いや、北原みのり師匠がこんなにもメジャーになるとは、世の中わからないものです。
今が旬の「フェミ芸人」と言えば、上野千鶴子師匠でも田嶋陽子師匠でもなく、ぶっちぎりでみのり師匠でしょう。
師匠がメジャーになった直接の原因については取り敢えず、ここでは語りません。
ただ、永らくインディーズとしてやってきた師匠のエッジな(笑)芸が一般ピープルにはきつかったという面もあると考えると、今回の騒ぎはお互い不幸な出会いを果たしたな、という感じがしないでもありません。
……要はフェミニストがいかに今まで蛸壺で守られていたか、ということなんですけれどもね(ボソ
■師匠の「エッジ」な芸の一例
さて、今回ご紹介するのもそんな師匠の「エッジ」な仕事の一つ。女性誌『an・an』の歴史を振り返ることで日本の女性のセックス観の経緯を語ったものです。
が、ぼくは本書を一読して、とある本を思い起こさずにはおれませんでした。
1988年、実に今から二十三年前に出版された、『クロワッサン症候群』です。
70年代の日本では女性誌『クロワッサン』が女性の社会進出、自立を煽りまくっていました。80年代に至り、それを真に受けた大勢の女性たちが婚期を逃したまま取り返しのつかない状況におかれている――と女性ライターが涙目で語ったのがこの本です。女性たちの婚期を遅らせるだけ遅らせておいて、この当時(つまり80年代後半)、『クロワッサン』はいけしゃあしゃあと「保守化」して、「今夜のお総菜」みたいな特集を組む雑誌になりやがった、許せん、みたいな内容でした。
(いえ、著者自身はフェミニストではなく、むしろフェミニストたちの「煽り」を冷静に批判的に分析しているので、「涙目」「許せん」というのはウソですが)
1998年には『クロワッサン症候群その後』という続編も出され、正編に登場した女性たちへの追跡調査が行われています。そこでは十年馬齢を重ねていまだ結婚できない女性たちが正編以上に黒化、闇化、「オニババ」化して、世間への怨み節を語っておりました。
それから更に十三年。
全く同様な内容を女性誌『an・an』を素材に、「フェミ史観」からリライトした本。
それが本書です。
そう、フェミニスト村の住人たちは自分たちの利権を守るため、八十年代末というバブル手前に既になされていた『――症候群』の警告を無視し、或いは封殺し、女尊男卑を力業で推し進め、この日本に取り返しのつかないだけの不幸を「拡散」させました。
その結果が婚活ブームであり草食系男子であり痴漢冤罪といった、数々の女災です。
そして自分たちの企ての全てが失敗した後で、全てが「メルトダウン」して手遅れになった後で、自らに責任があるとは夢にも考えないフェミニストがルサンチマンで泣き叫んでいる。
それが、本書です。
『クロワッサン』がゴリ押ししたのは(『――症候群』を見る限りは)そうした中でも「女性の社会進出」だったのですが、『an・an』がゴリ押ししたのは(本書を見る限りは)「女性の性の解放」と言えるでしょうか。
本書は七章によって成り立っているのですが、
第1章:70年代
第2章:80年代
第3章:90年代前半
第4章:90年代半ば
第5章:90年代後半
第6章:ゼロ年代
第7章:現在
というよくわからないというかわかりやすいというか、とにもかくにも90年代に的を絞った構成。みのり師匠にとっての『an・an』黄金期は(70年代*1もそうなのですが、それ以上に)とにもかくにも90年代にあったことがわかります。
ここで繰り返し採り上げられているのは、「セックスで、きれいになる」特集。当時も画期的な特集として、あちこちで騒がれたものです。
「女にだって性欲がある」と、(これも当時話題になった)本木雅弘さんのヌード写真に大フィーバーしてみせたり、黒木香さんへのインタビューをしきりに「ガールズトーク」と称してみせたりするみのり師匠の姿には思わず苦笑が零れます。
特集の引用文に並ぶのは、「女からセックスを誘うのはもう当たり前の傾向に」などといった空疎な文字。この時期はしきりに「女の時代」と称され、あちこちで「女が元気/男が元気ない」と病人のうわごとのごとく繰り返されていました。「積極的な女がカッコいい!!」といった惹句が雑誌に踊っていたのです*2。
しかし不況の到来と共に、それらは雲散霧消しました。
あれから二十年、いまだ女性たちは草食系男子に苛ついているという体たらく。
男性ヌードが定着しなかったことが象徴するように、彼女がはしゃげばはしゃぐほど、当時の女性誌の「無理をしていた」感が露わになります。事実、師匠自身が「結果的に、女性向けエロバブルは短いものだった。」と認めています。
90年代半ばを過ぎる頃からレディコミは激減していき、2000年を迎える前には、ほぼ姿が消えた。女性向けアダルト誌もほとんど廃刊した。
その原因を師匠は不況に求め、更には「女の仕事」同様、「男に元気がある時だけ、お裾分けされ」たものなのだと言い立てます。
いや……女性が消費の中心扱いを受けているのは当時からずっと変わりのないことですし、BLの隆盛ぶりを見てもニーズさえあれば消えるわけないと思うんですが……。
またそれは、上のリンクを見てもわかるように、『クロワッサン』や『an・an』がいまだつぶれもせず発行されている現状からも明らかです。この出版不況、雑誌が全然売れない中にあって、女性向けの雑誌というのは何故かずっと出続けているヒット商品なのですね。その中で廃刊してしまったものはやはりニーズがなかったと考えるべきでしょう。
それはまさしく、論壇誌や討論番組におけるフェミニストの席と全く同様に。
そもそも何でそんなことまで「男が与えてくれなかったから悪いんだ」になるんでしょう? 或いは彼女の考えるフェミニズムとは「ただあんぐりと口を開けていたら男がぼた餅を落としてくれるべき」というものなのでしょうか?
