兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

広がるミサンドリー(その3)

2018-04-28 00:25:53 | 男性学


 前回記事の続きです。
 未読の方はまず、そちらを読んでいただくことを強く推奨します。
 さて、いよいよ最終章、九章の「結論」です(ホントに「結論」っていうタイトルです)。
 が、読みだすや「ジェンダー両極化を覆さねばならない(大意)」などと言っていて(355p)、早速どんよりさせられます。

どうしてミソジニーの存在が、ミサンドリーを正当化するだろう?
(368p)

ミソジニー(女性蔑視)とそれを作り出している男性中心的世界観に反対することは重要である。しかしミサンドリー(男性蔑視)とそれを作り出している女性中心的世界観に反対することも平等に重要である。
(376-377p)


 著者たち、及び翻訳者の「わかってなさ」を象徴する名フレーズです。
 この著者たちの「ミソジニー」に対する温度はわかりません。が、こうある以上、「ミソジニーがあるのだ」というフェミニズムの主張を、ある程度受け入れていると考える他はないでしょう。
 フェミニストの欺瞞について批判しつつも、ジェンダーフリーなどのフェミの成果に対しては盲信を抱いている。「男性差別クラスタ」にたまにいる層であり、また「表現の自由クラスタ」ともそっくりです。
 しかし本ブログの愛読者の方にはとっくにおわかりでしょう。
 男女には絶対的究極的根源的な「愛され格差」がある。
 基本的に、男性は「殺していい性」として設定されている。
 過労死者の、ホームレスの95%が男性なのはそれ故です。
 そんな中、「ミサンドリー」と言われても、困る。
 ぼくたちの棲むこの宇宙それ自体が「巨大なミサンドリーそのもの」としか、言いようがないのですから。
「ミサンドリー」は神羅万象全てに宿っているが、「ミソジニー」は、そもそも、ない。
 いや、全くないわけではないぞと言いたい方もいるかもしれないが、だとしてもそれはニホンオオカミや二ホンカワウソの分布図くらいに局所的なものです。
 しかしそういった認識が本書の著者たちや翻訳者にあるかとなると、疑問と言わざるを得ない。
 もっともよい着眼点もあります。ミサンドリーの理解されにくい点として、

ミサンドリーが最も露骨な形態をとって現れたときも、事実として、男性蔑視はしばしば女性蔑視にすり替えて解釈されてしまう。
(358p。アンダーライン部は原典では傍点)

 
としていることです。
 その例として、著者たちはまた一つ、「絶対悪としての男性が被害者としての女性に加害する」映画を例に挙げます。この映画、『イン・ザ・カンパニー・オブ・メン』の主人公であるチャドはマッチョで、女性ばかりかあらゆる男性をも憎み蔑ろにしている、にもかかわらずこれはミソジニーを告発する映画として解釈され、場合によってはミソジニーそのものと解釈されると著者たちは言います。
 しかし何としたこと、著者たちはこの慧眼の直前で、こんなことを言っています。


男性も女性もしばしばミサンドリーを問題として見ることができないのは、性差別がミソジニーの点からに限って定義されているからだ。
(中略)
あらゆるミソジニーの痕跡の何十年もの執拗な追跡のあとでは、ミサンドリーがミソジニーの重要なカウンター概念であることが受け入れられるのはとても難しくなり得る。
(357-358p)


 まさしく「わかってないなあ」です。
 確かに、フェミニズムはミサンドリーの限りを尽くしてきました。上の映画もその影響を、受けていないわけがありません。
 しかしもし今ここでフェミニストを全員殲滅すれば――それでは足りないかもしれません、歴史を改変し、フェミニズムという思想の出現を完全に阻止すれば――「ミサンドリー」は地上に出現しなかったのでしょうか。
 そんなはずはありません。「ミサンドリー」は「ジェンダー」が地上に出現した時点で、そこに内包される形で生まれていたのです。
 そこを、まるで「ミサンドリー」が「ミソジニー」の二次概念ででもあるかのようによいしょと持ち出して来て、「ミソジニーがけしからぬならば同様にミサンドリーもけしからぬぞ、さあどうだ」などとイキったところで、解決する問題は何一つ、ない。
 ぼくたちは、ミサンドリーが正当なこととして存在している「凡ミサンドリー社会」に生きている。そのことをまず、認識しなければ何も始まらない。
 上の映画にしても、基本的にはチャドが女性へと悪さをする部分がメインの話なのだから、「チャドのミサンドリーについても言及がないとは許せぬ」という言い方はいささかパンチ不足です。例えばですが、チャドが男は平然と殺し、女には殴打で済ませているのに「ミソジニーだ」と言われている、とでもいった描写があるのならわかるのですが、そうでないのであれば、「映画のテーマ外のことを持ち出して、無理にインネンをつけている」に過ぎません(実際の映画を見てみないと断言はできませんが、少なくとも本書の筆致自体が、そうしたことに言及していない以上、彼らの見方に問題があると判断せざるを得ません)。
 これこそ、著者たちがミソジニーとミサンドリーをただ対照的な概念とだけ捉えていることの証拠であり、「わかってない」ことの証明です。
「男性蔑視はしばしば女性蔑視にすり替えて解釈されてしまう。」との指摘は、例えばですが以下のような事例を指してなされるべきでした。
「女性だけの街」問題というのがありました*1。フェミニストたちが「(安全のために)男を排除した女性だけの街が欲しい」と主張し、しかし平然と「しかしインフラは男たちが外部から通ってきて、整備せよ」などと言って呆れられたというのが経緯です。
 また、「フェミニスト男性」を自称する者が「ネットにはいつ女性が殺されてもおかしくないほどのミソジニーをはらんだ女叩きで溢れている」との主張をしたこともありました*2。しかし彼は「AEDで女性を救助すると訴えられるかも」との「真っ当な懸念」をも、「女叩き」にカウントしていました。
 これらは根を一にしています。
「男は邪悪だから、女性だけの街を作り、排除せよ」。
「男は邪悪だから、女性が倒れても、その汚らわしい手で助けるなど許さぬ」。
 もし、そうした意見があったのであれば、それは確かに「ミサンドリー」でしょう。
 しかし彼ら彼女らが言っているのは、そうしたことではありません。
「排除するが、インフラだけは整えよ」。
「その汚らわしい手で助け、女性の任意で罪人扱いされても文句を言うな」。
 それが彼ら彼女らの言い分です。
 この意見に異を唱えることが、絶対に許されるべきでない「ミソジニー」であるというのが、彼ら彼女らのホンキの考えです。
 彼ら彼女らは、ミサンドることは「空気のように当たり前な前提」とし、「その上でさらに女へと夥しいコストを投じないこと」を「ミソジニー」であると定義づけているのです。「ミサンドらないこと」が「ミソジニー」なのではありません。「ミサンドること」は大前提で、その上であれもしてこれもしてそれもしてが当然、それをしないことが「ミソジニー」なのです。それは「ミサンドリー」を遥かに上回る、本物の悪魔ですら震え上がるであろう吐き気を催すほどの邪悪な「何か」でした。
 それこそが「男性蔑視はしばしば女性蔑視にすり替えて解釈されてしまう。」ことの、本当の理由だったのです。
 フェミニズムは、「ミサンドリー」という「元から山のようにあった女性側の負債」を完全にスルーするという蛮行に、まず、出ました。その、しかる後に「ミソジニー」という仮想通貨による借金を捏造して、ぼくたちに「金返せ」と『ナニワ金融道』のような取り立てを始めました。そこが彼女らの悪質さであり、彼女らは「ミサンドリー」の発明者などではなかったのです。

*1『女性だけの街』ヲ作ろう
*2 男性が描いた「男性がフェミニストにならなきゃいけないワケ」の漫画が話題


 前回もちらっと触れましたが、あとがきでは久米師匠がこれからのマスキュリズムの展望について、

 要するに男女平等を目指す上で過去フェミニズムが男性に対して主張し行ってきたことを女性に対して主張し行うのである。
(444p)

(引用者註・離婚時の男親の不利な法的状態を例に挙げ)厳しく批判、監視していく必要がある。(まさにフェミニズムがやってきたことと同じことを性別を入れ替えてやるだけだが)。
(445p)


 などと言っています。
 彼のかかわっている、「男親にも親権を認めよ」という運動自体には賛成なのですが、女親に有利な現状だって、ある意味では「母親により子供が懐くから」であり、それを無視したジェンダーフリーに賛成はできません。
 いや、それよりも、そもそも、ここまでフェミニズムの欺瞞を暴露しておきながら、その方法論だけはパクろうという久米師匠の感覚はさっぱり理解できません。上の監視すべき対象としては「マスメディア」も挙げられており、この調子だと「男性差別的漫画」とかに文句をつけそうですよね。
 つまり彼の言うマスキュリニズムも、フェミニズムの「功績」を頂戴しての「よし、俺も」でしかないことがここで明言されているわけです。しかしそれではダメなことは、ここまで読んできた方にはもうおわかりのことでしょう。
 先に「男性差別的漫画」と書きましたが、師匠は『巨人の星』、手塚治虫、宮崎駿、また『ワンピース』などをミサンドリー作品、作家であると位置づけます。しかしこれら作家、作品がミサンドリックであるとは、ぼくにはあまり思えません。これら作家、作品においては男親は悪、女親は善という図式が透徹されていてけしからぬそうですが、それって単純に昔の作品では主人公が「旧世代の男」を乗り越えることがドラマツルギーとして普遍的だったというだけのことです。『ワンピース』について、ぼくは全く知らないのですが、師匠の指摘を見る限り旧世代の作品と同様のようで、そうなるとこうした図式はやはり、時代を超えて普遍的なものなのかもしれません。
 師匠の『ワンピース』への憎悪はものすごく(戦闘員であっても女性は守られ続けるという図式が露骨だそうで、それに憤るのはわかるのですが)、

 まず、男性差別、ミサンドリーの代表的作品といえるのが、少年(?)漫画である『ワンピース』である。この作品は、極めて強く男性嫌悪、女性中心的作品でありつつ、さらに非常に知名度が高く、そしてメディアで人気(誰に人気なのかはおいておくが)なため、総合点において必ず、触れておくべきだと思ったため、あげた。
(448-449p)


