Dr. WAKASAGI at HEI-RIVER(閉伊川ワカサギ博士)

森川海をつなぐ学び合いの活動を紹介します

3月7日某テレビ局で岩手沿岸部のかりんとうが紹介されます

2024-02-06 | 水圏環境教育
かりんとう といえば,当地方では渦巻型である。皆さんの地域ではいかがでしょうか。その謎に迫った本ブログの記事が一役買っているようです。どのような構成になるのか,楽しみにしています。



2020.1 孔子廟と孔林の渦巻きの謎を追う かりんとうはなぜ「渦巻き」か? その5

2022-11-15 | 森川海に生きる人びと

孔子廟と孔林の渦巻きの謎を追う  かりんとうはなぜ「渦巻き」か? その5 

中国が海洋教育に力を注ぐ理由

11月20日〜23日にかけて,中国海洋大学の馬勇教授,超宗金准教授,孙絶霞准教授の3名を森川海国際体験交流会のコース(閉伊川源流〜浄土ヶ浜)を案内し【写真①】,日本で初めて中国の海洋教育事情についての講演会を開催した【写真②】。講演会には地元鍬ヶ崎出身の方々や遠く気仙沼から,また宮古市日中友好協会会長にもお越しいただいた。ご参加の皆様に,この場をお借りして御礼申し上げる。

中国では,海洋強国の3大目標「海洋環境保全」,「海洋経済」,「海洋権益」のうち,海洋環境保全を最も重視しており,そのためには海洋教育が一番大事であるという。その最先端を担っているのが,青島にある中国海洋大学だ。中国海洋大学は,国家の方針に従って,中国全土に海洋教育拠点を100箇所設ける使命を委ねられており,2020年に北京に設置して100箇所目を達成するという。とにかく,国家と大学が海洋教育を先導し推進する体制がある。日本では優れた海洋教育人材やプログラムが存在するものの,全体としての勢いに欠ける感がある。神奈川の西海岸など一部の沿岸部は活気あるが,人材流出が止まらない沿岸部も多い。人口流出を食い止め,地方沿岸部の価値意識を高めるためにも,社会的共通資本として国と地方全体が一体となった地域振興を図る日本版シーグラントカレッジプログラムの設置が求められる【写真③】。

孔子廟の渦巻きと縄文人との関係その1 漆器

さて,先月号には,縄文時代の土器や土偶に描かれる渦巻き模様が孔子廟と孔林に数多く描かれていることを記した。渦巻門の意味はなにか?また,縄文人と孔子を結ぶものものは何か?縄文人と孔子の祖先である殷(いん)王朝と密接な関係があるためではないか。という仮説にたどり着いた。ちなみに殷王朝とは,今から3600年前〜3000年前に山東省のお隣の湖南省にあった中国最古の古代国家である。漢字が発明されたのもこの時代。初代の王は天乙という。孔子は天乙の子孫とされている。

まず,縄文人と殷との共通性として,漆器の存在が挙げられる。殷の時代に作られたとされる漆器が殷の遺跡から見つかっているのだ。陶磁器のことを英語でチャイナといい,漆器のことをジャパンということからもわかるように,日本が世界で最も古く9000年前に遡り,北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡から漆工が見つかっている。【写真④】一方,中国の漆器は7000年前までしか遡ることが出来ない。面積率が70%森の国である日本のほうが,漆木が豊富で当然漆器も多いはずだ。では,殷時代に発見された漆器は,日本から持ち込んだものか,それとも中国で作られたものか。もし,日本から持ち込まれたとすれば,どのようにして漆器やその技術を持ち込んだのであろうか。

その2 優秀な船乗りが存在していた?

