兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件

2018-12-22 10:20:13 | 男性学


 兵頭新児の一人読書会、最終回である今回はいよいよ「ポルノ」にまつわる後半戦をお届けします。
 前回前々回をご覧になっていない方は、そちらから読んでいただくことを、強く推奨します。
 また、noteにも同じ記事をうpしております。もし当記事がお気に召しましたら、そちらの方にも「スキ」だけでもつけていただけると幸いです。
 さて、テラケイ師匠、青識師匠、借金玉が大絶賛の本書ですが、ポルノについて述べた第5章ののっけから、「行動する女たちの会」もマッキノン師匠も、そしてドウォーキン師匠も、その全員を延々延々延々延々称揚し続け、こちらのやる気をどっと減退させます。前回、前々回をお読みの方はおわかりでしょうが、本書の、そして牟田師匠のスタンスはほとんどマッキノン師匠と同じ。

彼女たち(引用者註・マッキノン師匠とドウォーキン師匠)の定義では、ポルノとは、女性が人間性を奪われ性的対象としてのみ表現されている、女性が苦痛や屈辱を楽しんだり強姦を喜んでいるかのように描かれている、乳房や膣、尻など身体の部分のみが女性の全体から切り離されて強調して描かれている、などの特徴を持つ、「絵やことばで女性の明らかな性的服従を描いたもの」であり、「ポルノは性(セックス)に基づく搾取と従属が組織的に実践されたものであり、差別的に女性を傷つける」。
(149-150p)


 本書の、ことに後半を読んでいる間、実のところぼくはずっと祈るような気持ちでおりました。何しろ上に挙げたような「アンチフェミ」と呼称されている連中が、本書を称揚しているのですから。しかし(今まで見てきた通り)そんなこちらの期待をことごとく裏切り、本書は古色蒼然たるフェミ本でしかありませんでした。いえ、正直に言えば、それは予測していたことではあります。ただ、それでも恐らくポルノについてだけは一応、多少なりとも冷静な記述がなされており、「アンチフェミ」のお歴々はそこを評価したのだろう、と思っておりました。
 だから、上のような記述に失意しつつも、両論併記のような形ででも、後に反論が添えられるのではないか……と思いつつ読んでいたのですが。
 牟田師匠はフェミニストのアンチポルノ運動が必ずしも女性全般に受け容れられたわけではないと指摘します。うんうん、そこがわかってるだけでもまあ、フェミの中ではマシじゃないか……と思いつつさらに読み進めると。

 私はここで、ポルノ批判が揶揄的な反応や批判を呼び起こしてしまうから、少なからぬ反発を女性からも受けるから、フェミニストのポルノ反対運動に問題があるなどといっているのではない。むしろ、そのようないささか感情的とも言える反発は、ポルノ批判が問題の核心をついてパンドラの箱を開けた証拠だ。内容のいかんを問わず、新鮮でラディカルな主張というのは、当初は荒唐無稽、「非常識」に聞こえて当たり前だ。
(151p)


 つまりフェミニストが女性からも反発を食らっているのは、彼女らが革新的で、正しかったからだったのだあぁぁ~~~~~!!
 ΩΩΩ<な、なんだって~~~~~!!??
 怪しげな主張や発明をするトンデモ研究家が、自分を宗教裁判にかけられたガリレオになぞらえるのといっしょです(あ、でも俺も自分の理論が受け入れられない時、似たようなことを言うけどな!)。
 ちなみに本書、白饅頭師匠が超絶賛してます

実際、ポルノへの異議申し立てが有効で妥当な主張だったことは、ポルノの規制や撤廃にはつながらなかったとしても、一〇年の後、セクシュアル・ハラスメントや性暴力を含めて、性の問題をめぐる社会の「常識」がこれだけ変わってきていることからみても証明されている。ポルノを批判するフェミニストたちに、やりすぎ、ヒステリックだとまゆをひそめる女性はいまもあるだろうが、身体にタッチしたりカラオケでデュエットをしつこくしたがる上司に、「それってセクハラよ」といなすことができるようになったのは、もとをたどればその「ヒステリック」と揶揄されてきた女性たちのおかげであることを知った方がいい。
(151p)


 これ、時々「ツイフェミ」とやらが吐く暴言と同じですよね。「誰のおかげで女性が安心して生きられる世の中になったと思ってるんだ」と。
 しかも、ここまで言っておいて「フェミニストのマジョリティは規制に与しない(大意・152p)などとぬけぬけと続けるのも大した心臓です。
 しかし、確かに、「行動する女たちの会」のやってきたことは、「規制」というよりは「テロ」と呼ぶべきものではありました。フェミニストも「表現の自由クラスタ」も左派ですから、とにかく国家の規制だけを念頭に置きたがりますし、だからこそ「自分たちの規制はキレイな規制、規制にはあたらない」との「揺らがぬ信念」からこのようなことを言い続けるのでしょう。
「いや、それでも国家の規制をよしとしないだけマシだ」といった見方も可能かもしれません。
 ですが、師匠はこんなことも言っているのです。

 それは、AV(アダルトビデオ)や写真の中でレイプが描かれることがかりに許されるとしても、レイプや女性に対する暴力がAVというフィクションの形をとって行われるのが許されるわけではないということだ。
(153p)


 れれっ!?
 どういうことでしょう。
 い……いえ、御田寺圭師匠ご推薦の書籍に軽はずみなことが書かれているわけはありません。これは「フィクション」を謳ってその中で本当のレイプが行われる可能性がると言いたいのでしょう。それは確かに、単純な労働上の契約違反の問題です。
 が!
 ここで例に挙がるのはバクシーシ山下の残忍なAV。確かに同監督の作品はフェミニストによってレイプ疑惑が叫ばれたことがあるのですが(その疑惑にどれだけの妥当性があるのかは知りませんが)読み進めてもその問題について語られる様子はなく、ただ同監督の作が残忍極まりないものであるからけしからぬというだけの話。
 そりゃ、確かにそんな胸糞なAVはぼくも見たくないけど、この理屈が通るならエロ漫画など純フィクションの表現でも、残忍なものは規制してしまえる(ぼくも残忍性の強いものはエロとはまた別な暴力関連のレーティングなりゾーニングなりがあってしかるべきと考えますが、それとこれとはまた、問題が別です)。
 しかしこれもフェミニズムにとっては「当たり前な、正統な要求」なのですね。それは前々回にお伝えした、師匠の「セクハラを性犯罪ではなく、あくまで女性差別=思想犯として裁け」との主張と変わるところが、全くありません。

 そのとき言い訳になるのは、そのAV女優は自由意志で出演した、契約に基づているというものだ。金を稼ぐ目的で納得してやってるんだ、その証拠にこれまで暴力を受けた、強姦されたと警察に届けたような女優はいない、というわけだ。
(154p)


 いや、自由意志で契約に基づいて納得しているものすらも駄目だと言い出したら、それはポルノ全否定でしょう。その証拠にこれまで暴力を受けた、強姦されたと警察に届けたような女優はいくらもいるのですから。そもそもそうした事例はあってはならぬものではあれ、常に起こり得ることです。上の強姦を過労死や労働上の事故死に置き換えれば、あらゆる「労働」はNGになってしまうでしょう。
 これに関して、師匠は一応の補論を試みているのですが、それが「契約があれば殺人や暴力が許されるのか」などというシリメツレツなもの。こういうのを「詭弁」と言います。
 そして「第二に」と前置きしてようやっと契約違反の可能性を疑いだします。いや、順番が違うというか、こうなると「契約違反」は自説を補強する言い訳として無理に持ち出してきているとしか言いようがありません。
 一応、補足しておきますと、この後さらに、師匠は労働前の説明が不足していること(上記のバクシーシ監督は、女優に内容の説明をほとんどしない旨を発言しています)、現場で女優が「やっぱり嫌」と言ったのに撮影が続いたら、といった可能性も指摘しています。ここは一応の納得がいくものです。しかしむろん、だからといって上の主張が正当性を帯びるわけでは、全くありません。
 ちなみに本書、『矛盾社会序説』の著者が超絶賛してます

 さて、読み進めると、ストロッセン師匠(本書ではストローセン表記)についても言及があります。
 このストロッセン師匠、一時期は「表現の自由クラスタ」の口から唯一出てくる「真のフェミニスト」の名前でした。ポルノを擁護しているから素晴らしいと。ぼくも読もう読もうと思いつつ、読めずにいるうちに、すっかり名前を聞くこともなくなりましたが(ネオリブのおかげでしょうが)。
 しかしここを読む限り、そのストロッセン師匠の主張とは「検閲が実地されれば、女性たちの権利のための表現も対象となり、男女の平等を達成しようとするフェミニストの力をそぐことになるという。(156p)」というバッカみたいなものなのです。ドウォーキン師匠の反ポルノ論文なども「ポルノである」として検閲の対象になってしまうではないかと。ドウォーキン師匠はこれに対し、ポルノをなくすためには「値打ちのある犠牲」と反論しているといいますが、仮にポルノ撲滅を絶対の正義とするならば、検閲がなされた時点で目的を達成できるのだから、反ポルノ論文など不要になるわけで、これじゃあドウォーキン師匠の方が理は通っています
 もっとも、フェミニストの流す中絶推進の情報すらもポルノ扱いされるといった、また「別枠」の危惧も語られてはいます。しかし、これもあくまで「ポルノそのものに対する否定的スタンス」を揺らがせるものではありません。重要なのは「ポルノはけしからぬ」というフェミの第一義を、牟田師匠が(そしてこの引用を読む限りにおいてストロッセン師匠も)「全く疑い得ない真理」であると捉えている点です。
 ストロッセン師匠、以下のようなことも言っているそうです。

ストローセンは、この対立を超えて、ポルノ検閲が「スケープゴート」となって女性の運動が女性差別や女性への性暴力をなくそうという建設的方向に進むことを阻害すると主張する。
(157p)


 まずこの「ガス抜き」論、以前も言ったように何でも貼りつけられる、意味のない万能理論ですが、さらに「ポルノを悪役にすると性犯罪者を免罪することになる(大意)」と続けます。

 ――え? 兵頭、それは正論ではないか。悪いのは性犯罪者なんだから。まさかお前、性犯罪者を擁護するのか?

