兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

さらにさらにさらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて

2021-10-30 18:03:09 | 弱者男性


『Daily WiLL Online』様で最新記事が発表されています。
 戸定梨香問題で露わになった、表現の自由クラスタの問題点について述べてきましたが、第三弾では彼らが三十年前から……といったことをご報告しています。 どうぞご愛顧のほどをよろしくお願いします。

続々:Vチューバ―"戸定梨香"騒動に想う=「フェミ」は所詮「フェミ」

■リベラルフェミニスト恐怖の正体?

 さて、詳しくは前回、前々回記事を見ていただきたいのですが、前々回ではネット上での議論を、前回ではその時に問題になった本を読んでのレビューをお送りしました。

さらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて

さらにさらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて


 まあ、いずれも実り多い体験と呼ぶことはためらわれるものでしたが……。
 おわかりいただけているかと思いますがみなさん、ぼくは色々主張する上でそれなりに調べ物をしているわけです。今回も上の二冊に目を通すついでに、図書館にある本をいくつか借りてきました。
 そして、今までもタネ本にしてきた(先の記事にも引用している)明石書店の『フェミニズム事典』も再読したのですが……この本の「リベラルフェミニズム」の項目に驚くべき記述を発見しました。

現在,リベラル・フェミニズムは、主流フェミニズムとしても知られる。
(212p・強調ママ)


 おいおいw
 これ、平安氏が持ってきたウィキの記述とほぼいっしょですよね。
 しかし、そもそもぼくがずっと説明してきたリベフェミの定義も、多くは同書の同項目の記述に依っているわけです。
 一体、どういうことか?
 これについて、動画ではこの「主流フェミニズム」という用語は、同書の「項目としては設けられていないが、事項索引には記述がある」としていましたが、すみません! 実はちゃんと項目としてありました!!
 何しろ英語圏の本の翻訳なので、「主流フェミニズム」は英語である【Mainstream Feminism】、即ち「M」で探さねばならなかったのに、そこに思い至らなかったという、これまた非常に間抜けな理由で見落としていたようです(そういうわけで今回のヘッダ画像にある【Unidentified Mainstream-feminism Animal】の和訳はもちろん、「未確認リベフェミ動物」となります)。
 ともあれ、これは「主流フェミニズム」という独自の「用語」が存在していることを意味します。そう、「ウルトラマン」が「ウルトラな男」を意味せず、あくまで「ウルトラマン」という独自のキャラクターを意味するのと同様、「主流フェミニズム」は必ずしも「主流のフェミニズム」を意味するとは限らないのです。
(そもそもこの言葉はリベラルフェミニストとも呼ばれるベティ・フリーダンが言い出したのが始まりです。「自称」なんですね)
 さて、ではこの「主流フェミニズム」とはいかなるものなのか。
「主流フェミニズム」の項から紹介すると、

 もっとも広範囲に受け入れられているリベラル・フェミニズムをさす語で,主に米国で使われる。本来,革命よりは改良をめざし,平等の権利の追求と法の力への信頼が特徴。『ミズ』(Ms.)誌はよく主流フェミニズムの代弁者とみなされていた。
(223p・強調ママ)



 こんだけです。本当に短いです。
 これだけでは何なので、「事項索引」から「主流フェミニズム」について言及された項目をチェックしていきましょう。
 例えば「キャリア・フェミニズム」という項目があります。
 このキャリア・フェミニズムとは就職や個人的な目標の達成などを目的にするもので、

 これは,「わたしはフェミニストではないけれど,でも……」という,女性がふつうに受け入れやすいフェミニズムのタイプであり,特に米国では主流フェミニズムという語で広く知られている。
(57p)