 何だか見ていて笑ってしまいます。
 師匠の腐女子への憎悪が(括弧の中から)窺われます。もっとも、師匠は「女性向けには少女漫画というジャンルがあるのに、何故少年漫画が女性に媚びるのだ(大意・452p)」とも言っており、「男女共生」というポリコレに盲目的に操られて「ガンダム事変」を引き起こした連中*3に比べれば、フラットなジェンダー感を持っていることもまた、窺われるのですが。
 ……などと思いながら読み進めていくと、本当に最後の最後というところまで来て、ものすごい爆弾が控えていました。

 またこれらの男性差別作品とし(原文ママ)挙げているものは、男性の作者であるが、男性の読者に自然発生的に人気が出て、横に広まっていったというよりも、ある一定の(フェミニズムを大いに含む)メディア政治勢力によって政治的な意図をもってプロパガンダされている気配がある。この手の作品が才能がないのに無理やり押されているというのではない、才能がある作品のうち男性差別的(言い換えるとミサンドリーフェミニズム)に都合のよいものが選んで政治的にプッシュされていると思っている。
(452p)


 え~と、すみません、師匠は既に遠い世界に行っていらっしゃるようです。
 手塚の時代からフェミニズムはメディアを牛耳り、手塚を(本来人気などなかったのに)表舞台に押し上げたのだそうです。まあ、ジブリ作品は母親受けがいい、くらいのことは言えるかとは思うのですが、それだってフェミとは関係ないでしょう(フェミを延命したくてならない自称フェミ批判者が、ママさん世論的なものをフェミと混同してスケープゴートにしがちなのをふと、連想します)。
 まあ、こんなわけですから師匠に対しては遠目にそっと、(『巨人の星』の)明子姉ちゃんくらいの感じで見守るに留めておいた方がよさそうです。
(後一つ、本書については訳文の拙さについて延々愚痴ってきましたが、こうして見ると師匠自身の文章もアレだとわかります。確か千田由紀師匠が「日本語ネイティブではないのでは」と評していた記憶があるのですが、それも道理です)。

*3「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち (兵頭新児)

 さて、では、これからぼくたちはどうすればいいのだ、と言われても困るのですが、しかしぼくたちが考えるべきことは、もう自明であるかのように思われます。
 例えば上の映画『イン・ザ・カンパニー・オブ・メン』には当初、チャドと協力状態にあるものの、次第に被害者女性を真剣に愛するようになるハワードという男性も登場します。言わば、今一頼りない男という、90年代を象徴する人物です。前回挙げた『愛がこわれるとき』のベンも、そんな感じでしたね。が、しかしそこを考えるとこの映画もまた「女性に加害する男性、誠実に愛する男性」の二者の登場するジェップスなのです。
 先に、こうしたジェップスを「ジェンダー規範に忠実」と書きましたが、正確にはちょっと違う。古典的な、ジェンダー規範に忠実な物語であれば、ハワードはヒロインを助けに来る正義の味方として描かれていたであろうからです。
 ひと昔、90年代より前ならば正義の男性と悪の男性が物語のメインとして描かれていたはずです(本書は専ら90年代の作品について語られています)。男性は能動的に動くというジェンダー規範が求められるため、かつての物語において、「ヒーローであると共にヒールであった」。つまり女性は無力なピーチ姫(或いはオリーブでも何でもいいのですが)という役割のみを与えられていたが、男性はマリオかクッパ(ないし、ポパイかブルート)に分かれていた。ところがマリオやポパイが失われてしまった、それが90年代に起きた変化だったのです。両者が共にブルーカラーなのは実に示唆的です。
『セーラームーン』はまさにこの時期に誕生した「女の時代」の寵児であり、そうした「男を蹴散らす」的なミサンドリーの念をもって描かれ、しかしアニメスタッフによってそうしたノイズが取り除かれた良作であることは以前指摘した通りです*4。とは言え、このセーラームーンにおいても、彼女の彼氏であるタキシード仮面は活躍すると「男のくせに出しゃばるな」と言われ、しくじると「男のくせに情けない」と言われた存在でした。
 かつてより、「男は悪者」でした。その代わり、かつては「男は正義の味方」でもあり、「女はお姫様」役を演ずるのみでした。それは丁度、手柄を立てるのも悪いことをするのも男の方が多いという、現実世界のジェンダー規範の、忠実な反映です。
 男性解放論者の古典的名著『正しいオトコのやり方』において、フレドリック・ヘイワードは

女の子はお砂糖とスパイスと、すてきなものばかりでできていた。そのかわり弱くて、おばかさんで、パンクしたタイヤも取り換えられない。そして男の子は強くて自信に満ち、有能だった。そのかわり無法者で信用がおけず、セックスに目がなくて、卵もゆでられない連中なのだ。両性の闘いは続き、そして現在、主役と悪役は決定された。女の子は以前両性で分けあっていた良い性質を全部独占してしまった。男の子はただもう、悪いだけだ。
(191p)


 と極めて鋭い指摘をしています。
 本書の分析の全てが無意味だとは全く思いません。しかしそれを実りあるものにするならば、近年の物語(否、言説のレベル)において「ヒーロー」が不在になっていることをこそ、問題とすべきなのです(久米師匠は「ヒーロー」の存在そのものを「男性差別」だとい言い募りそうですが、まあ、彼のことはどうでもよろしい)。
 言わば「ミサンドリー」はあってもいい、しかしよりそれ以上の「オトコスキー」がかつてはあったし、あってしかるべきなのにそれが失われた、何故なのか、というのが設問であるべきだったのです*5
 その理由は、何か……? 大情況的には産業のサービス業への移行に伴う男性性の価値の減退みたいことは、先進国に必ず起こる必然だったでしょう。ヴィジュアル文化時代には、見栄えのする女性が有利ということもあります(これはテレビ普及が大きいでしょう)。
 むろん、フェミニズムだけが原因ではないとはいえ、彼女らがそこに乗っかり、男性のネガティビティを喧伝し続けてきたということは言えます。本書の諸々の指摘は、そうしたフェミの蛮行の記録にもなっており、そこはもちろん、大変に有意義です。
 本書を見ていくと、ポリティカルコレクトに対する鋭い批判、左派が雑に黒人と女性とを混同して「聖なる弱者」に仕立て上げている点についての批判もあり、それぞれ至極もっともな話です。
 端々には

ほとんどの人はもし完全な平等が達成されたら、もし私たちが文化システムとしてのジェンダーの名残を全滅したとき、何が実際に起こるのか考えようとしない。私たちが、“脱ジェンダー化”と呼ぶものは全ての男女の文化的違いを解消し、生物学的違いさえ緩和するだろう。ではどうやって男性も女性もアイデンティティを形成するのだろう?
(140p)


 といった記述もあり、これなどジェンダーフリーへの鋭いカウンターになっています。
 しかし、同時に別な箇所ではジェンダーフリー肯定と思える記述があるなど、全体を通してみると本書がぶれないはっきりとしたビジョンを提示し得ているとは、言い難い。
 ましてや久米師匠には、批判する漫画がむしろ古典的ジェンダー観に則ったものであることが象徴するように、ジェンダーフリーへの強烈な志向がある。
 それともう一つ、彼は「男性差別解消を目指す人は人文系の学問を納めるべき」と主張し、また本書を学者、学生に読まれることを期待しているなど(445p)、どこか権威主義の匂いのする御仁です。また、上の腐女子への視線や先のポルノ批判の記事*6を見ても、オタクに対しての憎悪を持っていることが窺い知れる。仮にブログ「独り言 女権主義」の主が久米師匠であるとの顔面核爆弾さんの考えを正しいとすると、そのオタク憎悪の強烈さは疑い得ないものとなりましょう。つまり彼自身が今の左派の特徴である「とにもかくにも弱者と見るや、本能的に激烈な憎悪を燃え立たせる」という特徴を十全にお持ちの方であると評価せざるを得なくなるのです。
 ぼくが「女災」問題と「オタク」問題を並列させて語ってきたわけは、当ブログの愛読者の方にはおわかりでしょう。「オタク」は「弱者男性」と「≒」で結べる存在であり、従来のポリティカルコレクトネスの穴を突く存在(アメリカで言えば「プア・ファット・ホワイトマン」に当たる存在)であるからです。
 そのオタクを呪う久米師匠こそ、この世で一番の「ミサンドリスト」と言えましょう。
 左派が女性でありセクシャルマイノリティであり特定の外国人でありを理解する素振りを見せるのは、言うまでもなく彼ら彼女らの人権を慮っているからでは全くなく、最初から持っていた「社会一般」に対する強烈な憎悪を、「正義」に偽装するためでした。
 フェミニズムの本質は「箱舟」です。「甚だしく勘違いした、幼稚なナルシシズムを根底に置いたエリーティズム」です。
 自らのエリーティズムを満たすため、箱舟に搭乗したが、しかしその箱舟すらもアララト山に辿り着くことができないと知った者がいたとしたら……?
 今までの久米師匠の主張は、彼が彼なりに考えて提示したアンサーでした。
 弱者男性を深く憎悪する久米師匠(及び、田中俊之師匠)は「男性解放」を小銭稼ぎのネタにすると同時に、実のところ自分たちと歩調をあわせる「選ばれし者」のみを正義とすることで、男性一般は見下すというウルトラCを開発した方でした。
 一方、数年前まで「世界ミサンドリストナンバー1」の地位にあった「オタク界のトップ」は、しかしながら、目下のところオタクの味方のふりをしている。彼らは専ら「表現の自由」問題というワンイシュー()に論点を特化することで、今までの方法論のまま、オタクの味方として振る舞おうとした人たちでした。
 久米師匠の、フェミの方法論をパクろうという施政方針演説を見ればわかるように、彼らはフェミニストを憎みつつ、同時に彼女らの持つ資産、つまり論理の構築であり(これこそ非実在の仮想通貨なのですが)アカデミズムやマスコミにおける権力に魅力を感じているように思われます。
 彼らはフェミニストのトップを殺して、首だけを挿げ替え、そのリソースを利用しようという野望に憑りつかれてしまったのではないでしょうか。彼らが勝利した時、きっとバカ殿としてピル神みたいな人が椅子に座らされることになるのでしょう。

*4 セーラームーン世代の社会論
*5 さらに言えばフェミニズムとは「オンナスキー」が(専ら彼女らの責任で)失われ、もう、しょうかたなしに、ほとほと根を上げて、男がホンの僅かばかり露呈させた「ミソジニー」を手に取り、大袈裟に誇張して騒ぎ立てるという現象そのものでしたが、まあ、それは置きましょう。
*6 男性に対する性の商品化の学問上の批判