 違います。性犯罪者を擁護することはフェミ様の聖なる使命でしょう。
 先を続けます。

 ポルノが女性の人格や性の自由の侵害を表象しているとすれば、それは現実の社会の女性への差別や人権侵害を反映しているからだ。
(159p)


 おわかりでしょうか。
 師匠は「だから現実の方を変えよ」とおっしゃっているわけです。しかし、そんなこと言われたって、何を変えるんでしょう?
 レイプが現実に起こるからレイプネタのポルノが作られるのだとの主張、フェミニストの合言葉である「ポルノはテキスト、レイプは実践」とのロジックの真逆です。しかしならばそれが正しいのかとなると、丸っきり理には適っていません。日本は七十年間平和ですが、戦争モノのコンテンツはずっと作られてきたでしょう。ウルトラマンはいなくてもウルトラマンの番組は作られました。

ましてやそれを、安易に、国家や行政の規制に頼るとすればそれはあまりにも危険な道だ。また女性の人権侵害のイメージであるポルノを国家や自治体の規制によって取り締まろうとするのは、法のエージェントによって女性を守ってもらおうということだ。
(159p)


 また、そうした保護主義は父権主義的でけしからぬとの議論がここでも蒸し返されますが、こんなのは前回に書いたように駄々っ子のマッチポンプです。
 ……こうして見てくると、暗鬱たる気持ちにならざるを得ません。
 というのも、「答」が出てしまったからです。
 テラケイ師匠、青識師匠たち「アンチフェミ」否、「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」たちが本書に「異常な執着」を見せたのも、結局はここ、「国家の規制をよしとしていないからエラい」という点に他愛ない賛意を示しているに過ぎないことはもう、自明でしょう。

 もっとも、章の最後の節は、「ポルノは女のためにある?」と題され、ここではウェンディ・マッケロイ師匠の『女性のポルノ権』を採り挙げ、もっと積極的なポルノ評価について紹介がされています。
 その論旨はまとめるならば、「ポルノ女優を被害者視することへの懐疑」、「女性たちの性の解放のためにポルノは必要」、「女性がポルノで得る、マゾヒスティックな楽しみを否定するな」といったところでしょう(162-163p)。
「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」が恐らくここを一番の「抜きどころ」にしているであろうことは想像に難くありません。
 そればかりでなく、本稿をお読みの方の中にも、「なかなかいい」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 むろん、しかしぼくは一切、いいとは思いませんが。
 というのもこれは結局、「彼女ら」が「見えていない」ことの何よりも雄弁なマニフェストだからです。
 上の三つの論点、そこだけ取り出せば、ぼく自身もさしたる異論はありません。
 しかし三点の内、最初と最後のモノが真ん中とは対立的であることにお気づきでしょうか。「女性ジェンダーは男に押しつけられた絶対悪」という世界観が師匠の、そして全フェミニストのドグマであることはもう、多言を要しないでしょう。そしてその考えを演繹すれば、「ポルノ女優」も「マゾヒスティックなポルノを見て喜ぶ女性」も、そうした「ジェンダー規範」に突き動かされてそのような行動をとっていると考える他はない。「女性の性の解放」と師匠たちが言う時、それがそうしたジェンダーの変革を意味していないと考えることは困難です。
 つまり、(後に述べるように)結局彼女らは「ポルノを全否定した上で、自分たちのマスターベーションイマジネーションに敵うよきポルノを作れ」と言っているに過ぎないのです。
 そしてもちろん、それは間違っています。
 何となればポルノは全て、男女共有のものなのだから。
 フェミニストたちが「男の価値観だ」と泣き叫ぶ「ジェンダー規範に則ったポルノ表現」は、男女が共犯で作り上げてきたものなのだから。
 そして、上の下りはあくまでマッケロイ師匠の説の中立的紹介であり(つまり、ことさらそれに同調しているわけでではなく)、牟田師匠はさらにこう続けるのです。

女性たちは、「よくない性」「間違った性」としてポルノを否定し撤廃を願うよりも、そのような性のファンタジーを作り出す現実の社会経済的力関係の構造を変えていかねばならないし、ポルノ表現においてはもっと積極的・能動的に、消費者としても作り手としても、自分たちの満足できるポルノにかかわり作り出すことが必要だ。
(163-164p)


 はい、ぼくの予言が見事に的中しました。ポルノ(さえも)自分たちの満足できるものに改変せよという、千田有紀師匠と丸っきり同じ主張*1ですね。
 あ、それと本書、「レディースコミック」「BL」についてはただの一言の言及もありません

 実際アメリカでは、このような立場から、ポルノ製作に進出している女性たちがいる(原文ママ)。かつてポルノ女優として活躍していたキャンディダ・ロワイヤルは、「女性のためのポルノ」を専門とするファム(femme)プロダクションを作った。
(164p)


 何というか、こういう記述にこそ、ぼくは落胆と失意を覚えます。
 師匠はレディコミを完全にスルー、その上で大上段に気負って「さあ女性のためのポルノだぞ」とドヤっている。その神経が、ぼくにとってはろくでなし子師匠のフェミアートを見た時くらいにいたたまれないのです。
 つまり、結局、既に存在している「女性のためのポルノ」であるはずのレディコミも、実はフェミニストにはお許しいただけない。だからこそ、師匠はわざわざガイジンの例を挙げ、「私が好むもの以外はダメだ」と言っているだけなのです。
 いずれにせよ師匠がこの節を「日本では女性のポルノは普及していない」で終えているのは、何重にも何重にも彼女が周回遅れの議論をしている証明なのです。

 公共空間にヌードポスターなどが氾濫し、見たくもないのに性表現が眼に入ってしまう状況を規制して「見たくない権利」を守ることは必要だろう。しかし、ポルノを「醜悪」だと嫌悪するばかりでなく、自らの性幻想を創造し表現する必要が同時にある。「そんなおぞましいものには近寄りたくもない」と忌避するのではなく、そこから遠ざけられてきたことの意味を再検討すべきだ。「人格の合一」やらに拘泥するロマンティック・ラブの対幻想に依存しないとすれば、性幻想の源泉としてのポルノグラフィは、女性にとってもポジティブな意味を持つものとして女性をエンパワーメントするものとして、再生しうるにちがいない。
(169p)


 本章のラストです。この無残な文章が、フェミニズムが何重にも何重にも何重にも何重にも間違ったものであることを、ぼくたちに教えてくれています。
 まず、過度な性表現は公衆から遠ざけられるべきかもしれませんが、(師匠が全肯定する)行動する女たちの会は他愛ない水着のポスターにこそ、文句をつけていました。
 中盤の「そこから遠ざけられてきたことの意味」とは何でしょう。女性は性表現から遠ざけられてなどいないし(何せ被写体のほとんどは女性だそうですから)遠ざかっている者は自分の意志からそうしているのだから、尊重すべきです。「悪者が女性を性表現から遠ざけた」などといった事実はありません。
 最後の文章も千両です。彼女らは「ロマンチック・ラブ」を悪と断じ、それを殲滅するための武器として、ポルノを用いよと言っている。それはまるで全共闘がエロ本業界に入り込み、エロ本にウザいコラムを書いて多くの青少年をムカつかせたのと、全く同じに。

*1 夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)


 第6章は「売買春」について語られますが、もう疲れました。簡単に片づけましょう。
 ここで師匠は売買春を女性差別であるとしながら、しかしフェミが売買春を全否定してきたわけではないと摩訶不思議なことを言います。しかしこれも先のポルノについての議論を思い起こせば不思議がるには当たりません。「男の性は全て悪だが、女の自主的な売買春はいい」という、いつもの他愛のない論調が垂れ流されるだけです。
 売買春を「単なる労働の一形態」と位置づけるフェミを紹介し、「売買春の否定は女性の自己決定の否定だ」とぶったりする一方、90年代に大いに騒がれた援助交際についても言及があります。これも同様に、「一律に禁じるのは女性の自己決定を妨げる」との論調。
 また「女子高生はブランド物のバッグだか何だかを欲しいがために援助交際しているのだ」との、どこまで正しいのかもわからない俗言を持ち出し、「ブランド物を欲しがって何が悪い」などと言い出します。ここまで来るともう、噛みつく対象を血眼で探し出して片っ端から噛みついているという感じ、当たるを幸いです。

 買春することが、「誰にも迷惑かけてない」「自分の勝手」――買春女子高生のこれらの言葉はまったく正しい。
(191p)


 そこまで言いながら、彼女らは「気持ち悪いのを我慢して」やっている、それは「気持ち悪いのを我慢させる」男社会の強制なんだと主張します。いえ、そうストレートには書いてはいませんが、師匠は職場で女性が女性ジェンダーを期待されることとセクハラとが地続きであり、女性が売春することもまたそうだ、として、

セクハラを生み出している背景と売買春とには、通底するものがあるのだ。
(194p)


 と言っているのだから、そういことなのでしょう。
 それにしても、あの種の人たちは「気持ち悪いのを我慢して」やってるんですかね。
 好きでやってるのも何割かいると思うんだけど。

売春からそうしたスティグマが取り去られ、マッサージやセラピーと同じような、心身への癒しや快を提供する専門職になることは、自由な選択肢として売春が選ばれうる条件である。
(195p)


 ついにはこんなことまで言い出します。聞き覚えがありますね。そう、女性器を手足と同様にしたいのだとわめくろくでなし師匠の言*2と、これは「完全に一致」しているのです(ただし、それが困難を極める道であるとも、師匠は言っています。確かにそこをわかっているだけ、他のフェミに比べマシだとは言えるかもしれません)。
 この後(197p)「ルッキズムは差別だ」論に移ります。師匠はそのルッキズムもこれから覆っていくはずだと希望的観測を述べますが、その根拠はガングロやヤマンバw
 しかしそれにしても、美人を称揚することがまかりならんのだから、当然ポルノなんてダメに決まっていますよね。
 ちなみに本書、「かわいそうランキング」の批判者が超絶賛してます

*2 『毎日変態よい子新聞』、もとい『毎日小学生新聞』が小学生相手に「ま○こまん○」と連呼した件

 ――これ以降もまとめにあたる「終章」が入るのですが、大体まあ、こんなところです。
 この最後のトピックでは、「売買春」について妙に肯定的です。「アンチフェミ」諸氏にはそこが印象に残り、そのせいで本書は奇妙な高評価を叩き出したのでしょう。
 しかしそれも、牟田師匠の援交女子高生への「欲情」ぶりが原因であると言えます(仮にですが彼女らが「管理売春」下にあったら、師匠はそれを血涙を迸らせながら全否定していたはずです)。
 事実、師匠の論調は実際のところ、売買春を自分でも肯定すべきか否定すべきかわけがわからないままに筆を進めている、といった混乱ぶりですが、このダブルスタンダードこそがフェミの本質。師匠はルッキズムを否定しておきながら、返す刀でマドンナを称揚するのですが、そうしたダブルスタンダードは『GIジェーン』への評価と全く同じです。
 みんな大好き、香山リカ師匠は『フェミニストとオタクは何故相性が悪いのか』の中で実に奇妙なことを言っています*3。彼女は碧志摩メグもAKBに憧れる女子大生も全否定しながら、しかし会田誠の描く、「女子高生をジューサーで粉砕する」アートはアリだと(P108)。そんな胸糞なもの、真っ先に否定しそうなものですが、彼女に言わせると、それは「体制への反抗だからおk(大意)」なのだそうです。あぁ、そうですか。
 そう、牟田師匠が援交女子高生に「欲情」したのは、それが「体制への反抗」だった(ように、師匠には見えた)からでした。
 そしてまた、こうした「抜きどころ」を「脳内編集」し、本書を盲讃する人たちのメンタリティもまた、これと「完全に一致」しているのです。
 もう、おわかりでしょう。この無惨な著作を何故、テラケイ師匠が、青識師匠が称揚したか。
 それは彼らも彼女らも「表現の自由がどうこう、ポルノがどうこう、性犯罪がどうこう」といった些事は心の底からどうでもよい……とまではいわないまでも、それは一種のダシであり、真の目的があったからです。
 それはそう、「政治的スタンスが同じ異性とのデート」です。

*3 フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか

八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む

2018-08-10 23:56:43 | 男性学
■基礎編


 さて、前回ご紹介した、八田師匠の記事の続編とも言うべきものを、今回は俎上に上げたいと思います。
 前回、「この続編では師匠の目論見が男性たちの苛烈な現実に脆くも崩れ去る……とでもいった想定外の展開を迎え」ると書きました。
 というのも続編においては、「インセル」を超える非モテ、「ミグタウ」について言及されるからなのです(以降、師匠の最初の記事は「インセル編」、今回お伝えする続編を「ミグタウ編」と呼称します)。
「ミグタウ編」のポイントを挙げると、以下のような感じでしょうか。