「女の時代」も「女のエロ」も「女の仕事」同様、「男に元気がある時だけ、お裾分けされ」たものでしかなかった。フェミニストが必死で音頭を取ったものの、「びっくりするくらい誰も乗ってこなかった」のが実情だった、というわけです。
*1師匠がドラッグ全肯定の反体制カルチャー礼賛を続ける第1章はぼくにとってかなり衝撃的であり、また師匠の「アナーキー」さはこの辺りを元ネタにしているなとも感じるのですが、今回はひとまず置きましょう。
*2本書でも言及されていますが『東京ラブストーリー』において鈴木保奈美さんが「セックスしよう!」と言ったことが、当時の女性誌では「女性の積極化の象徴」として延々と延々と、下手をすると十年くらいはコピー&ペーストされ続けていたことを思い出します。それはつまり鈴木保奈美さん(が、ドラマのセリフとして言った虚構のセリフ)以外、女性は誰一人としてそんなことは言っていなかった、ということでもあるのですが。
ジュリアナ東京、『ジョアンナの愛し方』……全てはうたかたの夢のごとし。いえ、心ある女性にとっては「黒歴史」でしょうか。
第5章以降、即ち90年代後半以降はひたすら、『an・an』が保守化したこと――セックスに愛を介入させること――への怨み節になります。
いかにもな可愛い女による「愛」に満ちた彼との性体験などの記事が掲載される『an・an』を、師匠はまるで親でも殺されたかのごとく苛烈に告発します。ゼロ年代の『an・an』では「彼氏に奉仕するセックスマニュアル」的な特集が増えていきますが(彼氏をフェラチオしてあげよう! など)、それを見て真っ赤になって憤死せんばかりの師匠の姿は、読んでいてこっちがはらはらします。
そしてそれはどういうわけかいつの間にか、「ぷちナショナリズム」だの小泉人気だの社会の「右傾化」とやらへの批判へとスライドしていきます。よくわからないのですが師匠にとっては「恋愛」と口にした途端、そいつはネトウヨなのかも知れません。
「愛」を謳うことが既に保守化であり、それが我慢ならないのだというみのり師匠。
どうしても、男に心を開くことができないみのり師匠。
他人事ながら、他人事じゃないながら、大変に可哀想です。
今回、師匠について調べていて巨大掲示板の(かなり昔の)書き込みが見つかりました。
みのりタンは、性の自己決定権を過剰に意識していて、セックスを男女共同のものと思えなくなってしまってるメンヘラだよ。
セックスの決定権が男性に握られていると強迫観念にさいなまれている人さ。
だから、「女の決定としてのセックス」という側面しか眼中にないよ。
恐らく師匠への評価で、これ以上に当を得たものは他にないのではないでしょうか。
結局、かつての『an・an』に書かれていた「レズってみよう」も「男犯したい」も(痛い腐女子がよく言いますよね、そういうこと)、みなブス同士の「彼氏作らない同盟」で交わされたガールズトーク(爆笑)に過ぎなかったわけですね。
だから師匠は『an・an』が一足先に彼氏を作ってしまい、「彼氏とのツーショット写真」を誇らしげに見せびらかしてきたことが許せない。
気持ちは大変よくわかります。
リア充「メルトスルー」しろっっ!!
