北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第185回 北京・霊佑胡同 皇帝!! それはあんまりでしょ。

2018-04-10 13:42:48 | 北京・胡同散策
霊佑胡同(LingyouHutong/リンヨウフートン)。



この胡同の名前を見たり聞いたりすると、胸がときめく。
のちに触れるように、この胡同の歴史には中国歴代皇帝の中でも、ある意味あまりにも人間臭
い皇帝が関係しているからなのですが、その皇帝の人間臭さ、その凄まじいまでの退廃ぶりが
放つ黒い輝きの魅力といったら、こちらの平凡な頭がくらくらっとするほどです。


当日は、永安路沿いにある南出入口から歩き始めました。



昨年の春ごろから、この界隈の胡同も改修、改築が始まり、この胡同の出入口付近も現在は
住んでいる方もなく、ただひっそりとした建物の形骸だけが改築の行われるのを待っている
といった様子です。



さて、この胡同は、明の時代、この胡同内に“霊佑宮”という道観つまり道教の寺院があった
ことに由来しますが、この道観は初め十方道院といい、その規模たるやいたって小さなもので
あったようです。



その道観も、明の万暦三十年(1602)には規模も大きくなり、名前も真武廟と改名。



そして、真武廟と改名されてから、およそ10年後の万暦四十一年(1613)、太監すなわち宦官の魏
学顔によってさらに土地も拓かれ、高閣大殿も造営され、しかも、なんと、当時の皇帝神宗万暦帝
(在位1572-1620)から、めでたくも「護国霊佑宮」の名称を賜っています。霊佑宮という名が地
名として使われるようになったのはこの時から。



その後、清、中華民国、新中国とこの名は引き継がれていくのですが、清の康煕帝(在位1661ー
1722)の時代には、内城東華門外の灯市が一時霊佑宮のそばに移され、ここ霊佑宮は灯市で賑わっ
たこともあるとか。





なお、1937年前後には当時の警察局の占有地となり、1949年の解放後にも警察関係の施設が置かれ、
宗教施設として本来の働きはしていなかったようです。残念ながら、今はもう取り壊され、その姿を
見ることはできません。現在の霊佑胡同になるのは、1965年の地名整理時からでした。


ひと気のない建物の間を抜けると、お店が並んでいました。



こちらは「上海時装」という、しゃれた名前のファッション関係のお店です。



ちょっと覗いてみました。



どうやら、こちらは仕立て直しなどを専らとするお店。

ミシンを前に作業中の社長さん。



カメラに向かって終始笑顔のサービス精神旺盛な社長さん。でも、体はたえず動かしていて、
その動きにはまったく無駄というものがありません。さすがプロだな。店の中にお客さんから
依頼されたたくさんの衣服が所狭しと天井から下がっていたのも、納得。



お店を出ると、また、あった。



こちらは「京源家電」という家電の修理屋さん。
修理用工具をお手入れ中の社長さん。





この社長さんには、道案内もまかせなさーい。



そこで、わたしもついて行くことに。





ところで、勤勉で貯蓄倹約につとめること、それはごく一般的に言って美徳のひとつですが、その
度合いや方向性に誤りがあると美徳変じて悪徳となり、その主体が一国の経営者である皇帝であっ
たりした場合、その国の存亡にもかかわる重大事となってしまいます。



先に明の万暦帝神宗の名をあげましが、ある歴史家によりますとこの皇帝は、希代の吝嗇漢、貪財漢
であったとのこと。



たとえば、何か理由を見つけては、我欲を満たす、ただそれだけのために国庫の金を取り上げ、その
反対に戦費をどうひねり出したらよいのか困り果てている財政当局にはびた一文ださなかったり、罪
ある宦官が皇帝に賄賂を贈れば金に目がくらんで、その罪をおおらかにも許し、それをとがめる役人
には廷杖を加えたり、俸給の支払いを惜しむあまり、大臣や高級官吏の欠員ができてもそのままの状
態にしておいたり。

