今回は「馬家胡同」を歩きたいと思います。
これは西側の入口(胡同口)で、当日はここから歩き出しました。
ちなみに私が立っているのは旧通州城のメイン通りであった南大街。
ここには日常必要とされる品物を商うお店がズラーッと軒を並べています。
右側に写っているのは理髪店。私が利用しているのはここではありませんが近頃は少々風邪気味なので行っておりません。
皆さまも風邪などお召しになられぬよう、くれぐれもお気をつけくださいませ。
さて、この馬家胡同ですが、形成されたのは前回ご紹介した北二条と同じく明代漕運が盛んであったころ。その当時は
「回回三条胡同」と呼ばれていたようですが、清の乾隆年間の初めこの胡同の西側を「馬家胡同」と改名。1936年前後、残りの
東側も馬家胡同に編入されたようです。ちなみに、この簡単な解説は北京出版社刊『北京胡同志』の「馬家胡同」によって
いるのですが、同書の「十八个半截胡同」を見ると回回三条胡同の東側が馬家胡同に入ったのは1913年後となっていることを
お断りしておきます。
ということで、
本日も歩きます。
ちょっと進んで、進行方向正面。
右側のおウチです。
左側。お風呂屋さんでございます。
進行方向。
さらに進んで右側。
左側。
このおウチを撮ってすこしすると・・・
二人の男の子がすごい勢いで私の横を駆け抜けて行きました。
実を言えば当日馬家胡同を歩き出し、上の元気の良い男の子たちとすれ違ったのはこれで二度目。
こんなことがありました。
馬家胡同を歩き出し写真を撮っていると、私の後ろからやって来た彼らと同年輩と思しき一人の女の子が私を追い越して
行ったのですが、その時、その女の子とは反対方向(私の進行方向)からやって来たのが彼らだったのです。
おそらく女の子と男の子たちは同級生かなにかなのでしょう。お互い顔見知りな訳ですから、何らかの挨拶を交わしても
何の不思議もないのですが、彼らがすれ違う時、男の子たちが女の子にかけた言葉が「サヨナラ」という日本語であったの
には驚かされました。しかも、その時女の子の口から発せられた言葉も日本語の「サヨナラ」だったのです。
彼らが日本語の「サヨナラ」という言葉を知っていたのは偶然かもしれませんが、私の目の前で日本語の「サヨナラ」が
使われたことは、はたして偶然なのかどうか。瞬間的にそんなことを思ってもみたのですが、そんなことを考えても埒が
あかないので、半ばあっけにとられた気持ちを抱きつつ写真撮影を再開。
その後、写真を撮っていると先ほどの男の子たちが私を追い越して彼らがはじめにやって来た方向に再び戻って行き、戻った
かと思うと、今度は私の横を駆け抜けて行ったというのが事の顛末。
彼らが私の横を駆け抜けていく時、彼らの耳に届いたかどうかハッキリしないのですが、私は彼らに向かって「再見」と言った。
後で思ったのですが、彼らが私の横を猛スピードで駆け抜けて行ったのが、私に対する何らかの気持ちを込めてのパフォーマンス
のようなものだったとするならば、私の口をついて出た「再見」という中国語は彼らに対する私なりのパフォーマンスのようなもの
だったのかもしれません。
いずれにしても、日本語の「サヨナラ」と中国語の「再見」とが胡同で出会うことなど予想だにしていなかった私にとって、
この遭遇はことのほか感慨深いものでありました。
話を戻して、進行方向正面。
右側。
左側。
少し進んで右側。
シャッターが下りていますが、何かのお店なのかもしれません。
左側。
これは昨年10月の終わりごろに同じ場所で撮ったもの。
振り返ると偶然ワンちゃんが走ってきました。
犬と出会ったとき、犬語が話せればよいとつくづく思う。犬語も話せない私は遅れている。
左側奥に新しくなおしたおウチがありました。
立派な屋根。
アップ。
写真では見えないかもしれませんが、細かい飾りなどもきれい。
それにしても、煙突はなんでしょう。
玄関。
玄関正面。
門扉の上に突き出した青く塗られた棒状のものは「門簪(もんさん)」。門がまちにしつらえられる巨大な釘のようなもの。
私の見た限りでは、2つか3つ用いられているものが多く、六角形をしています。かつてはこの「門簪」の多寡がそのおウチの
家格を示していたとか。おめでたい彫り飾りを施したものなどもあります。
