北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第1回 通州の胡同・回民胡同(その一・プロローグのようなもの)

2014-06-01 05:30:26 | 通州・胡同散歩
胡同(フートン)といえば、北京旧市街(内城外城)のそれから歩き始めるのが常道というものでありましょうが、
このブログでは、開発ラッシュに沸騰する地元・通州に今もその命脈を保つ胡同のお散歩日記から始めたいと
思います。(なお、以下の日記がおもに昨年秋から冬にかけてのものであることをお断りしておきます。)
  
 
まずは下の清末光緒時代通州城の地図からご覧ください。

北京旧市街がかつて城壁に囲まれていたように、ここ通州も城壁に守られていたんですね。
それに、写真では小さくてよく見えないかもしれませんが、ちゃんと鼓楼だってあったのです。
ちなみに今回ご紹介する胡同は、この写真を四つに分割すると右側の下に位置しています。
 
通州は京杭運河の北端。かつて南方から運ばれた物資は、いったんここに集められ、
さらに元の時に開削された通恵河で北京に転送された。通州は南方から運ばれた物資の
集積地として重要な地位を占めていた。地図の下半分の所に、「中倉」「西倉」が見える。
資料によっては、南倉もあったという。なお、現在の通州は、再開発の真っ最中だが、
再開発に当たって何らかの理由で過去に失ったものの再現に力を入れている、といえる
側面もあるようだ。
 

かつて下のような帆船が運河を行き交っていたのかと思うとワクワクしちゃいます。

いつか通州から杭州まで船旅ができるようになったら愉快すぎる。
いや、その前に通恵河で通州-北京間を小さな船の旅、なんていうのもおもしろい。
こんな夢も、愚公移山で、いつか実現してしまうかも・・・。


1920年代 
 

1930年代



上の写真に見られるような船で通州にいったん集められた物資は、通恵河でいざ北京へ!!
 
写真は、荷物が運び込まれた北京東便門あたり。荷物の背後に見えるのは内城と外城の
間の城壁。1800年代末に撮影。
 


・・・ということで
それでは、かつて、いや現在もそして未来も運河の街・通州の胡同散歩をはじめたいと思います。


回民胡同への入り方にはいくつかあるのですが、今回は新華大街、くわしくは新華東街沿いにある
「??商厦」入り口横手、南大街から入りました。南大街に入り、左手の一本目の通りが目指す
「回民胡同」です。

屋上に時計台があるのでわかりやすいかも・・・。




南大街「华联商厦」の横手を歩いていると、物売りのおばちゃん。いつも笑顔が素敵なので一枚。
こんな素敵な笑顔に出会うのも胡同歩きの醍醐味の一つなんですが、ここが肝心、胡同歩きのはじめに
このような笑顔に出会うのは、さい先がよいのです。
 



ほんのすこし行くと、靴修理の札。奥にもあります。
これを見るとなぜかホッとするんですね。きっとこの札が「ここから先が回民胡同ですよ」って私に声を
かけてくれているからかもしれません。
 


胡同の入り口、角地という商売にはもってこいの場所で店開きしてる靴修理のおじちゃん。
このおじちゃんの前を通る時、たいてい「ニイハオ」って挨拶するんですが、おじちゃんもほぼきまって
「ヤァ、こんにちは」といわんばかりに片手を上げて挨拶を返してくれるんですね。
 この日は、日差しが強くまぶしかったので、お顔がよく見えません。
この隣に自転車修理のお兄ちゃんがいることもあるんですが、当日はお休みのようだった。写真には写って
いないけどこの日は他の人がいた。
 


これが回民胡同の入り口。



この入り口あたり、下の写真をご覧になるとお分かりのように、かつては「牛市口」と呼んでいたんですね。
清末光緒通州城地図の一部。
  

牛市口、つまり牛の市場の入り口ってことですが、このあたり、通恵河が開鑿された至元29年(1292年)前後、
「牛市」(または羊市とも)と呼ばれる市場があって、その牛市を中心に食糧・薪・ラバ・雑貨などのマーケット
があったとか。
その後、漕運が盛んになるにつれ、集住する回民の数も増え、この市場も東側一帯に拡張。俗に牛市胡同と呼ばれ、
その西端が牛市口だったわけなんです。

そして時代が下って明の嘉靖7年(1528年)以後の漕運盛時、回民の集住者がさらに増え、当然、胡同の数も増えて
いくわけですが、その頃の牛市胡同の正式名は回回大条胡同。