皇帝のやりたい放題はそれだけではありません。



たとえば、銀など掘りつくされすでに廃坑になっている銀山の採掘にその手足となっていた宦官を
送り込む。それだけでも凡人のわたしは首をひねりたくなるのですが、この親分にしてこの子分と
いったところでしょうか、その宦官たちがこれまた、やりたい放題。銀など出ないとわかると、宦
官たちは国税である商税、塩税、店舗税など、取れるものならなんでも人民から取り立て、また、
貴重品が眠る貴人の墓を掘り起こしたり、金持ちの邸宅や良田に鉱脈があると言っては脅迫し、人
妻や娘までをも取り立てたり。もちろん、宦官たちの数々の並はずれた悪行を弾劾した地方官もい
たにはいたのですが、反対に逮捕されてしまうしまつ。そして、怒り狂った人民の中には、暴動を
起こして宦官を殺してしまうものもいたとか。



以上のように国や人民のことなどまったく眼中になかった神宗ですが、おのれの欲望を満たすため
には惜しみなく金を使うという、とびきりの人間臭さを発揮しました。

たとえば、墓づくり。
北京から40キロほど行ったところにある「定陵」と呼ばれる現在観光地になっている陵墓がそれ。
地下20メートルの深さ、前、中、後の三室、全長八十八メートルの豪華絢爛たる地下宮殿というべ
きこの陵墓完成には六年の歳月を要し八百万両の巨費を投じたといわれています。



皇帝としてあるまじきかずかずの所業を見かねたある役人は「皇帝!! それはあんまりでしょ」と思っ
たかどうかはわかりませんが、その上奏文に
「由来酒を好むと腹を腐らし、色を恋すれば命をちぢめ、財を貪れば人間が堕落し、感情に溺れると
 人をあやめるものだが、この四つの悪を兼ねそなえたもの、それは陛下だ」
と書いたそうです。もちろん、この役人、ただではすまされません。廷杖のうえ、追放の憂き目にあっ
てしまいました。追放されてしかるべきは、皇帝その人であったのに。


またお店がありました。
室内装飾のお店。



理髪店、いやいや美容院と呼んだほうがいいかな。



女性はもちろん、おしゃれに気をつかう男性たちも、今やこういうお店に通っています。

このお店、隣接する空き地には値段表がありました。





お店によってはカットだけで35元以上はするんじゃないかなと思うんですが、こちらは25元、
日本円で400円程度とお廉くなっております。でも、わたしが通う理髪店はもっと廉く、カット、
洗髪、髭剃り、合わせて20元なり。もう十年以上通いつめる、信頼の出来るお店です。

理髪店を撮っていると、縫いぐるみのような可愛らしい大きなワンちゃんがやって来ました。



犬用ハーネスには、
「わたしはおとなしく、人に噛みついたりなんかしません」
と書かれています。



そのメッセージには、飼い主さんの、周りの人たちへの何気ない気遣い、愛犬へのゆるぎない愛情が
込められているようで、微笑ましかったです。



写真奥は、この胡同の北端。



清の時代に作られた『乾隆京城全図』を見ますと、現在の胡同の北端辺りに霊佑宮の山門があり、
そこから北方向へ敷地が拡がっていたことが分かります。

次の写真は、北端から南方行を撮ったもの。
現在の霊佑胡同は、霊佑宮がまだ現役として活躍している頃、人々が詣でるための参道の役割を
果たしていたと言ってよいかも知れません。



人民に対して率先垂範してしかるべき皇帝ですが、その皇帝であった神宗が垂れた、あまりの人間
臭さ、退廃ぶり。明王朝は神宗病没二十四年後の1644年(崇禎17年)に幕を閉じることになるので
すが、それが神宗の垂れた範のお蔭であったかどうかはさておいて、わたしにとって気になって気
になって仕方がないのは、やはり、この胡同と神宗皇帝との関係。

先に、万暦四十一年(1613)、太監すなわち宦官の魏学顔によってそれまで以上に土地も拓かれ、高
閣大殿も造営され、当時の皇帝神宗からはめでたくも「護国霊佑宮」の名称を賜ったことを書きまし
た。

たしかに、皇帝から「護国霊佑宮」という立派な名称を賜ったのは、めでたいことだったと言えるかも。
でもなぁ、皇帝やその手足となって働いた宦官たちの非道の数々をかえりみると、このめでたさに関し
ても、ついついつぶやきたくなってしまう。「皇帝!! なんか、とっても胡散臭いんですけど。」



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