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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

トンデモ本の世界G

2017-11-11 20:27:12 | フェミニズム


 ――さて、続きです。初めての方は前回記事からご覧頂くことを強く推奨します。
 ちなみに本稿では端々に『トンデモ本の世界』シリーズに書かれていた文章のもじりを入れていきたいと思っています。赤文字で書かれた部分はもじり、或いはそのまま転用したものですので*1そういうことで、ヨロシク!(『逆』91p)

*1 引用に付された略号はそれぞれ『世』→『トンデモ本の世界』(文庫版)、『逆』→『トンデモ本の逆襲』(文庫版)、『W』→『トンデモ本の世界W』、『Q』→『トンデモ本の世界Q』(『トンデモ本1999』文庫版)、『99』→『トンデモ超常現象99の真相』、『大』→『トンデモ本の大世界』。

フェミニズムもまなざし村もチンプンカンプン(『世』312p)

 山本弘師匠の発言が徹底的にまずいのは、その無知と、無知を省みない無恥です。
 そしてこのこの特徴は、トンデモさんの根幹を成すものといっていい。
「トンデモ本」というと、反相対論もまた、一つの大きなジャンルです。
 この世の中には「相対性理論など間違いだ」と主張するトンデモ本が、UMAに――いえ、馬に食わせるほど存在します。しかしそんな本の著者は揃って物理に対する知識がなく、勉強すらもしようとはしません。
 山本師匠はそんな一人、コンノケンイチ氏を笑い飛ばします。

 第一に、コンノ氏は宇宙が膨張しているという説を否定する――正確に言うなら、膨張していることが理解できない。
(『世』312p)

 第二に、コンノ氏はブラックホールの存在を否定する――というより、ブラックホールの概念が根本的に理解できない。
(『世』313p)


 呆れたことにコンノ氏は自著の中で、相対論そのものがチンプンカンプンであるとカムアウトしており、師匠もそれにツッコんでいます。

「わからぬものを批判できるわけもないし、資格もない」とわかってるなら、こんな本なんか書かなきゃいいと思うのだが……。
(『世』315p)

 コンノ氏の哲学を要約するなら、「私に理解できないものは間違いだ」ということであろう。理解できないのは自分の勉強不足のせいだとは思いもしないのだ。
(『世』317p)


 当時、コンノ氏のトンチンカンさに対する山本師匠の鋭いツッコミに、ぼくは抱腹絶倒したものですが……残念なことですがその言葉は、全て今の師匠にブーメランとして帰ってきてしまっているのです。
「トンデモさんは、自分に当てはまる言葉で相手を批判する」という法則があるが、山本師匠は自分の主張がまさに自身の発言に当てはまっていることに気づいていない。(『W』35p)
 明らかにアカデミズム側のプロのフェミニストである牟田和恵師匠に、よりにもよって「まなざし村」という辺境で捏造された(何ら意味を持たない)用語を振りかざして釈迦に説法の振る舞いに出る師匠、コンノ氏とどう違うのかが、ぼくにはさっぱりわかりません。
 山本師匠に限らず、多くのフェミニストの信者は、まともな資料調査などやらない。引用するのはもっぱら他の信者によるウィキのページであり、その内容を疑おうとしない。(『逆』339p)

「トンデモ本」というと、ノストラダムス関係もまた、一つの大きなジャンルです。
 が、ここでも「ノストラダムス信者はノストラダムスの言など聞いていない」という現象が見られます。
 ノストラダムスの予言書というのは謎めいた詩で書かれており、どうにでも解釈できるモノ。人類滅亡を預言したとされる詩は


1999年、7の月
空から恐怖の大王が降りてくる
アンゴルモアの大王を蘇らせるために
その前後、マルスは幸福の名の元に支配するだろう



 というものでしたが、「恐怖の大王」と「アンゴルモアの大王」と「マルス」の関係性がはっきりしないし、「その前後」ということは1999年7月の「後」があるとも取れるし、「幸福の名の元に」ということは「マルス」はイイモノではないかとの解釈も成り立つ。どうとでも取れる暗示めいた詩から、「ノストラダムス研究家」を自称するトンデモさんたちが(多くは古フランス語など読めもしないのに)勝手な願望に基づき、「予言」を読み取っているだけのことであり、山本師匠は『トンデモノストラダムス本の世界』のあとがきにおいて「ロールシャッハテストのようなもの」と形容しています。
 日本では1973年、五島勉氏による『ノストラダムスの大予言』という本がベストセラーになり、上の詩は1999年の人類滅亡を予言していると騒がれました。しかし五島氏からして予言書のタイトルを『諸世紀』と訳していますが、これ自体がフランス語を知らないための誤訳で、『百詩編』とでも訳すのが正しい、と言われています。多くの「研究家」はそんな五島氏の本をこそオリジナルであるかのように扱って研究していた……それがノストラダムス騒動の実態でした。
 そう、それはフェミニストの著作など読みもせず、ネット情報だけを元に、彼女らに自らに都合のいい幻影を見て取っていた山本師匠たちフェミ信者と「完全に一致」しているのです。
 味方の言い分すらも聞かないのですから、敵対者の言など全く聞かず、自分の願望ばかりを垂れ流すことは言うまでもありません。ぼくの著作を批判する者たちも、基本、それを読んでなどいません。有村悠師匠など、そう指摘されて「読む必要などないのだ!」と居直ってましたし、山本師匠もぼくと話そうという意志が全くありませんでしたしね。外の情報をシャットアウトし、自分たちの村に引きこもることでしか自分たちの世界観を守りようがないのは、反相対論者もオウム真理教もフェミニスト信者も同じなわけです。
 心地よい嘘に酔っているリベラルは、真実になど耳を傾けないものだ。そうでなけりゃ、フェミニストが今でも平然とリベラルに支持され続けられるわけがない。(『Q』410p)


 いや、とは言え、山本師匠は純粋に知識がなかっただけではないのか。本当にたまたま、生まれて初めて出会ったフェミニストが牟田師匠であったがため、そのような反応をしたのではないか。師匠もフェミニストたちの姿を知ることで正義に目覚め、フェミデバンカーになってくれるのではないか(デバンカーとは「引っぺがす者」。オカルトのインチキを暴く者のことです)。
 それはどうでしょうか。
「トンデモ本」というと、UFO関係もまた、一つの大きなジャンルです。
 何しろアメリカでは、何百万という人間がUFOにアブダクション(誘拐)されているというのですから! 精神科医がカウンセリング中、患者から宇宙人に誘拐された経験談を聞き出す……といったことが、かなり普遍的に起こっているようです。かの有名なUFOアブダクション事件、ヒル夫妻事件もまた、そうでしたね。
 ……もちろん、その記憶が正しいという保証はありませんが。
『トンデモ本の世界T』ではロフタスの『抑圧された記憶の神話』という書籍が紹介されています。ロフタスは被験者に「あなたは子供の頃、迷子になったことがあるのだ」と教えるという実験をしました。結果、被験者たちはそんな経験がないにもかかわらず、極めて容易に「偽の記憶」を思い出したと言います。同様に、例えばですがUFO信者の精神科医が患者をカウンセリングしていて、「ひょっとして宇宙人に誘拐されたのでは」などとちょっと誘導しただけで、患者は容易にそうした記憶を思い出すということが考えられる……いや、「宇宙人によるアブダクションは実際に起きている!」と主張する精神科医にとあるフリーライターが患者を装ってカウンセリングを受けてみたら、露骨な誘導がなされた、という話も実際にあるのです。
 さて……ぼくの著作を読んでくださった方にはもうおわかりでしょう。
 この「アブダクション」と「性的虐待」を、「UFO信者」を「フェミニスト」に入れ替えたらどうなるか?
 そう、カウンセラーが患者に「父親に性的虐待を受けたろう」と誘導する……一時期のアメリカではそうした「記憶回復運動」が大ブームを巻き起こしていました。これにより破壊された家庭は何万にも及ぶとも言われ、フェミニストによる人類史上最大の「女災」こそがこの「偽記憶症候群を利用した性的虐待冤罪」なのです。ロフタスの書は、「迷子の実験」などから「記憶回復運動」に問題があると告発したものでした。
 しかし師匠の文章には、そうした災害を引き起こした主体がフェミニストであったことについては、全く記述がありません。同書にはロフタスがフェミニストたちからの攻撃を受けたことが繰り返し書かれていますし、この運動に関わる者のバイブルとも呼ばれる『生きる勇気と癒す力』は、フェミニストたちが圧倒的な支持を表明しているのですが。
 また、これはと学会の本ではありませんが『検証 大震災の予言・陰謀論』において、山本師匠は阪神大震災において被災地でのレイプが多発したとのデマについて「震災後にレイプが多発した?」という項を設けて述べています。が、フェミニストたちがこのデマを垂れ流し、告発した者に卑劣な攻撃を加え続けたこと*2については華麗にスルーしています(これは荻上チキ師匠の著作にも同じことが言えます)。
 もう疑いはない。山本師匠はフェミニストたちの振る舞いを最初から知っていた。(『99』196p)そして彼女らの反社会性、非論理性、そして男性、いや人間社会への夥しい憎悪を故意に隠し、知らぬフリをしているのです。
 師匠は『トンデモ本の大世界』で以下のようにおっしゃっています。

