昨夜の話。
そして現れる。
落語の行列に合流してくれた救世主。
友人まのじさん。
色々伝説も残してこられた戦士なのだがあえてここでは触れない。
もとまち恋雅亭の会員であられる。
ということで会員証を見せると1500円で入場でき、さらに同伴者は1600円(通常2000円)まで割引される。
そして早めにひとりで並んでいたのが功を奏して前から5列目くらい?の中央に陣取ることが出来た。
そしてがっつり18:30~21:00過ぎまで中入りを挟んでの落語三昧。やっぱり好きだわ~。喋りだけであそこまで会場を笑わせる。
日本の話芸だわ。
日本が誇る文化だわ。
トリは桂文珍さん。
やっぱりトリになるにはトリになる理由がある。知名度?違う!話術の差だ。1番面白い。
圧倒的なマクラの面白さ。そして古典落語をただの古典にしない。現代でも楽しめるように間に「挟んでくる」。
その構成や間は誰も真似できない。
「文珍落語」である。
独演会のチラシももらったのだが、文珍さんひとりで今回の落語会の木戸銭を倍にした額を取る。
その価値がある。それほどの差が生まれるのだ。
練習量や知識だけじゃない。努力?それもあるだろうが、それだけでもない。それは誰にもわからない。文珍さんだけが知っているのかもしれない。
いろんな落語家がいてそれぞれが違った磨き方をしているのだろう。
兎にも角にも今夜の落語会はまのじ様様の愉快な時間を過ごさせてもらいました。そしていつも愉快な日常生活話も爆笑しながら聴かせてもらっていて、2重に面白い構成になっているのであります。
そして夜遅くなってシャッターの降りた元町商店街を後にして、通勤の神戸電鉄で帰路につく。みんな何やら疲れている。当然だ。会社帰りが多いだろう。みんなは日常なのだ。楽しそうな人は1人もいない。唯一周りをキョロキョロ出来る楽しそうな人。それは僕だ。
落語で笑って邪気が抜けたのかスッキリ。
周りの人達の邪気が見えるくらいスッキリ。
元気だから夜の駅から自宅まで20分はかかるのだが、イヤホンから聴こえる音楽と落語の余韻で足取りも軽い。寒さも感じない。
落語鑑賞はとてもいい趣味である。
ハマればこれはこれで高くつくのだが、月1の楽しみだとしては十分幸せである。
会場の風景も脳裏に浮かんでくる。
満員と立ち見の会場。暖房での暑さと熱気。老人の蠢く姿。平均年齢は60歳をゆうに超えているだろう。ただめちゃくちゃ元気そうだ。
中には重病人もいるのかもしれないのだが、欠片も感じない。完全な健康優良高齢化社会である。観客よりも落語家の方が若い。恐ろしいものである。
ただ一点。老人は目と耳がバカになっている。携帯電話の音が聴こえない。自分の携帯が鳴っても「自分じゃない」と思っている。いや、そもそもそんな音は聴こえない。
iPhoneのデフォルト通知音「ピロリ」が鳴る。同じ人から3回鳴った。なぜに電源を切らない?電話がならないから!と安心している。カスだ。アレだけ落語家さんのマクラで携帯の話をしているのに自分のことだとは思えないのだ。
それほどマナーを守れないのにiPhoneを持っている。カスだ。早く死んで欲しい。落語にも来てほしくない。劇場でのマナー違反は重罪である。死刑に値すると思っている。僕なんかビクビクしながら2回も3回も携帯の電源が切れているかを確認する。だって死刑なんだから。
こんなことで死にたくない。
だから老人だからとし言って甘やかす必要はない。そもそもそういう人を笑う噺を聴きに来ているのだ。自分のバカを笑っているようなものだ。相当バカだ。
と久しぶりにボヤいてみる。
落語は高尚な趣味である。
観る人も高尚であってほしい。
高くない木戸銭だから客の質も悪いなどと思われたくもない。
会場全体で楽しい雰囲気になる。
それが落語という古典芸能だと思う。
携帯の音が出てしまうのは確実にその気質がない。注意散漫なのだ。会場に並んでチケットを買って時間と日にちを忘れないくらいの脳みそがあれば、携帯の電源を切ることは簡単なのだから。
今日はこんな感じで、お後が宜しいようで。