広がるミサンドリー(その2)

2018-04-20 00:10:34 | 男性学


 さて、前回予告してしまった手前、レビュー記事を書かねばならないのですが、本書については本当に悪戦苦闘させられました。
 以前、三章まで読んだ時点でのレビューをアップし、あまり評価できない旨を述べました。それから二年。少しずつ少しずつ、時には半年ほどのインターバルを置いて、ようやっと読破した本書ですが、当時にも述べたように、もうどうしようもない悪文が延々延々続き、読むモチベーションを保つのが大変でした。今時はまず機械翻訳して、その後に人間がチェックして訳を完成させるものだと思うのですが、「機械翻訳だけで人間が手を入れてねーんじゃねーか」と思えるところがあまりに多すぎるのです*1
 まあ、そうは言っても放置しておくこともできません。
 後半の評をまとめておきましょう。

*1 以下は『テルマ&ルイーズ』のストーリー紹介ですが、おわかりになるでしょうか……?
 ちなみに「殺人ど」は原文ママです。

ルイーズは落ち込んでしまったが、テルマが犯罪をした。彼女はスーパーで強盗した。今では、二人は逃亡者なだけではなく無法者である。
(中略)
二人は制限速度を超えたスピードで走っているが、テルマは彼は自分たちの強盗か殺人ど追いかけてきたに違いないと思った。再び責任を引き受けて、テルマは警官に銃を向け彼の車のトランクの中に閉じ込めた。
(159p)


こんなのが延々延々続きます。


 え~と、そういうわけで次は四章なのですが、あんまり大したことが書いてないのでちょっと飛ばします。
 第五章「責められる男性」から始めましょう。
 ここでは宗教保守が権力を握ったという設定のディストピアSF『次女の物語』が採り挙げられます。この作品では女性が生む機械として搾取されており、そこを批判的に描いているが、同時に男性が兵士として使い捨てられていることを描きながら、そこは批判されないままだといいます。
 そう、極端な世界観を設定しておいて「現実世界の風刺でござい」とイキることはSF仕立てにすると極めて容易なのですが、同時にそこからは作り手の本音もまた、丸出しになりがちなわけです。それはちょうど小林ギリ子師匠的な「自己主張漫画(とでも称するべきか?)」が当人の男性への憎悪こそを露呈させているものであるのと、全く同様に。
 1990年制作の映画、『ロング・ウォーク・ホーム』は1950年代の公民権運動について描かれたものですが、黒人女性は皆善人に、黒人男性は善人だが無能に描かれているといいます。白人男性は例外なく悪人で無能。白人女性については(文章が大変拙く、何度読んでもわからないのですが、わかる範囲で書けば)悪人もいるが、善人もいるとのこと。
 劇中、白人女性ミリアムは黒人メイドオデッサの説得により「転向」します。しかし実はミリアムは、子供の頃からアパルトヘイトを無意味だと思っていました。が、にも関わらずそうした慣習に、夫に従わされていたというのです! この「転向」は「夫に従うのではなく自分の考えに従え」という、ジェンダーの転向に他ならない! この映画のテーマは「黒人の権利に目覚める」というものというよりむしろ、「女性は正義であるとの真実に目覚める」というものになってしまっているのです。何という醜悪な映画でしょう!!

現在広がっている空気の中では、政治的目的のために簡単に歴史は忘れさられたりねじ曲げられたりする。
(183p)


 そう、ポリティカルコレクトの要請で、公民権運動は女性に支持され、男性に反対されていたかのように描かれなければならない。著者は上の映画のみならず、テレビドラマなどでも平然と、これに近しい歴史修正がなされるようになっている現状を指摘し、「公民権運動は女性に支持され、男性に反対されていたかのように描かれる(大意、201p)」と結論づけます。
 実際には


アン・ダグラスが指摘しているように、一九世紀後半、二〇世紀前半の白人女性の婦人参政権論者は、決して黒人女性の参政権を求めることはしなかった。事実は「白人女性は国内の反黒人感情に訴えることで参政権を勝ち取った。」
(289p)

 女性参政権論者はニグロ(黒人)に参政権を半永久的に与えないことを約束した。
(289p)


 というのが実情らしいのですが。

 第六章は「男性の人間性の剥奪――悪人から獣へ」との強烈なタイトルがつけられています。
 映画でもドラマでも男性は決まって加害者として描かれ、数少ない被害者として描かれる場面でも同情をされないこと、女はその逆で被害者として描かれ、数少ない加害者として描かれるケースでも、同情されるように描かれることを、著者たちは指摘します。
 仮に男性が被害者でも画面に映し出される割合は低く、感情移入を促さないよう(同情を買わないよう)演出されている。また、男性が被害にあっても悲しむのは例えば母親など、女性の役であることが多い。
 本章では「ジェップス*2」という言葉が登場します。これは女性が(多くの場合、性的な)被害者になる娯楽作品を指す言葉で、上に挙げたような特徴を持った作品を「ジェップス」であるとして、著者たちは批判を繰り広げます。
 その怒りは大変よくわかるのですが、しかしこれは結局、映画がぼくたちのジェンダー規範に基づいて作劇がなされているが故のことです。そこを省みず、ただ「マスゴミガーー!!」と言っているだけではしょうがないでしょう
 もっとも、そこについては本書でも多少、言及されてはいます。
 彼らはマーク・ハリス(といってもどういう人物なのか存じ上げませんが)の発言を引用します。

「これらの女性が残酷な扱いを受けたり暴力の標的になるプロットに性差別と蔑視を読みとりたくなる。しかしここで起こっているのは、メディアの陰謀というより二つの不可避の勢力の結果である。見たがる視聴者と演じたがる女優だ。」
(214p)


 そう、(日本同様、アメリカでも)テレビの視聴者は女性が多く、テレビ番組は女性に向けて作られている。ジェップスは明らかに女性に向けられているのです。
 その理由について、著者たちは頭をひねります。
「最終的には女性が勝つというプロットだからではないか(大意)」。
 いえ、そうではありません。
 こうしたジェップスは、言ってみればポルノと同じ物語構造を持っている。
 ジェップスそのものを、ぼくは見たことがありませんが、恐らく「レディースコミック」を想像すればそんなに違っていないのではないかと思います。ポルノもジェップスもいずれもぼくたちの男女ジェンダーの規範に則り、作られた娯楽でした。そして実のところ、それを男女共に喜んで見ていたわけです。
 これによって「ポルノは女性差別だ」とのフェミニズムの主張は全く当たっていないことが明らかになったわけですが、ジェップスを批判する著者たちの口ぶりは(規制せよと言っているわけではないのですが)フェミニストとそっくりです。こうした主張を演繹していけば、久米師匠の「何か、BLとかを規制せよ」という奇妙なポルノ否定へと到達することは自明です*3
 つまり、結局、こうした「カルチュラルスタディーズ」みたいなことをやっても、研究者のセクシュアリティ観がフェミニズムレベルに留まっている限り、フェミニズムから一歩も抜け出せないのです。
 他にもこの章ではディズニー映画『美女と野獣』が伝統を改変していることなどへの批判もあるのですが(『恐怖の岬』のリメイク『ケープ・フィアー』についても同様で、元はジェンダーバイアスがなかったものを、明らかに男を悪魔化する方向でのアレンジがなされているといいます)、正直ぼくもディズニーなんて見たことがありませんし、先を急ぎましょう。

*2 ちなみにこうした番組は「女性用シェルター、クリニック、女性支援団体へのフリーダイヤルが番組のエンディングクレジットのあとにほぼ毎回映される(215p)」そうです。
*3 実際、ジェップスをよく見る女性は他者への不信感を持ち、鍵や銃などを買う傾向が強くなるといった、「メディア効果論」を肯定する研究が複数あることを、著者たちは指摘しています。
(ただし、ぼく個人はそこをもって著者たちや久米師匠を否定する気は、あまりありませんが)


 第七章は「男性の悪魔化――悪とは男のことである」。大仰な(というか「我が意を得たり」と言いたくなる)タイトルですが、正直、あんまり得るモノはナシ
 ここでは『愛がこわれるとき』という映画が批判の対象になっています。ヒロインであるローラがDV夫であるマーティンと対決するという筋立てなのですが、「女≒自然≒正義/男≒科学≒悪」といった図式を演出せんばかりにマーティンは信じていた天気予報が外れて嵐に見舞われ、乗っていたボートが操縦不可能に陥り、ローラは海を泳いで生還します。ローラは結婚指輪を象徴的に投げ捨て、しかしマーティンはそれを手掛かりに彼女を追跡してきます。

 床に転がった公的に結婚を象徴するそれは、女性をコントロールし搾取するために作られた制度としての結婚は、思いとどまるべきで、廃止すべきということを示唆している。
(253-254p)


 さて、それはどうでしょうか。
 果たして、本作が「フェミニズムに影響を受けた、革新的な映画」であるかどうか。いえ、そのような側面も間違いなくあるのですが、しかし「男が悪者」という作劇は基本的に伝統的ジェンダー観に忠実なものです。
 同時にマーティンは確かに悪役ではありますが、最後にローラに銃殺されるまで、一貫してローラを追い求める存在です。それは丁度、腐女子が血眼で買い求める「ヤンデレ男子言葉責めCD」で神谷浩史が囁く「君がいけないんだよ、君が他の男に色目を使ったりするから」というフレーズと「完全に一致」しています。いや、これは今ぼくが即興で考えたものですが
 ローラが逃避行中にベンというまた別な男性に出会い、気がありげに振る舞われるところも象徴的です(本書の描写では、ベンはあんまり頼りにならない男として描かれているようなのですが、正直説明不足でその辺も判然としません)。
 つまり、「ジェップスはレディースコミックである」とのぼくの仮説が、ここでも頭をもたげてくるのです。
 これらは、単に、従来のジェンダー規範に忠実な物語である。ただし、女性向けのポルノとして、レイプ的側面がクローズアップされることとなってしまった。
 ただそれだけのこと……で終わらせる気は、ぼくもありませんが、「ミサンドリーガーーーーーー!!!」と叫び続ければ事態が改善されるものではないこともまた、明白です。

