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山の中の一本桜


 又又、桜です。
福智山の麓、上野(あがの)登山口から約30分の所に、
推定樹齢600年の一本桜(エドヒガン)があります。
誰が名付けたか知らないが、その名を「虎尾桜」と言います。

ほゞ毎年見に行っていますが、
今年は寒かったせいか、かなり遅いです。
7日(木)に、行ってきました。

*:.。..。.:*・゜゜・ *:.。..。.:*・゜ ゜・*:.。. .。:

上野(あがの)登山口です。
ゆっくり登って(歩いて)も、25~6分の処に目印の標識があり、



  さらに歩くこと、5~6分。
  辺りがパッと明るくなりました。 
  虎尾桜です。





NHKが取材に来ていました。
月曜日、夕方6:30からの「こんばんは北九州」で放送の予定とか。




ご老体の御歳は還暦10回分、
添え木に支えられ、ロープで引張って貰って、体勢を整えています。



この「KBC水と緑のキャンペーン」で有名になり、
併せて、保存運動が盛んになりました。



昼前でしたが、続々と見物者(登山者)が訪れていました。



樹齢600年、高さ17m、胸高周囲3.8mのエドヒガン桜です。
今年は一番いい時期に来たようです。(近年では最高です。)
満開直前の花の色は、薄紅色。
山の中の一本桜(虎尾桜)を、もう一度ゆっくりご覧下さい。





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隠蓑の「しび着せ祭」


小倉南区隠蓑(かくれみの)「しび着せ祭」に行ってきました。

 祭りと言っても、屋台や出店が出て、大勢の人出で賑わうのではなく、質素で素朴で、しかも短時間(正味30分)で終わるこの地域の伝統行事です。 
(毎年、12月15日午後1時から行われています。)

「しび着せ祭」とは?、
それを説明する前に、話は寿永4年(1185年)3月24日に遡ります。

 “ 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ
      波の下にも みやこありとは ”
 


ご存知、源平最後の戦い、「壇ノ浦の合戦」です。
栄華を誇った平家一門は、二位の尼に抱かれた安徳天皇と共に、
海底に沈みました。

平家物語・先帝の身投げ(巻十一)では、
「そも尼前(あまぜ)、われをばいづちへ具して行かんとするぞ」
と尋ねる安徳天皇を、祖母の二位の尼(清盛の正室、時子)が抱きつつ
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
と、言って身投したとされています。

 (↓九州自動車道の横に隠蓑・安徳天皇御陵があります。)



 処が、安徳天皇の遺骸は史実においても、確認されていないため、壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説が各地に残されています。

 (↓隠蓑の安徳天皇御陵です。)



旧豊前国の企救郡誌によれば、

 壇ノ浦での難を逃れた安徳天皇一行は、門司の田ノ浦へ上陸、松ヶ江村を越えて長野城に2、3ヶ月隠れていたが城主の急死で、再び安住の地を求めて、ここ(隠蓑)までやってきた。

 其の時、村人は住家の藁屋根の葺き替え作業中で一行の姿を見て、すぐに常人でないことを知り、村人達は幼帝(此の時8歳)を藁で隠し、上から藁しびをかぶせて気付かれないようにした。

 更には二位の尼や随行の人々は、背後の御城山(現御笠山)の密林の中に隠し、それにより源氏の追手から逃すことができた。


とあります。


 (↑伝統のしび着せ行事を待つ人々、殆んどがカメラマン)

 その後、ここを隠蓑(かくれみの)村と呼ぶようになり、
いつの頃からか、秋まつり(収穫祭)に安徳天皇を偲んで、
子供にしびを着せ、無事成長を祈る行事が行われるようになりました。

しびとは藁の袴(はかま)のことです。)

ここは小倉の中心部から約10キロ位、離れた鄙びた所で、文字通り山肌の中に隠れるような場所です。

 戦前までは、安徳天皇を偲ぶ『十五日祭り』として村人達は、
外部に一切を公開することなく、密かに行われていたそうですが、戦後、時代の変化とともに一般公開するようになりました。

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*

↓今日の主役安徳天皇役と近所の小学生・幼稚園児達、
 先生に引率されてやってきました。
 (神主さんから注意事項を聞いてます。)




 ↓会場へ向かいます。



 ↓御陵前でお祓いを受けます。



 説明書によれば、
先ず地域で生まれた一歳未満の子に藁を降りかけて、
お祓いが行われるとあります。(主役の安徳天皇役です。)

 だが現在この地域は30数戸、
主役はこの地域に住む方の曾孫さんでした。




 いつの間にか主役(安徳天皇役)が三人に、
  (ご愛嬌、ご愛嬌!)



 儀式が終われば、子供達の出番です。準主役の登場です。
お互いに藁を掛け合ったり、寝転んだり、潜ったり、
兎に角、楽しそうでした。

 この役は近くの小学校の3年生と決っていて、授業の一環だそうです。みんな、この日を楽しみにしていたようでした。



 隠蓑の「しび着せ祭」、理解できたでしょうか、
この地に縁のある安徳天皇を偲んで、子供にしびを着せ無事成長を祈る伝統的な風俗行事でした。(実際は藁をふり掛ける?)