 なお、イデオロギー論争や歴史論争に踏み込む気はまったくない。僕はどんなイデオロギーも歴史観も信奉しない。僕が信奉するのは「事実」と「論理」である。この二つを踏みにじる者は許せない。
(29ページ)


 しかしここまで見て来ればもう明らかでしょう。師匠はこの世でもっとも「事実」と「論理」を踏みにじり続ける、危険なカルトの重篤な信奉者なのです。
 彼ら「フェミニスト信者」の心理の根源にあるのは、一つには単純な騎士道精神でしょう。しかしそれだけではないように思います。
 前回書いたようにトンデモさんの深層には現世への深い憎悪が潜んでいる。同様にフェミニスト信者の深層にも、ことに「一般的な男性」への深い憎悪が潜んでいるのです。
 いつも言うように、そればかりか本稿を読んだだけでも自明であるように、不当に女性を持ち上げることは同時に、男性を貶めることでもある。
 と学会に対しては、「物事に真摯に取り組んでいる(或いは、場合によっては哀れな)者をいじめるな」といったスタンスで批判してくる人もいます。『トンデモ本の逆襲』にはそうした擁護者に対する師匠の反論も載っています。

 三上氏(引用者註・トンデモさん)の誤りを指摘することが三上氏に対する侮辱になるというのなら、「(引用者註・三上氏が)現代の天文学はすべて間違っている」と主張することは、まじめに研究している世界中の天文学者に対する侮辱になるということもお忘れなく。
(372-373p)


 全くおっしゃる通りです。
 フェミニスト信者には知識だけではなく、モラルが欠如している。彼らは自分のやっていることが邪悪な行為であることを理解できないのだ。(『大』35p)

*2『物語の海、揺れる島』
「エンタのフェミ様!」
 この事例もまた、フェミニズムが何よりもファクトを蔑ろにする思想であるとことを示す一つの例に過ぎません。


いつか実現してほしい本物の戦闘美少女(『世』300p)

 まだ、書かねばならないことはいくつもあるのですが、師匠の病的なフェミ崇拝について、まさに『トンデモ本の世界』に書かれた名文が分析しきっていると思いますので、今回はそれをご紹介して終わりましょう。植木不等式氏による「イルカに乗ったトンデモ」です。実は、前から読み直そうと思いつつなかなか機会が取れなかったのが、今回久々に再読が適いました。
 植木氏は“イルカ研究者”エステル・マイヤーズの雑誌インタビューを引用し、ニューエイジャーたちに蔓延していたイルカ・オカルティズムの特徴を指摘します。

 ひとつめは、イルカやクジラと直接的・非言語的な交流(テレパシーとかチャネリングとか)による深いレベルの精神的交流が可能であるという主張。ふたつめは、彼らが人間にまさる知性と徳性を持っており、そんな彼らとの精神的交流を通じて人間は自らの救いとなるいろいろなメッセージやパワーを受け取れるのだという主張である。
(396p)


 更には以下のような秀逸な指摘も。

 さて、ひょっとしてイルカへの期待というのは、一種のカーゴ信仰の変形としてのUFO話の、さらなる後継者なのではないだろうか。
(404p)


 期せずしてまた、「カーゴ信仰」という言葉が飛び出しました。『水からの伝言』も『人が否定されないルール』もそうですが、これらは言葉をしゃべらない相手を神様に仕立て上げることで、受け取る側が身勝手なメッセージを受け取れるというカラクリがあるわけですね。それは丁度、「どうとでも解釈できるので、自分好みの予言を導き出せる」ノストラダムスの予言詩と全く、同じです。
 この項は、イルカをいじりすぎて怒ったイルカに殺されたイルカ信者の例を引き、「人間に身勝手にヒーリンググッズにされ、イルカは怒っているのだ」との警告を発して終わります。
 山本師匠の、フェミ信者のフェミニストへの感情はまさにイルカ信者のそれです。
 いや、しかし女性は「言葉をしゃべる」点が異なるぞ、との疑問も湧くかも知れません。ましてや、ぼくたちにはピンと来ないですが、かつては「女性はおしゃべり」とよく言われたものですし。
 ですが考えると矛盾はないのです。
 上にも書いたように、彼らフェミ信者はフェミニストの言など聞いていないのですから。
 今の若い人には理解しにくいことだと思うのですが、80年代のオタクは「戦闘美少女」というものに萌えていました。男性性が否定されつつあった時代に男の子として生まれたオタク男子は自らの男性性を「剣を手に、怪物やロボットと戦う美少女」へと仮託していました。彼女らは実質的には「女の子の姿をした男の子」でした。
 翻ってオタク男子とホンモノの女の子たちの間には、大きなディスコミュニケーションが横たわっていました。当たり前ですが、男と女というのは全く違った生物であり、頭でっかちの男の子というのは女の子との接し方がわからない。どう扱っていいかわからない。「ぼくの趣味の話を興味を持って聞いてくれる女の子を友だちにしたい」との気持ちは、ことに理屈屋である山本師匠には強かったことでしょう。彼のお友だちが引き起こした「ガンダム事変」*3が、そうした元・男の子たちの汚らしいルサンチマンが生んだ喜劇であったことは、論を待ちません。
 そんな願望が、「我こそは男性ジェンダーを獲得した者なり」との自己申告をするフェミニストたちへの妄信へと、彼らをして走らせてしまったのです。彼女らを、「ボクの愛する戦闘美少女」であると誤認してしまったのです*4。皮肉なことにフェミニストこそ、あらゆる女性の中でも一番女性性に居直り、その女性性すらも未成熟なままでいる存在なのですが。
 山本師匠(に限らず、フェミ信者)は理屈屋であると述べました。それ故、彼らの言語OSに「女性語」を解する機能は搭載されていません。つまり彼らはフェミの言動に立ち現れる(非)論理性はもちろん、情緒性を一切理解せず、理解できないからこそ、彼女らを崇拝している。フェミ信者の狂信性を見るに、そのようにしか思えないのです。
 そして一方、彼らの狂信性はまた、「フェミニストの女性性の内面化」であるようにも見えます。冷静で知的な人間だとの自己イメージを持っているであろう彼らが、ことフェミニストについては驚くほど非理性的非論理的になる。それは丁度「恋は盲目」とのことわざを連想してしまうほどに。今回の師匠の言動はその好例です。
 彼らは意識的には「知的論理的女性」を求めながら、無意識裡には自らが「非理性的非論理的男性」であることを解放する口実を求めているようにしか思えない。そして、彼らはフェミニストという恋人を得ることで、ようやく「男性性と女性性とを共に持った人間」として完成した。問題はその両方が、極めて幼いことですが……。
「男性は理を、女性は情緒を司り、その両者が一つになることでようやく完全な存在になるのだ」。そうした旧来のジェンダー観に、山本師匠たちフェミ信者は乗っかっている。理屈屋であり男性原理を過度に重んじるからこそ、フェミニストを男性原理の主、「実在する戦闘美少女」であるとのあり得ない幻想に耽り、一方、自覚しないままに自らの情念をフェミニストたちへと仮託している。
 そして――彼らの業界ではそうしたフェミニストたちの寵愛を受けるために、「事実」と「論理」を生け贄に捧げることが、常態化してしまっている。
 そんな風に、ぼくには思われます。
 ずいぶんキツイことを書いてきてしまったが、考えようによっては、山本師匠はとても幸福な人かもしれない。何しろ、アニメの世界から出て来たような彼のことをわかってくれるフェミニストたちからメッセージをもらいながら、ロリコン、巨大美少女、美少女科学者といった、人類の永遠の夢を小説に描き続けているのだ。たとえそれらのフェミニストが実在でなくても、それはそれで、充実した生涯と言えるかもしれない。
 それに、本音を言えば、僕も萌えオタの一人として、戦闘美少女はどうにか実在してほしい、という淡い期待がある。フェミニストでなくても、世界のどこかにいる戦闘美少女が、いつか発見されるのではないか――僕はひそかにそれを期待しているのである。
(『世』300p)


*3「『ガンダム』ファンの女子は少ない気がすると言っただけで政治的論争に組み込まれちゃった件」
「「1stガンダムに女性ファンは少なかったと主張する兵頭新児氏とそれに対する反応」というデマまとめについて」
*4 この世代のオタクの「戦闘美少女」――というか、女性性への信仰心については、『スーパーロボット大戦V』を参照。
 しかし、それにしても、「オタキング」たる岡田斗司夫氏は「俺たちが求めるのは見た目が女、中身が男の女だが、俺たちの周りにいるのは見た目が男、中身が女の女ばかりだ」と言っていたことがあります。そういう一種の諦念を持っている彼こそがモテていることが、全ての答えであると言えますね。


トンデモ本の世界F

2017-11-03 01:27:30 | フェミニズム


 どうも、ブログの更新が滞っております。
 ここしばらく多忙であったせいもあるのですが、正直、気の乗らないテーマで筆が鈍っていた、という側面もあります。しかしいつまでも放置しているわけにも行きません。
 というわけで今回のテーマはこれです。

