北九州八幡から発信
八幡、やはた、やわた、はちまん
佐木隆三文学碑
高炉台公園に、
作家・佐木隆三さんの文学碑がある。
と聞いていたので、行ってみました。
4月1日の午後、天気快晴 花見日和、
肝心の桜は???
碑の前に、段ボールのお供え物?
空箱で、花見客の荷物梱包用かな。
チョット、どかして撮影!
復讐するは
我にあり
佐木隆三
自筆でしょうか?
2014年10月(亡くなる1年前)、
ご本人も参加して、
建立式が行われたそうです。
「復讐するは我にあり」、本は読みましたし、
映画(TVで)も観ました。
調べたら、「復讐するは我にあり」
という言葉は、聖書からの引用で、
「復讐は人間の手によってではなく
神の手によって行なわれる」
という意味だそうです。
桜の木を挟んで隣が、岩下俊作文学碑です。
八幡製鉄所時代から、
佐木さんが文学の師として慕っていた岩下俊作氏。
岩下さんの碑より、
低く、小さく、存在感を半分にして欲しい。
と、本人が希望されたそうです。
∞ -*- ∞ -*- ∞ -*- ∞ -*- ∞ -*- ∞ -*- ∞
岩下俊作
吉岡夫人の
手を把んだ松五郎は、直に
「奥さん済まん」と叫ぶと
身を翻して飛び出した
―― 風の様に、下駄を履かずに
闇に消えた ――。
(無法松の一生より)
岩下俊作文学碑に、書かれている碑文の内容です。
○o。.*:._.:*.○o。.*:._.:*.○o。.*:._.:*.o○o。.*:
ーおまけー
中央町で、前から気になっていた物を確認しました。
中央町交差点の、この信号機に注目して下さい。
北九州レインボープラザの前、
向かいは丸物でした。(現、大八木眼科の場所)
この「S-0002」は、
福岡県内で、2番目に設置された
信号機を意味するそうです。
昭和10年6月です。
(当然、当時の物じゃないですよ。
何代目か、でしょう。)
じゃあ、(福岡県の)1番は?
その1年前の昭和9年5月設置の、
福岡市天神交差点だそうです。
ちなみに、日本最初の信号機は、
昭和5年3月東京の日比谷交差点です。
昔の八幡は大都会だった?!
(その通りだと思います。)
コメント ( 16 ) | Trackback ( 0 )
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たしか門司港レトロの 高ーーいタワー マンションに住まわれてましたよネ。
私もテレビで観たことあります。
岩下俊作さん 懐かしい・・・
私の成人式の記念講演 岩下俊作さんだったんですよ。
高炉台公園 今日は多かったでしょうね。。
私ぎっくり腰で 自宅謹慎しています。
佐木隆三さん、一度だけ街を歩いてる姿を見た事あります。
当時はほんと門司港に住んでいらっしゃいましたね。
文学碑の前に段ボール置いてるなんて・・・
しっかりどかして撮影されてるって凄いな!
私だったら気が弱いから、仕方なくそのまま撮影してたかも・・・
信号機の話ですが、八幡が福岡県内で2番目なんですね!
知らなかったです!
お勉強になりました!
映画化の際は
別の話題が
クローズアップされましたね
主人公は榎津巌
けれど
映画の中では
榎津厳
画面上に
いっぱい出てくる
どうにも「いわお」とは読めません
なのに「いわお」と呼ばれている
なんてちゃらんぽらん
中央区の交通信号機
前薗先生の十八番
中央区の話の際は
絶対出てきますね
佐木隆三さんって門司に住まわれていたのですね
碑の前に置かれたダンボール
お花見客のものですかね
TVで花見客のマナーが悪すぎるって言っていました
八幡は大都会だったんだぁ~~
私がいた頃は活気にあふれていました
おーレインボープラザはまだあるんですかね
私はそこで結婚式を挙げました
懐かしいなぁ~~知り合った場所がそこだったからという
単純な理由ですが(笑)
春休みが終わって町が静かになったら写真展を見にいこうと思っているんです
ここから
大蔵抜けて の
旧国道3号
電車道
交通地獄なんて
言われた頃だと思いますが
北九州一番の交通量だったそうですね
そのため
戸畑バイパスが急遽
造られたとか
佐木隆三さんが北九州に帰ってきた時は、
レトロ展望室のあるマンションに住んでいましたね。
その後、門司港の山手、山の奥?に引っ越しています。
momomamaさんの成人式の時に、
岩下俊作が記念講演を。それは印象に残りますね。
私の時は? 全然記憶に無いです。
ぎっくり腰ですか? それは辛いですね。
自宅謹慎?しとけば、・・・。お大事に!
