胡同を歩いていると魅力に富んだ風景やものに出遭うことがあるのです。
たとえば前回ご紹介した、これ。
柔らかい石の一部です。
こういう風景との出遭いは実に心地よいのです。また、こういう風景をこのブログを見てくださっている人たちに
ご紹介できるのが、この上なくうれしい。
でも、こういう風景ばかりに出遭えるとは限らない、そんな心地よさに酔いしれてばかりいられないのが胡同歩き。
そのほんの一例がやはり前回ご紹介した、やっているのかいないのかよく分らないお店。
ならばそんなものは無視すればいいだろ、と思うのですが、そこが胡同歩き愛好者、胡同ウォッチャーの悲しいさが。ついつい
立ち止まっては考え、果てはカメラのシャッターを切ってしまうのです。
下の写真をご覧ください。
これは、清真寺胡同の入り口附近から回民胡同の東側に向かって撮影したもの。
右側の壁沿いには前回ご紹介した柔らかい石たちが並んでいるのですが、その中に混じって異質なものが一つあるのです。
それは、これ。
これを見た時、「これって、手すり」と思ったのですが、すぐに「じゃあ、ないよね」。
「手すり」にしては壁沿いに石が置かれていて、その壁沿いを歩く人などそもそもいるわけもなく、これが「手すり」としての
役目を果しているわけがないからなのです。
じゃあ、これって、何?
まさか「平均台」ってことあるわけはない。
ひょっとすると、あの柔らかい石たちと同様「駐車禁止」のサインなのか。おそらくこう考えるのが穏やかな結論なのかも・・・。
でも、もしそうだとしたらあまりにも「手すり」っぽさが主張されすぎていないでしょうか。
あの柔らかい石たちが辺りの雰囲気に何気なく溶け込んでいるとしたら、この「手すりのようなもの」はあまりにもその「手すりっぽさ」
を人目に明示しすぎているのです。
だからこの「手すりのようなもの」を見た時「これって、手すり」って思ってしまったというわけなんですね。この「手すりっぽさ」が
まんまと満腹楼の頭を「手すり」という答えに誘導してしまったわけなのです。
繰り返しになりますが、これは断じて「手すり」ではありません。そうして、「じゃあ、これって、いったい何なんだ?」という疑問が
満腹楼の心に頭をもたげてしまう。
重心の置き方によってその見え方がいろいろ変化してしまうこの「手すりのようなもの」、はたして本当に「駐車禁止」のサインなんだろうか。
答えらしいものが見つからずに「手すりのようなもの」の前に佇み、いささか心細く途方にくれた満腹楼。この「手すりのようなもの」にすがりつきたくなった。
でも、そんな満腹楼の心を力強く支え、奮い立たせてくれるのは、こんな「手すりのようなもの」ではありません。
それは、これ。
「手すりのようなもの」の先にある住宅の玄関とそれに続く壁。胡同ではけっして珍しいものではなく、というよりも胡同には
欠かすことのできないものですが、回民胡同を歩いていてウットリと魅了されてしまう風景のひとつなのです。胡同といったら、これ。
これがない所を「胡同」とは言わない、言っちゃいけないのです。
ちなみに、この住宅は北向きであるため、壁に窓はありません。北京の冬は厳しく、連日零下。
北風を防ぐため、北側には極力開口部を設けないのが原則で、この住宅、北京における住宅の一つの典型を見るような思いがするのです。
この玄関とそれに続く壁のお蔭で「手すりのようなもの」に困惑・攪乱された心も落ち着いたので、ちょっと細部をご紹介いたしましょう。
玄関。どちらかといえば装飾の少ない、いたって地味なもの。
門dun(土へんに、敦。mendun)ですね。
これは装飾品であると共に、かつてはその家の主人の家柄や地位などを示していたりするのですが、その役割はそれだけではありません。
玄関の敷居、柱や扉を支えるための重要な建築部材なのです。形は、鼓状のものや箱状のものがあります。
その先には、こんな家が。
前の家とは違い、規模がだいぶ小さい。
玄関も前のとは違って、小規模。
しかもこの家には門dun(土へんに、敦。mendun)がありません、と書いたものの、
よく見ると玄関の前方にこんなものが・・・
「これって、何ですか?」
これって門dunですよね?
でも、門dunの役割なんて果していないですよね?
門dunの役割を果していない門dun、いったいどうしてこんな所に置かれているのでしょうか?