 さて、お次は八章、「イデオロギーのために世界を平和にする」。今までを「実例編」とでもするならば「理論編」とでも称するべき章です。
 後少しです、ガンバりましょう。
 ここではフェミニズムがマルクス主義の資本家/労働者の関係を雑に男女に当てはめたものだとの指摘がなされますが、同時に「右派のフェミもいる」としてもいます。
 それはどうでしょう。日本の「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」もそうしたことを言いたがります。「ドウォーキンが警察にポルノを規制させた」ことがその理由だったりするのですが、それなら均等法を成立させた「リベフェミ」だって「右派」でしょう(均等法を成立させたのが具体的に誰なのかは知りませんが、法改正で男女平等を成そうというのは基本、リベフェミ的な発想です)。

 右派のフェミニストの観点からであると、フェミニズムは女性を家庭から外に出すことによって自然界的秩序を覆そうとする。
(309-310p)


 と言っていますが、こんなのラディカルフェミニズムそのものでしょう。
 日本でも「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」が自分たちに都合の悪いフェミは右派の一派だ、ラディカルフェミニストは悪だと言いたがる傾向がありますが(肝心なのは彼ら彼女らのラディカルフェミニスト観は間違っているということですが*4)、それと近しいものを感じます。何か同じ元ネタがあるのでしょうか
 さて、本章後半はいきなり「脱構築」についての批判が始まります。正直、この辺は知識がないのですが、「脱構築」を「ポストモダン」とか「価値相対主義」とかにでも入れ替えれば、言ってることは正しいように思います。「自然科学すらも多様性のワンオブゼムだという脱構築の言い分が正しいのであれば、引力の法則すら絶対じゃないはずだろう、アイキャンフライしてみろ」とまあ、要するにそうしたことを言っているわけで、これは基本賛成できます。要するにフェミニズムは「敵をやっつけるためだけの恣意的な武器としてのレトリック」でしかない「脱構築」を多用しているとの批判が、この箇所の要諦であるわけです。
 この後も、「多様性」とか「他文化主義」とかいう言葉は内実のないきれいごとだ、といった論調が続き、これも賛成できます。
 ですが。
 読み進めると、本章の最後では「そもそもの、著者たちのミサンドリー観」という、極めて重要なものが語られます(第一回のレビューでは本書にこの旨が「第七章」で語られていると予告されているとお伝えしましたが、それは誤植で、この八章の記述がそれに当たるのでしょう)。

 怒りは感情である。ヘイトは世界観である。
(中略)
(そしてこれが重要なのだが)、ヘイトは文化によって維持され、促進されているため、他の感情が起ころうとも継続される。
(中略)
心理的メカニズムとしては、怒りそのものはしばしば人間の全く健全な反応とされる。誰もが人生において、心理的身体的脅威にさらされたとき、怒りの感情によって生存できる。しかし一方で文化的メカニズムとしてのヘイト――ここではミサンドリーとミソジニーのる両方の性差別を含む――は人間の反応としてはかなり不適切である。かなりの人々が意図的に自分たちの怒りを永続させれば、その初期の意図が悪意や恐怖に対処するためだったとしても、それはヘイトとして慣習化される。感情には選択肢がなく良いも悪いもないため初期には道徳的に中立であったはずのそれは、もはや道徳的に中立でなくなり、悪になる。
(331p)


 こんな調子で、著者たちは「ヘイト」を悪であると断じ、そして「ミサンドリー」(及び「ミソジニー」)をその一端であると位置づけるのです。
 ぼくは徹底して今まで「ミソジニー」という言葉の無意味さ、幼稚さを批判し続けてきました。人の「感情」そのものを裁こうというその根性が絶対に許せないと。上のヘイトは、或いはミサンドリーないしミソジニーは「感情」ではなく「文化」である、とのロジックは一見、それへのカウンターのように思えます。
 しかし、ここに罠があります。上はあくまで「ヘイト」と「怒り」を並列させ、後者を「一時的なものだから」問題はないのだとしています。丁度それは、犬を殴った時に吠え声を上げるような、動物的な反応が想定されているようです。しかし、そもそも、怒りの感情だって継続することはある。友人と喧嘩をして一生関係を断つことだって大いにあり得ます。犬ですら自分をいじめた人間を嫌うようになることは、大いにあり得るでしょう。
 そして何より、ここで著者たちはあまりにも雑に「ヘイト」を「文化」であると言い切っています。一時の反応ではなく継続的なものは、みな「文化」であるという奇妙な定義が、彼らの中で前提されているのです。その理屈だと「ヘイト」が「怒り」と違い継続するのは、「文化によって維持され、促進されているため」となりますが……そうなのか? 先に挙げた友人との絶縁は、文化が原因だったのか……? 或いはまた、犬ですら場合によっては人間全体に恐れを抱くことがあり得ますが、それも文化なのか……?
 我々の中にある価値観は全て「文化」というラスボスっぽい何かの作り上げた支配のシステムの所産であり、それは悪しきものであるから破壊せよ。
 これはラディカルフェミニズムの「女性差別は文化的に意識へと刷り込まれたジェンダー規範が原因であるから、そのリセットなくして女性差別の撤廃はあり得ない」との世界観と「完全に一致」しています。
 本書には「フェミの目的は(ポリコレのコントロールなどによる)文化的革命だ」といった指摘もあるのですが、一体全体どういうわけか、読んでいると著者たちもそれを望んでいるように、思われるのです。次回に詳述しますが久米師匠自体、あとがきで(マスキュリズムのスタンスとして)フェミのやり方を踏襲すればよいと明言しており、こりゃアカンとしか言いようがありません。
 ぼくはよく、「表現の自由クラスタ」をフェミと対立してはいるものの、両者とも地球征服を狙う宇宙人であり、ただ覇権を賭けて争っているに過ぎない、と表現しますが、こうしてみると彼らもまた……と言わざるを得ないのです。
 フェミニスト、そして「フェミニストの使徒」である本書の著者、翻訳者たちの過ちは、「人間の主体」というものを完膚なきまでに否定している点にあります。
 彼ら彼女らのイメージする「文化」なり「社会」なりというものは「悪の支配者」が「人間の心」を支配しきっており、人は全て一挙手一投足を「都市統御コンピュータ」のプログラム通りに動かしている……とそんな感じのものなのですが、まさかと思いますが、そのディストピアはむしろ彼ら彼女らの「願望」上の存在に過ぎないものを、外部に投影したものなのではないでしょうか……? との疑念を、拭いがたいのです。そもそも70年代のアニメで見られたそうした悪の帝国による管理社会って、共産圏のイメージですもんね。
 むろん、フェミニズムがミサンドリーという「文化」を社会へと発信し続けてきた、という彼らの指摘は正しい。
 しかし、では、「ミサンドリー」がフェミニズム由来かというと、(「ミソジニー」が男性支配社会の陰謀により作られたものかとなると、そうではないように)そんなことはないのです*5
 先のジェップスにおいても、ぼくはあくまでそれを「女性ジェンダーの快感原則に則った作劇に過ぎない」と評しました。
 つまり、ミサンドリーは単純に「フェミニストの陰謀」に還元できるものでは、残念ながらないのです。
 ――といった辺りで、後は最終章である第九章を残すのみなのですが……それは次回に回しましょう。九章は「結論」とされており、それを受けての、こちらの考えも、その時にはご紹介したいと思います。

*4「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について
*5 フェミニストにとって、男性のポルノへの興味も当然「ミソジニー」と定義されていることを思い出してください。


ドクター差別と選ばれし者が(晒し者として)選ばれた件

2018-03-10 00:06:31 | 男性学

 目下、「ドクさべ」が話題になっております――と書いても、もうこの言葉、わからない方が多いかも知れません。ドクさべとは「ドクター差別」こと兼松氏の愛称です。
 この御仁はずっと「女性専用車輌」に反対するため、車輌に乗り込むという運動を続けていました。そのため電車に遅延が発生し、今回ニュースダネになったわけです。もっとも彼らはもう何年もずっと同じことをやり続けており、遅延自体は以前から起こっていたはずなのですが……。
 一時期、ぼくは彼についてよく書いていました。
 当ブログの彼について書いたエントリを挙げるならば、

「選ばれし者たち」の栄光
2011年女災10大ニュース(その2)
(【第2位】の箇所)
ドクター差別と詰られし者たち(その2)
2013女災10大ニュース
(【第3位】の箇所)
部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)

 或いは、彼についての動画、そして彼との対話の記録として以下が挙げられます。

ドクター差別と詰られし者たち
大女尊男卑空中戦 兵頭新児対ドクター差別
女性専用車両に乗り込む尊い人たち

 ――しかしこうして見ると、ここ五年はいじっていないことに気づきます。
 正直彼のことはもういいや……と思っていたのですが、降って沸いたようなこの事態です。
 どうもぼくは話題のトピックには飛びつくのが遅れる、或いは話題になりすぎると自分の中で「もういいや」となってしまうのが常なのですが、翻って自分が過去に採り挙げたトピックについては忘れた頃に再燃し、こちらの仕事は評価されないのがお約束のようです(上の『部長、その恋愛はセクハラです!』は今をときめく牟田和恵師匠の著作です)。どうにも、思うようには行かないモノです。
 さて、しかし、とは言え、本件についてあまり書くことはありません。こうしたことはそのうち起こるのでは……ということはずっと言ってきたわけで、本件は予言、いや、当然起こりうることについての順当な推測の遅すぎる成就、以上のモノではありません。何のかんの言って、一番悪いのはこうなるとわかりきっていたのに策を講じなかった鉄道会社でしょう。
 とは言え、ぼくはドクさべについてずっと、評価できない旨を言ってきました。
 敢えて簡単にまとめるなら、
 1.目的が悪い
 2.手段が悪い