レトロで、佐木さんを見かけたことがあるんですね。
週刊誌か新聞で読んだが、
「還暦過ぎたら、故郷に帰って作家生活をしたい。」
と言ってましたが、八幡でなく門司港だった。
作家活動・執筆には環境がいいんでしょうね。
文学碑の前に段ボールですからね。
中は空っぽだったから、そーっとネ。
でも、また元に戻した。
信号機の話は、意外や意外ですね。
小倉や門司より先だったとは?(ゴメン!)
主人公は榎津巌、映画の字幕?は榎津厳、
「巌」と「厳」の違い、よく観察してますね。
それよりも、緒形拳の演技がよかった。
中央町の信号機の話は、
郷土史?関係者には、常識なんですね。
私が知ったのは、つい最近。友人のブログかFBです。
信号は旧国道3号・電車通りですから、
その後すぐに、小倉とかが続いたのでは?
戸畑バイパスもだけど、
その前に、先を読んで、復興道路でしょうね。
佐木隆三さんは、中学、高校、そして作家として、
東京へ出るまで、八幡に住んでいました。
帰ってきたら、八幡じゃなくて門司港だった。
えっ! レインボーブラザーで知り合って、
レインボーブラザーで結婚式を。
いえいえ、単純じゃないですよ。
そこには、深い深い思い出がある。
ロマンチックの先端を行くじゃないですか。
レインボーブラザーが建つ前は公園だった。
起業祭では舞台が出来て、賑わっていましたよ。
(場所が一等地だから。)
写真展の帰りに、寄ってみては。
公共空地
みたいな場所だったようですね
戸畑市役所も
若松市役所も
すぐ近くに
広場があったようですね
やっぱり
行事等に
皆が集められる場所が
役所傍に
必要だったのでしょうね
そうですね。 横の道を挟んで、
八幡市役所(現、八幡東区役所)ですから。
舞台・ステージはコンクリート製の常設でした。
私の記憶では、起業祭のメインステージですね。
それと、昭和30年代の初め、
NHKの街頭テレビが設置されていました。
まだ、一般の家庭には、ほど遠い存在でしたから。
何回か、観たことあります。
佐木隆三・岩下俊作文学碑がある所は、
すり鉢状のステージがある北側の端です。
写真で分かるように、八幡東体育館が見えます。
信号機は何か昔の物が、名残が、残っていれば・・・。
今度は何を? お任せます。
そうそう、筑前と豊前の国境に近い櫓山荘公園(櫓山荘跡)
夏に行ってみますよ。
すっかり春めいてきましたね。こちらは時折強風が吹くことがあって困ったものです。家のそばの桃の花が今満開です。白とピンクのまるで雪のようです。
佐木隆三さん、数年前門司の別荘でテレビの取材を受けていましたね。師匠より小さいお墓、昔かたぎの人は律儀ですね。
「小倉生まれの玄海育ち」典型的九州男児『無法松の一生』、原作者については知識がなかったです。有名な方だったのですね。
戦前の坂妻主演、稲垣浩監督版の映画が印象に残っています。この映画色々と話題が多くてヒロインの園井恵子さんは、このあと移動演劇隊に加わり広島で原爆に遭い被爆して死去。その子ども役は長門裕之さんでしたね。
お墓ではなかったですね。文学碑でした。失礼致しました(汗)。
岩下俊作さんは小倉の人ですが、
八幡製鉄所に(確か)年満まで勤務されています。
だから、佐木隆三さんの大先輩です。
いろいろお世話になったんだと思います。
「岩下さんの碑より、低く小さく、
存在感を半分にして欲しい」
佐木さんらしい言葉です。 花尾中学の同窓会で、
佐木さんの講演を聴いたことがありますから。
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