右側のおウチ。
このおウチも新しくお化粧しなおしたようです。周囲の雰囲気に合わせたのでしょうか、壁にはレンガ模様のタイルが
貼られています。胡同という環境に気を遣ったおウチといってよいのではないでしょうか。
角度をかえて。
これは、上のおウチに続く壁沿いに進行方向をとったもの。
壁に看板がありました。
理髪店兼美容院。理髪が5元というのは安い!! ちなみに私がお世話になっているお店は15元。
入口。
入口正面。
この日は時間にゆとりがなくこれ以上中には入りませんでした。機会を見つけて散髪してもらいに行ってみたいと思います。
角度をかえて。
上の理髪店の入口に続く壁沿いに進行方向。
やや汚れていますが、漆喰とレンガとデザインが素敵なので撮りました。
少し進み振り返るとこんな感じ。
進行方向左のおウチ。
このおウチも新しく手を加えたようです。
ドアに「一帆風順」という言葉と帆掛け船が見えます。
一帆風順!! 「物事すべてが順調に行きますように!!」。そんな願いが込められています。日本ならば「順風満帆」。
帆掛け船が運河の町通州にいかにもふさわしく感じました。
右側。
これは建て増ししたおウチのようです。
住居というよりかひょっとして何かのお店として使用している可能性も考えられます。
住居にしては窓が大きく、位置も低いのです。これではこの前を通りかかる人たちに中がまる見え。
左側。
手前の傾斜は自転車用。
ドアの白。手すりの黄色。傾斜と階段。これらの形と色の組み合わせが、ちょっと洒落てるなと思ってシャッターを切りました。
右側のおウチ。
正面。
玄関前に門墩(mendun・メンドゥン)が見えますが、この場合、本来の機能を離れて装飾として置かれているようです。
ひょっとしてクルマ除けにしているのかもしれません。玄関前にクルマを置かないでネ!
上のおウチの壁沿いに置かれたクルマ越しに進行方向をパチリ。
このクルマ、日本車、日産。しかも新車。
路上駐車しているクルマを気を付けて見ている訳ではなかったのですが、このクルマを見て、通州の胡同を歩いていて以前より
も日本車、しかも新車を見かけることが多くなったような気がします。
そういえば、回民胡同でツートンカラーのミニクーパーが路駐されているのを見たこともありました。
まさに「胡同窯変」のカタチの一つを目の当たりにしているような気がします。
ところで、突然ですが、クルマは単により速く移動するための便利な道具ではありません。
たとえば写真に見られる日本車には、たとえ合弁であったとしてもその土台となっているデザイン・性能など各面に
日本文化を身につけた日本人がつくったという意味で意識するしないに関わらず歴史に培われた日本文化の反映がある
はずで、誇張していえば日本車とは歴史に培われた日本文化の結晶の一つの現れなのです。
角度を変えていえば、日本車(これは欧米車でも同じことなのですが)が異国である中国の人々の目に触れたり利用され、
たりすること、それは異文化同士の出会いであり、触れ合いであり、広くいえば歴史・文化交流の一つのカタチになって
いると考えてよいのではないでしょうか。
もちろん、こういうことはクルマだけに限った話ではありません。
たとえば、北京にいる日本人が中国の人々の前でくりひろげる一挙手一投足にも歴史に培われた日本文化は反映されており、
その一つ一つの動作・ふるまいを見る中国の人々はまさにそれを通して知らず知らずのうちに日本の歴史・文化に触れている
わけなので、これなども企まずして行なわれている異文化同士の触れ合い、文化交流といってよいのではないでしょうか。
話を元に戻して、左側。
正式名は分りませんが日本でも見かけるシースルーの横引きシャッター。日本では閉店後の商店でよく見かけた記憶が
あるのですが。私の勘違いかもしれませんが、この種のシャッターって日本のメーカーが開発したのではなかったかと。
写真に写っているものが日本製かどうかは分りません。
なお、この辺りまでが馬家胡同の西側で、前を横切っている通りは「中街」といいます。。
東側から今まで歩いた馬家胡同を振り返って。
ここで、ついでに中国と外国車との関係について、ちょっと振り返って私の知っていることを書きとめておこうと思います。