 ということになります。
「目的」は「女性専用車輌」の廃止そのものです。
 彼は「男性差別」の専門家と自称していますが、ぼくがいつも言う通り、この世に「男性差別」などありません。
「ハエ差別」がこの世にないのは、「ハエ」が人間ではないからです。男はまず、人間と認められていないのですから、男性差別など、あるはずもないのです。
 男が過労死しようと騒がれないものを、女が過労死すると大騒ぎする。
 過労死者の95%が男なので、「当たり前」と放置されているのですね。
 ホームレスの95%は男であることを、誰も疑問に感じない。
 男が痴漢冤罪で殺されようと、ただひたすら女を守れとのマスヒステリーだけが世を覆い続ける。
「男性差別」クラスタがどうして女性専用車輌「ごとき」にばかり執心するかとなると、この世で男性の生命、肉体、精神、尊厳、財産が圧倒的根本的絶対的究極的に軽んぜられているからだ、ということを、彼らが一般人と同様に一切、理解していないからなのです。
 後藤和智師匠は上のようなデータを挙げた拙著に対し、「表面的な統計だけで」「「男が被害者になっている」的な議論を展開していて」けしからぬと泣き叫んでおりましたが、それは師匠が「男は人間ではない」というこの社会のお約束を知っているからなのですね。
 そう、「男性差別」などないのに、彼が「ドクター差別」を名乗っている時点で、もうダメなのです。
 むしろ近年では「経済クラスタ」が「フェミが何を言おうと女は男を養わない、そこを疑問にすら思わない」という「その、一端」に切り込んで、フェミを叩き斬っているのにもかかわらず、「男性差別クラスタ」は歯牙にもかけず、ひたすらに女性専用車輌に乗り込み、男性全体のネガティブキャンペーンに勤しむばかりです。
「手段」についても同様です。
 上に「ネガティブキャンペーン」と書いたように、まず、何よりも一般女性の恫喝というやり方が、世間の反発を招くモノであるのは必至です。しかし彼は、そこについて一切頓着する気配がない。
 男女ジェンダーというモノ(これを、大枠で肯定する立場をとろうと、解体すべきだというスタンスに立とうと)を少しでも鑑みれば、彼の振るまいが「男=加害者/女=被害者」という世間が一番理解しやすい、一番最悪な図式に収斂していくことは、バカにでもわかることです。
 しかし彼はそこを考えない。頭に金玉を乗っけた珍奇な格好で「我こそは正義の体現者なり」と絶叫を続ける。このフリーキーさ、センスのずれっぷりは見ていていたたまれなのですが、彼にはそうした自覚はない。例えばマック赤坂のような「フリークス」的な人々の多くは恐らく、自分で自分を異形である、社会の道化師であると自覚して、それを演じているのではと思うのですが(つまりはドクさべの方こそが本当の意味での「フリークス」だということなのかも知れませんが)……。
 そうなるともう、彼の存在は「男の権利を主張する者など、こうした狂人なのだ」とのコンセンサスを、世間に根づかせるためだけにあると言っても過言ではありません。ことに今回はもめごとを起こし、「女性に危害を加える男」を演じてしまいました。
 性犯罪も外国に比べてため息が出るほどに少なく、女性が優遇されきっているこの社会で、フェミニスト――つまり、女性が虐げられているという「設定」がないと生きられない人たち――は今まで非常な苦心を強いられてきました。データを捏造し、男性を冤罪で陥れ、兵頭新児の発言を「二次創作」してデマを垂れ流すことだけが彼ら彼女らの仕事でした。そこへ、ドクさべは「本当の悪」の役割を、お優しくも演じてしまった。
 本当に、ありがたくて涙も出ません。
 こういうのを、「利敵行為」と呼ぶのです。

 そもそもぼくは、ドクさべを極めて優良なフェミニストの、ないし左派のパロデイであると考えます。彼自身の政治的なスタンスは、親米保守であるとのことなのですが。
 ぼくはいつも左派に否定的なことを書きますが、実のところ政治には何ら興味がない。ぶっちゃけるとぼくの左派嫌いの九割は、「デモ」というものの格好悪さに対する生理的嫌悪感に根差しています。前にも書いた通り、ああいうのは「自明な正義、大衆の支持」といったものが基板にあってこそ成り立つものなのです。
 左派というのは、(少なくとも今となっては)ものすごく偏狭な正義を盲信し、そんな自分たちのコンセンサスを大衆が共有してくれていると思い込んでいる(がため、あどけなくデモができてしまう)存在です。
「差別」という概念もそれと全く同様です。彼ら彼女らは「差別/平等」を「悪/正義」とほぼ同義の概念として扱ってきました。「差別!」と言いさえすれば相手をやっつけられるのだと思い込んできました。しかし「平等」なんて概念は(「正義」がそうであるように)そんな自明なモノではない。逆に言えば「差別」とはわかりやすい「ワルモノ」がいるのだという幼稚な空想を前提しないと、出て来ない概念なのです。しかし、正義は多様化し、彼ら彼女らの手には負えなくなってしまい、だからこそデモはおわコン化したのだと、SEALD'sがあそこまで身体を張って教えてくれました。
 いえ……もっと言えば、左派がいまだフェミニストとのデートに執心する理由は、男女の関係性こそ「常に男がワルモノ、女がイイモノ」という強い強い絶対性を持った、彼らにとっての最後の「持ちネタ」であるからとも言えるかも知れません。
 つまり、ドクさべは「一番真似ちゃいけない人たち」から、「一番真似ちゃいけない部分」を真似てしまった人、なのです。しかし、いまだ嘲笑されていることを理解できず、デモを続けているドクさべ。ぼくは彼と幾度か対話し、案の定、ハナシは全く通じなかったのですが、とにもかくにも彼は「デモで輝いているワタシ」に陶然となっていて、「デモをやらぬお前にこの問題を語る資格はない」と繰り返すばかりでした。これは紛い物の「当事者性」に酔うことで自分の正義を根拠づけられたような錯覚に陥り、何か、快感を得るという「市民運動」の陥りやすい罠ではないでしょうか。
 そう、あらゆる意味でドクさべは左派のパロディだったのです。事実、どうも彼(そして在特会)にああした運動のノウハウを教えたのは、左派の人物らしいとの話も聞きます。
 ぼくはずっと、デモ以前に思想を深化させるべきだ、と繰り返してきました。この業界には既存の勢力としてフェミニズムが横たわっています。その主張は完全に間違ってはいるモノの、蓄積や政治的権力だけは莫大にあるのだから、デモをやるヒマがあればそこを突くだけの理論を構築しなければならない。
 しかしドクさべはそうしたことに何ら関心がないし、そもそもフェミニズムについて何ら知識も持ちあわせていない。ドクターを自称する割に、頭の中には何も入っていないのです。実は彼に、この件についても問い質したことがあるのですが、そこで返ってきたのは「なまじフェミニズムなどを知ると影響を受けてしまう」という実に奇妙な言い訳。しかしこうしてみると、彼はフェミニズムを知らなかったからこそフェミニズムの二の轍を踏み、彼ら彼女らのパロディと化してしまったということがわかります。
 これは彼だけの特徴ではありません。「表現の自由クラスタ」がただ「ミサンドリー」と絶叫すればことが済むと思い込んでいること*1、フェミニズムについて何ら知識がないにもかかわらず「フェミニストは味方だ!!」と泣き叫び続けていることとこれは全く、パラレルです。そうそう、彼ら御用達の「真のフェミニスト」であらせられる「ネオリブ」も自分たちのやっていることを「思想ではなく運動だ」と称していますね。それは丁度、「思想がなく、単に暴れている」ドクさべと「完全に一致」しています。彼ら彼女らは「思想としては内実が一切ないから、身内に向けたパフォーマンスだけしかやることがない」のです。


*1「ミソジニーもけしからぬが、ならばミサンドリーもけしからぬぞ」という彼らの薄っぺらな主張は、「この世にミソジニーはないが、ミサンドリーは空気のように横溢している」、即ち「男性差別などない」状況を一切鑑みない物言いです。


 それでも、最後に、一つだけ、ドクさべのおかげで見えてきたことについて、ここに書いてハナシを終えることにしましょう。
 目下、『広がるミサンドリー』を丁度読み終えつつあります。とにもかくにも大変な大著である(と共に大変な悪文である)ため、読破に数年を要して、最初の方に何が書いてあったかはもう、ほとんど忘れちゃったという体たらくなのですが。
 で、まあ、以前にもちょっと書いた感想(まさにドクさべ同様、ドラマなどのフィクションを採り挙げては「男性差別だ!」と言っているだけの薄っぺらな内容)*2を覆す記述にはお目にかかれそうにないまま読み終えようとしているのですが、一つ、終章にもなって気になる記述がありました。

男性に恥ずかしいと思わせる能力は、常に女の武器であった。
(371p)


 そう、そうなのです。
 男にとって女に笑われることは、大変な不名誉です。このことは闇の結社の陰謀で、フィクションの世界では男がプライドを傷つけられることに対して、「滑稽で嘲笑すべきこと」として描くことしか許されてはいませんが。
 今回、ドクさべが「男性たちに叱られてしゅんとしていた」ことに対する快哉が、フェミニストによって叫ばれていました。
 ここ、すごく不思議なんですね。
 ここからはまず、彼女らの「緩やかな家父長制」*3への欲情が見て取れるのですが、それ以前に男性心理からすると、明らかに不自然です。男は(特に性的な事柄では)男より女に言われた方が「しゅんとする」ものなのだから。
 そもそもドクさべは女性専用車輌に乗り込むことで、そうした経験を日常的にしている存在です。今更、男にいろいろ言われてしゅんとなるとは(まあ、ご当人に聞かないとわからないとは言え)どうにも思えません。
 以前、近いことを書いたことがあります*4
 彼が街頭演説で、「(女性専用車輌に乗り込んだため)私は女性にキモいと言われた、非道い!!」と訴えていたことがあります。いや、「自業自得だろ」としか言いようがないのですが、「女性に罵倒されて傷ついた」という訴え自体は胸に迫って、ちょっとだけ同情を覚えなくもありませんでした。
 フェミニストが男を性犯罪冤罪に陥れるのは、一種の「反復強迫」ではないか……とぼくは想像します。例えばですが、子供の頃の男の子にいじめられた経験をトラウマに持つ(というのも、彼女らの男性観がどうにも小学生的ですから)彼女らは、男を冤罪に陥れることで、「自分は性犯罪の被害者である、不幸な女だ」という物語を捏造し、被害を疑似体験する必要に迫られているのです。
 同様に、ドクさべは「女にいじめられた非モテである自分」を「反復強迫」的に追想するため、「女性の罵声を浴びに」、女性専用車輌に乗り込んでいる、被害を疑似体験しようとしている存在ではないか――というのがぼくの勘繰りです。
 いずれも巨大なる迷惑しか生まない存在ですが、可哀想ではあります。
 そう、本件がそうであったように、この社会における全てのトラブルは「あらゆる抑圧を一身に受け、暴れるしかなくなった男」が起こし、そして「左翼(フェミニスト)という、弱者(男)への憎悪という感情の実体化した存在」がそれを純粋なる悪であるとして断罪する聖なる儀式を執り行い、鎮める、というお約束になっています。ぼくたちの社会はそのような形で男性を残酷な女神への生け贄にすることでしか社会に満ちた怨嗟の念を「浄化」する機能を持たない、未開社会です。フェミニストはこの社会の憎悪や怨嗟を司る巫女であり、「食うために怨嗟や憎悪を捏造している」存在です。
 本件は残念ながら(極めて珍しく)女性の方に理のあるケースではありましたが――それでも事件は、女性が美味しく食べられるように「超訳」されてしまった。それがつまり上の、「女性に性的関心を抱いて逸脱してしまい、しかし他の正義の男性に取り抑えられる惨めなモテない男、正義の男性に守られた女性たち」という乙女ゲー的ストーリーです。
 そうそう、以前のハナシですが、ぼくが某フェミニストのあまりにも反社会的な発言を見兼ね、注意したところ、狂ったような嫌がらせを受けたことがありました。その時、そのフェミニストの信奉者である(言っては悪いけどちょっとトロそうな)女性はぼくに対して「先生のことが好きなの? 好きなの?」としつこく問い詰めてきて、非常なストレスを覚えました。そう、彼女らは事態を「美味しく食べるため」、そのように「超訳」せずにはおれない存在なのです。
 そうした構造については、しっかり認識しておく必要があります。
 さて、上にも書いたように次回の記事は『広がるミサンドリー』という著のレビューを予定しています。仮にですが、ドクさべについてググって当ブログに来た方。その中でも当記事に引っかかりを覚えるものの、納得できないと感じた方。
 恐らく次回の記事を見ていただければ、疑問のいくらかは解消されるのではと予想します。そんなわけなので、どうぞ、またご来場ください。