・反フェミニズムとしてメニズム(menism)、或いは筆者の観測範囲では、メンズ・ライツ(男性の権利)運動、あるいはメンズ・ライツ・アクティヴィズムの略でMRAと呼ばれるものがある。これらのコミュニティは男の世界、マノスフィア(manosphere)とも呼ばれる。
・彼らの用いる概念に「ブルーピル」、「レッドピル」というものがある。『マトリックス』からの引用で、前者を飲んでいる間は夢の中にいるが、後者を飲むと覚醒する。この世が女性支配社会であると気づいた我々はレッドピルを飲んだのだ、といったところ。ちなみにこの言葉を使った最初の人物はオルタナ右翼である。
・MGTOW(ミグタウ)とはMen Going Their Own Wayの略で我が道を行く男たち、といった意味。

 ちょっと長くなりますが、ミグタウについてさらに引用してみましょう。

MGTOWの基本は、女性と付き合うのはコスト的にもリスク的にも割が合わないという考え方だ。MGTOWにとって、女性は男性を食い物にする捕食者であり、男性の自己所有権を侵害する存在と見なされる。

ところで、MGTOWにはこじらせ具合に応じてレベル0からレベル4まであるという。

レベル0は、先に出てきたレッドピルを飲み、この世は女性に支配されている、という認識をとりあえず得たという段階である。

レベル1では、結婚のような女性との長期に渡る関係が棄却される。

レベル2では、女性との短期間の関係も排除される。

レベル3では、生活に必要な最低限の収入を得るための仕事を除き、社会と経済的な関係を絶つ。

レベル4では、そもそも社会との関係を絶つ。自殺も選択肢に含まれる。



 何しろこの世は女性支配社会なのだから、そこからの徹底した撤退こそがミグタウの本質なのです。

MGTOWを巡る議論を見ていると必ず出てくる話が、日本の影響である。筆者がMGTOWについて最初に目にしたとき、日本のherbivore menと似たものであるという説明があった。

herbivoreとは草食という意味で、ようするに「草食系男子」のことである。また、先に出てきたレベル4のMGTOWはGoing Monk(僧侶になる)とかGoing Ghost(幽霊になる)と呼ばれるが、Hikikomoriと呼ばれることも多い。



 ここから見えてくるのは、リベラル様たちが「インセル」という「してもよい、自分たちの快楽殺人のための弱者」を見つけ出したつもりが、よくよく見ると「ミグタウ」というする大義名分を見つけることのできない男性像こそが、むしろその本質であった、という皮肉なオチでした。
 そう、まさにタイトルが象徴するようにミグタウは(仮に女性に憎悪を抱いているとしても)そもそも女性から離れようというのがその本質なのですから。上にも「僧侶」、「絶食」としたように、もはや性的にも経済的にもほとんど息をひそめるようにして生きる、「ゴースト」とも言われるのが、彼らの本質なのですから。
「インセル編」における「インセルはピックアップアーティストと同じだ」論は、フェミニズム論者のよく使う、「どっちもモテたいと思っているから同罪」という呆れるほどに雑なロジックでしたが*1、実際のところ、男たちは既にそうした詭弁ですら叩けないほど、乾いた雑巾のような状態に陥ってしまっていたのでした。
 事実、「ミグタウ編」はボリューム的にも「インセル編」より少なく、師匠自身の主張もほとんど見られず、本当にただ事象を並べているのみです。ここには、弱者を「女を与えよと主張する女性差別主義者」であると強弁し、いたぶろうとしていた八田師匠が現実を見て、絶句している様子が見て取れます。言ってみれば師匠の、敗北の様子の実況中継なのです。何せ記事の最後は以下のような文句で締められているのですから。

しかし、フェミニストやジェンダー論者が一所懸命やろうとしてきた男性性の解体を、日本の影響を受けた、それも「反」フェミニズムが変な形で実現しつつあるというのは、なんとも皮肉なものではなかろうか。



 そして何より絶望的なのは、こうしたミグタウの在り方こそ、むしろ日本の非モテの在り方とぴたり重なるという点です。
 上に「草食系男子」との関連性について言及されていますが、むしろそれからの派生語、「絶食系男子」を想起せずにはおれません*2。「hikikomori」も日本由来ですし、「僧侶」「幽霊」といった概念は本田透氏の主張した「護身」の概念とやはり、「完全に一致」します。また、女性との関係にメリットがないとする説は、かつての2chのコピペ「結婚は一億円の無駄遣い」を想起させるものでしょう*3。
 そして、(引き籠もるとか死ぬとかには賛成できないものの)これらのロジックは正しいと、ひとまず評価せざるを得ない。

*1 以前、togetterでフェミニストが相手を「童貞」と罵ることを差別的だと批判され、「(その人物はともかくとして、ほとんどの)フェミニストは童貞を差別したりはしない、むしろそれを真っ先に批判したのがフェミニストだ」と反論している人がいました。尋ねてみると、「性行為を競う男性的価値観こそがけしからぬ」という論法を展開したのがフェミニズムである、との応えが返ってきて、ひっくり返ってしまいました。餓死寸前の人間に「カネより尊いものがある」と説いて、「人を貧しさから救った」とイキってるのといっしょです。こうした無意味な「ちゃぶ台返し」こそフェミニストの得意技です。
*2 また、この「草食系男子」そのものが、当初はフェミニスト女子、深澤真紀師匠が「フェミニンな今時の男子」というポジティブな筆致で描いたものが広がり、いつの間にか「男性性に欠けるだらしない男」というネガティブな像にすり替わった、という経緯を持っています。それは「インセル」という「虐殺用弱者」をよくよく見ると「ミグタウ」という「殺す口実の見つからない弱者」であったという、八田師匠の「オチ」を丁度逆にした形でした。
*3 以下です。
 ちなみに久し振りにこれを見直そうと検索したところ、(KTBアニキも引用していた、デタラメにまみれた)「女にとって結婚は二億の損」という記事ばかりがヒットして、頭がクラクラしました。

結婚を迷っている若き独身男性諸君、結婚ほど馬鹿馬鹿しいものはない。
今の20代、30代の女は「どうやって男にたかるか」を必死に考えている。
だまされるんじゃないぞ。

「男にとって結婚は1億円の無駄遣い」

実際は1億どころじゃ済まない。子供一人につき、4000万の出費。
(0~22歳までの養育費、教育費、その他雑費)。

男は結婚した瞬間に、30年間の強制労働が約束される。
男は結婚した瞬間にどんなにがんばって稼いでも、
自分で使える金額は1日数百円程度になる。
どうしても買い物がしたければ、妻に頭を下げて「お願い」する。
そして「無い袖は振れません」と、あっさり却下される。

稼ぎのほとんどを、ガキと女が「当たり前のように、何の感謝もなく」吸い尽くす。

昔と比べて家事は極めて軽労働になった。
ご飯=<昔>釜戸で1回1時間を1日3回→<今>電気炊飯器でスイッチ一つ。
洗濯=<昔>たらいと洗濯板ですべて手洗い→<今>全自動洗濯機でスイッチ一つ。
風呂=<昔>薪で炊くたので常時火加減が必要→<今>ガスまたは電気給湯器でスイッチ一つ。
買物=<昔>原則毎日→<今>冷蔵庫の普及でまとめ買い可。
にも拘らず、家事を面倒だという女が急増。そんな女の為に汗水垂らして働く男。

こっちは仕事で疲れて帰って来てるのにセックスだけは意欲的に求めて来る妻。
断わると愚痴。
美貌を維持する気ゼロでぶくぶく太るくせにセックスだけは意欲的に求めて来る妻。
断わると愚痴。
そのうち趣味や男に走って「亭主元気で留守がいい♪」とかほざき始め、
生活費だけ要求してくる妻。
こっちの浮気がバレると、待ってましたとばかりに離婚を申し立て、親権を欲し、慰謝料と財産の一部をふんだくりにかかる女。

昔は男にとって結婚も妻も「必要」だったかもしれない。
でも今は「人生の不良債権」にすぎない。
コンビニやインターネット、風俗関係も充実した今、男達よ、もう結婚しなくていいんだよ。



■追想編


 さて、前回記事では上の現象について、八田師匠が必死になってアメリカ人のクシャミの様子をレポートしているものの、日本では既に風邪が完治してしまっていた……と形容しました。この「完治」という言葉、何だか問題が解決したかのような印象を与えますが、もちろん日本でも非モテ問題が解決を見たわけではなく、むしろ悪化の一途をたどっています
 では何故、ここで「完治」などという言葉を使ったのか。
 ちょっと話が前後しますが、前回記事に書いたように、「インセル編」はニコ生の岡田斗司夫ゼミでも採り挙げられました。岡田氏の評は冷静で的確なものだと思うのですが、実のところ、大変残念なことに、ニコ生視聴者のコメントは(「俺たち」に近しい層であるはずにもかかわらず)インセルについて非常に冷淡でした。
 まあ、以下のような感じです。