 平成トンデモ人物列伝

 と学会の元会長は論理を解さない

 山本弘(心はいつも十五歳)
 トンデモ度―★★★★★
 危険度―――★★★★★
 独創度―――
 有名度―――★★★★★


 基本的に、ぼくは「と学会」の著作のファンでした。
 懐疑主義的にオカルトを楽しむという方法論を広く世に知らしめたのは間違いなく本会ですし、その功績は決して小さくない(近年のテレビのオカルトの採り挙げ方って、完全にそうですもんね)。
 もう一つ、SF大会での催しを発祥とする本会は、ずっと「オタクの一団」という性格を持ち、またそれを対外的にアピールしてきた。オウム真理教を「悪のオタク」と形容していいかはわかりませんが、下手をすればそう解釈され、世間でオタクバッシングが始まりかねない時期に、カウンターとしての「正義のオタク」の役割を果たすことで、本会は世間に認知された、と言えましょう。90年代、彼らはオタクが市民権を得るために、大いに貢献してくれたのです。
 それ以上にぼく自身、本会にそれなりに大きな影響を受けています。本ブログの主旨自体が「トンデモ本にツッコミを入れる」ものであると言えなくもないですし、文体もまた、今にして思えば影響を受けていると感じます。
 その意味で、ぼくも本会に対する批判は余りしたくはないのですが……とは言え、最近、目に余る行動を取る人も多い。クララ・キィン師匠や原田実師匠のトンデモさんぶりは今までも指摘してきましたが*1、本稿では本会の総大将、長らく会長を務めてきた山本弘師匠を俎上に上げねばなりません。
 山本さん、『トンデモ本の世界』の頃はけっこう好きだったんだけどな……原田実と同じく、遠いところに行ってしまったような気がする。ぐすん。(『世』220p)
 え~と、ちなみに本稿では端々に『トンデモ本の世界』シリーズに書かれていた文章のもじりを入れていきたいと思っています。赤文字で書かれた部分はもじり、或いはそのまま転用したものですので*2そういうことで、ヨロシク!(『逆』91p)

*1 原田実師匠は「ガンダム事変(*9参照)」の時に加野瀬未友の方に分があるとの旨の発言をしたことがあります。たまりかねてメールで事情をご説明したのですが、お返事はいただけませんでした。
また、彼は『正論』で執筆していたのですが「フェミニズムを批判する」との編集部の意向に反発し、執筆を降りたと述懐していたこともあり、フェミニズムに対して妄信を抱いているようです。
それ故(と言うべきか、にもかかわらず、と言うべきか)彼はピル神の重篤な信者であり、彼女の「碧志摩メグバッシングの元凶はフェミニストではなく武田邦彦氏だ」とのデマを真に受けていたこともあります。これらを見る限り、彼は文献を読解する能力が根本的に欠落しているとしか判断のしようがないのですが、そんな人が偽史の研究なんてやって、大丈夫なんでしょうか……。
クララ・キイン師匠については、伊藤文学が小学生の子供とのセックスを推奨していることを指摘したところ、「彼に近い人と知りあいなので確認を取ってみる」との返答をいただいたことがあります。が、とんと返事がなく、どうしたのだろうとツイッターアカウントを確認してみると、見事にブロックされておりましたw
「都合の悪いファクトはシャットアウトする」。それがと学会の本質のようです。
*2 引用に付された略号はそれぞれ『世』→『トンデモ本の世界』(文庫版)、『逆』→『トンデモ本の逆襲』(文庫版)、『R』→『トンデモ本の世界R』、『と学会年間ORANGE』→『年』。


・フェミニズムは全ての人に優しい世界を作る運動


 山本弘師匠については、今までも思うところはありました。
 科学についての発言は恐らく信頼できるだろうし、本人もいわゆる悪人ではなく、善人だろう。ただしその正義感は、それこそ15歳レベルの生硬で薄っぺらなもの、ある意味では年配の人間が「オタク」と聞いてイメージする、「人間的な厚みのない頭でっかちな学級委員長」そのままの人だなあ……といった辺りが、ぼくの彼についてのイメージでした。それは「と学会」の本を読んでいても時々顔を出すものではありますが、本稿ではそこまでツッコミを入れている余裕がありません。先を急ぎましょう。
 ここしばらく、多分この一年くらい、山本師匠は幾度かtwitterやtogetterでぼくに絡んできました。申し訳ないけれども大変幼稚なものばかりで、こちらも反論したのだけれども、この人、言いっ放しで対話はしないのですな。
 その集大成とも言えるのが、ぼくがまとめた「出産で死ぬ確率は二万人に一人」でのことです。詳細は読んでいただきたいのですが、どじんさんが「出産で死ぬ確率は二万人に一人」という数字を出し、「大変であることは認めるが、命懸けというほどのものではない」との指摘をしたところ、女性陣からの情緒的なバッシングに遭ってしまった、というもの。ぼくがそれをまとめ、私見を述べたところ、山本師匠が攻撃を加えてきたのです。
「と学会元会長」の英雄的な山本弘像を知る者であるならば、例えば「二万人に一人」といった数字に対してデータを示して冷静な反論を加える姿を夢想したくなります。が、大変残念なことに師匠はひたすらヒステリックにこちらを罵り、情緒的に女性側に寄り添い、また、自分が妻の出産に立ち会った体験を絶対視し、振り回すばかりでした。いえ、数字も出してきたには出してきたのですが、それが「百年前は命懸けでした」という文脈上、何ら意味を持たないもの。そしてまた、相手の上げる数字に対しては「数字しか見ないとは許せぬ」という、支離滅裂なことを言い出す始末。
 他にも、山本師匠の「反論」のほとんどは、文脈的に間違っているか、道義的に間違っているか、論理的におかしいかのどれかである。仮にも懐疑主義者が、こんなお粗末な発想と貧弱な論理でコメントができるというのは、驚くべきことである。(『R』171p)
 ぼくも「二万人に一人」といった数字そのものは過度に一人歩きさせるべきではないが、一つの参考とすべき云々と、それなりに抑制をした書き方をしたつもりですが、残念なことに師匠はフルスロットルで、完全にリミッターが解除されてしまっていました。これを読む限り、師匠は論理的思考をする能力が一切なく、自らの感情に振り回され愚かな言動を軽率に繰り返す人、以上の評価のしようがありません。
 そして更に、しばらく前の山本師匠のツイートに、ぼくは本当に呆れ返ってしまいました。

すごいなあ。「ジェンダー研究者」を名乗る人が、ツイッターでだいぶ前から話題になってる「まなざし村」界隈のことを何も知らないらしいよ。
山本弘 (@hirorin0015)2017年7月15日


 驚くなかれ、この発言は牟田和恵師匠に対してのモノです。
 何というか……もう、いくら何でも、こりゃアカンやろとしか、言いようがありません。
 逆転の発想、と言うべきだろうか。山本師匠にとっては、脳内のフェミニズムこそが絶対の真実であり、脳内フェミと現実のフェミニストの発言が合わない場合、事実のほうが修正されてしまうのだ。(『世』266p)
 これに対して猛然と戦いを挑んだのが、誉れ高いチンポ騎士の面々です。

 フェミニズムの専門家に対して、仲間内の造語を振り回して無知を嘲るのか。度胸あるなぁ。さすが「心はいつも15歳」の人だ。
デビルトラックさん (@deviltruck2010)2017年7月15日

「まなざし村」なんてツイッターのごく小さな界隈で使われる侮蔑的なスラングに過ぎないんだけど、それを一般的な知識として「ジェンダー研究者を名乗る人がまなざし村も知らないのかw」みたいなマウンティングを始めてしまう山本弘さんを見て、SNSのやり過ぎによる視野狭窄の恐ろしさを改めて知る
シュナムル‏ @chounamoul 7月16日

これは前にも書いたけど、仮にも一つの学問領域について入門書すら読まずに「天文学ってのは要するに宇宙人を見つける学問ですね」「原子力工学って原爆作るためのものでしょ?」などと言ったら失笑では済まない侮辱だと思うんだが、フェミニズムに関してだけはそういう無礼がまかり通るんだよなあ。
瀬川深@チューバはうたう・ゲノムの国の恋 (@segawashin) 2017年7月17日



 チンポ騎士たちの言は誠にご明察という他なく、他に補足することはありません(山本師匠、シュナムル師匠に反論しているのですが、それがまたシッチャカメッチャカなもので仰天しました)。
 いや、しかし、それにしても、敢えていうならば、これで「まなざし村」という言葉が、「フェミニスト/ズム」を延命させるためだけにこの世に存在するものであるということがまたも、証明されたのではないでしょうか。
 それともう一つ。この騒動で自分に乱暴な言葉を投げつける人がいたのに対し、師匠は以下のように返しています。

僕はフェミニズムというものを、この世界がすべての人にとって優しい世界になることを目指すための運動のひとつと理解してるんだけど、でも、こういうことを平気で言う人がいるんだね……。
山本弘 (@hirorin0015)2017年7月17日


 これって、完全にトンデモさんの言ですよね。本当、ヤバいカルトの勧誘そのままです。仮にですが、と学会の例会で師匠の言を紹介したら、会員からは以下のような声が漏れ聞こえてきそうです。

