「認知症患者の遺族に、鉄道事故の賠償要求」

2014-01-15 12:04:56 | 日記

   「認知症患者の遺族に、鉄道事故の賠償要求」

これは、認知症患者の徘徊などによる、列車の人身事故に対し、その家族の「介護責任を問う賠償請求」である。列車を止め、アクセスの損害に対する賠償である。一つの地裁は「家族の介護責任を問い、賠償金の支払いを命じる判決を出した」。これに対し、遺族側は、この判決を不服として控訴している。

井上靖の私小説を原作とした映画「わが母の記」のビデオを見た。

母親役は、樹木希林。息子役である、井上靖を演じるのが役所広司である。母役の樹木は、連れ合いを亡くしたあと、急速な認知症が進む中で過去の記憶を執拗に追う。そして徘徊が始まる。その日常を憎いほど見事に演じている。それを疎ましく、それでいて受け入れていく息子の日常と、その祖母に寄り添う娘役の宮崎あおいも良い。

さて、ここからが本題である。

世界一のスピードで進む高齢化の中で、認知症、あるいはその予備軍と言われている高齢者が増大している。平成17年度では全国で169万人(65歳以上の7.9%)。平成27年度には250万人を超えるだろうと言われている。しかし、その実態はつかめない。

では、その本人たちがどのような環境に置かれているのだろうか。

これは、北海道の事例である。

70代が70代を介護しているが57.5%。80代が80代を介護している69.4%である。つまり70代から80代の高齢者が、お互い介護者であり、被介護者であるという「老々介護」の実態にあるということ、そして、そのうち「認知症と診断、あるいは症状がある」とするのが49.5%である。ここに、どうして「介護の責任」を問うことができるだろうか。

もし、問うとするなら、親を「老々状態」にしている親族の責任となるのか。それもあるだろうが、それとて限界は見えている。

今年も厳しい寒さが続いている。高齢者の孤独死の多くが、寒暖の差が激しい風呂場における心筋梗塞によるものと言われている。それなりに暖房器具は備えられているのだろうが、それでも事故は防げない。悲しいことであるが受容しなければならない、ひとつなのだろうか。

認知についても、早い時期の治療でかなりの改善がはかられるとも言われている。また、入院などの治療よりは、在宅での、普通の.生活の中での治療が望ましいとも言われている。また少数ではあるが、他人の介護に自ら携わることにより、進行を遅らせることができるとも言われている。

しかし、これとて、その条件を満たせるだけの環境にある高齢者は何人いるだろうか。

多くは、残念だがその環境にはない。

今般の介護保険制度の見直しの中で、要支援1・2の介護については、介護保険制度の枠外として、その介護を地域(自治体)が負うことなる。「地域で、地域の高齢者の介護」を。そして「絆」を大切にと言う。

私は、悪ガキ高齢者の一人として、この「絆」に抵抗を持つ。人間関係そんなにきれいごとではない。

あの3.11の事故当時、私の家の前に一人暮らしの老婆が住んでいた。3日目であったか、玄関のチャイムを押した。灯油は、食べ物の買い置きは、そして具合はと。ひとどおりの安否を確かめたが私の「絆」もそれまでであつた。

老後の保証は、都市化、少子・高齢化が進む中では「隣り組体制はなじまない」。それはどこまでも補完的要素である。

基本的には、法律が「国民の生きる権利を保障する」ことであり、それをさぼる政治からは成り立たないことを、あらためて訴えたいと思う。