島根県,福井県,そして千葉県など全国各地から縄文時代の丸木舟が200艇ほど見つかっている。【写真⑤】このことからも船を巧みに操る優れた航海術を持った縄文人がいた可能性がある。宗像(むなかた)という地名にもあるように体に入れ墨をした人々が九州に住み,優れた航海術を持っていたようだ。中国浙江省出身の東京海洋大学の教授によると日本人のことを今でも紋身(もんしん)と呼ぶ習慣があるという。紋身とは体に入れ墨をしている人々のことで,古くから中国と日本を行き来していた優秀な船乗りだ。

これらのことから,航海術を持った縄文人が住んでおり,その人々によって,漆器や漆器の技術が伝播した可能性が高い。

その3 縄文人の特徴

 縄文人は,世界的に見て大変珍しい特別なDNAを持っているという。今の日本人もそのDNAを持ち続けているようだ。そのDNAをD1bという。この遺伝子は,4万年以上前にアフリカから日本にたどり着いた人類が,氷河期終了とともに漁労採集による定住生活によって繁栄し,独自に進化したものだ。農耕による定住で文明が栄えたと義務教育の教科書では学習するが,実は日本人は狩猟(漁労)採集によって定住し繁栄した世界的にも珍しい民族なのである。特に,森を守ることによって川や海を守るという思想は,日本特有である。またその遺伝子や思想を今の日本人が受け継いでいるというのは特筆に値する。そう考えると宮古地方は森川海のつながりが保たれ食料が豊かで美味であり縄文人が何千年定住していた意味がよく理解できる。海の生活に特化した縄文人は,殷は同盟関係を結び,海上交易を盛んに行ったのではないだろうか。

 

その4 タカラガイはどこから来たか?

他に,殷の時代の遺跡から数多くのタカラガイが発掘されている。【写真⑥】大量のタカラガイはどこから持ち込まれたのだろうか。タカラガイは南方系の貝類であるが,沖縄が有力ではないかという。実際に沖縄の伊礼原遺跡にはイモガイやタカラガイの集積が見つかっている。運び役として航海術を持った縄文人が一翼を担っていた可能性が高い。

その5 タカラガイが通貨である理由?

タカラガイは世界最古の通貨であり,殷の時代に漢字が誕生する。財宝や貯蓄といった貝中心の漢字が出来たのは,この時代に始まる。買う,販売,貯金,貢ぐ,財宝,質屋,資源,貯蓄,賄賂,賛,貴,賞,貧,貨,といった宝物に関連する漢字は,すべて貝の字が含まれている。

ではなぜ,タカラガイが通貨のような役割をしたのか?それは,タカラガイが貴重なものとして紹介されたからではないか。貝殻の加工品はお洒落に体を飾るだけでなく,魔除けの意味があるようだ。沖縄県や,山口県では貝殻を魔除けとして玄関に飾る風習が残っている。つまり,海から遠く離れた殷王朝に,魔除けあるいは永遠の命の象徴として貝殻を持ちこんだ可能性がある。日本人は魚食中心であり,その当時から長命であった。不良長寿の薬を求めて日本へ向かった徐福伝説にもつながっていく。

内陸にはない,貴重なものであるから物々交換の対象となり,やがて通貨として使われるようになったのではないか。同時に,タカラガイは巻き貝の一種であり,渦巻き構造を持っている。永遠の命を象徴する渦巻きの意味も伝わったのではないか。

孔子廟,孔林の渦巻き門と縄文の渦巻きの接点は,縄文人が持ち込んだ永遠の命を象徴する巻き貝のタカラガイだ。それが,時代を経て伝承され,孔子廟や孔林の渦巻門につながった。それは,魔除けとしての意味を持ち,永遠の命を表す。

孔子廟や孔林に多数ある渦巻き門。それらは魔除けと永遠の命の象徴である。渦巻きかりんとうには,魔除けと永遠の命を象徴する縄文人の思想が込められているのだ。【写真⑦】

 


岩泉町を訪問しました

2022-01-03 | oceanliteracy
岩泉町を訪問しました。人口は全国の状況と同様に減少傾向ですが、地域の皆さんの前向きな取り組みや対応に可能性を感じ取ることができました。



99mの水底を眺めることができるほどの透明度と水量。地底に眠る水のパワーを感じる希少な場所。この水は静川として町の中心部を流れ、人々の生活用水となるだけでなく、八重桜、岩泉ヨーグルト、かりんとう、栗しぼりなどなど地元名産品の根源物質となる。この自然度の高さを維持するためには人々は自然を活かし守っているのだろう。

水色の部分が石灰岩。龍泉洞がここにできた。

岩泉の土地は、様々な岩石によって構成されている。


2019.9 かりんとうはなぜ「渦巻き」か? その2

2020-04-29 | 森川海に生きる人びと

地球の半分を駆け巡る1ヶ月

 7月〜8月はフィールド学習と国内外での講演会が連続した。7月15日は海の日イベントとして恒例の「里海キャンパスで浄化実験を観察しよう。」と題した親子カニ釣り調査。【写真①】