「あーあ」
「もう、帰ってこない」
「もう帰れない」
(『年』167p)

 異常なまでの自己イメージの高さはフェミニストたちの特徴であり、それへの妄賛ぶり(妄賛という言葉は今、ぼくが考えました)はフェミ信者の特徴ですが、同時にこれはオカルト系の人たちの特徴でもあります。
 それは例えば、「トンデモ本」の一大ジャンルである「終末本」を見ていくと明確になります。「人類は滅亡する!」系の本を読んでいると、カタストロフの後には往々にして、(生き残った自分たちによる)素晴らしい新文明が築かれるとされるのですが、こうした本に通底音として流れているのは現世に対する深い憎悪、それとは裏腹な「愛の使者」としての自己イメージです。
『トンデモ本の世界R』は丁度、2000年問題が騒がれ、それに絡めて人類滅亡の危機を謳う「終末本」が数多く出ていた頃に出版された本です。ここで師匠は紫藤甲子男『2000年5月全世界は壊滅する!!』を採り挙げ、舌鋒鋭く批判します。

 何とも恐ろしい予言だが、紫藤氏の文章にはそれを恐れている様子はない。それどころか、苦しみながら死んでゆく何億という人々に対する憐れみなど、みじんも感じられない。なぜなら、現在の世界が滅び、神の国が到来するのは、紫藤氏にとって喜ばしいことだからだ。
 紫藤氏によれば、世界が滅びた後、神の国に入れるのは、闘争心や競争心を捨てた「高度に洗練された感情の持ち主」だけだという。当然、自分もその一人だと思っているのだろう。
(117p)


 これはトンデモ本には共通の特徴です。何しろこれの前項で紹介されている『2000年問題 日本壊滅』もそっくり同じ(カタストロフの発生、その後の愛と調和と平等に満ちた理想郷の到来)構造を持っているのですから*3
 そしてこれら「徹底した社会への憎悪と、そんな自分の感情に全く無自覚な愛の戦士としての自己イメージ」は言うまでもなく、フェミニストやその信者の特徴でもあります*4
「ジェンダー」という人類の根本をなす原理がリセットされ、今までそれに依拠していた者たちは滅びる。しかしそれのためにワリを食っていた人々が報われる社会が到来する。フェミニズムはそうしたカーゴ信仰だったのです。
 90年代初頭にフェミニストが「セクハラ」という概念を導入した頃のことについて、幾度か述べました。その時には意外や意外、オッサン向けの週刊誌などではフェミニストの主張へのかなり盛んな反論がなされていたのです*5。一般的なマスコミがフェミニストの言いなりになったのはこれのもうちょっと後、彼女らが「ジェンダー」とか言い出した頃からでした。「ジェンダーフリー」という空想的観念的非現実的な革命思想が、彼らはいたくお気に召したようで、それにベットしてしまったのです*6。それは丁度、紫藤氏の著作を真に受け、カタストロフが来るのを待ち構えるのと何ら変わりはありません。
 近日もぼくは「ホモ擁護者はオタク差別者である傾向が強い」という指摘をしましたが*7、要は「我こそは人権主義者なり」との声高な主張には結局、「本人に自覚されないおぞましいヘイト」が隠れていることが大変に多い、ということなのです。
 ――というわけで、まだ予定の半分も消化していないのですが、既に結構な文字数を使ってしまいました。
 続きはまた、来週に取っておくことにしましょう。

*3 こうした現世への深いルサンチマンから、彼らはこの社会から手痛い目に遭ってきた人々であると想像できます。そこを見ず生硬な道徳観で悪だと断じる山本師匠に、ぼくは当時からいささかの不快感を感じてきました。
 が、フェミニストというのはこうした人たちよりも、もっと卑劣で悪逆無道であると断ずることができます。何となれば彼女らにも現世へのルサンチマンがあることは変わらないものの、同時に彼女らは女性ジェンダーの旨味の上にどっかりと胡座を掻き、それを棄てる気は(理解に苦しみますが、ジェンダーフリー社会が到来した後も当然のごとく)さらさらないとしか思えない、身勝手極まりない人たちであるからです。
*4 本当に一例ですが、同じエッセイで殺された女性に同情してみせると共に、息子を去勢したいなどと書いてみせる石坂啓師匠などはその代表ですね。
*5「『ポルノウォッチング』ウォッチング」など。
*6 むろん、この頃ソ連がなくなった、ということも一つの原因として考えられましょう。事実、UFO信者というのも共産主義崩れが多いそうです。
 しかし、「ジェンダー」という何とはなしに学術的な響き、そしてLGBTという弱者を矢面に立たせる戦略が当たったことが一番大きいのではないか、というのがぼくの感想です。この時期に「男性学」と称するフェミ奴隷のススメが流行ったことも、同じ理由によるモノだったのではないでしょうか。
*7「ドラがたり とよ史とチンの騎士」

コビト

2017-04-28 19:35:43 | フェミニズム


 星新一については、前にも「宇宙の男たち」という作品についてご紹介しました。
 その知名度に反して真価が理解されているとは言い難い作家の、あまり知名度のない作品についてすくい上げることができたと思っております。
 それに比べ、本作は殊にネットの世界では有名な作なのですが……。



 ご存じない方は是非上をごらんになっていただきたいのですが、大体のあらすじを記しておくと、以下のような感じです。
 ネタバレされたくない方は、お読みにならないようにお願いします(なお、以降太字は小説の原文の引用部分です)。


 小さなサーカス小屋で、コビトのショーが行われていた。
 身長20cmほどの、本物のコビト。
 ショーと言っても曲芸をするでもなく、座長がただコビトをいじめるというだけの残忍なもの。
 すぐに問題になるが、座長はコビトを自分の所有物と言って譲らない。コビトもまた、ここで働かせてもらえなければ飢え死にだと状況を甘受している。
 人々はことを裁判に訴えた。
 しかし座長は孤軍奮闘、詭弁を弄し裁判費用を都合し、最終裁判所まで持ち込むが、当然そこでも敗訴。
 ついにコビトは我々と同じ人権、選挙権なども持った存在として認められた。 
 と、その次の瞬間、コビトが勝ち鬨を上げる。
「かつてなら力も武器もない我々は問答無用で一掃されていたことだろうが、時代は変わった」。
 各地で一斉におびただしい数のコビトが姿を現した。
 ここに至れれば、流血もなく合法的にコビトが地上を支配するのは、もはや時間の問題にすぎない。


 僅か5pの、ショートショートの中でも更に超短編。
 その中に極めて優れた寓意が圧縮されています。
 ネット上では外国人参政権に絡めて語られることが多く、上の動画もまた、保守派のグループによって作られています*1
 ――が。
 ぼくは最近、本作をトランプ現象と共に思い出したのです――と書くと、みなさんいかが思われるでしょうか。
 まずは、もうちょっと詳しく本作を分析していきましょう。
 星新一が本作にいかなる風刺意図を込めたかは、判然としません。
 そもそもが現在の視点からは「コビト」という言葉自体が「ヤバい」ものであり、ミゼットプロレスをつい、連想してしまいますが、本作が書かれたのは1968年。まだ「コビト」そのものにヤバさはなかったはずです*2
 設定に「コビト」が採用されたのは、言うまでもなく「弱者性」を表現するためと、ラストのどんでん返しで「わらわらと湧いて出てくる」場面を連想させたいがためでしょう。事実、コビトは前半ではオドオドとした卑屈な態度を取り続けますし、また、動画ではコビトがすごく可愛く描かれ、大変効果を上げています。
 逆に座長は実に憎々しげに描かれ、更にはコビトを助けようと奮闘する人々をト書きで「問題にすることで快感を味わう同好の士」、その活動を「だれもが、リンカーンや清水の次郎長、慈悲ぶかい王妃さまなどになったような気分になれる。」と極めて突き放して描いています。敢えて反感を覚えるような書き方をすることで、読者を逆にコビト側に肩入れするように、リードしているわけですね。
 これを外国人参政権そのものと結びつけることがどこまで妥当かはわかりませんが、「移民」の問題が描かれていると見ることは容易にできます。
 また、先にも書いたコビトの弱者性はまさに「女災」の理念と合致する、「被害者とされる者の発揮する加害者性」そのものでしょう。その意味で、この「コビト」を女性そのもののメタファーと見て取ることも、不可能ではありません。均等法前後のフェミバブルは、まさにぼくたちにとっっては「コビト」であったはずです。
 が、これは星新一作品全体に通底する特徴なのですが、あまりにもフラットでスペキュレイティブな作風が、すぐさま「○○が元ネタ」との「認定」をすることを拒絶するのです。
 例えばですが、このコビトは何故、地底からわらわらと出て来たのでしょうか。
 当時はSFブームの最盛期で、『ウルトラセブン』では毎週、いろいろな宇宙人が地球の侵略を目論んでいた頃です。ホンネを現したコビトがUFO――否、「空飛ぶ円盤」――を呼び、「我々は○○星人だ」と宣言するオチも、考えられたはずです。
 そう、或いは特撮オタクであればここで、「ノンマルトの使者」を思い出したかも知れません。これは『セブン』の中でも名作にして異色作と呼ばれる話で、「海底人のノンマルトが攻めてくるが、彼らは自分たちこそが原地球人で、今の地球人こそ自分たちを海底に追いやった侵略者だ」と主張する話です。
 これは(異説もありますが)どうしたって当時の「原日本人説」の影響を思わせます。「ノンマルト――」の脚本家とは別人ですが、『セブン』でも執筆していた佐々木守はホームドラマでも、また別な特撮作品『アイアンキング』でも「原日本人説」を扱っておりました。
 つまり、当時のそうした流れを鑑みるに、地底から現れた「コビト」はまた違ったニュアンスで解釈されていた可能性も大いにあるわけです。何しろ、星新一の祖父である人類学者・小金井良精がアイヌ人原日本人説を提唱していましたし、時代は下りますが『ズッコケ山賊修行中』でもまさに土ぐも一族が地底に潜んでいましたよね。