*2「夏休み男性学祭り(最終回)――『広がるミサンドリー』」
*3「表現の自由クラスタ」が敵視するフェミニストを糾弾する時に多用する表現です。この指摘自体はぼく自身がずっと行ってきたことであり、全く正しいのですが、彼らの言からは「それが一般的な女性の本質であること」への認識が感じられず、極めて不自然です。言い換えれば彼らからは「フェミニストは、口先の主張とは裏腹に、ダブルスタンダードでそうした男性を求めていることこそが責められるべきである」といった視点が欠落している点が気になるのですね。
*4部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)の前半部分。その様子は動画「ドクター差別と詰られし者たち」に記録されています。

うるさい日本の私

2018-02-09 23:54:10 | 男性学


 去年の秋は、ずっと「と学会」の本を採り挙げてきました。
 それによってフェミニズムが完全なトンデモであること、そしてまたこのトンデモが(他のトンデモと同様に、しかしその度合いは類例のないくらいに深く)日本の中枢にまで入り込んでいること、これについてはインテリたちの見識すらも一切の役に立たないことが明らかにできました。
 おかげで去年の後半はほぼ、と学会の本の再読に費やしてしまいました。まあ、こんなことでもなければ生涯二度と読まなかった本もあろうし、面白い体験ではあったのですが。そんなわけでつい先日も『トンデモ本 男の世界』を読んでおりました。既に記事は書いちゃった後なので読む必要もなかったのですが、これを読破すれば『年鑑』を除きと学会本がほぼコンプリできるので、せっかくだからという感じだったのですが……。
 そこで本書のレビューを、と学会の中でも名文家である植木不等式氏がやっていることに気づきました。いえ、気づきましたも何も買った時に一度読んでいるわけで、そのこと自体は覚えていたのですが、以下のような極めて秀逸な下りがあったことは、すっかり失念していたのです。

本書の秘められた価値とは、ひょっとしたらそれが男性論としても読めることなのかもしれない。
(237p)



 ここです。
 いえ、ここだけを取り出すならば、そこまで驚くべきことではないかも知れません。上にも書いたように、このレビューは『トンデモ本 男の世界』に掲載されたモノ。「男性にまつわるトンデモ本を紹介する」ことが主旨の本です。言ってしまえばこの『男の世界』でレビューされた本はそのいずれもが「男性論としても読める」はずです。
 しかしそれはひとまず置いて、続けましょう。
『うるさい日本の私』に対してです。
 当ブログを読むような方ならばご存じの方も多そうな気がするのですが、本書は中島義道氏の代表作と言っていいでしょう。何しろ文庫版だけで何Verも出ているという、文筆家にしてみれば血涙迸らせて妬むべき存在(本稿のために最新版を買ったら、単行本一種、文庫版は何と三種も出ているとのこと。ぼくの中の中島氏へのシンパシーがこの瞬間、吹き飛びました)。
 しかし本書、確かに売れるのも納得の面白さです。
 著者は哲学者ですが、とにもかくにも騒音が大嫌い。「スピーカー音恐怖症」と自称するその嫌いぶりは正直病的ではないかとの印象も持つのですが――というかそもそも、本書の書き出しそのものが「私は病気である。」なのですが――彼にしてみればどこへ行ってもうるさいアナウンスで溢れている日本の方が狂っていると思われるのです。
 彼は竿竹屋のスピーカーの音声などにも敵意を燃やすと同時に、デパートや駅の施設における「エレベータにお乗りの際はベルトに捕まって……」「白線の内側にお下がりください」などといった注意喚起のアナウンスを、お節介極まるモノとして深く憎悪しています。つまり彼の怒りには、何割か純粋な音量へのモノではない側面が含まれている気もするのですが……まあ、そこは置いて、ひとまずは純粋に音量に対する耐性が(それも極めて)低い人なのであると捉えておきましょう。
 そして、彼は戦いを開始します。
 メガホンで大声でがなり立てる行列の整列係に切れては「そんな大声を出さずとも整列させることはできる」と実際に列をさばいてみせる。竿竹屋などに文句をつけては逆切れされて追い回されたり、逆に「この一帯で得られたはずの利益分のカネは払うから来ないでくれ」と現金を差し出し、あっさり言うことを聞いてもらったり。
 そうした著者の、苦闘の数々にページが割かれているのがまず、読み物として純粋に面白いのです。

 さて、植木氏の評に立ち戻りましょう。

 あくまで個人的感想で恐縮だが、自分の個人的被害感情に基づいて他者とバトる、という点では、一般的に男性よりも女性の方が高い能力を持っている気がする。「こんな女に誰がした」は、当該女性の物言いとしてしっくり来て、語弊を恐れずに言えば男性文化の中ではある種の色気すら感じさせてしまう。女性イコール弱者という、現在までも続く文化的ないし現実の社会的状況が、こういう物言いを受容させてしまっているのである。
(中略)
 私自身はこれは、不幸な状況だと思う。 ジョン・レノンに『ウーマン・イズ・ザ・ニガー・オブ・ザ・ワールド』という日本語にしづらいタイトルの歌があるが、システムが女性を被差別的な状況に置く限り、「誰がした」という被害者感覚も続いてしまうであろう。本来あるべき姿とは、男女ともに、自己の現状の責任を他者に押しつけることなく、自ら引き受ける「自己責任」の社会である。私的にはそう思う。
(238p)


 植木氏の評は誠に卓見という他なく、これ以上つけ加えることはありません。
 いえ、

システムが女性を被差別的な状況に置く限り、「誰がした」という被害者感覚も続いてしまうであろう。


 といった下りは賛成できませんが。女性が「誰がした」という被害者感覚を抱いたが故に、システムが女性を被差別的な状況に置かれていると一見、錯覚させるモノになっているというのが正しいのでは。
 まあ、それはいつも言っていることですから、横に置いて置いてもう少し続けましょう。植木氏は「ナカジマちゃん」といういじめっ子を仮想し、男の子はナカジマちゃんにいじめられて親に泣きついても、厳しく当たられることが多かろう、と指摘します。

 特に男性は、自己の被害感情を表に出すことを、文化的にあまり許容されてこなかった。
(中略)
 それが許容されるのはたぶんナカジマちゃんが衆目一致するようなイジメっ子であるといったように被害が「公的」なものだと認知される場合においてである。
(238-239p)



 全く素晴らしい!
 全面的に賛成です。
 ただ、とはいえ、「男も被害感情を露わにしていいのだ」といった物言い自体が、ある意味で既にメンズリブやら男性学やらいうフェミニストの使徒が繰り返し、すっかり汚染物質にまみれてしまってもいます。しかしながら彼ら彼女らにとって、男が被害感情を露わにすることを許されるのは、彼ら彼女らの考える政敵へとそれがぶつけられる時に限ってであることは、みなさんもよくご存じでしょう。
 しかし、ぼくが植木氏の指摘が鋭いと思うのは、これがまさにそうした「男性学」やらの書を読んで発せられた感想などではなく、本書を読んでのものであったから、なのです。
 兵頭新児大先生という天才の名著『ぼくたちの女災社会』では男は「三人称性」の、女は「一人称性」の主であると語られます。また同氏の天才的慧眼ではサブカルは「他者指向」でありオタクは「自己省察的」であるとされ、オタクをそれ故に女性的側面を有しながら、それに自覚的でもある存在であるとします。
『男性権力の神話』でも同様でしたね*1。男性はいまだ「ステージⅠ=生存欲を満たす段階」に留まっているが、女性は「ステージⅡ=自己実現欲を満たす段階」にいる、即ち「男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった」のだ、というのがそこでなされた指摘であり、それは男性が「一人称性」の主ではない、との意味なのです。
 植木氏はまさにそれらと同じ主張、つまり「男も被害感情を露わにしていいのだ」ではなく、いや、それ以前の問題として、「男は被害感情を露わにできない性として初期設定されているのだ」との指摘をしているのです。
 そして、そうした結論に、本書を読むことで至ったという経緯そのものがまさに、彼の慧眼ぶりを表しています。「ナカジマちゃんが衆目一致するようなイジメっ子であるといったように被害が「公的」なものだと認知される場合」という比喩が非常に重要で、これは「男は公的な怒りしか、発露してはいけない決まりである」との意味なのですね。
 実際には中島氏は「拡声器音声を考える会」という市民グループに参加したり、「静音権確立をめざす市民の会」を名乗ったり(相手へのハッタリのための名刺を作っているだけですが)はしているのですが、基本、「個」として「騒音」という敵に立ち向かっている。そこが重要です。
 彼は自らの苦痛を社会のマジョリティが理解してくれないことを理解し、以下のように言います。