中国で最初に自動車生産の合弁企業が設立されたのは、今から30年前の1984年。ドイツ・フォルクスワーゲンとの合弁が
第一号。
当時、中国にとって自国の生産技術の遅れを改善し発展させるためには、外国の自動車メーカーとの協力がどうしても必要
だったのです。
そこでトヨタなど世界の主要メーカーに協力要請ということになるのですが、どこからも断られる始末。
おそらく、当時の主要メーカーさんからすれば、中国で乗用車を生産してもその貧しさのために売れるわけがない、というのが
その主な理由だったにちがいありません。
でも、そんなメーカーの中でドイツのフォルクスワーゲンだけは違っていました。
初年度生産台数3万台という内容で合意の上、上海フォルクスワーゲンが設立されたのです。
ちなみに、当初フォルクスワーゲン側から中国側へ提示された年間生産台数は15万台、中国側からの提示は2万台だったそうです。
結局、フォルクスワーゲン側の提示した5分の1の台数で合意、設立ということになったわけなのです。
上海フォルクスワーゲンが設立された時、はたして黒字であったのか赤字であったのか私は知りません。
ただ現在の中国を見るとき、当時のドイツ・フォルクスワーゲンに先見の明があったと言うことは許されるのでは
ないでしょうか。
世界の自動車メーカーに先駆けて中国との協力関係を結んだ、このフォルクスワーゲンという会社のあり方にも、私はその国の
歴史や文化の一つの姿を見るような気がしてしかたがありません。
そして、断るまでもなく私が歩いている胡同が、広くは中国の、狭くは北京、通州の歴史・文化を担って息づいていることも
言わずもがなのことなのです。
本年2014年も残りあとわずか。来年2015年ももちろん胡同歩きは状況の許す限り続けたいと思います。
そして、北京の、広く中国の歴史・文化を今まで以上に意識的に見、聞き、そして調べ考え、今年以上に
北京やそこで生活している中国の人々についての理解を深めることが出来ればと考えております。
そうそう、その前にはやく風邪を治さなくっちゃな。
当ブログをご覧くださっている皆さま、
皆さまの新しい年が一帆風順でありますように!!
それでは、新年に胡同でまたお会いいたしましょう!!
※初めに公開した記事に不明な文字や明らかな数字上の誤りがございましたので訂正いたしました。
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楽しい北京情報を見よう。↓
これは西側の入口(胡同口)で、当日はここから歩き出しました。
ちなみに私が立っているのは旧通州城のメイン通りであった南大街。
ここには日常必要とされる品物を商うお店がズラーッと軒を並べています。
右側に写っているのは理髪店。私が利用しているのはここではありませんが近頃は少々風邪気味なので行っておりません。
皆さまも風邪などお召しになられぬよう、くれぐれもお気をつけくださいませ。
さて、この馬家胡同ですが、形成されたのは前回ご紹介した北二条と同じく明代漕運が盛んであったころ。その当時は
「回回三条胡同」と呼ばれていたようですが、清の乾隆年間の初めこの胡同の西側を「馬家胡同」と改名。1936年前後、残りの
東側も馬家胡同に編入されたようです。ちなみに、この簡単な解説は北京出版社刊『北京胡同志』の「馬家胡同」によって
いるのですが、同書の「十八个半截胡同」を見ると回回三条胡同の東側が馬家胡同に入ったのは1913年後となっていることを
お断りしておきます。
ということで、
本日も歩きます。
ちょっと進んで、進行方向正面。
右側のおウチです。
左側。お風呂屋さんでございます。
進行方向。
さらに進んで右側。
左側。
このおウチを撮ってすこしすると・・・
二人の男の子がすごい勢いで私の横を駆け抜けて行きました。
実を言えば当日馬家胡同を歩き出し、上の元気の良い男の子たちとすれ違ったのはこれで二度目。
こんなことがありました。
馬家胡同を歩き出し写真を撮っていると、私の後ろからやって来た彼らと同年輩と思しき一人の女の子が私を追い越して
行ったのですが、その時、その女の子とは反対方向(私の進行方向)からやって来たのが彼らだったのです。
おそらく女の子と男の子たちは同級生かなにかなのでしょう。お互い顔見知りな訳ですから、何らかの挨拶を交わしても