■詳しくは(http://www.nicovideo.jp/watch/1531734128)を。有料ですが。

 インセルたちは自らを革命家であるとイキり、リベラル様は彼らをおどろおどろしく描写し、社会不安を煽り、本を売ろうとしていますが、実のところその両者とも目論見が外れるということがもう、「日本での社会実験」により答えが出ているのでした。
 そう、彼らの未来は以下のようなものに終わるのです。
 1.今さらであり、「またか」とだけ言われる
 2.「みっともない」と嘲笑される
 3.萌えアニメを見ろと強弁される
 この3.までを、ぼくたちは既に通過しています。
 つまり、ぶっちゃけ、「非モテ」問題は既に日本では「消費され、飽きられ、沈静化して、ニヒリズムを持って迎えられている」のです。上に書いた「完治」は即ち、そういうことです。
 仮にですがもし今、本田透が復活しても、恐らくはこれらのようなリアクションを持って迎えられてしまうのではないでしょうか。
 それは、何故か。
 一例ですが、「ミソジニー」という言葉が鍵なのではないでしょうか。
 ここしばらく、ツイッターでリベラル寄りの御仁が「十年前まではリベラルが表現の自由を守っていたんだ」と主張しているのを、立て続けに目撃しました。いえ、二、三人が言っていたのを見ただけなのですが、何だか申しあわせたようで、笑ってしまいました。もちろん、フェミニストなど左派はずっと表現の自由を脅かし続けて来たというのが本当のところなのですが、例えば「ミソジニー」といった言葉を振りかざしてのフェミニストの大暴れは、かなり近年のことです。
「セクハラ」は男性からの女性への働きかけを任意で有罪化することの可能な「攻撃呪文」でしたが、「ミソジニー」は直接の働きかけのみならず、発言をも「女性差別」として攻撃することを可能にした新たな呪文です。いえ、「セクハラ」も充分、発言そのものに対応した呪文ではありましたが、例えばネット上の不特定な「女性」についての発言、或いは萌えキャラといった非実在女性を巡る事象すらもジャッジできるという点において、「ミソジニー」は新たな効果を持った攻撃呪文であると言えました。
 つまり、上のリベラル様の言は「丁度十年ほど前に、ミソジニーという攻撃呪文がフェミの口に膾炙してきた」ことを意味しているのではないでしょうか。
 そして、この「ミソジニー」という言葉は――いかなる学術的バックがあるのか、どういう経緯で広まったのか、いまだわからないのですが――本来の語義としては、単純に「女嫌い」、「女性憎悪」以上の意味はないはずなのですが、どこかに「モテたいくせに、モテないから逆切れで」という意味あいが含意されています。否、そもそも恐らく学術用語でも何でもないこの言葉をフェミニストが多用するうち、「実は彼らは女にモテたいのだ」とのフェミニスト自身の被愛妄想の照り返しを包含し、いつしかそのような「フェミ妄想用語」としてのニュアンスを持つに至った、とでも考えるのが正解ではないでしょうか。そうした「ニュアンス」がリベラル君などのインテリ層に共有されるにつれ、「弱者男性」側にも照射されるようになった、という経緯ではないかと思われるのです。それはつまり、ぼくたちが「男性の主張は許されず、全てが女性によって代弁される」という前回にもご紹介した、この社会のルールを遵守したことの結果でした。
 そんな折に、秋葉テロ事件が起きた。
『電波男』にケンケンガクガクしていたお歴々も、その辺で「やっぱり非モテは悪者扱いにした方が」というムードになる。或いは、この事件自体が前にも書いたように「非モテ問題」から「格差問題」へと話をすり替える機能を持っていたかもしれません。「非モテ」を「ロスジェネ」みたいな文脈で扱いたい者は、大喜びでそっちの「切り口」へと飛びついたことでしょう。それはつまり、「非モテ問題」を語り出すとフェミニズムの責任を問わざるを得ず、進退に窮していた者たちの、「何か、格差問題だから、悪いのは阿部さんとかだよ」との見事な問題のすり替えでした。まあ、当時の総理は福田さんでしたがこの後、政権が交代していることは直接の関係がないとはいえ、象徴的ではあります。
 そもそもが『電波男』は自分を客体視する冷静さ、知性を持っていました。まあ、正直、非モテ論壇はそうとは言い難い人が多かった印象ではありますが、逆に言えばここでようやっとぼくたちは「言説」という武器を手に入れることに成功したのです。そこを秋葉テロは(ドクさべ同様)幼稚なテロリズムへと後退させてしまった。同時に「ミソジニー」という言葉が貼りつけられ、非モテは一機に陳腐化してしまいました。
『電波男』など、確かに女性に対する辛辣な側面もあったとはいえ、基本は「女性を得られないことに耐えていこう」とする極めて理知的な書で、これを「ミソジニー」とするのはどう考えても当たらないと思うのですが、そうした細かいことは斟酌されないままに、「しょせん、モテたいヤツのひがみだ」とただ嘲笑することがポリコレになった。いや、「モテたい者のひがみ」も何も、同書はそこを自覚し、認めた上でそれを超克しようという提案だったのですが、そうしたムツカシいことは忘れ去られ、電波男はただ、打ち捨てられました。

■未来編

 先に上げた岡田斗司夫ゼミのコメントを見ると、それはまざまざと伝わってきます。そこに溢れているのはドクさべを見た時と同じ、「コイツとだけはいっしょにされたくない」という畏れの感情です。
 そしてまた、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」はこれに乗じ、「本田透の再利用」を図りました。本田氏の本意は「愛を求め、しかしそれが得られないとなった時、萌えにより自らを慰めつつ、凛と立つ」ことの勧めでありました。更に言えば彼の主張は「テロに走らないための戒め、ストッパーとしての萌えを大事にしよう」というものでもあります。ちなみにこれ、時々kinokoの言葉であるように書いていたのですが、最近、その時の記録を読み返し、ぼく自身から出た言葉であることに気づきました
 しかし、本田氏はその存在を抹消されました。本当の事情はぼくには知り得ませんが、彼の後期の作からはバッシングを受け、ウンザリしている様子が見て取れます。
 そして本田氏を殺した者たちは、本田氏の精神性を全て踏みにじった上で、その死体をゾンビとして蘇らせ、フェミニスト様への生け贄に捧げたのです。詳しくは以前の記事を読んでいただきたいところですが、(本田氏の、オタクの内面を一切無視した上での)「オタクは二次元で充足しております、フェミニスト様には逆らいません」発言ですね*4。それは同時に、「男が心を持つことなど許されていない」というこの地球の掟への、彼らの高らかな恭順の誓いでもありました。
 まとめましょう。
 当記事の前半で書かれたのは、八田師匠の敗北の様子でした。
「インセルは悪者だ」と嬉々として語っていた師匠が、実はミグタウという存在を知り、振り上げた拳の降ろしどころに困っておたおたしている場面のご報告でした。
「やった、俺たちの勝利だ!!」
 いえ、それが残念なことに、全く違うのです。
 後半でご説明したのは、「俺たちが既に、前から、ミグタっていた」事実についてであります。そして、そんな俺たちを指さし、自分をオタクだと思い込んでいる一般リベが、フェミに「オタクはjpgで満足してございます」と報告をした事実についてでした。恐らくフェミ経由でそのことは阿部さんにも伝えられ、阿部さんが捻出しようとしていた「非モテ援助金」は「何か、フェミと自分をオタクだと思い込んでいる一般リベのおやつ代」に化ける。
 それともう一つ。
 純朴に敗北宣言までをも記事にした八田師匠はある意味、誠実な方です。
 しかしおやつを食べておなかいっぱいになった彼ら彼女らは「ミグタウ」でしかないぼくたちを「インセル」であると強弁し、するという振る舞いに、これから出るのでは――否、既にそれはあちこちで現実化しているのではないでしょうか――。

*4 敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!
京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて“まなざし村”!?

八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む

2018-08-03 23:39:10 | 男性学
■基本編

 さて、ツイッターなどでもちょっと話題になったので、既にご存知の方も多いかと思いますが、今回のテーマは「インセル」についてです。
 まだご存じない方のために、表題記事のリード文を引用してみましょう。

アメリカで、「インセル」と呼ばれる一部の「非モテ」が過激化し、テロ事件を起こして社会問題となっている。興味深いのは、そんな彼らのなかにはトランプ支持者が多いということ。彼らのコンプレックスに満ちたメンタルや、「インセル 」という集団の由来を注意深く探っていくと、トランプを生んだアメリカという国の一側面が浮かび上がってくる。


 以上、当ブログの愛読者の方はこれだけでもうお察しかとは思いますが、もうちょっとだけポイントを挙げてみましょう。

・インセル(Incel)というのはInvoluntary celibateの略で、「非自発的禁欲」。つきあう相手がいないので、不本意ながら性的に禁欲を強いられている者のこと。
・彼らの敵は「チャド」や「ステイシー」。これはつきあう相手に不自由しない、モテるイケメン、及び美女のことで、(恐らく前者については)学歴や経済力、社会的地位の高さも加味された概念である。また、そこまでの勝ち組ではなくとも交際相手を持つ者はノーマルならぬ「ノーミー」と呼び、敵視している。
・また、こうしたインセルのひとり、エリオット・ロジャーは女性たちへの復讐を謳い、大量殺人を敢行した。インセルたちは彼を「最高紳士」と称し、崇めている。

 ――以上のような感じでしょうか。
 皆さん、いかなる感想をお持ちでしょう。
 当ブログにご来場いただく方なら、苛立ちとムカつきをお感じかと思います。ぼくも読んでまず、そうした感情を抱きました。ずっとフェミニストたちの珍奇行動珍奇論理にツッコミを入れるという作業を行っていたところに、久々に「攻め」に来られて若干、面食らってもいます。
 しかしよく考えてみると、この記事には既視感を思えずにはおれないのです。
 第一に、日本では十年程前まで、ネット上に「非モテ論壇」というものがありました。端的には、インセルは「アメリカの非モテ論壇」と言ってしまっていいのです。彼らの主張を見ていけば、更になじみ深さを感じます。チャドだステイシーだという物言いはどうしたって、「リア充爆発しろ」というちょっと前の流行語を想起せずにはおれません。
 第二に、「社会的に不遇な男性のテロ」すらも、ぼくたちは既にいくつも実例を見聞しているのです。宅間でありネオ麦茶であり加藤であり、東海道新幹線刃物男であり……これらの人々は既に「無敵の人」といった言葉で、表現されるようになっています。
 つまり、そもそもぼくたちは似た現象を、とっくに通過してきているのです。ぼくたちが風邪を完治したころ、ようやくアメリカさんもクシャミを始めたと、ただそれだけのことなのです。
 敢えて言えば、ぼくたちはテロる前に自殺してしまうケースがほとんどであるため、日本ではアメリカほどに問題が可視化されなかった*1。また、上にも挙げた日本での類似の事件の場合、非モテの犯罪という側面を(マスコミが)あまりストレートに推した印象がない。いや、むしろそこを当初は積極的に推していた加藤の事件ですら、すぐに「派遣の起こした格差犯罪」といったものになっていった感触がある。これはモテ以上に、今の日本の男性がパンにもこと欠く有様になったせいでしょう。
 また、本件からは容易にドクさべが連想されますが、あの、バカ丸出しの彼ですら「男性差別」というロジックを持ち出している。日本人の方がわずかばかり頭がよく、「女にモテたい!!」とストレートに叫ぶことにためらいを覚える人種であった、ということが言えようかと思います。もちろんこの「頭のよさ」は「自らの感情をストレートに発露させることができない」という欠点でもあるのですが。
 ――以上、「■基本編」と題したように、件の記事を要約すると共に、常識的な(先に書いたぼく自身のスタンスから離れ、できるかぎり中立的に見た)記事の感想を述べてみました。

*1 もっとも、ではアメリカではこれらの事件が本当に多いのかとなると、ぼくもわかりません。記事は「続発」と煽っていますが、件の記事に挙げられた例は「元祖」と呼ぶべきエリオット・ロジャーの引き起こした2014年の事件を含め、四件。四年で四件というのが大きいのかどうか、何とも言えませんが、アメリカではそれ以上に圧倒的な殺人事件、レイプが起きていることを鑑みてみるべきでしょう。