 現代日本で身長一五五センチメートルの若者は、この悩みを知っている。偏差値四〇の大学生はこの悩みを知っている。「醜い」としか言いようのない女性(たしかにいるものである)はこの悩みを知っている。身体障害者や精神障害者なら、その人権は手厚く保護される。彼らは人権侵害に対して声を大にして訴えることができる。だが、身長一五五センチメートルの若者が「チビ同盟」を結成してその苦しみを訴えることができようか?
(7p)


 いや、まあ、チビもブスも今の世の中、表立って笑う人はいないであろうことに比べ、中島氏の苦悩はほとんどの人にとってさっぱりわからないことでしょうし、その意味では彼のマイノリティ性はチビやブス以上、とも言えると思うのですが。事実、彼の騒音に対する訴えはアナウンスなどの係に常に困惑を持って迎えられますし、彼がバス内のアナウンスを苦心惨憺して止めさせた時、その変化に乗客の誰もが無関心であったことに驚く下りもあります。
 ともあれ、中島氏の怒りは世間が、「いったん認められたマイノリティ(それこそ女性であり、同性愛者であり……)に対しては極度にセンシティブなのに対し、認められていないマイノリティに対しては絶望的なまでに鈍感である」ことに向けられます。
 ここは、ぼくが近年繰り返している主張と丸きり被りますね。
「弱者男性」へのフェミニスト、リベラルたちの陰惨無惨なもの言いに対しての、「サベツである、仮に韓国人相手ならどうなんだ?」といった言い方。これ自体はぼくもすることなので、そうした指摘自体がまかりならん、というわけではないのですが、限界はあるわけです。最近、KTBアニキが

勝部元気 Genki Katsube‏認証済みアカウント @KTB_genki
『弱者男性が日本を滅ぼす』という本を出したい。どこかに興味持ってくださる編集者さんいないかな。そこそこ注目されるような気がするんだけど。
https://twitter.com/KTB_genki/status/943365740589039617


 こんなステキなうわごとを発しておいででした。それに反発した方が「障害者」の男性も「弱者男性」だぞ、と言い立てたのですが、それはやっぱり無理筋でしょう。「障害者」はここでカテゴライズされるいわゆる「弱者男性」ではないのですから。
 ここは中島氏の、あくまで自分自身の属性に依って立つやり方をこそ、ぼくたちは学ぶべきです。
 更に読み進めると、彼は「優しさ」をこそ悪だと断じ、人ともっと対話をしていくことを訴えているのす。
 本書の四章、五章(つまりラストの)の章タイトルはそれぞれ

「優しさ」という名の暴力
「察する」美学から「語る」美学へ


 というものです。
 ここで言う「優しさ」とは「優しさのあり方が、テンプレで決まっていること」と言い換えられましょう。そしてそれはまさに日本人が「察する」美学を愛するから。そりゃそうです、責任なんか取りたくないから、誰かにテンプレを、「女性は弱者だから持ち上げろ、男はぞんざいに扱え」といった「正義」を用意してほしいんです。
 先ほどちょっと言いかけた、「お節介なアナウンス」への中島氏への憎悪の理由も、こうなれば明らかでしょう。「一応、俺言っておいたからね」で責任逃れをするようなやり方が、彼にとっては何よりも許せないのです。
 つまり中島氏は「俺も弱者仲間に入れろ」と言っているのではなく、「世の中には多様な人間がいる。しかし、多様性論者は実際にはそうした真の多様性には絶対に目を向けない。そうした本当の意味での多様性に対応する方法はテンプレを用意しての対応をすることではなく、その場その場で個々と話していくことだけだ」とでもいった主張をしていると言えます。
 しかしここで、また別な「方法論」を選んだ者もいます。
 そう、「フェミニスト」、及び「男性差別クラスタ」、そして「秋山真人」です。
 フェミニズムとは「個的な怒りを公的な怒りにすり替えるノウハウ」でした。「最初っから一人称だけで突っ走らせていただきますとの、すがすがしいまでにエゴに徹しきるためのレトリック」でした。
 そして、その「方法論」に学んだのが男性差別クラスタと、秋山真人氏です。
 詳しいことは以前の記事を読んでいただきたいのですが*2、秋山氏は「クラスのみんなに注目してほしくてユリ・ゲラーの真似をしているうちに超能力に開眼、目下はと学会などのエスパーを否定し、ヘイトスピーチを繰り返すレイシスト集団に対し、エスパーの人権を守るための戦いを繰り広げている」、ある種の人権活動家です。
 以上はご本人の公式プロフィールとは違う部分もありますが、ぼくが彼の守護霊から聞き出した霊言を元にしたモノなので、絶対に間違いがありません
 そう、自分の情緒以外に根拠を持ち得ない「弱者性」をもって、世間からいくらか還元してもらう。秋山氏の方法論はフェミニズムに学んだモノであったのです。
 中島氏のスタンスは、それと真逆です。だから彼はまず、「私個人」との立場を明確にして、いちいち相手にケンカをふっかけるという方法論を選び取ったのです。
 読んでいけば、彼が公明正大な正義を謳って運動をしているのではないことは明らかで、文中では「相手を選んで戦っている」ことが強調されます。暴走族とやりあえば彼はわかりやすい英雄だが、それはしない。リスク回避という点で当たり前だし、何より彼は「正義のために」ではなく「俺のために」活動しているのですから。
 ただし、ぼく自身は、例えば話を「男性問題」に転じた時、そうした方法論のみが望ましいのだ、と言っているわけでは全くありません。例えば「男性団体」を作り、NGOのような形で国家からいくらかのカネを巻き上げることに、ぼくはあまり興味がありませんが、それが絶対ダメだと言っているわけではないし、むしろ男性が共有すべきロジックという意味においての「テンプレ」を作ることは有効でしょうし、現に幾人かが既に成し遂げているし、大変重要なことでしょう。
 ただ、中島氏が「先人の中のおっちょこちょい」を見て、それを選ばなかったことに価値がある、との指摘を、ここではしたいのです。

*1「男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(その2)
*2「トンデモ女性学の後始末」の「ファクト9 その憎悪には、根拠がない」を参照。


 中島氏と騒音を出している主体(鉄道会社など)とのバトルは、中島氏のクレーマーぶりに眉を潜めなくもないのですが、企業側のお役所的対応にうんざりしている人間であれば、ある種の爽快感を感じさせます。
 ただし、中島氏の「なおざりを嫌う」心理には大変共感するのですが、相手側の心情もわかります。相手側が彼に頑なな態度を取るケースが多いのは、もちろん一つには「商売の邪魔をするな」との心理が原因でしょう。これは商売上、大きな音を立てねばならない者と、それがイヤでたまらない者とのバトル。いつも言う、「近代的個人主義の社会では、こうした争いが絶え間なく起きるに決まっている(のに、自分の気に入らない相手は自民党の操る戦闘員だとのビジョンで動いているから左派はダメだ)」ということです。
 そう、本書の価値の一つは「マイノリティに優しく」という惹句は大変もっともなモノだけれども、「でも共存できないマイノが出てきた時、どうするか考えてそれ言ってんの、お前?」との鋭い突っ込み足り得ている部分です。
 しかしもう一つ、大きなことを忘れてはならない気がします。
 中島氏の敵は必ずしも、完全に正当な必要性があって大きな音を立てているとは限りません。
 論理的にアナウンスは必要ないと説いても、それどころか整列など静かにできるのだと実践による成果を見せられても、場合によってはキャッシュを懐にねじ込まれても、相手はやり方を改めません。お役所的と思うと同時、しかしその気持ちも大変よくわかるのです。
 それは「仕事を否定されたくない」というものなのではないでしょうか。
 例えば車内アナウンスなどは、想像するに会社の窓際みたいな人がやっているのでしょう(作るのは業者でしょうが、業者への発注係などはやはり、そうじゃないでしょうか)。そうなればことはいよいよ重大です。
 言ってみれば世の中の仕事の大部分は、その仕事をしている人物以外にも代替可能であり、いえそれどころかそもそも「なくても別にいい」業種だって多いことでしょう。
 しかし男にとって、仕事は一番のアイデンティティです。
 何故か。男は「三人称的存在」だからです。お前の仕事が無意味であると突きつけることは、男にとっては死の宣告に等しい残忍無比な振る舞いでしょう。
 つまり中島氏の行為は男女を逆転させて考えるなら、「ブスにお前のようなブスなどこの世に不要だと言っている」にも等しいのです。ブスであればブスであるほど、それは傷つくに違いありません。
 バス内のアナウンスを苦心惨憺して止めさせた中島氏は、その変化に乗客の誰もが無関心であったことに驚きます。恐らくその時、アナウンス係は思っていたのではないでしょうか。「恐れていたことが起きた」。
 そう、中島氏は非道にも、バスのアナウンス係に「お前の仕事は無駄だ、無駄飯食いだ」と最終通告を突きつけたのです。自分の苦情に対しての係の四角四面な対応に対し、彼は「紋切り型だ!」と激怒します。その気持ちもわかるのですが、恐らく相手は薄々以上のような展開を予測できているからこそ、腹を割って話そうとしないのではないでしょうか。
 本書は「一人称的存在になさしめてくれ」という血の出るような叫びと「三人称的存在でいさせてくれ」という血の出るような叫びのバトルでした。
 そう、本書は男性論の本だったのです。