何の不思議もないのですが、彼らがすれ違う時、男の子たちが女の子にかけた言葉が「サヨナラ」という日本語であったの
には驚かされました。しかも、その時女の子の口から発せられた言葉も日本語の「サヨナラ」だったのです。
彼らが日本語の「サヨナラ」という言葉を知っていたのは偶然かもしれませんが、私の目の前で日本語の「サヨナラ」が
使われたことは、はたして偶然なのかどうか。瞬間的にそんなことを思ってもみたのですが、そんなことを考えても埒が
あかないので、半ばあっけにとられた気持ちを抱きつつ写真撮影を再開。
その後、写真を撮っていると先ほどの男の子たちが私を追い越して彼らがはじめにやって来た方向に再び戻って行き、戻った
かと思うと、今度は私の横を駆け抜けて行ったというのが事の顛末。
彼らが私の横を駆け抜けていく時、彼らの耳に届いたかどうかハッキリしないのですが、私は彼らに向かって「再見」と言った。
後で思ったのですが、彼らが私の横を猛スピードで駆け抜けて行ったのが、私に対する何らかの気持ちを込めてのパフォーマンス
のようなものだったとするならば、私の口をついて出た「再見」という中国語は彼らに対する私なりのパフォーマンスのようなもの
だったのかもしれません。
いずれにしても、日本語の「サヨナラ」と中国語の「再見」とが胡同で出会うことなど予想だにしていなかった私にとって、
この遭遇はことのほか感慨深いものでありました。
話を戻して、進行方向正面。
右側。
左側。
少し進んで右側。
シャッターが下りていますが、何かのお店なのかもしれません。
左側。
これは昨年10月の終わりごろに同じ場所で撮ったもの。
振り返ると偶然ワンちゃんが走ってきました。
犬と出会ったとき、犬語が話せればよいとつくづく思う。犬語も話せない私は遅れている。
左側奥に新しくなおしたおウチがありました。
立派な屋根。
アップ。
写真では見えないかもしれませんが、細かい飾りなどもきれい。
それにしても、煙突はなんでしょう。
玄関。
玄関正面。
門扉の上に突き出した青く塗られた棒状のものは「門簪(もんさん)」。門がまちにしつらえられる巨大な釘のようなもの。
私の見た限りでは、2つか3つ用いられているものが多く、六角形をしています。かつてはこの「門簪」の多寡がそのおウチの
家格を示していたとか。おめでたい彫り飾りを施したものなどもあります。
右側のおウチ。
このおウチも新しくお化粧しなおしたようです。周囲の雰囲気に合わせたのでしょうか、壁にはレンガ模様のタイルが
貼られています。胡同という環境に気を遣ったおウチといってよいのではないでしょうか。
角度をかえて。
これは、上のおウチに続く壁沿いに進行方向をとったもの。
壁に看板がありました。
理髪店兼美容院。理髪が5元というのは安い!! ちなみに私がお世話になっているお店は15元。
入口。
入口正面。
この日は時間にゆとりがなくこれ以上中には入りませんでした。機会を見つけて散髪してもらいに行ってみたいと思います。
角度をかえて。
上の理髪店の入口に続く壁沿いに進行方向。
やや汚れていますが、漆喰とレンガとデザインが素敵なので撮りました。
少し進み振り返るとこんな感じ。
進行方向左のおウチ。
このおウチも新しく手を加えたようです。
ドアに「一帆風順」という言葉と帆掛け船が見えます。
一帆風順!! 「物事すべてが順調に行きますように!!」。そんな願いが込められています。日本ならば「順風満帆」。
帆掛け船が運河の町通州にいかにもふさわしく感じました。
右側。
これは建て増ししたおウチのようです。
住居というよりかひょっとして何かのお店として使用している可能性も考えられます。
住居にしては窓が大きく、位置も低いのです。これではこの前を通りかかる人たちに中がまる見え。
左側。
手前の傾斜は自転車用。
ドアの白。手すりの黄色。傾斜と階段。これらの形と色の組み合わせが、ちょっと洒落てるなと思ってシャッターを切りました。
右側のおウチ。
正面。
玄関前に門墩(mendun・メンドゥン)が見えますが、この場合、本来の機能を離れて装飾として置かれているようです。
ひょっとしてクルマ除けにしているのかもしれません。玄関前にクルマを置かないでネ!