■応用編

 さて、ここからは件の記事に対する「ぼくのスタンス」からの意見を真っ向からぶつけてみたいと思います。
 上に書いたリード文を見てもわかる通り、八田師匠は彼ら「インセル」をトランプ支持者、反フェミニストと関連性があるのだと指摘しています。もっとも、それは当たり前としか言えず*2、また当初(本論の半ば辺りまで)は比較的中立的な書き方がなされ、師匠の「本性」はまだ見えません。
 しかし本論は、中盤辺りから奇怪な主張を始めるのです。
「インセルは、ピックアップアーティストと同じなり」。
 何を言っているのかわからないと思います。
 もちろんぼくにもわかりませんが、このピックアップアーティストとは言ってみれば「ナンパ師」のような存在であるそうです。
 そんな馬鹿な! そもそもインセルはチャドを何よりも憎んでいるではないか!!
 読んでいくとアメリカには、どうもただのナンパ師というよりは「ナンパ術の一流派」として「ピックアップアーティスト運動」と称されるものがある、ということのよう。そしてまたこれの参加者の多くはコミュ障である。まあ、要するにこの運動に参加する者はモテというよりは非モテであり、むしろチャドよりインセルに近い存在である、ということのようです。日本で言えば恋愛工学のようなものなのでしょうか、よく知りませんが。
「インセルの源流はピックアップアーティストである」というのは八田師匠自身ではなく、アメリカの反レイシズムNGOの主張のようなのですが、しかし本論を見る限り、直接の関連があるというわけではなく、「タイプが似ている」というだけのことのようです。「泥棒を捕まえたら貧乏だったから、貧乏人はみな泥棒だ」と言っているのと全く同じ、暴論です。日本で言えば「オタクは全員ペド犯罪者」くらいの偏見ですね。
 もう一つ、このナンパ術の極意はある種、女性の心理を操り、ゲームとして女性を口説くことであるらしく(師匠はこの運動を自己啓発運動に近いものだと説明しているのですが、それはこの運動がある種の女性観を学ぶという性格を持っているからなのでしょう)、そこには女性嫌悪があってけしからぬそうですが、「だから、インセルも同じ女性観を持っているに決まっているのだ!!」と言われても、困ってしまいます。
 当ブログをご愛読の方はおわかりでしょうが、この種の(フェミニズムを援用した)ロジックは、いわゆる普通の男女ジェンダーを基準とする者を、全員――否、その中から自分の嫌いな者たちだけを恣意的にセレクトして――悪者呼ばわりすることのできる、万能理論です。
 そもそもナンパ術がハウツーに特化していけばいくほどゲーム的になるのは当たり前と言えば当たり前だし、そしてまたそのナンパ理論に文句があるのであれば、「自分より上の男性」に性的魅力を感じる女性の「ジェンダー規範」とやらにまず、文句をつけていただくのが順序というものでしょう。ぼくもいわゆる「ナンパの達人」的な人物に話を聞いた時、「口説き文句など言わずとも、顎を突き出して相手を見下ろすだけで女はこちらについてくる」と豪語されたことがあります。
 結局、こうした女性観は「ある種の真実」と言わざるを得ない。もちろんインセルやピックアップアーティスト運動がそれをあまりにも極端に認識している、との可能性はあるでしょう。しかしどっちにせよそれを全否定しようとする師匠たちの方はより偏向しているのではないでしょうか。
 即ち、件の記事はいまだ天動説を唱えるマイノリティである八田師匠が、世間一般の中から弱者をセレクトし、「ネトウヨは地動説支持だ、貧乏人は地動説支持だ」と泣き叫んでいるだけのものなのです。
 件の記事の後半で、八田師匠はさらに不可思議な主張を展開します。
 後半では延々とトランプ批判(否、トランプ支持者批判)が繰り広げられるのですが、彼はそこでこんなことを言うのです。

さて、トランプ支持層はバラバラと言ったが、彼らに全く共通項がないのかと言えばそうでもない。一つの切り口は、「相対的剥奪」(relative deprivation)ではないかと思う。最近のカリフォルニア大学の研究者による研究で、トランプ支持者の特徴の一つとして挙げられていた。
(中略)
ようするに、昇進の有無そのものや絶対的な格差よりも、主観的には「当然」昇進すべきだったのに、実際にはなぜか昇進できなかった、というような相対的な不遇のほうが、深い不満をもたらすのである。



 トランプ支持者と同様、インセルは、「女性は、当然得られるはずのものであったにもかかわらず、得られなかったから許せぬと憤っている存在だ」というのです。
 はて、どういうことでしょう?
 少なくともぼくたちの先代は結婚することが「当然」でした。アメリカの状況は知りませんが、まあ、ぼくたちとそこまで変わっていないはずです。となると、「彼女」を「当然得られるはずのもの」と認識することがそこまでおかしなこととも思えない。しかし、そんな彼らの認識を、八田師匠は絶対に許せぬ不道徳な考えであるかのように言い募ります。オタクの自己承認欲求を満たす作であるから『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』が許せぬと絶叫していたペトロニウス師匠*3を思い出します。

この「当然」には、本来自分が得られるはずだったものを(多くの場合自分よりも劣っているとみなす相手に)不当に奪われた、という感覚も含まれる。

「当然」握るはずだったアメリカという国の主導権を黒人やヒスパニックに奪われる白人、中国やメキシコに仕事を奪われて「当然」得られるはずだった経済的果実を得られなくなった中流層、移民対策や社会保障のせいで「当然」得られるはずだった金を税金として持って行かれる富裕層。



 あー、はいはい。
「自分よりも劣っているとみなす相手」であろうとなかろうと、人間が得られるべきゲインを得られなかった時、不当に感じるのは当然です。上のロジックは富裕層を想定することで誤魔化していますが、実際には下流に転落した中流層にすら、師匠は「不満を感じるとは生意気な!」と言っているも同然なのです。
 彼ら、ホワイトトラッシュやインセルにとって有色人種や女性が「自分よりも劣っているとみなす相手」なのかどうかは疑わしく、むしろ師匠のロジックの正当化のために持ち出された仮定であるようにぼくには思われるのですが、一つだけ言えるのは、「自分よりも劣っているとみなす相手」に「死ね」と言っているのは師匠ではないでしょうか。
 八田師匠はトランプが大統領になったことが悔しくて腹立たしくてならない。
 ならば彼が何故支持を受けたかを考えればいいのに、師匠はそれができない。彼の支持層をあげつらい、「こんな、俺よりも下のヤツのせいで!! 俺の子分となって反トランプ運動の兵隊となるべきなのに、こいつらのせいで!! 貧乏人のくせに!! モテないくせに!!」と絶叫を続けるのみ。
 そう、八田師匠はフレンチとメロンを食べながら下々の者は脱成長せよと絶叫する内田樹師匠の、牛丼の安さは日本型福祉だから若者は幸福であると絶叫する古市憲寿師匠の、オタクはリア充だ、リア充だからリア充なのだと絶叫する海燕師匠の、自分は勝ち逃げしておいてみなで貧しくなろうと絶叫する上野千鶴子師匠のお友だちでした。
 自分たちは十全にゲインを得ておきながら、弱い者に対しては、人間が本来持っている、当然の欲望を全否定する。
 それこそが彼ら彼女らの目的でした。前回記事で指摘したように、彼女らが弱者男性のフェミ批判を「女を宛がえと要求しているのだ」と曲解せずにはおれないのも、それが理由でした。
 フェミニストは、そしてフェミニズムを支持するリベラルは、そうした欲望を否定することを目的とした、「比喩でも何でもない、本物の悪魔」だったのです。
 実は本論は、ニコ生で岡田斗司夫氏も採り挙げていたのですが*4、そこでの彼の評価は、「こうしたものは嫌いなものにレッテルを貼ることを目的としたものであり、あまり好きになれない」といったものでした。岡田氏にここまで言われているのに、オタク左派の連中はいったい、何をやっているのでしょうね。

*2 八田師匠はピックアップアーティストに熱心なトランプ支持者がいるぞとブチ切れていますが、トランプがホワイトトラッシュを救うことをスタンスにしている以上、それは当たり前ですし(そもそも彼が大統領だというのは彼の支持者が多かったということですし)、フェミニズムを積極的に支持する人というのが現代では少数派ということも、師匠にはおわかりにならないのでしょう。
*3「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
*4 #239裏 岡田斗司夫ゼミ(4.21)


■総括編

「マリッジカウンセラー」というのがあります。
 要するに夫婦間の揉めごとを仲裁するのが専門のカウンセラー。
 星新一のアメリカ漫画を紹介したエッセイ『進化した猿たち』では、このマリッジカウンセラーを題材にした漫画に一章が割かれているのですが、その一つにこんなのがありました。夫同伴でやってきた夫人がカウンセラーに延々延々としゃべり、やっと一息ついて曰く。
「以上が私の言い分です。これから夫の言い分を、私が説明しますわ」。
 ――何というか、この「しますわ」という女言葉、今となっては漫画でもお目にかかれず、まさに隔世の感という感じです。しかし、そこまで「女性の女性ジェンダーからの解放」が進んだ今でも、この漫画の面白さは全く損なわれることなく、ぼくたちに伝わってくる。「女性の女性ジェンダーの恣意的運用」はこの頃も今も一切、変わっていないことがよくわかります。
 さて、この漫画を何故、ご紹介したか。
 それはこの漫画が、「ぼくたちの社会」の戯画だからです。
 前回、「男性学」の書である『男性問題から見る現代日本社会』をご紹介しました。同書の主張を一言で表せば、「女性の言い分を、今までご紹介してきました。ついてはこれから、男性側の言い分を、私たち(女性)が説明しましょう」とでもいったものでありました。
 いえ……ややこしいのは、あの本の著者の多くが男性であった点なのですが。
 しかし「男性学」とやらいうガクモンは、ただひたすらにフェミニズムに平身低頭することだけが男の性役割である、と説くものです。即ち、あの本の著者である男性たちは、実際には女性であるフェミニストたちの代弁者に他なりません。
 同書は「(女より)男が損だ」という「ネットに溢れる弱者男性たちの声」をすくい取るという、ある意味、希有なことを目的とした本でした。
 しかしそのすくい取り方自体が、既に男性側からなされている指摘(フェミニズムの欺瞞、例えば女性が男性を養わない以上、女性の社会進出に旨味はないことなど)を全てスルーすることで成り立っているという、言わば「男性側の声に反論するフリをして、実のところ男性側の声を聞いてすらいない」という偏向しきったものでした。そして、そうしたフェミニズムへの批判を全てスルーした後、ひらすらフェミに平身低頭せよと高説がなり立てる――それは上のマリッジカウンセラーを訪れた夫人と、何ら変わるところがありません。
 ここには「男性学」の不誠実さ、「フェミニズム」の思想的ダメさ以上に、重要なポイントが隠れています。
 それは「この世は、先の漫画のマリッジカウンセリングルーム同様、女性だけがしゃべることを許されたしゃべり場である」との事実です。
 これはある意味では、男性ジェンダーに深く根差した、解決しがたい問題でもあります。
 ぼくは拙著で、男性は三人称性の、女性は一人称性の主であると形容し、ワレン・ファレルは「男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった」と指摘しました。これはまた植木不等式氏による『うるさい日本の私』のレビューにあった「男は私的な怒りを発することを許容されない」との指摘とも重なります。
 そして、そうした「ぼくたちの社会のお約束」がインセルを生み出したのです。
 ちょっと前、ドクさべを批判した記事でも書きましたが*5、男は自らの感情を発露することが許されないため、それを抑圧し、蓄積していく。追い込まれ追い込まれ行き場を失った者が、アメリカだと逆切れを起こしてテロに出て、日本だと自殺する。男性の自殺率の高さは、そこが原因でした。
 当記事を読む限り、ぼくはインセルをあまり評価できません。
 しかしそれはあくまで当記事を読む限りであり、それは丁度「夫人が代弁した亭主の言い分」以上のモノではありません。前回記事にも書きましたよね。町山智浩師匠が「メニニズム」について書いていましたが(これもまたインセルとほぼ同じと考えられているものですが)それがどこまでアテになるか疑問であると。
 もちろん、ぼくもここでちょっと手間をかけてインセル自身の発信している情報に触れればいいわけですが(youtubeなどで発言しているようです)、仮にぼくがそれをしてここでご紹介しても、それが「表の社会」に採り挙げられるかとなると、はなはだ疑問としか言いようがない。
 つまり男は、その「男性ジェンダー」の罠に縛られ、自らの声を上げない。仮に例外的に上がった声があっても、世間の方がそれを許さない。その合わせ技で、ぼくたちはただ「悪」として断罪されるしか、なくなっているわけです。
 ――といった辺りがまあ、インセルについてのぼくの私見ということになりますが……さて、実のところ八田師匠の記事には続編とも言うべきものがあります。
 さんざっぱら腐した師匠ですが、何というか、この続編では師匠の目論見が男性たちの苛烈な現実に脆くも崩れ去る……とでもいった想定外の展開を迎えます。
 今回敢えてほとんど言及しなかった本田透――即ち、アメリカの先を行く日本人男性の到達し得た最先端の見識――についての話題も交え、更なる地平へと、あなたをご招待することができるかと思います。

