またしても福島の悩み・知恵と経験で許容の知見を求める

2014-01-29 10:07:16 | 日記

  またしても福島の悩み・知恵と経験で許容の知見を求める

 

福島県楢葉町は、国が計画している「中間貯蔵施設」の建設に「ノー」を表明した。

以前から同町は、施設への持ち込みは、町内から搬出する高線量を除く放射能廃棄物に限るという「保管庫」の考え方を示していた。今回、あらためてその意思表示を県に提示したことになるのだが、県はその対応に苦慮するであろう。

さて、この保管庫なるものの構想には、次のような背景があると受け止めている。 それは、町民が帰還するにあたって、そこに存在する広大な「中間貯蔵施設」の存在は障害になる。とは言いつつも、地域の除染を進め、そこから出る廃棄物の貯蔵施設は必要だ。その施設は、高線量(10万ベクレル以上)を除く、しかも同町内からの廃棄物に限り、その搬入を認める「保管庫」である。そこに、今もって「最終処分場」の方針は決まらないことが、「中間貯蔵施設」が最終処分場になってしまうのではという危惧が加わる。

ところで保管庫と仮置き場とはどこが違うのだろうか。さらに、ここにきて帰還困難地区に指定されている富岡町に、広大(60ヘクタール)な「新仮置き場」(26年度内・環境省)の建設が計画されている。中間貯蔵施設、保管庫、新仮置き場、仮置き場の羅列に住民の混乱は深まるだろう。

いずれにせよ前記の前者3点は、国の責任において対応するものであり、後者の仮置き場は当該自治体の努力で進められる。ちょっと待てよとなる。

自治体は仮置き場の候補地探しから始まり、近隣住民の理解を取り付ける。そして住民は苦渋の受諾をする。また、その仮置き場がないがゆえに、「敷地内埋設」を選択しなければならない住民がいる。いずれも、最終処分場、あるいは長期保管の危惧を抱いていることは同じである。しかもその選択は「自己責任」である。

放射能問題は、「住民の、場合によっては家族間の対立、分断を生む」性質を持っていると言われてきた。「対立や分断は権力の利するところである。だからお互いの意見や、その結果の意思決定を尊重しよう」とも言われてきた。

「自分のところの廃棄物は仕方がない。しかし他所のものまではごめんだ」と述べる人たちを批判することはできない。しかし、その同じ放射能廃棄物を、自宅の僅かな庭に埋めている人たちのいることも知ってほしい。その住民にとっては「中間貯蔵施設」は必要である。そうでなければ、敷地内は最終処分場になりかねないと危惧する。

すると、次のような声が聞こえてくるような気がする。「私たちは、自分の住むところも、職場も、そして家族も失った。離散もしている」と。

それを知るがゆえに、今回の中間貯蔵施設・保管庫・新仮置き場、仮置き場。そして除染の推進の五者の一致点を見出すことができないだろうかと痛感する。

そのことを避けて「東電・国の責任」を追求するだけでは何の解決にもならない。あるいは「省略行為」と言わざるを得ない。その姿は、時の権力(為政者)にとって、格好の材料として見下ろすだけである。

対立と分断には踊らされてはならない。「知恵と経験を生かした、放射能汚染に対する、許容の知見を求める必要があるのではないだろうか」。

これは、福島の狭間で悩む一人の発言である。

 

 

 

 


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