7月18日〜20日は,福井県小浜市の若狭高等学校,京都大学環境学堂で開催された「国際マイクロプラスチック青年会議」に主催者として参加。台湾とアメリカの高校生の研究発表のアドバイザーを担った。【写真②】

台湾とアメリカの高校生と3日間過ごした後,20日アメリカ海洋教育学会に参加発表のため東海岸のニューハンプシャー大学へ。【写真③】

25日から30日まで西海岸に移動しカリフォルニア大学バークレー校へ。「国際海洋リテラシー調査委員会」の打ち合わせを行い,31日日本に到着。【写真④】

その直後中国の研究者との打ち合わせ。2日は森川海に住まう人々と題したオープンキャンパスでの講師を終えた直後,仙台へ。日本台湾森川海体験交流会の主催者として台湾の親子を迎え,3日から7日まで区界高原を皮切りに4泊5日のサーモンランド宮古での体験交流会。【写真⑤】

8,9日は大学院入試。

10日〜12日まで新潟県糸魚川市能生町にて大学2年生28名を対象とした水産調査。【写真⑥】

能生町は,意外にも森川海を生かしたユネスコジオパークだった【写真⑦】

17日までお墓参りとお盆を過ごし,19日〜25日までアジア海洋教育学会会長として中国青島市にある中国海洋大学を訪問。会長挨拶,招待講演,一般講演を終えた後,28日〜30日まで韓国浦項市にてシーグラントウィークに参加し招待講演。と目まぐるしく場所が変わったが,すべてが森川海MANABIプロジェクトの一環である。また,先々で気になるのが,渦巻きの意味だ。そして,不思議なことに,数々の渦巻きと数多くの出会いがあったのだった。

 

関東と関西で出会った渦巻かりんとう

 小浜に旅立つ前日に,西麻布かりんとう専門店「麻布かりんと」を訪問。渦巻きかりんとうを入手。こちらのパッケージはさすがに洗練されていた。【写真⑧】

700円以上するが見た目が随分とおしゃれだ。ここの渦巻きかりんとうは100種類のうちの1種類。店員さんに由来を尋ねたが,わからないという。ただ,お客さんの中には懐かしいねーと言いながら購入するお客さんもあり人気があるという。関東出身の卒業生に聞いてみると,お祭りのときに神田のおばあちゃんの家に行くとかならず渦巻かりんとうがあったというから,関東でも昔から食べられていたようだ。

福井県での国際会議の後,関西空港に直行。そこでも出会いがあった。ラウンジで休憩していると,バリバリお菓子を食べる音がした。もしかしたらと思い,テーブルを見るとそこには常盤堂製菓のかりんとうがあるではないか。もちろんこちらも,北海道浜塚製菓と同様数種類のかりんとうのうちの1種類としてパッケージされている【写真⑨】。

パッケージには昔の駄菓子屋のイメージが描かれている。イメージから考えると,渦巻きかりんとうは駄菓子の一つとして古くから全国各地で作られて食べられていた,それが近代化とともに西洋菓子が登場し,駄菓子の需要が減り姿を消していった。生産性や合理性を重んじられ,手間ひまがかかる手作り製法は排除されたのだろう。

しかし,県北沿岸部では,縄文時代から続くおめでたい意味の込められた渦巻きかりんとうが,地元のニーズに応えながら途絶えることがなく作られ続けてきた。小規模な経営だからこそ,伝統の味と文化を伝える役割を担うことができたのであろう。希望郷いわて文化大使として,岩手文化遺産に推挙したい。

 

カリフォルニア大学バークレー校での渦巻きとの出会い

 バークレー校は,サンフランシスコ市の対岸に位置する学園都市バークレー市にある。【写真⑩】

また,バークレー市の隣にはオークランドアスレチックスのホームグランド,オークランド市がある。バークレー校は,10校あるカリフォルニア大学の本部である。略してCAL,唯一バークレー校のみCALと名乗ることができる。ロサンゼルス校はUCLAであり,デービス校はUC Davis,サンタクルーズ校はUCSCである。また,バークレー校は,オッペンハイマーなどの有名な研究者が在籍し原子力開発で発展した大学。200人いるノーベル賞受賞者の一人であるローレンスの寄付によって建てられたのがローレンス科学館という科学教育の模範的施設がある。(この施設については,拙著「水圏環境教育の理論と実践」を参照)

