこだけの肌の色合いで、この少女の年齢まで読めちゃうんですよ。
----うわー、若い肌だなあって…。
バルテュス、そんな風な描き方をしてるんですよ---しかも、画面内のすべての空間のあらゆる細部にわたって。
This is 神業。
これ、僕の独断じゃないの、だって、同行した連れの子まで僕とまるきりおなじことをいってたもん。
恐ろしかひとです、バルテュス…。
写真だとあまり目にもとめない床の表現にしてもご同様---それは、恐るべき複雑な質感と色彩とを重ねもった、バルティス特製の無限の光の階層が幾重にも細密に織りこまれた、奇跡の床であり表現でした。
うん、両手をちょっと広げたくらいのキャンパスという小さな四角い布地から、途轍もなく広大で深遠な光の世界が広がっているのが覗けるんだから。
だからね、展覧会の絵を見ていくごとに、なんだか次の絵が肩越しに見えてくるのが、だんだん怖くなっていくような心境だったんだな、僕は。
----いまの絵だけでもほとんどめいっぱいなのに、この次もこんなレベルのが待ち受けていたらどうしよう…?
なんというおっかない覗きからくりか---!
覗き眼鏡に近ずくたびに胸に脈打つ小さなおののきと、それと相反する新たな恍惚への予感…。
炎のほむらが揺れるたびに少女の脚に照りつける光の刻々とした「ゆれ具合」まで、バルテュスは写しとっているようでした。
絵はフィルムとはちがうから、時間の推移を写しとることは原理的にできないはずなんです。
でも、実物のバルテュス絵を見てると、炎のほむらの反射が少女の脚で踊っているしばしの時間の流れまで、なんかこう、まざまざと「見える」わけ。
こうなるともう単なる絵というよりは、ほとんど魔術だよね。
ま、こんなドキドキを与えてくれるような展覧会なんてそうないだろうから、たぶん、これ、僕にとっちゃ幸福な展覧会だったんでせう。
ただ、全体的印象でいうなら、ちょっとばかし内容ありすぎたかも。
僕はねえ、絵って、1枚の絵と1時間くらいかけてじっくり「付きあう」のがいちばんの理想じゃないかって、このごろよく思うんですよ。
その意味でいくと、このバルテュス展は、あまりにもハードで、疲れすぎちゃった。
ま、幸福な疲労だった、とは、忘れずに言い添えておきたいとこですけど---。
× × ×
というわけで2枚目、いきますか---これは、バルテュス後期の風景画「樹のある大きな風景」って絵です---。
僕的には自信たっぷりに紹介したつもりだけど、でも、これ見た瞬間、貴方はきっと、
----なんだ、大したことないじゃん…。
と、思ったでしょ?
いいや、隠したってダメよ、僕だって、いきなりこの解析度の低い写真見せられたら、絶対そう思ったにちがいないもん。
----なんだ、セザンヌの亜流みたいじゃない、大した絵じゃねえな…、みたいな……。
けどね、この実物絵も実はもの凄かったの---この地味な絵に封じこめられた光の魔法は、バルテュスのほかの大作と比較したら、たしかにかなり地味めなのかもしれないけど、それらの絵のかもしだすパワーの総量とじゅうんぶんタメを張れるだけの、超・繊細な光の機微の織りなす手品は、まさに眼福モノの極めつけ…。
僕等ふたり、この絵のまえで茫然としちゃって、展覧会の街区をひとついってはまたこの絵のまえに舞いもどり、いってはまた舞いもどりのリアクションを何度も何度もくりかえしていたものねえ…。
というわけで最後のとどめとまいりませう---。
これ、僕がバルテュスというひとに興味をもった最初の作品です。
天才バルテュスの代表作のひとつといってもいいんじゃないかな?
題名は「地中海の猫」---この写真が生バルティスの百分の一の微量パワーしか有していないことをあらかじめ計量した上で、御覧になって下さいな---では、どーぞ!
結論---上野、東京都美術館の「バルテュス展」にいこう、の一言ですね。
バルテュス展、幸いにも6月22日までやってます。
絵好きなら、これは絶対見逃しちゃいけない、と僕は思うなあ。
ただ、よくいわれるバルテュスのスキャンダル性っていうのは---彼は、ロリータ好きでモデルの割れ目まで克明に絵のなかに画きこんだりしてたので、生前よくスキャンダルを巻きおこしていたんですよ---僕は、ほとんど感じなかった。
ロリータは、頭のいいバルテュスがあえて世間の目を意識して投げた、挑発のための「撒き餌」じゃないか、と思うな。
バルティス藝術の奥義はスキャンダルなんかじゃない、あくまで淡い色彩の織りなす繊細極まる光の錬金術---イーダちゃん的にいうなら「バルテュス内真相の夕映えエクスタシーに至るためだけに編まれた、繊細で禁欲的なメチエ」---晩秋の夕暮れの窓際で編物に熱中しているご婦人の美しい無心の一瞬のような---そんな刹那と永遠とがむつみあう一瞬を見つめつづけるまなざしこそ、彼の藝術の本領だったんじゃないか、と僕は何度でもくりかえしいいたいですね…。
× × ×
◆後記:この展覧会のあと、生命力を削られてへとへとになった僕等は、すぐ隣りの上野動物園に寄り、はしゃぎまくるることでパワーの再充電を図りましたとさ。
入場料600円は安いっス---アジア象が可愛かった。
ラストにその写真、ちょっちあげておきませう---お休みなさい…。(^o^)/
アストロロジャー各氏へ伝言:バルテュス氏は魚座産まれです…。月は、山羊か水瓶のどっちか…。