久米泰介「男性に対する性の商品化の学問上の批判」を読む

2018-01-13 22:56:44 | 男性学

 やれやれです。
 こういうのを正しく「馬脚を顕した」というのでしょう。
 というわけで遅ればせながら、みなさんあけましておめでとうございます、兵頭新児です。
 ちょっとボケてるヒマがないので、早速本文に参ります。
 表題のテキストが、久米泰介師匠によって発表されました(https://sites.google.com/site/jiumitaijie/classroom-pictures/nan-xingheno-xingno-shang-pin-hua-pi-pan)。
 実のところ久米師匠については近年、かなり見直しておりました。
「俺の子分」くらいの位置づけにしてやってもよかろう、とまで思っていたのですが、しかし上のテキストを見ていっぺんで評価が変わりました。こりゃあ、アカンとしか。
 師匠の主張はシンプルなものです。
 それは即ち、「少年や男性に対しての性の商品化や性的搾取は完全に放置されている。男性差別である。」というもの。
 この自体に対しては「まあ、そうだなあ」と素直に首肯できます。
 にもかかわらず、ぼくはこれを読み、「あぁ、アカンわ」と呆れてしまいました。
 何故か。
 ちょっと回り道をして、「表現の自由クラスタ」やその姫である「ネオリブ」に対して、お話ししましょう。
 ぼくは彼ら彼女らに対して、「これなら彼ら彼女らがラディフェミだと思い込んでいる一般フェミの方がマシだ」と言ってきました。
 彼ら彼女らの(口先から出て来る)主張は「ポルノ規制まかりならぬ、(ミソジニー同様)ミサンドリーまかりならぬ」というものだからです。
 これに対してもまた、ぼくは「そうだけどアカン」との評を与え続けて来ました。
 ネオリブは「ポルノを認める(フリをする)フェミ」としてリベラル君たちの支持を取りつけてきましたが、仮にそれを認めてしまうと、「今の社会の人間のセクシュアリティ、そしてそれに先行するジェンダーは全て間違っているのでリセットしなければならない」とする「ジェンダーフリー」など、絶対に認められないはずだからです*1
 そうした詭弁を弄する連中に比べればまだしもアンチポルノのスタンスを謳っている方がフェアだし、理論に破綻も一つだけ少ないからです。
 もっとも、そうは言ってもそれはあくまで-10000と-9999の差でしかありません。別に後者を選ばなければならないという法はなく、両方ダメだとジャッジすればいいだけのハナシです(「表現の自由クラスタ」がどうして、ああまで、半狂乱で、血眼で、「ボクの味方をしてくれるフェミニスト様」を探しているのかさっぱりわからないのですが、きっと魔女にフェミと結婚しないと死ぬ呪いをかけられたのでしょう)。

*1 仮に「そんな過激なものではなくもっと緩やかな性の選択肢を増やすことがジェンダーフリーだ」と強弁するなら、(男性に対しては置くとして)女性へのジェンダーフリーはもう過剰なまでに実現しているでしょう。結局、矛盾しているのです。

 さて、そんで、久米師匠についてです。
 師匠の筆致を見ていると「男性の性被害」について個人的な執念があるご様子。「少年」へのそれについてがことさらに強調されていて、その情念自体は尊重されるべきだろうと思います。
 男性の性被害が放置されている現状については、いくら強調しても強調し切れません。何よりフェミニストたちはむしろそれを推奨し、隠蔽を続けて来たのですから、この点についてはぼくも素直に賛意を示してきたはずです。
 しかし、やはり師匠は「アカン」のです。
 その理由は二つあります。
 一つ目は、「戦略」面。
 先のテキストを読んでいくと師匠は「二次元のポルノすらも許せない、アイドルすらも許せない」と言い出します。こうなると、一挙にハナシが怪しくなってきます。AKBやジャニーズなどについては考えるべき点もあろうが(少なくとも後者にセクハラ問題があることは事実でしょう)、しかし師匠の主張はその存在自体を否定しているのですから、もう、こりゃアカンやろとしか言いようがありません。
 正否は置くとして、この主張が果たしてどれだけ世間に受け容れられるか。かなり大幅な見込み違いを、師匠はしているように思います。
 何しろ彼は「ポルノはこの数十年で絶滅する」というトンデモない予言をしているのですから。
 そう、残念なことですが、師匠には世の中が全く見えていないのです。
 そして蛇足ですが、師匠がその主張の根拠としてマッキノンを持ち出し、その説を正しいとしていることが象徴するように、この師匠の「認知の歪み」は彼が「フェミニズム村」に住民票を持っていることが理由であるように、ぼくには思われます。
 ぼくは師匠が『男性権力の神話』のあとがきで、「フェミニストは味方だ(大意)」と書いたのを見て、「現実が見えていない、フェミニスト信者」であると腐しました。が、その後の彼の発言を見るに、それなりにラディカルなフェミニズム批判がなされているのを見て、冒頭に書いたようにかなり見直すようになったわけです。
 しかし、やはり、案の定、危惧した通り、久米師匠はいまだ、フェミニズム村から出たことが、一度もない方だったわけです。これは、「表現の自由クラスタ」がフェミニスト様に絶対服従を誓いつつ、まるで『ピュアメール』の主人公のようにフェミニスト様を「ボクのことをボクの望み通りに鞭打ってくれる理想の女王様」に仕立て上げようとしている様と「完全に一致」しています。

 二つ目の理由は、「理論」面。この主張が男女のセクシュアリティを全くすくい取っていないものであることです。師匠の主張は男女のセクシュアリティの非対称性を、全くもって理解していないお粗末極まるものだということなのです。
 想像ですが、久米師匠が「二次元も」と言い出した裏には「BL文化」があるのではないでしょうか。テキストを見ると、レディコミ、ジャニーズについては饒舌に語られている割にBLの文字はないのですが、ぼくにはBLという概念を導入しないことには、師匠のテンションの高さの説明がつかないように思うのです。
 そもそもレディコミについては男性向けのポルノと変わりがないものなのだから、それを「男性への性的搾取」とするのであれば、「男性向けのポルノ」もまた「男性差別」だ、とでもしなければ平仄にあわない(仮にそうした主張であれば、ぼくは三割ほどであれば賛成します)。レディースコミックというモノが流行しだした頃、それを誤魔化すため、フェミニストが大慌てでデタラメな詭弁を弄した『レディース・コミックの女性学』という本が出されたくらいです。
 アイドルだって「少年アイドル」より「少女アイドル」の方が遙かに盛んでしょう。SMAPが四十男であったことが、いよいよ「少年への虐待」と憤る師匠のテンションに違和感を呼び覚まします。
 となると、やはり師匠の目はBLに向いているのではないか。
 これは「女性による、それも同人文化などから発祥した自発的な、男性ばかりが絡むポルノ」というそれなりの独自性を持ち、「少年への性的搾取」と言われた時、それなりに納得がいく表現ではある。ぼくもBLに対してムカつく部分はあり、腐女子にマナーを弁えろとは言いたい時もあります。が、仮にそれらを勘定に入れても、師匠の言を正しいとするなら、女性が性対象となる、いわゆる普通のポルノが「女性への性的搾取」であるとのロジックもまた、受け入れざるを得ません。となると「(二次元を含め)ポルノは禁止」とならざるを得ませんが、それで不利になるのは男性の方であるのは、自明でしょう。男の裸も、女の裸もNG、という世界が仮に来たとして、ダメージがでかいのは男の方に決まっているのです。
 何故か。
「男性が女性の肉体性に惹かれ、それを求める」というセクシュアリティに端を発したジェンダー規範というものが極めて普遍的なものであるからです。
 ぼくは以前、「女性週刊誌やワイドショーの不倫記事の類こそ、女性向けポルノ」と言いました。それは「男に構われるワタシ」という物語性、関係性に萌える女性のセクシュアリティの本質を端的に表現した言葉です。女性も男性にモテたい。しかしそこで希求されるのは別に「イケメンのヌード」ではなく「女性が男性に求められるという物語」なのだから。逆に言えばそこまでを「ポルノ」と認めるくらいでないと、師匠の「ポルノ観」では「男性差別(とやら)」に切り込む力を持ち得ないのです*2
「女災」理論は「そうではない、男は能動性を求められる存在、女性を追い求める存在だ。だからこそそうした性役割を担う者としての辛さに責め苛まれているのだ」との主張です。そしてこれは言わば、昨今のトランプ現象、Brexitなどと同じ性質を持っている。
 果たしてどちらが現実に切り込み得るかはもう、自明です。


*2 細かい話になりますが、師匠が「少年への虐待」を強調しているのは象徴的です。恐らく個人的にこだわる事情を持っておいでで、そこは尊重したいのですが、これは逆に「男の中で、まだしも性的に虐待されがちなのは少年くらい」という身も蓋もない事実を、ぼくたちに教えてしまう結果となってしまいました。「男の娘」などを見てもわかるように、「少年」というのは言ってみれば「疑似女」としてポルノの対象となり得るが、その事実は男女のセクシュアリティの非対称性、ヘテロセクシズムの強固性をむしろ、裏打ちするものでしかない。つまり、「性的に価値を持つのは女性の身体、少年はその女性に近いので価値を持ち得る」のです。


 しかし、そもそも、久米師匠がマッキノンなどの「ポルノは性差別」論を肯定している以上、彼の頭の中には「ポルノのせいで性犯罪が生まれるのだ」というとっ散らかった、粗雑極まりない人間観しか存在しないということになります。ここまでBLが普及しているのに「女性の男性への性犯罪」が激増しているように見えないことが、即、マッキノンのロジックが間違っていることの証明になるような気がするのですが、師匠は気にする様子がありません
 それではやはり、「いくら何でもアカン」でしょう。
 そもそもがフェミニズムとは「女性が性的であるが故に被るデメリット」という、本当に稀少な、レアメタルみたいなモノを輸出してカネを稼ぐ、斜陽産業でした。フェミニズムが「性犯罪冤罪」によって成り立っているのはそれ故です。
「女災」とは「女性が性的であるが故に男性が被るデメリット」であり、「フェミのロジックが既に斜陽産業であるとの指摘」です。
 男性が苦境に置かれていることの原因は、人々がそうしたパラダイムシフト以前の状態に留まっているがため、「女災」という概念が人口に膾炙しないからでした。
 大変残念なことですが、この非対称性を、久米師匠は全く理解していません。
 よりにもよって「男の武器にならないモノしか出ない、掘り尽くした炭鉱」に行って何がしたいんだお前は、という感じです。
 久米師匠と「表現の自由クラスタ」とは方向性が正反対なだけで、そうした男女セクシュアリティの非対称性に対しての不見識という意味では、「完全に一致」を見ているのです。
 彼らはいずれも理路も解せずフェミ炭鉱にむしゃぶりつき、フェミニストの靴をペロペロ舐めながら、彼女らの掘り起こした石炭のカケラを血走った目で拾い集めようとして、しかし無惨にも5gくらいしか掻き集められたなった哀れな存在でした。
 本件は「どうでもいい人物の、どうでもいい死」にすぎませんが、それでも「まだしも、死ななくていい側の人間」の哀れな死であったとは言えましょう。
「男性が搾取されている事態」という一点だけを取れば、彼は貴重な認識を成し得ていた人物ではあったのですから。