*1 ここでも外国人参政権に絡めた解釈がなされていますが、作品そのものは極めて原作に忠実に(言い回しなどは変えてはいるものの、イデオロギーにあわせた改変などはせず)映像化されています。
*2 本文中に「小人型チョコレート」という言葉が出て来ますが、当時はコビトチョコレートというブランドが存在しており、それが意識されていたことは想像に難くありません。


 ともあれ、そうした本作のフラットさ(換言するならば、どのようにも解釈しうる優れた寓話性)を確認した上で、もう一度、内容に検討を加えてみましょう。
 コビトは「かつてなら問答無用で一掃されていたろうから、時代が変わるまで長い時間雌伏していた」と語ります。
 つまり、何よりも「民主主義」こそが彼らの勝因であったのです。
 大体わかってきたのではないでしょうか。
 ここに着目した時、本作は「移民」の物語とも「女性」の物語とも(或いは「原日本人」の物語とも)取れると同時に、トランプ現象の話にもなり得るのです。
 本作において、確かにコビトは「敵」「異邦人」として描かれてはいます。
 が、そこにひとまず目をつぶれば、コビトは「男性」に見えてくるのではないでしょうか。
 ぼくたちは「コビト」です。「居ないことにされていた人々」です。
 リベラル寄りの人々は「女性」であるとか「セクシャルマイノリティ」であるとかを「居なかったことにされていた」と称し、そうした人たちを担ぐことが大好きですが、じつはそうした人たちは、「ずっといた」。
 オカマなどすらも別に、いないことにはされていませんでした。もちろん、一般的な社会で彼らが語られる文脈は、彼らにとっての望む形ではなかったにせよ。
 その、彼ら彼女らに付されていたネガティブなレッテルが「PC」という裏技で全部ポジティブなものにひっくり返った。それが、ここ数十年の動向であったはずです。
 フェミニストは「歴史」は英語で「history」、即ち「his story」だ、などと言います。近年、有村悠師匠が真顔でこう言っていた時は頭がクラクラしました
 が、それはそうではありません。
 ぼくたちはずっと、「心の参政権」を剥奪され続けて来たのですから。
 このことをファレルは

男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった、男性が司令官になったのは守れという命令のためだったこと。


 と評し、ぼくは男性心理の「三人称性」と形容しました。
 もっと言うと「選挙」だの何だの「政治」そのものが(ホントは違うんですが)天下国家を語る、男の「三人称性」を強化させるシステムに他ならなかったわけです。
 だが、しかし、にもかかわらず、あまりにも蔑ろにされ続けて来た「ホワイトトラッシュ」という名の「コビト」が初めて味方を得た、というのがトランプ現象だったはずです。
 そして言うまでもなく、日本においても近いことが起こっています。
 そう、オタクが権利意識に目覚めるなどの傾向です。
 ぼくたちはフェミニズムによって「家庭」も「男性としてのアイデンティティ」も奪われました。しかしだからこそ逆説的に、「正義のために」とか「貧しい人のために」ではなく、「俺のために」行動することに目覚めてしまいました。これもホワイトトラッシュ同様、全てを奪われたが故の立ち振る舞いでしょう。
 むろん、ぼくの「表現の自由クラスタ」の政治活動に対する評価は高くありません。彼らのボスがフェミニストの手先であることは、幾度も指摘してきました。本来であれば男性対女性、或いは人類対フェミニストという対立構造で捉えるべき問題を、彼らは非実在フェミニストを次々と生み出して、妄想社会学の世界に押し留め続けているのですから。
(トランプのやり方について、ぼくには興味も知識もありませんが、ホワイトトラッシュと移民の対立構造で事態を捉えていること、それ自体は正しいのではないでしょうか)
 だから、彼ら彼女らに乗っかっている限り、「オタク」という名の「コビト」の無血革命は成功することは、ないでしょう。
 ぼくたちが「コビト」になったということは、ぼくたちが「女性」であるとか「セクシャルマイノリティ」とかに対する後ろめたさを失ったことを意味します。
 ぼくは「表現の自由クラスタ」はフェミニズムをわかっていない、フェミニズムが「女性が男性に圧倒的絶対的に搾取されているのだ」との現状認識を大前提としていることを、彼らは全く理解していない、と指摘し続けて来ました。
 それは以前にも指摘した、「オタクをセクシャルマイノリティであると強弁し、失敗する姿」、或いは「ペドファイルをLGBTの仲間に入れてもらおうとして、失敗する姿」が象徴しています。彼らはフェミニズムの前提を取っ払ったがため、後ろめたさを持たない、フラットな人権観の主ですが(そしてここまでは正しいのですが)しかる後にフェミニズムにすがろうと考え、フェミニズムを妄信し続ける。その理由が、ぼくには全くわかりません。
 そもそも現実を見る能力が一切ない人たちなのだから、何ら不思議はないと考えるのが正しいのかも知れません。しかし敢えて理由を考えるならば、彼らが「上を見て、我々にパンを」方式の考え方しか教えられていないからかも知れません。自民党を倒せばオタク差別も男性差別もなくなるという摩訶不思議な考えは、「オタクセクマイ論」「ペドファイルLGBTに入れろ論」とワンセットですよね。
 ですが、それにしても、ほとほと、「表現の自由」という切り口を持ち出したことが、彼らの敗因であったと思います。
「俺のために」行動することを、彼らは肯定してしまったのですから。
 そうなっては彼ら彼女らのしがみついている旧時代の強者/弱者観が古びた者であるということが、明らかになってしまうのですから。
 しかし、いずれにせよ、先人であるフェミニストたちのようにこの国のリソースをを食いつぶすだけのやり方では、ジリ貧です。
 何となれば、ぼくたちは何億という数で多数決の勝利を収めた「コビト」、即ちマジョリティなのだから。
 敢えてここで、作品としての「コビト」の続編を考えるとしたら、コビトたちが国のリソースを食いつぶし、寄生主を巻き添えにして共倒れ……とそんなストーリーしか、浮かばないのです。


宮台真司が妄想とデマの糞フェミ擁護!'2017 みんなー!宮台師匠の布教が始まるよー!

2017-03-19 22:45:58 | フェミニズム
 ここしばらく、ぼくがずっとピル師匠、多摩湖師匠を案じていたことは、皆さんご存じかと思います――などと書いて、頷いてくださる方がどれくらいいらっしゃるでしょうか。
2016年女災10大ニュース」などでぼくは彼女らを「面白半分にバラエティ番組で担がれた、田舎のラーメン屋」であると形容しました。というのも、表現の自由クラスタは「ポルノに寛容なフェミニストがいるのだ、いるのだ」と絶叫しつつ、その「真のフェミ」の具体例を提示できずにいた。そこに渡りに舟で出現したのがピル師匠、多摩湖師匠であったと言える。
 しかしよく考えれば、元から彼らのガールフレンドたちには担ぐにふさわしい、社会的地位や知名度、何よりもオタクリテラシーを持った腐女子フェミニストが大勢いらっしゃったのです*1。彼らが今に至るまで彼女らを担がないのがどうにも不自然であり、いざとなったら切り捨てられるおばさんたちをわざわざ探し出してきたのだろうとの想像が、そうした不安の根拠となっておりました。それは丁度、「オタク界のトップ」やサブカルがオタクを特攻要員くらいにしか思っていないのではないかとの不安と、全く同じに。
 そしてまたここしばらく、ぼくがずっとツイッターレディース、まなざし村を案じていたことも、皆さんご存じかと思います――などと書いて、頷いてくださる方がどれくらいいらっしゃるでしょうか。
 というのも、社会的地位のあるフェミストたちと彼女らには、主張も品性もほとんど差異がないにも関わらず、表現の自由クラスタの彼女らへの憎悪は半端ない。彼らは彼女らを、お姫様に対して感じた不満を代わりにぶつける存在として選んでいることは、端から見れば自明だからです。幾度も指摘することですが、彼らが彼女らを好き放題に叩いているのは、彼女らが何ら後ろ盾を持たない個人だから、という面が大きいことは、どうしたって否定できないのです。
 いずれにせよ、両者とも表現の自由クラスタに選ばれたスケープゴートである、というのがぼくの見立てであり、そうなると、彼女らの未来がどうなるかも明らかです。
『人造人間キカイダー』に出てくる悪の組織が失敗した戦闘員を処刑するシーンが、ふと思い出されます。「首領様、お許しを!」「チャンスを! もう一度チャンスをお与えください!!」と哀願する戦闘員たちがプレス機で押しつぶされ、廃棄処分にされてしまうシーンはぼくの心に深いトラウマとなって残っています。
 大変に、恐ろしいですね。
 ところが最近、よりにもよって、宮台真司師匠がピル教に入信してしまったのを知って*2、上の推理は修正を余儀なくされてしまったのです。考えてみれば確かに、表現の自由クラスタたちのピル神に対する崇拝心は天然であったようにも思います。「利用して捨てる気だ」などというのはいささか、彼らの知性に対する過剰評価だったかも知れません。
 しかし更に困ったことに、よりにもよって宮台師匠は上野千鶴子師匠を「ラディカルフェミニスト」と断言してしまいました。表現の自由クラスタの皆さんはこれからも安らかに呼吸ができるのだろうかと思ったのですが、こちらの心配をよそに、気にしている方はどこにもいらっしゃらない様子。そもそもが上野師匠のデタラメ極まる著作を自分たちの都合のいいように解釈し、ピル神が「おっぱい募金」に反対したことも一切気に留めない方々です*3。彼らの信仰心は「事実」などによって、いささかたりとも揺るぎはしません
 どうぞ長生きなさって下さい。