*5 ドクター差別と選ばれし者が(晒し者として)選ばれた件

男性問題から見る現代日本社会

2018-07-27 02:41:12 | 男性学


「女を宛がえ」論というものがあります。
 いえ……よく考えるとありませんでした。
 いや、あるのですが、実際にはありません。
 ない以上、あるというのは嘘ですが、あるとされています。
 すみません、自分でも何を言っているのかわからなくなってきました。
 敢えて言えば、ツイッター上には「女を宛がえ論がある」論というものがあるということです。即ち、フェミ(……とは限らないかもしれません、情緒的な女性論者)が盛んに上のようなことを口にする傾向があるわけです。「弱者男性どもは(国家などが政策として)自分たちに嫁となる女を宛がえなどと要求しているぞ」と。
 しかしこれはぼくがツイッター上を観察する限り、男性側の「女性をいかに社会進出させても、彼女らは主夫を養うことはないのだからリターンはない。ならば主婦に収まってくれる方が万事うまく回る」というロジックを情緒的短絡的希望的に曲解したものであるように思われます。
 つまり「そのように解釈し得る主張はあり、完全にデマとは言い難いものの、冷静な言い方を故意に捻じ曲げて扇情的に表現する、姑息な手段」という感じが否めないのです。否、姑息というよりは彼女らの耳には「本当に、そのように聞こえている」のでしょうがない、のでしょうが。
 そこに加え、ぱんなさんがいつもの露悪趣味で「いや、俺はまさにそう言っているぞ」などと言うものだから余計話がややこしくなった……というのが経緯で、冒頭の混乱はみな、ぱんなさんのせいであります

 さて、本書です。
 まず手に取ると、帯文が目を惹きます。

学校や職場や学校のなかで、女性と比べ「俺たちの方が大変だし、むしろ被害者だ!」と思わず叫んでしまったことってありませんか?


 いや、北朝鮮の次に表現の自由が保障されているこの国で、こんなことを叫んだらセクハラでクビかと思いますが。
 とは言え、ある意味でこの帯文は、今のネット世論的なものをすくい取っているかと思います。
 しかし更に言うならば、「男こそ被害者」という言い方はネットで散見はされますが、それほど多いとも思えない(いわゆる、フェミ寄りの人物が「女叩き」と称するサイトなどにおいてすらも)。むしろこの表現は『男性学』で伊藤公男師匠が(ぼくの著作に対する評として)した表現と一致しており*1、何というか、彼ら彼女らの業界で相手側の主張を情緒的短絡的希望的に曲解した物言いが、「共有」されているのではないかなー、との疑念を強くします。
「男こそ被害者」はむろん、客観的事実には違いないのですが、ある意味、表面的な事象の指摘であり、少なくともネット議論では既に、もっと深いレベルでフェミニズム批判がなされていることでしょう。上の「女を宛がえ」論の「本来の姿」とでも言うべき、「女は主夫を養わないから社会にリターンがない」との指摘も、その一つです。
 そうした批判に対して、一言も返す術を持たないからこそ、彼ら彼女らはこうした表層的な部分だけを採り挙げざるを得ないわけですね。
 それとこれは余談ですが、町山智弘師匠もアメリカには過激な男性解放論「メニニズム」というのがあり、「男に嫁を宛がえ」と主張しているのだと紹介していたことがあります。これも(絶対に嘘とは言えないものの)本人たちの言と言うよりは、敵対者たちの中で「共有」された表現を町山師匠が受け売りしたのでは、との疑念を拭えません。
 結局、表題としては「今風」な問題を掲げつつ、それに全く対応できずにいるのです。言わば彼ら彼女らは「地球の大気圏外から撮影した写真」が既にネットに出回っているのに「地球は平面だ、地球は平面だ」と泣きわめている教会の人、にすぎないのですね。

 ……あ、いや。
 すみません、帯を見ただけで大変な決めつけをしてしまいました
 いずれにせよ、男性たちの不満をすくい取ろうという気概があるだけでも、本書には評価すべき点があるかも知れません。
 では、そうした男性たちの声に、著者たちはどのように答えているのか。
 まずはページを開いて、まえがきを読んでみることにしましょう。

 はじめに――今、なぜ男子・男性を問題にするのか

(中略)
しかし、女性の就業は男性よりももっと不安定な状態に置かれ、男性の非正規職員は二一.八%なのに、女性は五六.七%と半数を超えています。
(中略)
ジェンダーギャップを見ても、日本は世界のなかで一〇一位ときわめて不平等な社会になっています(二〇一五年現在)。
(3p)


 最っっっっっ初のページからこれです。
 はい、解散!!
 ……と、ここで終了でもいいくらいなのですが、まあそうも行きません。
 もう少し続けましょう。

 今、大事なことは、男子・男性が、女子・女性の一定の社会的進出のなかで、男女共同参画社会は「女性中心的な社会」(山本弘之)だとか「女災社会」(兵頭新児)だとか嘆くことではないでしょう。ましてや、自虐的に「オレたちこそが被害者だ!」などと叫んで、女性の社会進出を揶揄したり、女性を敵視したりすることではないでしょう。
(7p)


 ……………。
 自分、涙いいすか?
 何故、上のような考えがダメなのかは、本書の最後まで説明されません。
 もちろん、拙著についてもここだけの言及で、反論はなされません(読んでもいないのでしょう)。
 今度こそ解散したいところですが、まあ、もうちょっとだけ続けましょう。
 今まで、当ブログでは「男性学」と称する本のレビューを続けて来ました。
 彼らは「男性を解放する」と自称しつつ、「とにもかくにも男が悪い」「女の方が差別されており、それを疑うことはまかりならぬ」「フェミニズムに服従することでしか救いは訪れない」とフェミニズムの古びた理論を十年一日のごとくに並べ立てること(で、自己矛盾が生じていることにも気づかず、ただ聖書の朗読を続けること)しかしませんでした。
 本書も見事なそれらのリプレイであり、ページをめくってもめくっても「あぁ、またそれか」以上の感想を抱くことはできませんでした。
 が、まあ、ぶっちゃけブログネタもなく、一応、月に一度は更新しておきたいので、今回ムリヤリ、上のような切り口を見つけたわけです。
 それは即ち、彼ら彼女らが「現状(の、男性の窮状、男性のフェミニズムへの懐疑)に対応しようとして、無惨な失敗を繰り返している」というものです。
 以上のようなワケなので、まあ、もう、オチを言ったも同然なのですが、以下、軽く解説していきたいと思います。

*1 夏休み男性学祭り(その4:『新編 日本のフェミニズム12 男性学』

 本書は六人の書き手が六章をそれぞれ執筆するというスタイル。
 まず第1章は「「ゆれる」男たち――家族相談からみる男性問題」。
 なるべく穏当に感想を述べれば、一応、男の苦しさに寄り添おうという内容ではあります。例えば妻に逃げられた男性などについて、同情的な筆致で書かれているのです。
 が!
 内容はと言えば相変わらず「女を養うのが男だ」といった性別役割意識はよくないと言いつつ、ではどうすればいいのか(男にとって主夫になるなど非現実的な妄想に過ぎないことなど)についてはスルー。ただひたすら現実から目を背けてべき論をあーうー言っているのみなのです。
 第2章は池谷壽夫師匠の「男子は学校で損していないか!?」。先にも挙げた、帯のフレーズ(「男の方が損」)を意識したタイトルなのですが……論調は「男は理系、女は文系というのは思い込みだ」というもの。その理由は「中高には男の教師が多いのが原因(即ち、大人たちが性別役割意識を知らず知らずに刷り込んでいるというおなじみの言説)」などと妄想を開示するのみ。専ら「(男女に性差があるなど)思い込みなのだ」という前提から話が始まっています。とにかくそこが出発地点なので、いつまでたっても同じところをぐるぐるぐるぐる歩き回るしかないのでしょう。
 文系と理系の区別についてはさしたる興味も知識もありませんが、男子が女子よりおベンキョーを頑張らねばならないのは自明であり、それは専ら男子への抑圧でしょう。
 いえ、そのことは池谷師匠も指摘してはいます。

しかも男子は、そんなこと(引用者註・社会に出てからの再チャレンジなど)はできない経済的・社会的状況なのに、今でも「男性は家族を養わねばならない」と女子以上に思い込んでいるので、なおさらいい大学に入り大企業に就職するという一縷の望みにしがみつきます。
(41p)


 まさにその通りです。男の子の不幸を、まさに的確に表現しています。他にも「男子はスクールカーストなどでもヒエラルキーにさらされて可哀想だ(大意)」といった頷ける指摘(女の子にヒエラルキーがないのかとの疑問も浮かびますが、まあそれは置きましょう)も。
 しかし油断していると「「損」の根っこにあるもの」との節タイトルが立ち現れます。
 そら来た、です。
 そもそも日本が男性優位であり、それが揺らいでいる云々とお説教が続き、

「オレたち損だよな」とひがむだけではダメです。
(53p)


 で話が締められます。
 男たちは損だ、働いたら負けかと思っていると、自らの性役割の不利さについて充分理解しているのですから、後は主夫を養わない女が悪い、或いは女性の社会進出を強行したフェミニズムが悪い、そのどちらかの結論しかないはずなのですが、池谷師匠は「男同士で話しあってお互いの意見や違いを認めあおう(大意)」とか何とかいきなり観念論で問題を放り投げて終わり。何が何だかわかりません。
 ――ぼくは以前、『現代のエスプリ』の別冊、『男性受難時代』*2についてご紹介しました。バブル期に編まれたものであり、「牧歌的な時代に書かれた、古文書」とでもいった評をしたかと思います。
 何しろ均等法の施行された直後であり、いつも言う「女の時代」と呼ばれていたフェミバブルの時期です。当時は「女が元気がいい、男がだらしない」と病人のうわごとのように繰り返されてはいましたが、それもある意味では、バブルの余裕のタマモノでした。
 ところが近年、女性も(フェミニズムの成果として)婚期を逃し、元気を喪い、苦しんでおり、本書にはそうした「女性さま幻想」がすっぽりと抜け落ちています。
 確か「フェミニズム」という言葉も本書では一度も出て来ず(もっとも、それは民主党議員が選挙の時、自分の所属を隠したのと同じ理由でしょうが)、ひたすら男性の苦しみばかりが活写され、しかしそれは男のせいだと繰り返すのみの、書き手たちは大満足だろうが、帯に惹かれて買った者の誰一人として納得のできないだろう奇書に、本書はなってしまっているのです。

*2 夏休み男性学祭り(その2:『男性受難時代』)

 第3章は関口久司師匠の「オトコのセクシュアリティが危ない」。
 ここでは男性の性的欲求が低下していること、また経済的弱者の男性が結婚しにくいことなどをデータを挙げて指摘しており(女性への、年収一〇〇万円の二枚目と年収一〇〇〇万円の冴えない中年と、どちらと結婚しますかとの調査で圧倒的に後者が選ばれたとのデータを挙げており、なかなかいいと思いました)、これはまあ「当たり前の事実」であり覆しようがないことで、認めざるを得ないのでしょう。
 ならば女性の社会進出を取り止めて男性が稼ぐようにするか、女性の意識を強引に変えて主夫を養ってもらうしか手がないと思うのですが、「よりよい関係性を作る教育が必要」とか、「レイプやDVに至らないよう、男が配慮しろ」とか書いて終了。女性に対しては何も言うことがないようです。
 また、性教育の取り組むべき課題と称し、「自己中心的な性暴力文化からの解放」が挙げられております。随分とまた、仰々しい物言いですが、要はポルノ否定ですね。ポルノが性暴力の大きな原因であるとぶつなど平常運転なのですが*3、奇妙なのが恋愛や性についての情報を得るメディアについて、