 さて,そのローレンス科学館(LHS: Lawrence Hall of Science)にて,国際海洋リテラシー委員として招聘され会議に出席した後,副館長のグレッグストラング氏の自宅でパーティに招かれた。その時の出来事である。

 

中国にもあった渦巻きかりんとう

 まず,私の日本からの手土産として,岩手産渦巻きかりんとうをテーブルに並べた。【写真⑪】

LHSに訪問研究員として台湾海洋大学から派遣されたRay Yen教授は,台湾のかりんとうを持ってきた。麻花(マーファー)という棒状であるがねじれが入ったかりんとうだった。【写真⑫】

早速食べ比べをしてみる。日本のかりんとうより硬いが,味はほぼ同じである。味は日本のほうが洗練されている。そして,中国大陸にも渦巻きかりんとうがあるという。その場にはなかったが,中国ではごく普通に食べられているものだという。螺仔餅(ローザイピン:ネジ餅)あるいは猫耳という。【写真⑬】

また,中国の留学生に渦巻きの意味するところを聞いてみると生と死が繰り返されるという意味が込められているようだ。中国でも,渦巻きには大事な意味があったのだ。「淵は畏敬の対象でもあり,恵みをもたらす場所」「生命(いのち)に関わる重要な意味」と先月号で考察したが,この考察を裏付ける知見が得られた。中国では,どのような製造販売の形態をとっているのだろうか。小規模に経営する駄菓子屋さんや手作り料理として残っているのだろうか。興味がつきない。(つづく)


かりんとうはなぜ「渦巻き」か? 渦巻きのシンボルが意味するものとは?

2020-04-15 | 森川海に生きる人びと

渦巻きかりんとうの希少性

小さい頃から親しんだ,地元のかりんとうは棒状ではない。板状である。しかも渦巻き模様がついている。【写真①】今まで,あまり疑問を持ったことがなかった。だが,東京のコンビニやスーパーでよく見かけるかりんとうは棒状をしたものが大半を占める。ネット検索でしてみると,岩手以外には,東京麻布(岩手にゆかりある)の麻布かりんと,北海道の浜塚製菓,それと関西姫路の常磐堂製菓のかりんとうである。一番多く出てくるのは,岩手県それも沿岸部と県北だ。一戸,軽米,浄法寺,普代,岩泉,宮古,山田,釜石,一関,八幡平市と圧倒的に多い。【写真②】人口の比率からいっても沿岸のソールフードと言ってもいいだろう。東北地方でも岩手の存在が輝いている。もちろん,九州,四国は検索にヒットしない。なぜ,渦巻きかりんとうは岩手県しかも県北沿岸部に集中しているのだろうか。

 

なぜ渦巻きなのか?

私が,渦巻きに興味を持つようになったのは,縄文土器に興味を再び持つようになったからだ。小学校1,2年生の頃かと思うが,山口川側で縄文遺跡が見つかったと聞き,急いで駆けつけたことがある。6年生の先輩が自宅の山で大きな縄文土器を発掘しており,自分でも見つけたいと憧れを抱いていた。結局,調査が始まり,立入できなかったが,あの時のワクワク感は,今でも忘れることができない。また,山口小学校にも展示されていて,畏敬の念を抱いていた。

 あれから40年以上過ぎ,持続可能な社会のあり方を考えるようになると森川海のつながりを巧みに利用していたであろう縄文人に再び強く思いを寄せるようになった。縄文時代は,世界的にも注目されているが,数千年にわたって定住生活ができたのは,森川海のつながりの中で,食料の確保ができたからだろう。縄文土器が多数発掘される宮古には,文化的で平穏な暮らしがあったと予想できる。その縄文人が作った土器や土偶には,必ずと言っていいほど渦巻き模様が描かれている。おそらく豊かな生活を送る上で,何らかの大事な意味を込めていたのだろう。【写真③】