上のおウチの壁沿いに置かれたクルマ越しに進行方向をパチリ。
このクルマ、日本車、日産。しかも新車。
路上駐車しているクルマを気を付けて見ている訳ではなかったのですが、このクルマを見て、通州の胡同を歩いていて以前より
も日本車、しかも新車を見かけることが多くなったような気がします。
そういえば、回民胡同でツートンカラーのミニクーパーが路駐されているのを見たこともありました。
まさに「胡同窯変」のカタチの一つを目の当たりにしているような気がします。
ところで、突然ですが、クルマは単により速く移動するための便利な道具ではありません。
たとえば写真に見られる日本車には、たとえ合弁であったとしてもその土台となっているデザイン・性能など各面に
日本文化を身につけた日本人がつくったという意味で意識するしないに関わらず歴史に培われた日本文化の反映がある
はずで、誇張していえば日本車とは歴史に培われた日本文化の結晶の一つの現れなのです。
角度を変えていえば、日本車(これは欧米車でも同じことなのですが)が異国である中国の人々の目に触れたり利用され、
たりすること、それは異文化同士の出会いであり、触れ合いであり、広くいえば歴史・文化交流の一つのカタチになって
いると考えてよいのではないでしょうか。
もちろん、こういうことはクルマだけに限った話ではありません。
たとえば、北京にいる日本人が中国の人々の前でくりひろげる一挙手一投足にも歴史に培われた日本文化は反映されており、
その一つ一つの動作・ふるまいを見る中国の人々はまさにそれを通して知らず知らずのうちに日本の歴史・文化に触れている
わけなので、これなども企まずして行なわれている異文化同士の触れ合い、文化交流といってよいのではないでしょうか。
話を元に戻して、左側。
正式名は分りませんが日本でも見かけるシースルーの横引きシャッター。日本では閉店後の商店でよく見かけた記憶が
あるのですが。私の勘違いかもしれませんが、この種のシャッターって日本のメーカーが開発したのではなかったかと。
写真に写っているものが日本製かどうかは分りません。
なお、この辺りまでが馬家胡同の西側で、前を横切っている通りは「中街」といいます。。
東側から今まで歩いた馬家胡同を振り返って。
ここで、ついでに中国と外国車との関係について、ちょっと振り返って私の知っていることを書きとめておこうと思います。
中国で最初に自動車生産の合弁企業が設立されたのは、今から30年前の1984年。ドイツ・フォルクスワーゲンとの合弁が
第一号。
当時、中国にとって自国の生産技術の遅れを改善し発展させるためには、外国の自動車メーカーとの協力がどうしても必要
だったのです。
そこでトヨタなど世界の主要メーカーに協力要請ということになるのですが、どこからも断られる始末。
おそらく、当時の主要メーカーさんからすれば、中国で乗用車を生産してもその貧しさのために売れるわけがない、というのが
その主な理由だったにちがいありません。
でも、そんなメーカーの中でドイツのフォルクスワーゲンだけは違っていました。
初年度生産台数3万台という内容で合意の上、上海フォルクスワーゲンが設立されたのです。
ちなみに、当初フォルクスワーゲン側から中国側へ提示された年間生産台数は15万台、中国側からの提示は2万台だったそうです。
結局、フォルクスワーゲン側の提示した5分の1の台数で合意、設立ということになったわけなのです。
上海フォルクスワーゲンが設立された時、はたして黒字であったのか赤字であったのか私は知りません。
ただ現在の中国を見るとき、当時のドイツ・フォルクスワーゲンに先見の明があったと言うことは許されるのでは
ないでしょうか。
世界の自動車メーカーに先駆けて中国との協力関係を結んだ、このフォルクスワーゲンという会社のあり方にも、私はその国の
歴史や文化の一つの姿を見るような気がしてしかたがありません。
そして、断るまでもなく私が歩いている胡同が、広くは中国の、狭くは北京、通州の歴史・文化を担って息づいていることも
言わずもがなのことなのです。
本年2014年も残りあとわずか。来年2015年ももちろん胡同歩きは状況の許す限り続けたいと思います。
そして、北京の、広く中国の歴史・文化を今まで以上に意識的に見、聞き、そして調べ考え、今年以上に
北京やそこで生活している中国の人々についての理解を深めることが出来ればと考えております。
そうそう、その前にはやく風邪を治さなくっちゃな。
当ブログをご覧くださっている皆さま、
皆さまの新しい年が一帆風順でありますように!!
それでは、新年に胡同でまたお会いいたしましょう!!
※初めに公開した記事に不明な文字や明らかな数字上の誤りがございましたので訂正いたしました。
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