 とされています。
 なるほど、なるほどw
 今までの点がつながりつつある感じですね。
 上にある『Ms.』というのはアメリカのフェミニズム雑誌。学術的、専門的なものではなく広く女性一般に売ることを目的にしたものであり、本事典にもこの項目が作られ、「リベラル・フェミニズム、主流フェミニズムの代弁者」とされています。考えると日本でも(今では素敵な奥さんが買っているような)『クロワッサン』という雑誌が70年代、フェミニズムを推していた時期があり、或いは『Ms.』日本版を目指していたのかもしれません。
「個人主義フェミニズム」との項目もあります。これは「主流フェミニズム」の一形態ともされ、

中産階級の改良主義的立場をとり、現状を疑問視せず、既得権をもつ白人男性の価値観と目標を女性にとっても望ましいものとして、受け入れる。
(177p)



 いかがでしょう。上の解説が少々揶揄気味なものであることからもわかる通り、(そしてまた上野、小倉両師匠の「リベフェミ」に対する敵意に満ちた対談からも推察される通り)この「主流フェミニズム」は言ってみれば「俗流フェミニズム」とでも称するべきものなのです。当たり前ですが、「俗流」というのは常に「主流」となる宿命を持っていますが、「正統」なものとは限りません。

■リベフェミ首領の正体!!

 即ち、こういうことです。
 ぼくはずっと「リベラルフェミニスト」の代表者は誰だと問い続け、誰からも答えは得られなかった。それは「いない」からです。
 そして、思想としての「リベラルフェミニズム」が滅んだ存在であることは、ほぼ間違いない。
 ただし、「俗流」とも言うべき個人のライフスタイルとしてのフェミニズムはアメリカではリベラルフェミニズムとも呼ばれ、それは単純な数で言えばフェミで一番のマジョリティーかもしれない。もちろん、「わたしはフェミニストではないけれど,でも……」という解説が象徴するように、彼女らが自身をフェミニストと同定しているかとなると、極めて疑問ですが。
 だからぼくの言っていた「リベラルフェミニズム」は滅んだ、非実在フェミだという言い方はあまり正確ではなかった。
 敢えて言えば「リベラルフェミニズムは思想としては滅んでいるが、コアなフェミニストたちから(往々にして敵対的な感情と共に)リベラルフェミニストという称号を頂戴している人たちは存在している。
 もっともそれは、「本来のリベラルフェミニズム」「真のリベラルフェミニズム」の直系とは、必ずしも言えないでしょう。これら主流フェミはやはり否定的なニュアンスで「修正主義リベラルフェミニズム」と呼ばれることもあるようです。
 そうしたどこまでも実体のないのがリベラルフェミニズム/ストだと言えそうです。
 ただ、いずれにせよぼくの今までの説明は極めて不完全であり、修正する必要がありましょう。

 しかし……では、本件は「リベフェミはいる!」と主張していた人たちの大逆転勝利となるのでしょうか?
 残念ですが、表現の自由クラスタの「リベフェミはポルノを認めるよいフェミだ」は論外というしかない大嘘です。
 また、「ラディフェミとリベフェミが争っている」との俗説の真実も、ここで明らかになりました。これってアレですわ、「オタクを攻撃するサブカル」なんですな。
 サブカルは自分たちの清浄なる左翼思想をオタクに継承させ、オタクたちを自軍に加え、鉄砲玉にしたい。しかしオタクたちはただ美少女キャラに萌えているだけで、政治に関心を持とうとはしない。そこで逆恨みでオタクを攻撃している。
 それと同様に「リベフェミ(というか主流フェミであり、キャリアフェミであり、個人主義フェミ)は自分たちの政治的野望の片棒を担ごうとはしない、デキる女としてイキっているだけだ、場合によってはオタクが社会的成功を享受しているように、有能な旦那をもゲットしている、許せない……!」というのがリベフェミを叩くラディフェミの本音だったのでした。それは上野小倉両師匠の対談を見ても明らかですね。
 そこを、表現の自由クラスタは「正義のリベフェミが、表現の自由を守るために悪のラディフェミに敢然と戦いを挑んでいる」というミスリードをしていたわけです。