女性ではマンガや雑誌などが多いのに比べ、男性ではネットなどのアダルトビデオ・エロゲーが主流を占めています
(76p)


 と書かれています。
 え~と、これ、何かソースがあるんですかね?
 女性が読む漫画や雑誌もえぐいと思うけど、それらは問題ないんですかね? 後、女性向けエロも(書店などで買わなくて済む)電子書籍や乙女ゲーなどが売り上げを伸ばしているんですが、ドン無視でしょうか?
 そもそもアダルトビデオってネットなんですかね? いや、ネット配信も多いですが。
 エロゲはまあ、ソシャゲ全盛の今となっては「ネット」というのも間違いはないですが、エロメディアとしてそこまでメジャーなんでしょうか?
 非モテ男性を描写した箇所でも

ネット配信のアダルトサイト「エロゲー」などのオタクで、モテないと自覚し恋愛などからの逃避を語った男子大学生の微妙な心理を紹介します。
(61p)


 などと妙な文章があり、これでは「エロゲー」という名のアダルトサイトがあるように読めてしまいます。関口師匠、恐らくこうした文化について何も知らずに書いてるんじゃないでしょうか。
 第4章「生きづらさの根源――ひきこもり問題から考える」では女性の引きこもりもいると念を押しつつも、やはり男性が多く(2:1くらいの割合らしい)、それが男性役割に押しつぶされている故だとの論調。
 南出吉祥師匠による本章はフェミ色が薄く、上の世代が高度経済成長的な根性論で現代の若者を追い詰めているなど、比較的素直に読める箇所が多いのですが、最後の最後にとんでもない爆弾を投下して話が終わります。
 家族以外の仲間とシェアハウスをするなどの試みを挙げ、

 それはとりもなおさず、現代社会に一般化され浸透している男性原理および家族主義圧力を溶かしていくことであり、「男の生きづらさ」を解消していく回路でもあります。
(105p)


 なるほど、「男性解放」のためにはより以上にこの社会を破壊する必要がある。
 それが著者たちの揺らがぬ信念のようです。
「家族主義圧力」が具体的に何を意味しているのかわかりませんが、そんなものはすっかり形骸化していることは、非婚化からも明らかでしょう。
 先に、ぼくはこの本に対して、「現実について行けずに途方に暮れている」的な評を与えました。しかしそれは間違いでした。
 彼らはこの社会の少子化、非婚化、貧困化、男女の不幸を極限にまで推し進め、「計画通り」とほくそ笑んでいる真っ最中であったのです。

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■こんな感じ。声優のアフレコ光景にも見えるぞ!

*3 ただ、師匠が誰相手の性教育を想定しているかはわかりませんが、未成年がポルノを見ちゃいかん、というのは当たり前のことだとは思います。

 第5章は加野泉師匠の「妻はなぜ、夫のがんばりを認められないのか――子育てにおける夫婦の意識ギャップ」。
「自分は育児に参加しているのに妻は認めてくれない」との不満を持つ人物を紹介し、え~と、何かいろいろぐちゃぐちゃ述べて(すんません、もう疲れてきました)、結論は「男は育児しろ(大意)」。男がいかに労働に時間を取られているかについてはほとんど語られません。
 もう、正直、金持ちが「金がありすぎて家が足の踏み場もない」と嘆いているのを横目で眺めながらカップ麺を啜っている気分で、何も言い返す気力が起きません。
 ただ、気になったのは加野師匠が父親の育児参加が重要だ重要だと繰り返していること。それには賛成なのですが、では母子家庭は望ましくないのかと言うと、この人、ものすごく怒るんでしょうなあ。
 終章である第6章は箕輪明子師匠の「男女ともにフツーに生きられる社会――ジェンダーという視点から考える」。
 性別役割分業が戦後強制された、結婚が強制された(「強制」かどうかは置くとして、それらは戦前から普通のことだった気がするのですが、師匠は戦後と書いています)、現代においても男が家事育児に参加するようにはなったものの手伝いレベルに過ぎず、けしからぬ云々とメチャクチャなリクツが続きます。
 5章の加野師匠は「夫の育児参加については手伝いレベルに留めて欲しい、手伝いに留まらず五分五分で取り組んで欲しい、と妻によって要求が違う(ので、どちらを望んでいるのかを汲んで従おう)」と書かれていたのですが、箕輪師匠にかかると手伝いレベルでは許してもらえません。

 男らしさ、女らしさという観念は深刻な被害も生み出してきました。その事例の一つが性暴力です。
(136p)


 そしてジェンダーは社会に作られたものだとの、とっくに論破された虚偽の説を、いまだ本当のことのように語りつづけます。
 師匠は頼まれもしないのに勝手に女を働かせておいて――師匠個人のせいではないでしょうが、フェミニストたちが社会をそうしたことは言うまでもないでしょう――「企業側が過酷な労働を緩和しないから女が大変な目に遭う」と絶叫を続けます。近年のフェミニストたちはしれっとこうした文句を言うようになりましたが、企業社会にしゃしゃり出てきたことが悪いんじゃないのでしょうか。
 いえ、そこを一兆歩譲って不問にしても、じゃあ男たちは今まで大変な搾取に遭ってきたのではないのか、いまだ男たちが育児に労力を割けないことが象徴するように、今も男たちは女たちよりも遙かに凄惨な目に遭っているのではないのか――どう考えたって「男は損」で「男は被害者」以外の結論はないはずですが、箕輪師匠にそうした視点は潔いほどになく、「性別役割分業を見直せ」と絶叫して章は終わります。
 結局、先にも挙げたまえがきにあった「女の就業状況が云々」といった論調が、最後の最後まで透徹され、それだけで本書は終わってしまうわけです。

 いつも言うことですが、「ジェンダーフリーを実践すれば女性差別(も、男性差別)もなくなる、というのは嘘ではありません。「ジェンダーフリーによって性暴力もなくなる」というのも真でしょう。
 しかしそれは、ぼくたちのアイデンティティのコアをなす「男らしさ/女らしさ」を全てリセットするということであり、それが実現した世界では(いや、実現する具体的な方法を彼ら彼女らが語ったことは一度もないのですが)恋愛も、それをテーマにしたあらゆる漫画や映画などの文化も全て、消え果てていると考える他はありません。
 これは、アニメの悪役が「地球の環境を悪化させないためには人類を滅亡させる他ない」と言っているのと同じ、論理的には正しいが、絶対に受け容れることのできない暴論なのです。
 彼ら彼女らは、人類の殲滅を目論む、宇宙から来た侵略者だったのです。
 ――さて、簡単に……と言っていた割には結構な文章量になってしまいましたが、今回はこんなところで。
 本書は男性の窮状と、それに対して一兆年一日のフェミニズムを押しつけるということで、彼ら彼女らの信奉する「オカルト科学」が一切の力を持ち得ないということの証明になっている、極めて良質なガクジュツショ、ということになりましょうか。
 実のところ本書、昨日今日の二日で読了し、ブログ記事も本日一日で書き上げました。
 新書一冊読むのに一ヶ月かけるようなぼくが、です。
 執筆時間の方も最速の新記録です。
 そこからもいかに本書の内容が薄いか、理解できようかと思います。
 何しろ六人もの執筆者がいるのにp159という薄っぺらさ。この薄さで千八百円も取るんだから暴利だよなー。

自分をオタクだと思い込んでいる一般リベは嫌オタク流の夢を見るか

2018-05-04 23:26:55 | 男性学


 C.R.A.C.(旧しばき隊)の野間易通氏、漫画家の田川滋氏の発言がきっかけで、「オタク差別」というもののあるやなしやについてが話題になっております(スマン、政治家、及びアイドルのセクハラ関係のニュースは追ってない)。
 ぼくの理解できる範囲で経緯をまとめれば、まず野間氏が「オタク差別などなかった」旨の発言をし、青識氏辺りと議論になり、「オタクを差別することなど、そもそも不可能。それは豚を差別できないのと同様(大意)」と放言。それに対する「オタクは豚ではなく人間だ(大意)」との反論に、田川氏が横レスする形で「オタクが人間であると証明ができるのか?(大意)」と問いただしてきた、という感じです*1
 え~と、ぼくがまず両氏を「師匠」呼ばわりしていないことを怪訝に思われる方もいらっしゃるかもしれません。togetterでコメントした時「氏」とつけたので何となくそれを継続させているだけなのですが、敢えてそれに理屈をつけるならばこの二人には特別な感情が沸かないというか、何の興味も抱けないので、自然と「氏」をつけてしまったようです。
 正直、二人の言に対して、ぼくは声を荒立てて激昂する気にはなれない。そもそも田川氏の発言の意図はわかりづらく、恐らくは苦し紛れの発言をして、引っ込みがつかなくなっただけなのではと思えます(そういうの、鬼の首と思って得意の絶頂で取りにかかる人もいますが、あんまり自慢になりませんよね)。どうしてそこまで苦し紛れなことを言ってしまったのか、正直それも端から見て理解に苦しむのですが、勘繰るならば(野間氏と田川氏の関係性をぼくは知らないけれども)野間氏を助けようとの義侠心が、田川氏をしてフライングさせてしまった……といったようにも、ぼくには思われます。というのも、見れば見るほどため息が出てしまうほどに、彼らは自らを「極めて清浄な、正常な正義の使徒」と頑なに信じて疑っていないからです。

*1 詳しくは以下のまとめをご覧になってください。他にもいっぱいあるのですが、まあ、代表的なもの、ということで。

「オタク差別など今も昔も存在しない」といういつもの話
オタクが人間であると証明せよ(最近のオタク差別論争の中でのやりとりから抜粋)


 さて、一連の騒ぎの中、藤田直哉氏(SF作家。オタク第一世代と思い込んでいましたが、調べたらアラサーという若さ!)は「オタクはオタク差別云々という前に、女性差別など他の人権問題にセンシティブであるべきだ」といった主旨の発言をしていました。
 もう一つ、新田五郎さん(ぼくの好きな同人作家さん。アラフィフだったと思います)は「やはりオタク差別という言葉はしっくりこない、差別とはもっと深刻な事態に対して付されるべき言葉だろう」といった意見を述べていました。
 この二つの意見は、上の両者のみならず多く聞かれましたし、想像するにわざわざ声を挙げないような人々にこそ共感され得る(即ち、かなり一般的な)意見ではないか……という気が、ぼくにはしています。そしてだからこそ、この二つの意見にこそこの問題の鍵が秘められているのでは……と、ぼくは考えます。
 まず、藤田氏の主張を検討してみましょう。これはもちろん、理論的にはおかしな意見です。例えばものすごく障害者を差別する黒人がいたとして、そのこと自体は厳しく批判されるべきだとしても、だからと言ってその黒人(黒人全体は置くとして、その黒人個人)を差別していいことにはなりません。
 一方、新田さんの意見は「正しい」とは思わないけれども、心情として「共感」を覚えます。少なくともオタクは奴隷にされたり殺されたりはしていないだろうと。ただ、これについても既に「ならば女性も黒人も現代においてはそうした扱いは受けていないだろう」という反論があちこちでなされており(困ったことに山本弘師匠も言ってました)、それは確かにその通りです。
 結局、この藤田氏の意見も新田さんの意見も、「本来の差別」、「真の非差別者」という確固たる存在が前提されており、「オタク」という名の「被差別者」は格下だよ、とまとめてしまうことができるわけです。
 そしてそう考えると、(藤田氏はともかく、新田さんを貶める意図はないので、こう申し上げることにはためらいも覚えるのですが)結局これは野間氏の意見とさほど変わらない。
 事実、野間氏も「オタクは反差別運動を腐すための口実としてのみ、オタク差別とのロジックを持ち出してくる(大意)」と言っていました。これはむろん、事実と全く相違しており、例えば学校でしか会わない友だちを「学校に住んでいるのだ」と考えるような、自分の主観に囚われた幼稚な誤謬なのですが、やはりその「心情」を汲み取るとするならば、誰もがひれ伏すべき「本来の差別」、「本来の非差別者」がそこには前提され、彼は「我こそはそれに寄り添う真の正義の徒なり」との自意識を持っているとしか、言いようがないわけです。いえ、そりゃあしばき隊のトップなのだから、当たり前ではあるのですが。