もちろん、この牛市胡同や回回大条胡同がやがて現在の回民胡同になるわけですが、それは清朝が倒れ、中華民国
の成立した一年後の1913年以後のことだったようです。
  
 
胡同入り口右側にある清真飯店「小楼飯店」。イスラム風なのですぐにわかります。

この飯店、もと「義和軒」という名で創業清光緒26年(1900年)の、いわゆる老字号(老舗)。

通州には名物が三つ。通州三宝といわれていますが、このお店の「小楼焼鮎魚」がその一つなのです。
もちろんこのお店には他にもおいしい食べ物がありますが、「小楼焼鮎魚」も含め、日を改めてご紹介
したいと思います。

下は、小楼飯館という名前だった頃のお店。写真左側が回民胡同、店の前が南大街。
1950年代撮影。
 


 
回民胡同沿いの小楼飯店の先にはこんなお店が。

改革開放後一段とおしゃれ度のアップした北京や通州の女性達にとって欠かすことの出来ないお店です。
日本でいえば、美容院・美容室ですね。

今どきの北京、いやここ通州でもよく見かける、ガラスばりの明るくおしゃれなお店とはいささか趣が
ちがうのですが、あなどってはいけません、どうしてどうして客の入りはたいしたものなんです。
このお店の前を通るたびに何気に店内を観察すると、必ずといってよいほど鏡の前のイスは女性客で
いっぱいなのです。

ちなみに私が通うのは自宅近くの理髪店。散髪と洗髪でしめて15元。付き合い始めて9年になろうと
していますが、通い始めは6,7元だったのがその後12元に。そしてすこし前から15元。物価の上昇は
こんな所にも影響してるわけですね。


美容室の前を先に進むと、こんなお店。看板でお分かりのように「涮羊肉(shuanyangrou)」、羊肉の
しゃぶしゃぶのお店です。冬の北京には欠かすことの出来ない料理の一つ。
看板はあるのですが、なぜかお店の名前がありません。
 
このお店、昔からずうーっとここにあって、しかも昔からずうーっと閉店中なんじゃないか?って思えて
しまうような店構え。名前がない?のも、ちょっと怪しい。怪しく、かつミステリアスなお店。

実は、日本でもそうなのですが、このようなお店こそ要注意なのです。実際、今回の胡同をひとわたり
歩いた帰り、この店の前を通ると人の気配が。
そこでガラス越しに中をこわごわ覗いてみると、なんと薄暗い店内にお客さんたちがところ狭し
(とはいっても、もともと店内は狭いようですが・・・)と飲食しながら、なにやら談笑中といった
あんばいじゃぁありませんか。

おそらく、地元の昔からのファンが集うお店、もしくは、ひとたび訪れた客のハートをギュッとつかんで
放さない、私などにははかり知れない美食の三昧境にいざなってやまない、そんな豊かさを秘めたお店
なのかもしれません。

華やかさや見た目の新しさとは程遠い存在として人目にその姿を惜しげもなくさらしながら、変動激しい
北京・通州にあって、時代の流れに媚びることなくおのれのスタイルを堅持しているこのお店は独特の
魅力を放っているのです。

今後もこのスタイルのままなのか、はたまた何らかの変貌を遂げてしまうのか、これからも目を離すことが
できませんね。


?羊肉のお店の写真を撮っていると、どこからともなく子供達の声が・・・。声のするほうに行ってみると、
路地の中で小学生たちが遊び戯れていました。
 

昼休みの食事もすませ、午後の授業の始まるまでの時間、ここで羽を伸ばしているのでしょう。
イスに座っているおばあちゃんが、撮影許可のサインを送ってくださったので、路地の中に入り、一枚。
 

小学生たちの写真を撮った後、路地から道に戻ると、ちょっと前までは誰もいなかったはずのところに、
いつの間にか、どこからともなく現れ、ちょこんと腰掛けた少年ひとり。

とまどいつつも撮影してもいいかと訊ねればその首を縦に振り,カメラを構えるとこんなポーズをして
くれました。題して「謎の少年」。 
 
と書いたものの、少年からすればこの寒空にカメラを持ってウロウロしているこっちこそが謎だっちゅうの!!

 
ここが、あの小学生たちが通っている小学校。「通州区民族小学」。



窓の形が独特なのです。



そして、小学校の前は、清真寺。中国式モスク。

ここは北門ですが、礼拝堂に通じる門というよりも、どちらかといえば幼稚園の出入り口と呼んだ方が
よいかもしれません。
ご覧になってお分かりのように、敷居がありません。そのため送迎バスにとってはもちろんのこと、園児
やその保護者にとっても通行しやすいのではないでしょうか。ましてや、私のような部外者にとっても、
敷居をまたぐという儀式めいた所作に伴う緊張感を味わうことなく、中に入ることが出来るんですね。


北門横の電信柱には、こんな看板も。



中に入ってみると、幼稚園の案内板。






さらに中はこんな感じ。どことなくイスラム風でどことなく中華風。


写真右奥の水色の壁沿いに左に行くと幼稚園。
 


右側奥の建物が教室の一つですね。
昼食の時間が終わり、昼休み中で園内はとても静か。さらに奥に入り、園児たちはもちろん、先生方を
驚かしてはいけないので、ここでUターンすることに。
 