しかも、この形が謎なのです。
融けたようにぐにゃりとしているのは、いったいどうしたことなんでしょうかぁ?
謎は深まるばかりなのです。
次々に湧いてくる「これって、何?」という思いを振り切るように先に進むと・・・
手すりです。
でも、これは前にご紹介した「手すりのようなもの」とは違い、階段に付けられているということで明らかに手すり。安心です。
でも問題は、この建物。
満腹楼にはかつて何かのお店だったように思えてしかたがありません。建物上部に看板を取り付ける土台のようなものが見えるから
なのです。
そして、シャッター。この家屋がかつて店を営んでいた頃の名残なのでしょうか?
いったいこの家屋ではどのような商売が展開されていたのか?
そんなことを考えながらシャッターをよく見ると、完全に閉ざされたシャッターもあるにはあるのですが、上げられているものも
あるのです。ひょっとして店を閉めてしまった今でも利用者がいるわけか?
かつて、それが何のお店であったのかは不明ながら、ともかく何か店を営んでいたことを示す夢のかけらを人目に晒しながら、
現在は人気のないひっそりとした空気をあたりに漂わせている家屋。
そして、利用者がいるようないないような、いないようないるような、見方によってはどちらにでも見えてしまう実に曖昧、中途半端
な家屋。
こんな家屋を眺めていると、満腹楼は困惑とむなしさを覚えてしまう。
そして、たまらなくやりきれないのは、巷間、密かに囁かれる残便感のようなものだ。
そして話を広げれば先に書いたかくある家屋のあり様とそれに対する満腹楼の反応とが、いわゆる「胡同」と名づけられた場所一般の
あり様とそれに対する反応とに重なってはいないと言い切れるのかどうか・・・。謎は深まるばかりなのです。
いずれにしても、このような状態に人を誘ってやまないこの家屋、回民胡同に好ましい影響を及ぼすとはけっして思えないのだが・・・。
環境問題は、何も大気汚染だけとは限らないんだよね。
スッキリした顔で胡同を楽しく歩くことのできる、そんな恩寵にも似た時が満腹楼にやってくるんでしょうかぁ?
困惑とむなしさ、そしてキレの悪さに場所柄もわきまえずに固まってしまった満腹楼。
これって本当に満腹楼なんだろうか?
たとえば前回ご紹介した、これ。
柔らかい石の一部です。
こういう風景との出遭いは実に心地よいのです。また、こういう風景をこのブログを見てくださっている人たちに
ご紹介できるのが、この上なくうれしい。
でも、こういう風景ばかりに出遭えるとは限らない、そんな心地よさに酔いしれてばかりいられないのが胡同歩き。
そのほんの一例がやはり前回ご紹介した、やっているのかいないのかよく分らないお店。
ならばそんなものは無視すればいいだろ、と思うのですが、そこが胡同歩き愛好者、胡同ウォッチャーの悲しいさが。ついつい
立ち止まっては考え、果てはカメラのシャッターを切ってしまうのです。
下の写真をご覧ください。
これは、清真寺胡同の入り口附近から回民胡同の東側に向かって撮影したもの。
右側の壁沿いには前回ご紹介した柔らかい石たちが並んでいるのですが、その中に混じって異質なものが一つあるのです。
それは、これ。
これを見た時、「これって、手すり」と思ったのですが、すぐに「じゃあ、ないよね」。
「手すり」にしては壁沿いに石が置かれていて、その壁沿いを歩く人などそもそもいるわけもなく、これが「手すり」としての
役目を果しているわけがないからなのです。
じゃあ、これって、何?