 しかしこうした考え方は、差別にもランキングがあるのだという価値観が前提されています。即ち彼らは「差別差別」を行っているのです。
 仮に「差別差別」をすることが不当でないとするならば、「オタクだから殺した」と「○○人だから殺した」にはランクがあるというトンデモない理屈にならざるを得ません。逆に例えば「○○人だから殺した」といった事例と「やーい○○人と罵った」事例が、ある種、同列に語られてしまうことにすらなってしまうのです(拙著には山崎浩一氏の著作で「セクハラ」という概念がまさにそうしたツールとなってしまっている、「レイプされた」も「嫌な目つきで見られた」もいっしょくたにしてしまう、との指摘がなされている旨を引用しています)。
 リクツを言うならば、「差別」という言葉の裏にある根本的な価値観は、「途方もなく不当な偏見が社会全般に拭い難くはびこり、それにより大変な理不尽を味わわされている人がいる」というものです。が、そうした偏見が現代の少なくとも日本に成立し得るかとなると、それは疑問というしかない(逆に言うとそうした世界観を前提できる、ある種のバランスを欠いた人こそが「反差別」であると言えるわけですが)。
 先の「セクハラ」について、フェミニズムは「レイプされた」も「嫌な目つきで見られた」も、同じジェンダー規範を根にすることが共通点である、と説明します。さすがにフェミニスト裁判官でも「レイプされた」事件と「嫌な目つきで見られた」事件とを全く同じ量刑で裁いたりはしないだろうが、根は同じだ、というのがフェミの考え方です。
 しかし彼女らが言うような「女性への極めて不当な偏見」が今時残っているかどうかは極めて疑わしいし、それがないからこそ彼女らは「ジェンダーフリー」というジェンダーの全否定を行う以外、手がなくなってしまっているのです。
 結局、ぼくがいつも言っているように、「差別」という概念自体がオワコンなのだ、ということです。少なくとも近代社会においては、例えば「黒人差別」と言った時に想定されるようなラディカルな差別は解体されてしまっている。もう、「差別」は、ないんです。
 だから新田さんのような「差別とはもっと深刻な事態に対して付されるべき言葉だろう」といった意見は、演繹していくと、「そもそももっと深刻な事態」、即ち「差別」はもう、ない、という意見にならざるを得ない。
 実のところこれについては、リベラルが「差別」という言葉を置いて「ヘイト」という言葉を持ち出してきた時点で、彼ら彼女ら自身が自分から認めているようなものなのですが、恐らく野間氏(や、それに同意する田川氏たち、一連の人々)にそう言っても、おそらくご納得いただけないことでしょう。彼ら彼女らは「差別」がまだあることにしないと困る人たちですから。
 しかし、もう一点、押さえておかねばならぬ点があります。
 おわかりでしょう。ぼくがここで「差別はない、ない」と繰り返しても、実は野間氏や田川氏に憤っている青識氏やその支持者たちの方もまた、喜んでくれないであろうことに。
 何となれば彼らもまた、「差別」がまだあることにしないと困る人たちですから。

「オタク差別」(ないし「男性差別」)はあるのだ、という言い分はどうしたって、「既に被差別者と確定した者、及びその取り巻き」に対しての「被差別者仲間に入れてほしい」という要求、「オラたちもご相伴に与らせてケロ」という懇願になるしかないのです。仮に物言いが攻撃的であったとしても、本質はどうしたってそうなるわけです。
 野間氏の言は、実のところ「誰に断ってワシらの島で被差別者ヅラしとるんじゃワレ! 商売したいんやったら、みかじめ料払わんかい、このフリーライダーが!!」との叫びであったのです。
 そして青識氏を始めとする、いわゆる「表現の自由クラスタ」はそう言われても仕方がないのでは……とぼくは考えます。彼らは(そしてまた「男性差別クラスタ」は)結局、「ミソジニーが許されぬのなら同様にミサンドリーも許されぬはずだ」などと主張することが大好きなことからも見て取れるように、「反差別」という理念そのものを疑おうとはしていないのですから。
 ぼくはずっと、そうした彼らのスタンスを無理ゲーであると指摘し続けてきましたが、本件はそれが露わになった象徴的な事例であった、ということが言えましょう。
「男性」とは少なくともフェミニズムの世界観では「差別」の主体、最初から悪者なのですから。その悪者が救われるにはどうすればよいのか……ぼくのブログの愛読者の方はもうご存知のはずです。「メンズリブ」とは「フェミニズムに全面降伏し、男性であることを辞めると宣言すれば女性軍の二軍として生きることをお許しいただける」とのありがたいありがたいお誘いでした。
 以上は「男性差別」についてですが、「オタク差別」も同様です。
「反差別」は「被差別者」という名の「被害者」「弱者」を想定することから成り立っている思想であり、最初っから仮想敵を想定する必要のある思想だったのですから。
 ぼくたちは「オタク/非オタク」という対立構造で世界を認識します。「非リア/リア充」という言葉の流行はその好例です。そうして見れば「オタク被害者論」は、ごく当たり前な、正論であるように思われる。
 しかし本件では野間氏も田川氏もそして藤田氏も、「オタクはまず、被差別者ではなく差別者として存在しているのだ」とのスタンスを崩そうとはしませんでした。その時に開陳されるのがオタクが女性や韓国人などを差別しているのだとの、彼らが抑えがたく抱いている妄想だったのです。先に「障害者を差別する黒人」の例を出しましたが、これは彼ら彼女らにとっては適切な例えではない。何となれば「オタク」は「元から、全員、差別している人」という妄想が、彼ら彼女らの中で前提されているのですから。
 この妄想、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」に実に広範に流布され、しかしいまだ根拠が持ち出されたことが一度もないのですが(ネットにヘイト的な言説が溢れているからだ(キリッというのが根拠であると、彼らはギャグではなく本気で思っているようです)、どうも彼ら彼女らは自分たちの価値観が(当否は置くとして)かなり偏ったものであることに、気づいていないようです。いえ、本当の本当は深層意識下では恐らく気づき、「日本人はどいつもこいつも俺の高説に耳を傾けないネトウヨ!!」と考えている。しかしどうしてもそれを意識の上で認めることができず、「下等なオタクだけが俺たちと異なるのだ」と妄想することで何とか平静を保とうとしている。そんなところが実情である気がします*2
 更に、いつも言うようにオタク業界というのは左派寄りの人々が多いですから、「業界寄りではない市井のオタク」ないし「若いオタク」との意識の食い違いに愕然とし、逆切れ的に「オタクどもはネトウヨだ、レイシストだ!」と絶叫せずにはおれなくなっている。
 彼らの「オタクは人間ではない」発言は、実のところ「我々清浄なるリベラル以外の一般ピープルは人間ではない」という彼らの本音を、「通りがいいように」偽装したモノでした。
 ただ、一つだけ言うと「オタク文化は日本を、いや世界を席巻し、ある種のパワーを持っているが市井のオタクの多くは弱者男性である」というねじれについて、あまりみなさんご理解が及んでいないきらいがあります。だから彼ら彼女ら(萌え絵に憎悪を燃やすフェミニストなども含め)にはそこをわかってほしいと思う反面、オタク側も自分たちが「表現強者」であることについては自覚的であってもいい気はします(ほら、現代社会における権力勾配というのは実に両価的でしょう?)。

*2 もっとも、「確信犯」かと思われる人もいます。例えば東浩紀師匠は「オタクから遠く離れてリターンズ」(『Quick Japan vol.21』所収)において、

 いきなり論壇人みたいになっちゃうけど(笑)、オタクの行動はその意味で、日本社会の醜さを凝縮している。しかし彼らはそれでいいわけ?

 日本の「悪い場所」を一番象徴しているのは、明らかにオタクだよね。



 などと絶叫し、高橋ヨシキもまた、『嫌オタク流』において

 結局、オタクの立脚してるメンタリティって一般人のメンタリティとまったくおなじで、僕はそこに憤りを感じるんですよ。

 そのメンタリティは一般人とまったく同じなんですよ。


 などと泣き叫んでいました。まあ、先に「確信犯」とは書いたものの、恐らく彼らに自分が何を言っているかを理解するだけの知性はないことでしょうが、まあ、要するにそういうことです。


 ともあれ、「反差別」とは漠たる(ホントに実在しているかどうかも疑わしい)「マジョリティ」を仮想して、「何か、そいつらが阿部さんくらい悪い」と思い込むことで成り立っている思想でした。
 何故か。「反差別」を標榜するリベラルの本質がまず、「マジョリティへのカウンター」だからです。そこでは「辺境の弱者」を連れてきて自らの運動の「正義」を根拠づける必要がどうしてもある。それはまた、「組織」の子分に「お前は罪人だ!」とまるでキリスト教みたいなことを放言し、罪悪感を煽り、その心理をコントロールするという手法が有効だったからでもあります。
 そんなわけで今回の野間氏、田川氏の放言は「若手に見捨てられた旧支配者層のファビョり」とまとめてしまうことができます。しかしぼくが青識氏にも諸手を挙げることができないのは、彼ら彼女らが「老害を勇ましくやっつけている割に、実はその脛を齧り続けることについては屈託がない若手」であったからです。それは「ネオリブ」と、久米師匠と、ドクさべと、全く同様に。
 奇しくも……いや、奇しくも何ともないのですが、最後に久米師匠の名前が出てしまいました。
 本稿を読んで「差別がないんなら、男性差別もないというのか?」と言いたい男性差別クラスタの方もいらっしゃるかもしれませんが、本稿は期せずして、前回記事の前段階について語る内容になってしまいました。そちらの方では「差別はない」ことは自明の前提とした上で、「ミサンドリーは大いに、(久米師匠の思う百兆倍くらいは)広範にある。しかしそれをなくせというのではなく、オトコスキーが失われたことこそが重大であるとの問題設定がなされるべきだ」との結論が語られております*3。ご納得できない方は、そちらの方をどうぞお読みください。
 ちなみに「オトコスキー」とはご想像の通りロシア語ですが、「男性性をリスペクトする心理」を指した学術用語であります。野間氏や田川氏の、オタクという(彼らの主観の世界では自分より目下の)存在をここまで憎悪する理由も、この学術用語を導入した今となっては明白ですよね。そう、彼らは圧倒的に「オトコスキー」に恵まれなかったがため、自分より劣ると信じている存在に対しマウントしないと死んでしまうのです。

*3 『広がるミサンドリー』(その3)
 三部作の最後ですが、まあこの際これだけ読んでもわかるのではと思います。