 ――さて、ところで、しかし。
 上のまとめで宮台師匠が「糞フェミ」などと罵倒しているのは、アンチポルノ運動をしているフェミニストのようです。そうしたフェミを、本稿では略して「アンポルフェミ」と呼称しましょう。もちろんポルノを認めるフェミなどいないのですが、これはあくまで便宜上のものです。
 さて、確かに宮台師匠はずっとアンポルフェミたちともめておりました。ぼくもよく知らないのですが、「実際の強姦を記録した」との疑いのあるAVについて宮台師匠が擁護した、という(確かもう、十年以上前の)ことで執拗に「粘着」されていたという経緯があったかと思います。
 正直、ぼくはこの問題にあまり立ち入ろうとは思いません。フェミニストのことだから無理矢理な文句を言っているんだろうな……といった感想は抱きますが、実際に悪質なAVもあるわけで、まあ、細かい査定は当事者同士でやっていただくしかない。少なくとも宮台師匠もまた重篤なフェミ信者である以上、冷静な判断力があるとは思えない(ことは、今回の入信騒動で思い知らされました)。どっちが勝とうと知ったことかという気にしかなりません。ノイホイ氏や鳥越氏の件についてあんまり舌鋒荒げる気になれなかったのと、同様な理由です。
 が、いずれにせよこの「糞フェミ」が「ツイッターレディース」やら「まなざし村」やら「ツイフェミ」やらと同様の恣意的で幼稚なレッテルであり、宮台師匠の行いは上野師匠たちを「まだ、話せるフェミニスト」として延命させようとするだけの行為であることは、言うまでもないところです。

 ところで、実は最近他にも、AVにまつわるフェミ同士のバトルがありました。
 田中美津師匠がAVについて語った記事に、アンポルフェミが噛みついていたのです。
 田中師匠と言えば、上野師匠の師匠に当たるようなフェミニストの中の大師匠。フェミニズムが「時流を解さない」ことをテーマにしているだけあって、記事のずれっぷりはハンパありませんが*4、同時にこの中で、

やりたくないと言いながら結局、AV出演契約をしてしまう人というのは、そういう深いところで倒錯した自己肯定感を持ちながら仕事をしているのではないでしょうか。数百本も出演して「強要だった」と訴えた人を「何を今さら?」と非難する人もいますが、そういう心の病があることを分かっていないと理解できませんよ。


 と、女優側を擁護しつつも「強要」に懐疑的な見方を示していて、それにアンポルフェミが噛みついた、という一幕があったのです(ちなみにこの箇所は抗議を受け、現時点では削除されてしまっています)。
 むろん、常識的に考えれば、田中師匠の方がまだしも正しいことでしょう。
 しかし同時に、女性の側の主体的な判断すらも「ジェンダー規範の刷り込みがあったのだ」として否定してきたのがフェミニズムです。
『部長、その恋愛はセクハラです!』を読むと、「セクハラかどうか、女性にもよくわからないので、その時点で合意があっても後づけでセクハラだと思ったのなら、それを尊重せよ」などとものすごいことが書いてあります*5。
 そして大変残念なことに、この主張は「真のフェミニスト」であらせられるはずの上野師匠からも発せられ、同書に引用されたものなのです。
 そう、女性に主体は認められない。
 その時に何を言っていようが、本人は自分が何を言っているのかもよくわかっていない。
 だから、女性の発言や主張は後から自在に撤回する権利を与えよ。
 それがフェミニズムなのです。
 アンポルフェミを憎む正義の味方たちは彼女らを「女性の主体性を認めない」と罵っておりましたが、上野師匠こそがそれだったのですね。
 あ、いや……逆に「女性は発言の責任を持たなくていい」という前提を導入すれば、やはり彼女らは正しいのか……?
 なるほど、田中師匠の判断は間違っていてまなざし村こそが正しいことが、そしてまたぼくの指摘は間違っていてピル神を崇拝する表現の自由クラスタや宮台師匠こそが正しいことが明らかになりました。
 めでたしめでたし。

 ――終わってしまいました。
 もう少し続けましょう。
「女に主体など認めてはならんのだ」とは、一体どこまで非人間的な主張なのかと思いますが、しかしこの問題、よく考えればセクハラ問題ともジェンダーフリー(即ち、ジェンダー規範は男にすり込まれたのだとするフェミの妄想)とも全く同じ構造を持っていることが、おわかりになるのではないでしょうか。何しろジェンダーフリーこそ、「あらゆる人間が主体的判断だと信じ切っているそれは、実はジェンダー規範に操られてのものであり、正されねばならない」という、人類史上最大の人権無視の思想なのですから。
 全く途方もない考えで、呆れる他はない……と言いたいところですが、実のところぼくは女性のメンタリティを考えた時、それは実は、ある種のリアルをすくい取っていると言えるのではないか、と思うのです。
 例えば、昭和時代のアイドルの決まり文句に「私は興味がなかったけど、友人が(オーディションに)応募した」というのがあります。もちろん、そのアイドルを清純に見せたい事務所によって作られた「設定」という側面もあることでしょうが、「自分から能動的にことに及んだわけではない、しかしあまりに可愛いので相手側から求められたのだ」という物語は女性にとって何よりも切実に希求する、この世で一番大切なものでしょう。
 AV女優というのは90年代の頃から「芸能人志望」、つまりそのステップとしてAVに出演しているのだと称するのがお約束でしたが、これも上に近しい心理が働いているわけです*6。そうした発言について、

 1.バカだから騙されている
 2.わかった上で、ある種の見栄として芸能人志望と称している

 といった「分析」が可能ですが、恐らく本人の中で上のいずれかの心理状態にあるというわけではなく、この二つが不可分に混ざりあっている。その上でAV界でちやほやされることで芸能人なりたい欲はほぼ満たされている、とでもいったことになるのではないでしょうか。
 こうした曖昧さは「AV女優は主体性を持って、自らの意志でAVに出演しているのだ」としたくてたまらない表現の自由クラスタ(及び、リベサーの姫型フェミニスト)の主張とは極めて親和性が悪い。
 しかし、人間心理がそんなに明確にくっきりはっきりとしたものである、という考え方こそ、フィクションではないか、とも思います。