つまり――女性のマジョリティが彼氏を作れば作るほど、師匠たちフェミニストは不幸になる。女性のマジョリティ層の代弁者とは決して言えない師匠たちは、昏い情念を燃え滾らせて「つぶやき」を繰り返す。
それはいかに支離滅裂で不当なものであろうと、師匠たちの「社会的地位」と、そして女性独特の圧倒的情念に満ちたその文章そのものの迫力でもって他者の心を動かし、大メディアの力をもってしきりに「リツイート」されて、ある程度の力を持ってしまう。
そうして、女性たちは(男性たちをも巻き込んで)いよいよ「メルトアウト」していくのでした。
おしまい。
☆補遺☆
スペシャルボーナスです。
本書のあとがきでは「原発事故」が「男性」とパラレルに語られます。
東電のトップが男性で占められている限り、今回の事故は「男の責任」なのです。こうした幼稚なロジックはフェミニストにとっては極めて普通のものです。
で、その311の震災絡みでもう一つ、あとがきでは興味深いエピソードが語られていました。震災当日、例の辻元清美議員の「バイブ写真」についての問いあわせの電話を受けた、というのです。
事実関係を問いただす年配の男性に対して、師匠は「聞いてくる内容もくだらなければ、日本が大変な状況に陥っている今、こんな電話をしてくる神経もどうかしている。」と切って捨て、電話中切れてしまった時の様子を
「だから何? だから何? だから何なんだあっ!!!!!!」
叫んだ。叫んだ。叫んで電話を切った。責任者を出せだって、ばっかじゃない? バイブ握ってたからなんだっての? ばっかじゃない? ぜいぜいした。
と圧倒的な筆致で綴っていらっしゃいます。
こうしたヒステリックさは本書の――否、北原師匠の言動の全体を貫くもので、女性の豊かな感性というのは芸術として結実すれば素晴らしいのですが……どうにも師匠の場合はそれが悪い方向に転んでいるように思われます。
「バイブ写真」については「明らかに陳腐な合成写真だった。」と断言していらっしゃいます。
今でも「バイブ 辻元清美」で検索すると出てくるので、気になる方はご確認いただきたいと思います。
確かに言われると顔の辺り、ちょっと合成っぽい気もするのですが、しかし辻元議員がバイブにサインを入れて売ったことは事実です。そもそも、本書の第6章ではその下りが何ら問題のない微笑ましいこととして、それを叩いた週刊誌が大変な悪者であるとして、明確に言及されているのです。
にもかかわらず、そこをスルーして相手が悪いように言うのはあまりにもアンフェアでしょう。
こうした「おしり丸出しの隠れたフリ」という奇行はフェミニストが往々にして見せるもので、彼女らが自分の言動の矛盾や破綻に気づいていないご様子らしいことには理解に苦しむというか、いい気なものだというか、コメントに困るというか、いろいろとここには書けないようなことを考えずにはおれません。
みのり師匠のキチガイっぷりがようやく少しだけ衆目に晒されるようになって、少しばかりせいせいしたような、いきなり他者からの批判に晒された女史がさらに発狂して取り返しのつかない事になるんじゃないかと他人事ながら心配なような。ま、今まで甘やかされてきたフェミ連中にはこの程度のお灸じゃまだまだ足りないでしょうが。
女史の芸はなかなか面白いですね。特にセックスに愛を介入させる事=保守化=右傾化というある種フェミナチらしいスライディングすり替え論法はお家芸だけあって見事なもので。
たぶん、女史にとって、ひいてはフェミにとってセックスというのは男女の共同作業ならぬ男女の戦争の一形態なんでしょうね。支配し屈服させるかされるか二者択一しかないみたいな。そんな女レイプ魔まがいの奴は一般の男性にとっちゃいい迷惑ですし、第一子供を産み育てるという社会の存続に必要な行為にあっては百害あって一利なしな発想です。90年代の、男性の心情や育児といった他者の視点の欠落した「性の解放」(笑)が長続きしないのも当然です。しかし女史は自分の気に入らない風潮に「右傾化」というサヨク好みのレッテルを貼り付けるだけの簡単なお仕事でお茶を濁し例によって己の過ちは認めない。救えないアホですね。
しかし何より救えないのがそうしたアホのたわ言が
>いかに支離滅裂で不当なものであろうと、師匠たちの「社会的地位」と、そして女性独特の圧倒的情念に満ちたその文章そのものの迫力でもって他者の心を動かし、大メディアの力をもってしきりに「リツイート」されて、ある程度の力を持ってしまう
という社会風潮でしょうね。お笑い番組の中だけならまだしも、同じことが学問の世界で、そして人々の暮らしに直結する政治の世界で起こっているのが怖ろしい。まさに女=シャーマン=狂人の妄言に右往左往する未開社会。
この社会で女災を啓蒙するにはまだまだ時間がかかりそうです。
例によって長文乱文失礼しました
>いきなり他者からの批判に晒された女史がさらに発狂して取り返しのつかない事になるんじゃないかと他人事ながら心配なような。
そうですね。
UFOカルトにハマった人に「いや、宇宙人の陰謀というのは考えにくいよ」と言えば言うほど、「宇宙人の手先が俺を洗脳しようと、接触を計ってきた! やはり宇宙人の陰謀だ!!」と言われてしまいます。
彼女にどれだけの非があろうが、「女性差別」実在の証拠とされてしまうでしょうね。
ただ、一般の女性へのフェミニズムの求心力をなくすためには、師匠にこれからもよりいっそうの活躍をしていただかなくてはなりません。
>たぶん、女史にとって、ひいてはフェミにとってセックスというのは男女の共同作業ならぬ男女の戦争の一形態なんでしょうね。支配し屈服させるかされるか二者択一しかないみたいな。
そこが見ていて痛々しいんですよね。
「男ぎらい」をこじらせてレズを自称するフェミニストも痛々しいのですが、彼女は(本人も望んでいないであろう)男性ヌードを振り回して大騒ぎする。一生、誰も幸せにしない不毛な行為です。
本人にはお気の毒だけれども、これを機に大いに笑ってあげるしかないでしょうね。