まさか「平均台」ってことあるわけはない。
ひょっとすると、あの柔らかい石たちと同様「駐車禁止」のサインなのか。おそらくこう考えるのが穏やかな結論なのかも・・・。
でも、もしそうだとしたらあまりにも「手すり」っぽさが主張されすぎていないでしょうか。
あの柔らかい石たちが辺りの雰囲気に何気なく溶け込んでいるとしたら、この「手すりのようなもの」はあまりにもその「手すりっぽさ」
を人目に明示しすぎているのです。
だからこの「手すりのようなもの」を見た時「これって、手すり」って思ってしまったというわけなんですね。この「手すりっぽさ」が
まんまと満腹楼の頭を「手すり」という答えに誘導してしまったわけなのです。
繰り返しになりますが、これは断じて「手すり」ではありません。そうして、「じゃあ、これって、いったい何なんだ?」という疑問が
満腹楼の心に頭をもたげてしまう。
重心の置き方によってその見え方がいろいろ変化してしまうこの「手すりのようなもの」、はたして本当に「駐車禁止」のサインなんだろうか。
答えらしいものが見つからずに「手すりのようなもの」の前に佇み、いささか心細く途方にくれた満腹楼。この「手すりのようなもの」にすがりつきたくなった。
でも、そんな満腹楼の心を力強く支え、奮い立たせてくれるのは、こんな「手すりのようなもの」ではありません。
それは、これ。
「手すりのようなもの」の先にある住宅の玄関とそれに続く壁。胡同ではけっして珍しいものではなく、というよりも胡同には
欠かすことのできないものですが、回民胡同を歩いていてウットリと魅了されてしまう風景のひとつなのです。胡同といったら、これ。
これがない所を「胡同」とは言わない、言っちゃいけないのです。
ちなみに、この住宅は北向きであるため、壁に窓はありません。北京の冬は厳しく、連日零下。
北風を防ぐため、北側には極力開口部を設けないのが原則で、この住宅、北京における住宅の一つの典型を見るような思いがするのです。
この玄関とそれに続く壁のお蔭で「手すりのようなもの」に困惑・攪乱された心も落ち着いたので、ちょっと細部をご紹介いたしましょう。
玄関。どちらかといえば装飾の少ない、いたって地味なもの。
門dun(土へんに、敦。mendun)ですね。
これは装飾品であると共に、かつてはその家の主人の家柄や地位などを示していたりするのですが、その役割はそれだけではありません。
玄関の敷居、柱や扉を支えるための重要な建築部材なのです。形は、鼓状のものや箱状のものがあります。
その先には、こんな家が。
前の家とは違い、規模がだいぶ小さい。
玄関も前のとは違って、小規模。
しかもこの家には門dun(土へんに、敦。mendun)がありません、と書いたものの、
よく見ると玄関の前方にこんなものが・・・
「これって、何ですか?」
これって門dunですよね?
でも、門dunの役割なんて果していないですよね?
門dunの役割を果していない門dun、いったいどうしてこんな所に置かれているのでしょうか?
しかも、この形が謎なのです。
融けたようにぐにゃりとしているのは、いったいどうしたことなんでしょうかぁ?
謎は深まるばかりなのです。
次々に湧いてくる「これって、何?」という思いを振り切るように先に進むと・・・
手すりです。
でも、これは前にご紹介した「手すりのようなもの」とは違い、階段に付けられているということで明らかに手すり。安心です。
でも問題は、この建物。
満腹楼にはかつて何かのお店だったように思えてしかたがありません。建物上部に看板を取り付ける土台のようなものが見えるから
なのです。
そして、シャッター。この家屋がかつて店を営んでいた頃の名残なのでしょうか?
いったいこの家屋ではどのような商売が展開されていたのか?
そんなことを考えながらシャッターをよく見ると、完全に閉ざされたシャッターもあるにはあるのですが、上げられているものも
あるのです。ひょっとして店を閉めてしまった今でも利用者がいるわけか?
かつて、それが何のお店であったのかは不明ながら、ともかく何か店を営んでいたことを示す夢のかけらを人目に晒しながら、
現在は人気のないひっそりとした空気をあたりに漂わせている家屋。
そして、利用者がいるようないないような、いないようないるような、見方によってはどちらにでも見えてしまう実に曖昧、中途半端
な家屋。
こんな家屋を眺めていると、満腹楼は困惑とむなしさを覚えてしまう。
そして、たまらなくやりきれないのは、巷間、密かに囁かれる残便感のようなものだ。
そして話を広げれば先に書いたかくある家屋のあり様とそれに対する満腹楼の反応とが、いわゆる「胡同」と名づけられた場所一般の
あり様とそれに対する反応とに重なってはいないと言い切れるのかどうか・・・。謎は深まるばかりなのです。
いずれにしても、このような状態に人を誘ってやまないこの家屋、回民胡同に好ましい影響を及ぼすとはけっして思えないのだが・・・。
環境問題は、何も大気汚染だけとは限らないんだよね。
スッキリした顔で胡同を楽しく歩くことのできる、そんな恩寵にも似た時が満腹楼にやってくるんでしょうかぁ?
困惑とむなしさ、そしてキレの悪さに場所柄もわきまえずに固まってしまった満腹楼。
これって本当に満腹楼なんだろうか?