水面に湧き出る渦巻きから想像する

 縄文土器や土偶の渦巻きには,どのような意味が込められているのだろうか。5月の連休中,小国小学校にできた里の駅周辺から小国川に降りた。緑で覆われた川岸に沿って,川下から上流へと向かい釣り竿を振った。釣りのポイントと言えば,淵である。淵で竿を振ると,魚がかかった。イワナであった。淵には様々な物質が集まり,それを求めて魚が集まる。魚が集まる淵の水面を見ると,なんと,そこには数多くの渦巻き模様が浮き出ているではないか。【写真④】渦が出現する場所は,物質や生命が集積する場所だ。渦は淵がある場所や高低差が激しい場所,川と川がぶつかり合う場所にできる。自然エネルギーが集積し,物質を撹拌し生命を生み出す場所だ。遠野物語に出てくる閉伊川の淵には,様々な伝説が言い伝えられてきた。淵は畏敬の対象でもあり,恵みをもたらす場所でもある。そして,淵がある場所には神社が祀られている。【写真⑤】土器や土偶の渦巻きには,生命(いのち)に関わる重要な意味が込められていたのではないだろうか,と実感したのである。

子供の手形に描かれた渦巻き

6月に東京国立博物館の縄文展を担当された方の講演会を聞く機会があった。縄文土器や土偶についてスライドで丁寧に教えていただいた。そのスライドの中で,子供の手形が目に止まった。【写真⑥】生まれたばかりの赤ん坊の手形を土器にして,肌身離さず大事にしていたのだろうか。その手形の中には,なんと渦巻きの模様が描かれているではないか。「大事な子供の手形になぜ渦を描くのか」と理由を伺ったが,まだよくわかっていないとのことであった。明確なのは,地域性があり東北,北海道に多いとのことだった。子供の両親はどのような思いを込めて生まれたばかりの可愛い赤子の手形にうずまきを書いたのであろうか。健やかに育ってほしいという強い思いを願ったのか。あるいは,子供の死亡率が高かった時代,天国で達者で暮らして欲しい,と祈りを込めていたのか。いずれ,手形の渦巻きには我が子を思う親の強い願いが込められている。

 

田中菓子舗さんを尋ねて

 田中菓子舗さんに直接お会いし,渦巻きの謎をお伺いした。創業者であるお祖父様が,明治時代に宮古の駄菓子屋(玉泉堂)で製法を学んだと言う。その後,地元に戻り大正12年から始めたそうだ。その当時は田老町に3件の駄菓子屋があり,渦巻きかりんとうを製造・販売していたという。ご主人によると「渦巻きには縁起が良い意味が込められている」と伝えられてきたという。事実,金太郎飴で一番人気はやはり渦巻きだったという。【写真⑦】また,北海道浜塚製菓の池田社長さんによると,内地から伝わり風車のように先を見通す縁起物とだとして伝わったという。渦巻きかりんとうの渦巻きには,縁起を担ぐ意味があるようだ。

長野では家庭料理として

 全国的に見ても岩手の県北沿岸部が多いと書いたが,調べると長野県にもあった。長野県の一部地方の千曲市,長野市,上田市周辺では家庭料理として食べる習慣があるようだ。しかも,お盆には欠かせない食べ物だったという。お盆は,仏教が入る以前から続く祖先を迎える日本独自の風俗である。田老出身のO.H先生から,亡きお尊父様の香典返しとして頂いたのが,渦巻きかりんとうだったことを思い出した。O.H先生は,おそらく渦巻きの意味をおわかりだったのではなかろうか。渦巻きかりんとうは,古くから祭事に欠かせないものとして,またお茶請けや子供のお菓子として地元の人々に欠かせないものになったのだろう。

 

渦巻きかりんとうは,縄文時代がルーツ!?

長野県も縄文遺跡が多い。渦巻きの描かれた火焔式土器も千曲川流域だ。落葉広葉樹林帯であり,岩手との共通点も多い。千曲川沿いにも渦巻きのできる場所が多数あり,サケ・マス,ウナギなどの魚が海から多数遡上し,食料には事欠かない豊かな場所だったのだろう。渦巻きを大切なシンボルとしていたのは想像に難くない。そして,岩手と長野でソールフードとして食べられ続けている渦巻きかりんとうは,縄文以来の価値観と関係があるのではないか。興味が尽きない。