そして現れる。
落語の行列に合流してくれた救世主。
友人まのじさん。
色々伝説も残してこられた戦士なのだがあえてここでは触れない。
もとまち恋雅亭の会員であられる。
ということで会員証を見せると1500円で入場でき、さらに同伴者は1600円(通常2000円)まで割引される。
そして早めにひとりで並んでいたのが功を奏して前から5列目くらい?の中央に陣取ることが出来た。
そしてがっつり18:30~21:00過ぎまで中入りを挟んでの落語三昧。やっぱり好きだわ~。喋りだけであそこまで会場を笑わせる。
日本の話芸だわ。
日本が誇る文化だわ。
トリは桂文珍さん。
やっぱりトリになるにはトリになる理由がある。知名度?違う!話術の差だ。1番面白い。
圧倒的なマクラの面白さ。そして古典落語をただの古典にしない。現代でも楽しめるように間に「挟んでくる」。
その構成や間は誰も真似できない。
「文珍落語」である。
独演会のチラシももらったのだが、文珍さんひとりで今回の落語会の木戸銭を倍にした額を取る。
その価値がある。それほどの差が生まれるのだ。
練習量や知識だけじゃない。努力?それもあるだろうが、それだけでもない。それは誰にもわからない。文珍さんだけが知っているのかもしれない。
いろんな落語家がいてそれぞれが違った磨き方をしているのだろう。
兎にも角にも今夜の落語会はまのじ様様の愉快な時間を過ごさせてもらいました。そしていつも愉快な日常生活話も爆笑しながら聴かせてもらっていて、2重に面白い構成になっているのであります。
そして夜遅くなってシャッターの降りた元町商店街を後にして、通勤の神戸電鉄で帰路につく。みんな何やら疲れている。当然だ。会社帰りが多いだろう。みんなは日常なのだ。楽しそうな人は1人もいない。唯一周りをキョロキョロ出来る楽しそうな人。それは僕だ。
落語で笑って邪気が抜けたのかスッキリ。
周りの人達の邪気が見えるくらいスッキリ。
元気だから夜の駅から自宅まで20分はかかるのだが、イヤホンから聴こえる音楽と落語の余韻で足取りも軽い。寒さも感じない。
落語鑑賞はとてもいい趣味である。
ハマればこれはこれで高くつくのだが、月1の楽しみだとしては十分幸せである。
会場の風景も脳裏に浮かんでくる。
満員と立ち見の会場。暖房での暑さと熱気。老人の蠢く姿。平均年齢は60歳をゆうに超えているだろう。ただめちゃくちゃ元気そうだ。
中には重病人もいるのかもしれないのだが、欠片も感じない。完全な健康優良高齢化社会である。観客よりも落語家の方が若い。恐ろしいものである。
ただ一点。老人は目と耳がバカになっている。携帯電話の音が聴こえない。自分の携帯が鳴っても「自分じゃない」と思っている。いや、そもそもそんな音は聴こえない。
iPhoneのデフォルト通知音「ピロリ」が鳴る。同じ人から3回鳴った。なぜに電源を切らない?電話がならないから!と安心している。カスだ。アレだけ落語家さんのマクラで携帯の話をしているのに自分のことだとは思えないのだ。
それほどマナーを守れないのにiPhoneを持っている。カスだ。早く死んで欲しい。落語にも来てほしくない。劇場でのマナー違反は重罪である。死刑に値すると思っている。僕なんかビクビクしながら2回も3回も携帯の電源が切れているかを確認する。だって死刑なんだから。
こんなことで死にたくない。
だから老人だからとし言って甘やかす必要はない。そもそもそういう人を笑う噺を聴きに来ているのだ。自分のバカを笑っているようなものだ。相当バカだ。
と久しぶりにボヤいてみる。
落語は高尚な趣味である。
観る人も高尚であってほしい。
高くない木戸銭だから客の質も悪いなどと思われたくもない。
会場全体で楽しい雰囲気になる。
それが落語という古典芸能だと思う。
携帯の音が出てしまうのは確実にその気質がない。注意散漫なのだ。会場に並んでチケットを買って時間と日にちを忘れないくらいの脳みそがあれば、携帯の電源を切ることは簡単なのだから。
今日はこんな感じで、お後が宜しいようで。