 精神科医の木村敏教授は「人間」とは「人の間」なり、みたいなことを言っています。
「主体」とは「人と人の間」にこそあるのだ。
 A君とB君が食事に行った。「何を食う?」と、ああでもないこうでもないと話しあっている間にいつの間にかカレー屋に入っていた。場合によってはどちらかが強力なリーダーシップを取ることもあり、また両者の思惑がぴたりと一致することもあろうが、少なくとも日本においては「何とはなしのその場の空気」によりメニューが決定することが多いのではないか。言わば「人と人の間」こそが主導権を握っている。
 まあ、そんな論法です。
 何しろ何十年も前に読んだことを記憶で書いているので、厳密さには欠けますが、アウトラインは間違っていないと思います。
 日本人の人間関係は受けと受けしか存在しない、腐女子が泣いて悲しむBLであり、「強固な、毅然とした主体的自我」などといったものは「西欧文明」の生み出したフィクションであり、そんなものは存在しないのだというわけですね。この考え方にはそれなりの説得力があると同時に、男性よりは女性に、より当てはまるのではとの印象を持ちます。
 つまり、この木村教授の理論を前提した時、「AV出演を強制されたのだ、仮に自らの意志で出演しますとの契約書が残っていても」というアンポルフェミの言い分にややリアリティが増し、一方、AVに賛成するフリをしているリベサー姫がデートの時に男の子から教えてもらった「近代的自我」を前提とした物言いが、やや不利になる。
 そうなると、必然的に上の『部長、その恋愛は――』などにおける「女は自分が何を言っているのかもわかってないから男たち、とにかく責任を取れ」といった言いがかりが浮上してきてしまう。
 しかし、当たり前のことですが、女性に主体というものを認めないのなら、男性にだって主体はなく、責任能力はないとしないことには平等ではない。
 いえ、『部長、その恋愛は――』が平然と出版されているという事実は、そうした平等の原則など歯牙にもかけず、男だけが無制限無条件無思考で全責任を負え、とのコンセンサスがこの世に根づいていることの表れでもあります(実のところ「チンポ騎士団」とは、フェミニズムに平身低頭すれば自分たちだけはそうした「女子力」の恩恵に与れるのだ、との宗教運動でした)。
 確かに、この状況で男女平等を導入すれば社会は完全に立ち行かなくなり、全人類がやったあらゆる悪行の全てが「何か、安倍さんのせい」みたいなわけのわからないロジックが横行するディストピアしか成立し得なくなる。
 そう、どう考えても詰んでいる、わけです。
 将来的に、「近代的自我」というフィクションには限界があるのだということが明らかになった時、それを超克する社会パラダイムやら何やらかんやらを見出す必要に迫られるのかも知れませんが、今、パラダイムという言葉もよくわからずに書いているぼくレベルの手には余る話です。
 ひとまず、AV出演強制問題に立ち戻りましょう。
 パラダイムはともかく、今ここでこの問題にうまい具合に対応するには、もう少し女性のメンタリティの曖昧な性質に肉薄するノウハウを確立し、うまく手綱を握るしかない。
 もっとも、そうした性質は現代の価値観からはあまりポジティブな評価を下し得ないものでしょう。そこをまあ、何とか当たり障りのない形で現実にソフトランディングする知恵が、ぼくたちには求められます。
 現代の社会は(フィクションだろうと何だろうと)近代的西洋的自我というものの上に成り立っているのだし、女性ももう少し努力することで多少なりともそこに適応していただく他は、ありません。
 いずれにせよ、その時にはフェミニストたちの曖昧模糊としたデタラメな言動を「兵器利用」しようとするだけのリベラルのやり方は、「女災」として厳に戒められることになりましょう。
 彼ら彼女らの未来は暗いようです。

■補遺■

 実は本稿の「人の間」に近しい論法が、ピル神の信徒の口からも聞かれました。
 丁度このテキストを書いている最中だったので驚きましたが、フェミニズムがそもそも、こうしたロジックであったことは上に書かれている通りです。
 彼女らの言い分はぼくが上でしている「ならば男性側もあらゆることから免責されなければならないし、そんなことは非現実的な空論だ」との指摘を全く織り込まないものでした。それでは自分が不利になった時にだけ、ちゃぶ台返しをしてもいいという身勝手な言い分にすぎません(しかしそもそも、ジェンダーフリーもこれと全く同様のグレートリセットであり、ポストモンダンクラスタの言い分って、基本、この程度のものなんですね)。
 実はピル神がおっぱい募金を否定していることを指摘された時の言い訳もこれと同様の論法であり、いずれにせよこの種の「自己決定能力あるかどうかわからない論」を持ち出せば持ち出すほど、彼ら彼女らはアンポルフェミに限りなく近づいていくのですが、どういうわけか、それには全く気づいていらっしゃらないご様子です。
 とにかくあの人たちはロジックを「自分の都合にあわせて倒すべき敵にだけ好きな時に好きなようにぶつけていいどくさいスイッチ」としか思っていないのですね。

*1 そうした腐女子フェミが「ポルノに寛容」なのは一応、事実です。しかしそれはリベサーの姫として場当たり的に言っているだけだということもまた、幾度も指摘してきた通りです。例えば藤本由香里師匠がドウォーキンの「全てのセックスは強姦」との主張を肯定的に引用するなどしていて、彼女らが「ポルノに寛容」というスタンスとフェミニズムの理論をどう止揚しているのか、全くの不明なのですから。
*2 「宮台真司首都大学東京教授、ネット上で流れている自称フェミの誹謗中傷のデマを否定する
宮台真司氏による、日本的フェミニズムの「妄想のホメオスタシス」批判
宮台真司が妄想とデマの糞フェミ退治!'2017 みんなー!宮台先生の授業が始まるよー!
*3 「おっぱい募金への反対論者との議論」。
 ちなみに上の「宮台真司氏による、日本的フェミニズムの「妄想のホメオスタシス」批判」ではピル神の言い訳と、それについてのぼくのツッコミが記されています。こうしてみても表現の自由クラスタは一切、ポルノを守る気がないことがよくわかりますね。
*4 「AV問題 男の力誇示にNO「女性のための作品を」
 BLがどうのといったツッコミはここではしませんが、考えると田中師匠が静かに主張を取り下げたことと、同様なずれっぷりを示した駒崎師匠があれだけ炎上したこととは、極めて対照的です。駒崎師匠が炎上した理由、それは彼を叩いているのがKTBアニキのそれと同様、「チンポ騎士」の地位を狙って彼を羨む層が主であった点にあります。「ツイフェミ」の反対語は「プロチンポ騎士」であり、彼らは「チンポ騎士」志願者から狂ったような憎悪を向けられる運命にあるのですね。
*5 兵頭新児の女災対策的読書「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)
*6 「女性たちは主体的にAVに出演しているわけではない」とのロジックに対する反証として、昨今ではAV女優たちが自主的に、嬉々として立ち上げているブログやツイッターなどが挙げられましょう。が、同時に、引退した彼女らが以前のブログを消し、「やりたくてやっていたのではなかった」と手のひらを返す現象も恐らく日常的に見られているはずです。AVマニアというのはそういうのに「粘着」したりはしないものなのか、ちょっと疑問ではあります……などと書いていたら、出て来ました。
「AV女優の手のひら返しに戸惑い…」AV出演を“強要”したとされる男たちが、ついに重い口を開いた
 彼らも商売ですから、黙ってはいないことでしょう。

KTBアニキを含め全てのフェミニストは、バッドフェミニストである

2016-12-16 22:12:11 | フェミニズム
 冬休みまんがまつり 予告編
 マジンガーY対暗黒フェミ将軍

 冬休み、女災対策的随想がよい子の皆さんに贈る長編漫画映画『マジンガーY対暗黒フェミ将軍』。
 ドクターKTBを凌ぐフェミ王国の支配者、暗黒フェミ将軍率いる七つの軍団。
 その魔の手は全世界を震え上がらせた。
 ロンドン。
 パリ。
 ニューヨーク!!
 そしてモスクワ。
 世界の都市は壊滅的な打撃を受けた。
 残るはマジンガーYの守る東京だけだ。
 だが七つの軍団は強い。実に強い。
 女災理論で身を固めるマジンガーYも砕け、溶け、或いは裂ける。
 強い。実に強い!
 暗黒フェミ将軍率いるバドフェミ獣軍団。
 危うしマジンガーY、頑張れマジンガーY!!

 ――というわけで以前、当ブログでも著作を紹介した、KTBアニキが話題となっています(すみません、ニコブロで本記事をうpしてからこちらに再掲載するまで半年ほどかかってしまいました。かなり以前の話題です)……が、本稿はそれがテーマではありません(ちょっとだけ絡めるのでガマンして読んでください)。
 KTBアニキに関しては、まあ以前から疑いは持たれてはいたものの、要するに「JKの制服を性的に見る文化は許せぬ」と言っておきながら、かつては「JKの制服大好き」と語っていた、現行不一致だと責められているようです。もっともご当人がおっしゃる通り、「かつてはそうだったが正義に目覚めたのだ」とのストーリーには一貫性があり、それだけでアニキを責める気には、ぼくにはあまりなれません。
 またツイッター民が騒ぐ通り彼が「オフパコ」とやらのために「フェミニズム」を政治利用していたとして、それって「表現の自由クラスタ」とどこが違うのか、ぼくにはわかりません。彼らに唱和して投石する気になれないのは、そういう理由もあるからなのですが、それは置くとして、本題です。

 黒人フェミニスト、ロクサーヌ・ゲイ師匠による、「バッドフェミニスト」という概念を提唱した記事が話題になっています*1。

 私の好きな色はピンクです。ファッションマガジンを読んでかわいい物を見るのも好きです。『The Bachelor』やロマンティック・コメディを観たり、おとぎ話が現実になるようなばかげた幻想も抱いています。


 他の全てのフェミニストのマニフェスト同様、「本人は革新的だと信じて疑わないが、新しさが微塵もない」聞き飽きた宣言です。
 ゲイ師匠はまた、ポルノ的なラップが大好きだともカムアウトしています。

 たとえその歌詞が女性を貶めるようなものでも、それが私の核心をつくのです。イン・ヤン・ツインズの名曲『Salt Shaker』はマジでヤバいです。

「濡れたTシャツで動かせビッチ お前のアレが痛くなるまで振り続けろ」


「フェミニズムの主流に反する、悪いフェミニズム」というのが彼女の自己規定ですが、「ピンク」や「ロマンチック・コメディ」などを楽しみつつ「男たちが押しつけたジェンダー規範はけしからぬ」というのは平仄にあいませんし(女性に「ピンクを着ろ」と強制する男性は稀なはずですが、ジェンダー論とはそこを「いや実は強制があるのだ」と強弁するために生まれた疑似科学でした)、ふざけたことに彼女はこのようにも言っています。