 では、平安氏はどうでしょう。先にも述べたように彼は表現の自由クラスタについて否定的で、「リベフェミも表現規制に肯定的」と指摘していました。この点は全く正しく、表現の自由クラスタとは比べるべくもありません。
 実は彼は「フェミニズムとは運動だ」と主張しており、ぼくは抱腹絶倒の珍論として一蹴してしまいましたが(だって理念、思想もない運動などありえないのですから、そんな無茶な論法はありません)、しかし「リベフェミは思想としては終わっているが、運動としては継続している」とは言えようし、彼の言はある意味では正しかったのです。
 そう考えると、やはり抱腹絶倒の珍論に思われた「エマ・ワトソンがリベフェミの代表」も「ある意味では正しい」と言えましょう。
 ただし、これはかなり平安氏寄りの、彼の味方をした言い方です。
 ぼくとの議論においての彼が正しかったかとなると、それは残念ながら違うでしょう。
 まともにソースを出せず、せいぜいがウィキの引用などであったことからも、彼の言は議論の体をなしていたとは言えない。
 また、彼が今回ぼくの調べ上げた経緯を理解していたかは、はなはだ心許ない。
 平安氏もやはり表現の自由クラスタの言に引っ張られ、正しい知識を持っていなかったと見るべきではないでしょうか。

■リベフェミ全滅! 表現の自由クラスタの最後!!

 フェミニズムは運動である。
 リベラルフェミニズムは穏健派である。
 リベとラディが対立している。
 これらはまあ、ある意味、正しいともいえる。
 が、「リベラルフェミニズムは主流派である」は正しくない。
「主流フェミニズムと呼ばれる俗流のフェミが、アメリカではリベラルフェミニズムとも呼ばれる」が正しいわけです。
 さらに言えば本格派のフェミニストが、「意識の高いデキるOL」みたいのを敵視して呼びつけている用語としてのみ、それは存在しているともいえます。
 要はレッテルであって、レッテルというのは「そのレッテルを貼りたい人の脳内」にしか像を結ばないものではないでしょうか(例えば、「ミソジニスト」という存在が、この世にいるのでしょうか。「敵視する人をミソジニストとして糾弾する人」だけが、実在しているのではないでしょうか)。
 そして「個人主義フェミニズム」の項の記述を見ればわかるとおり、「主流フェミ」は「社会に明らかに強大な害を及ぼし続けてきた『真のフェミ』に比べれば、まあ、実害が少なそうだし、勝手にやっとれとは思うが、それ以上のものではない」といった辺りが妥当な評価であり、「正しいフェミだ、さあ持ち上げろ」とのうわ言には一切、賛同できない。
 そして、こうして事実関係を明らかにした後に見えてくるのはやはり、そこまでして「フェミ」の看板だけを延命させようとする表現の自由クラスタの欺瞞です。
 久し振りに、ちょっとだけ詳しく『ルパン三世』の比喩を持ち出して、本稿を締めましょう。
『ルパン』の第一期に「タイムマシンに気をつけろ!」というエピソードがあります。タイムマシンを使う強敵に命を狙われ、ルパンが死を覚悟する話です。ルパンはいきなり不二子を「結婚しよう」と口説き出す。その真意は不二子に名前だけでも継いでもらおうというものでした。となると(明日にも殺されようという以上)不二子とその辺の金持ちだかイケメンだかの間に生まれたボンクラがルパン四世を名乗る可能性が高いのですが、それでもここで家系が途絶えるよりは、というのがルパンの算段だったのでしょう。
 そう、リベフェミとは紀伊国屋文左衛門二世と同レベルの、ルパン四世だったのです。

 ――さて、以上で長らく続いた「リベラルフェミニストとは?」という議題に対するぼくの回答は終わりになります。
 が、ぼくがガンバって本を読んでいる間にもネット界隈では表現の自由クラスタの流したデマを真に受けて大量に拡散し続ける人間が複数出現するという、地獄のような状況。
 来週はそれらについて、ちょっとだけオマケを書かせていただきたいと思っております。