北門の裏側。

私は残念ながら実見していないのですが、この北門、はっきりしたことはいえないのですが以前は
いわゆるモスク風だったとか。
創建が元の延祐年間というから、現在まで700年ほどが経っているわけですが、その間にたとえば
旧日本軍からの災禍も含めいろんなことがこの寺に降りかかり、外観も幾多もの変貌を遂げてきた
ことでしょう。でも、そんなお寺もいつもかわらず回民の人たちの心のよりどころであったんですね。

 








写真を撮っていると、子供たちの声が。
午後の授業が始まったようです。

生徒たちが校庭で何か始めようとしています。


まさか、寒さしのぎに

   おしくらまんじゅう

でもやろうって訳ではないと思います。

ましてや、

  
   咲いた 咲いた チューリップの花が
   並んだ 並んだ 赤 白 黄色
   どの花 見ても・・・

なんて声をそろえて歌う訳があろうはずもありません。

ちなみにこの小学校のホームページを見ると、学校の前身は「穆光小学」。「穆光」は日本語で
「ぼくこう」、中国語で「muguang」。1938年に回民の人たちによって創られ、1940年に正式開校。
1955年「回民小学」となり、1957年「民族小学」となったとありました。
生徒数全学年あわせて180人、その中少数民族生徒は56人で全体の31%。


子供たちを見ながらとりとめのないことを考えていると、なぜかこんなものが目の前に広がりました。


               マーク(マルク)・ロスコの作品。


小学校入り口のすぐ隣には、胡同に欠かすことのできない、これ。

胡同にお住まいの方にはご不便なこともあるかもしれません。でも、私のような胡同歩き愛好者に
とっては、とりわけ冬場などには十分にその必要を満たしてくれるたのもしくも強い味方。

これがあるから、安心、かつ、スッキリした気持ちで胡同歩きができるわけですね !!

道から少しさがった奥に設置されている点も、いいのです。
 

そうして私の前には、こんな人が。
胡同を清潔に保ち、その美観を維持するための一翼を担っているのが、黙々と作業を続けるこんな人。



そういえば、こんな人にも出会った。落ち葉が散り始めるほんのすこし前の頃、この日は突然の
強風に木の葉が吹き落とされた。その散った木の葉を掃き集める地元住民。
場所は今回歩いた胡同ではなく、後日ご紹介予定の「安家大院」という胡同。


胡同歩きの愛好者が快適に胡同を歩くことができるのも、こういう人たちがいればこそ。私のような
のん気者はそういうことをすぐに忘れてしまうから、猛省。

胡同歩きは、楽しい。そして疲れないのです。ならば、私にとってどのような胡同がそうなのか。
贅沢なことをあえて書けば、観光旅行者向けにこれ見よがしにあまりにも整備されすぎた観光用胡同や
自転車でひく三輪車が走っているような胡同ではないほうが、私には合うようです。もっとも、そういった
観光客用の胡同にも、それはそれで観光地としての楽しみ方はあり、また、かりにそのような胡同で
あっても、ちょっとはずれて脇道に入ってみると、ハッとするような胡同のある場合も無きにしも非ずと
いえなくもないのですが・・・。
 
話をもとに戻し、楽しく、疲れない理由や原因はたくさんあるであろう中のいくつかを上げれば、たとえば
街の中にありながらも、胡同に一歩足を踏み入れると空が広い。どこかしっとりとした落ち着きのある静か
なたたずまいが、いい。そして、見逃せないのが、先に写真で見ていただいたような掃除係や住民一人ひとりの
黙々とした営みのもたらしたたまものであるその道のありよう。
  
 
すこし前、近所の飲食店の壁にこんなポスターが。



そして、自宅アパートにもこんなものが。
 
運河や燃灯佛舎利塔も登場。



新しい街づくりに立ち上がった通州!!
その一端を垣間見せてくれるのがこれら三枚のポスター。
スローガンも絵柄も素晴らしい!! 
 
でも、スローガンが立派であるということ。それは見方によってはそのスローガンが立派であればあるほど
そのスローガンとは真逆の重い現実があるということを示している、と言えなくもないんですね。
 

今回の結びの言葉にかえて、ここで胡同にその居を構えるひとりの畏友をご紹介いたしましょう。

胡同特有の壁。その壁を背景に胡同の美化のため、そしてスローガンを実践すべく日々孤軍奮闘するワンさま!!
 
こんな素敵な友人を得ることができるのも、胡同散歩の醍醐味の一つなのです。

通州、いや北京の街にもこんなワンさまがもっと増えるといいかも・・・。


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