 男性的な仕事なんてまったくやりたくないと思っています。

家事も含めてですが、虫を殺したり、ゴミを捨てたり、芝を刈ったり、車のメンテナンスをしたり。1つもやりたくありません



 汚れ仕事、危険な仕事、大変な仕事は男性がやらねばならないようです。それで、男女の収入格差については許すまじ、とでもおっしゃるおつもりでしょうか。指摘するのも面倒ですが、こんなの単なるいいとこ取りでしかありません。
 これに共感した日本のフェミニスト、七海師匠の発言が、togetterでもまとめられておりました*2。

正しいフェミニストには、「男に奢って欲しい」とか「結婚したら専業主婦になりたい」なんて、言っちゃいけないような空気があるっていうね。男は「専業主夫にしろ」「女が俺を養え」って言いたい放題なのにね。女はどうしても『良い子』を演じなきゃ同性からも受け入れられないんだなあっていう

「専業主婦になると離婚した時困るから仕事は続けなきゃ駄目』とか『男に奢らせると付け上がるから割り勘にしなきゃ駄目』とか、そういう『正しい』ことしか言えない空気があるよねっていう


 身勝手もいい加減にしろという以外の感想が、湧きようがありませんね。
 そしてまたバッドフェミニズムは「白人上流、中流階級」以外の女性にも目を向けるのだそうです。
 いや……そもそも「白人上流、中流階級」以外にも目を向けようという動きは、フェミニズム内部でも大昔からあったはずです(ブラックフェミニズムなど)。ゲイ師匠は「セクシャルマイノリティにも目を向ける」と得意げに言っていますが、フェミがセクシャルマイノリティと癒着してからも、かなりの年月が経っているはずです。
 七海師匠の発言でもわかる通り、フェミニストは「客観的事実」を認識する能力において絶望的なまでの欠落を抱えているのですが、それにしても……としか言いようがありません。

*1「私はピンクが好きな悪いフェミニスト」完璧さを求めがちなフェミニズム運動に対する、一人の女性からの提案
*2 バッドフェミニストという概念が素晴らし過ぎた

 ゲイ師匠の発言を見ていくと、「フェミニストたちの評判が悪いこと」へのグチがだらだらだらだらと並べ立てられています。

 私が若い頃、10代や20代の頃は、フェミニストに関する変な考え方を持っていました。気難しくて、怒りっぽく、男嫌いで、セックスも嫌いな女性。それが悪い女性だと思っていたのです。

 多くの女性が、特に革新的で産業のリーダーである女性は、フェミニストというレッテルを貼られることを恐れています。彼女たちは立ち上がり、「そうです。私はフェミニストです」と言うことを恐れています。


 若い頃の彼女の考え方の方が正しいし、それこそがフェミニズムが受け容れられない理由のような気がするのですが……。
 こうしてみると、「バッドフェミニスト」には、フェミニストたちの軟化政策という側面がありそうです。イスラム教が豚肉食を許容するからウチヘ来て来て、と言ってるような。しかし、(豚肉食には宗教の根幹に触れるタブー性はないと多分、思うのですが)「バッドフェミニスト」はそもそもフェミニズムの根幹を否定してしまっている。
 そこに何ら疑問を感じていない辺りがもう、「お察し」という他ないのではないでしょうか。

 しかし七海師匠は、これにいたく感服なさっています。

 私はピンクが好きな悪いフェミニスト。堂々とこう名乗れる女性はロックでかっこいい

 ピンクが好きでも、王子様を夢見ても、少女漫画のドSイケメンが好きでもいいんだよ。そんなフェミニストがいてもいい、って力強く言えるような空気は日本にはないのでアメリカや韓国が羨ましいと思った


 どう考えても身勝手で幼稚な駄々を、「ロックでかっこいい」と信じきるのはフェミニスト共通の特徴ですが、七海師匠の中ではそれなりの「情緒的整合性」があるのでしょう。
 ぼくがいつも言及する、80年代後半から90年代前半にかけてのフェミバブル。その当時に出ていたフェミ雑誌『ニュー・フェミニズム・レビュー』のVol.3「ポルノグラフィー」特集号を読むと、そうそうたるフェミニストたちの「レイプポルノ大好き」というカムアウトが並んでいてクラクラ来ます。

私はふだんバカな男をキューダンするようなことを言ってるくせに、残念ながらセックスに関しては定番どおりの「横暴な男にいじめられる女」というパターンが、けっこう好きです。
「女をモノ扱い」するのもいいなー。
「強姦ごっこ」も「リョージョク」されるのも「縛られる」のもいいなー。

なぜなら私がレディース誌に典型的であるとしてとりあげようと思っていたパターン――たとえば男の強い眼光に射すくめられ、抗いながらも魅かれていく自分をどうすることもできない、とか、何らかの事情で抵抗できない状況に追いこまれて処女を奪われ、徐々に官能そのものの存在に作りかえられていく、とか、あるいは縛られて身動きできない状態で男に好きなようにいたぶられる、といったパターンそれ自体が、実は、私自身大好きなパターンでもあることに気がついてしまったのだから。


 前者は石坂啓師匠、後者は藤本由香里師匠の発言です。
 石坂師匠って男性向けポルノを(ご自分で仰せの通り)否定なさっていたんですけどね。
 藤本師匠は皆さんご存知であろう腐女子フェミニストであり、ポルノに比較的鷹揚なのですが、同時に著作ではドウォーキンの「すべてのセックスはレイプである」とのロジックを肯定的に引用してもいます*3。
 しかし、これとて驚くには値しません。これらバブル期におけるフェミニストというのは、内田春菊的「女流エロ漫画家」と同じ位置にいたと思われるからなのです。
 彼女らはただ単に「エゴイズム丸出しな女が男を小馬鹿にする」以上に特に取り立てて何ら特徴のない愚作にエロをまぶしただけのものを連発しては、「性を赤裸々に語る作家」としてギョーカイ人から神のように崇め奉られていました
 他に例を挙げるならば、『男性受難時代』でもご紹介した(そして、当時馬に喰わせるほどに溢れていた)「女子大生座談会」や、やはり女流エロ漫画家の近似種と言える女流コラムニストの低クオリティなコラムなども同様と言えましょう。
 今ではすっかりなかったことになっていますが、バブル期は「男勝りで攻撃的で優秀で美貌の、そして男たちを挑発するエロい女たち」がこの日本に大量発生しているという「設定」になっており、女流エロ漫画家もフェミニストも同様な「薄さ」でギョーカイに受け容れられていたのです(今のオタ論壇の中枢にいるリベラル君たちが非現実的なフェミ崇拝をしている理由も、一つにはこの時のトラウマにあるかと思われます)。上野千鶴子師匠がまさにそのような売り出し方をして、吉本隆明に「娼婦だ」と言われていたことが思い出されますね。
 即ち、「バッドフェミニズム」はどう考えてもこの三十年、(少なくとも日本においては)主流であり続けていたのであり、彼女の言はそうした三十年をスルーすることでしか、成立し得ないものなのです。
 ゲイ師匠の発言は、ここ三十年の流れを無視した「自分が見えてない」ものではありますが、同時に「とうとう居直って、自分たちのエゴイズムを言語化した」という意味あいを持っていました。
 これからフェミニストたちはいよいよ居直り、いいとこ取りを図々しく要求していく、その皮切りが本件だったのでは、というのがぼくの感想です。

*3 『快楽電流』

 それともう一つ。
「バッドフェミニスト」とは上にもあるように「ポルノを認めてくれるフェミニスト」です。いえ、恐らく実際には、身勝手極まる主観的判断で「自分に快いポルノ(具体的には責めがイケメンである)」以外は女性差別であるとの論法を持ち出すことは、今から想像できてしまいますが、「表現の自由クラスタ」が持ち上げる「リベラルフェミニスト」であるはずのピル師匠も「おっぱい募金」を否定なさっているのですから、同じことです。
 となると「表現の自由クラスタ」はバッドフェミニストを称揚しないことには、平仄にあいません。果たして彼らは、どのように反応していくのでしょう。これ幸いとバッドフェミニストに乗っかるのでしょうか(先のまとめを見る限り、否定的な人がいるので、そう決めつけるわけではありませんが)。
 となるといよいよ、KTBアニキを論難できる者は少なくなる。
 ゲイ師匠も、KTBアニキも表現の自由クラスタもピル師匠も、鳥越さんを支持したフェミニストたちも、みな同じく「バッドフェミニスト」です。
 自分のエゴとフェミニズムを論理矛盾も顧みずに「魔獣錬成」して「ぼくのかんがえたさいきょうのふぇみにすと」を生み出している、と言う点ではみな、同じなのですから。
 彼ら彼女らはみな、「バドフェミ正機説」の前に救済される。
 救済されないのは、「免フェミ符」を購入しなかった者だけ。
 そしてこれからもフェミは「手形売り屋さん」として、未来永劫栄えるのでした。
 めでたしめでたし。

■補遺■
 先にも書いた通り、本稿、書いてからこちらにうpするまで随分時間が経ってしまいました。
 最初に掲載したニコブロの方の記事、ピル師匠もお読みくださったのですが、彼女もまたバッドフェミニズムに首肯なさっておりました。
 めでたしめでたし。