「安徳天皇伝説」
一行はその後、英彦山方面へ向かわれ、終焉は長崎とも、鹿児島とも、言われていまが、この地(隠蓑)で迎えられた。とも言われています。

 だから、
この地に、宮内庁非公認ながら「安徳天皇御陵」があります。
そうして毎年、この様に安徳天皇を偲ぶ行事を行っています。

 隠蓑は、現在も正式地名です。
場所の詳細は、郵便番号802-0834で検索してみて下さい。

簡単な動画を作りました。



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遠賀川のコスモス


 遠賀川の川敷、見事にコスモスの花が満開でした。
22日(金)の夕方、見に行ってきました。場所は水巻町です。

説明抜きで、たゞたゞ、ご覧下さい。
M I Z U M A K I の花文字もありました。

最後の画像は、この時の空模様。
沈み行く西の空、どんよりの雲から円形の虹が出てました。

*:.。..。.:*・゜゜・ *:.。..。.:*・゜ ゜・*:.。. .。.:*

23日~24日が、「第11回水巻町コスモスまつり」です。
先に見て来たら、まつりには行っていません。

土曜日は、まあまあの天気だったが、今日(日曜)は生憎の雨。
検索したら、「ネット中継」をやっていました。 
ハイライトもあります。








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旧唐津街道・芦屋宿を歩く


先日の「筑前芦屋だごびーなとわら馬まつり」に行った時、
旧唐津街道・芦屋宿を、ちょっぴり歩いてきました。

芦屋小学校前の交差点(信号)から、
遠賀川の方向に歩き、突き当たった所から川上の方へ、
この道が多分、旧街道だと思う。



 旧唐津街道は、
若松宿~肥前唐津城間(30里、約118km)に13宿あり、
「若松宿」の次が「芦屋宿」です。

☆○o...:**:...o○☆**☆○o...:**:...o○☆**☆○o...:**:..

「筑前蘆屋宿場構口の跡」です。
(芦屋の【芦】は、昔は【蘆】を使っていました。)
構口(かまえぐち)とは、
いわゆる宿場の出入口のことです。

この石碑が無ければ、
ここが昔栄えた宿場だったとは、全く分かりません。


劇場大國座跡です。(構口のすぐ近くです。)
大国座は1900(明治33)年に建てられた建物で、
定員820人の大劇場と言うから凄いです。
昭和19年に焼失し、戦後の昭和23年に再建されましたが、
経営不振のため、昭和41年に閉鎖・解体。 

えっ、こんな所に!って感じです。 
跡地の一部に建てたのだろうか?
横の建物は幸町公民館とありました。


蘆屋警察署跡です。
明治八年(1875年)福岡県第五大区芦屋警察掛巡視所として、
この地に設置さる。 
仝十年芦屋警察署と改称し、のちに分署を若松・黒崎・赤間に置く
(當時県下では、福岡 久留米 柳川 甘木 八屋 飯塚 小倉と芦屋の八署)
時代の変還に伴い明治二十二年若松に移り、芦屋はその分署となる。

(石碑の裏の説明文より)


更に進むと、遠賀川に突き当たりました。
これより、右側(川上)へ向かいます。


川下を眺めると、なみかけ大橋が、


川上の方は、芦屋橋(現在建替え中)
その後ろに皿倉山と権現山がはっきりと、


川沿いの街道筋です。


福岡藩焚石會所跡です。 (焚石、即ち石炭のことです。)

1837(天保8)年、
福岡藩は新たに制度強化した焚石会所を芦屋・若松に設け、
松本平内の献策した仕組法により、筑豊の石炭の採掘から、
売りさばきまで、藩直営としました。 


筑前蘆屋釜鋳造跡です。
芦屋釜は遠賀川の砂鉄を使い、鎌倉時代より独特の技法で鋳造され、梵鐘・鰐口・香爐等と共に天下に珍重されました。
茶道をやられている方は、ご存知と思いますが、
国の重要文化財に指定されている茶の湯釜9個のうち8個までを芦屋釜が占めています。




芦屋は昔、
福岡藩の米蔵が建ち遠賀川流域の年貢や生産物が集まる町として栄え、「芦屋千軒」と称されるほどの賑わっていました。
宝暦13年(1763年)、堀川運河(芦屋と若松をつなぐ運河)の完成により藩の米蔵が若松に移転し、その後、藩内唯一の石炭の積出港でしたが、これも後に若松に移され、衰退していきました。

それでも、明治の時代まで郡役所があり、遠賀郡の政治・経済の中心であったことは、間違いありません。

現在は、基地(航空自衛隊)の町、競艇の町、農業と漁業の町、
北九州のベッドタウン、そしてリゾートの町でしょうか。
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だごびーな と わら馬 まつり


「筑前芦屋 だごびーな と わら馬 まつり」
9月25、26日、芦屋町の町民会館でありました。

 芦屋町には「八朔の節句」という行事があります。
旧暦八月朔日(今は9月1日)に、初めてその日を迎える子供の健やかな成長を願って、江戸時代の中頃から約300年以上続いている行事です。



 初めての男児には、
藁で作った「馬」に紙で作った武者人形と旗指物を乗せた「八朔の馬」を、
 女児には「米の粉」で団子を作り食紅を練り込んだもので花や野菜などの「だごびーな(団子雛)」を作り、ひな壇に飾ります。

これを翌日の早朝に、
近所の子どもたちが、「わら馬ちょうだい、だごびーなちょうだい」ともらいに来るのです。

この「八朔の節句」は県指定民俗文化財であり、
「わら馬」は福岡を代表する民芸品の一つでもあります。

素朴な美しさを持つ「わら馬」と「だごびーな」、
そして、子どものたちへの愛情あふれるこの習わしが、
いつまでも続いて欲しいと願っています。

  (筑前芦屋だごびーなとわら馬の会 の説明文より、)

 と言うことで、
この行事は芦屋で「初八朔の節句」を迎える家の行事、
その地域以外の人は、中々見ることが出来ません。
そこで一般に公開して、見てもらおうとの趣旨で始めたようです。


  見事に並んだ「わら馬」



この子は、多分初節句だろう。  いい記念写真が撮れたかな?



  右側が、「だごびーな」です。






「だごびーな」「わら馬」の作り方・実演もあり、
一般の人も参加してました。




これは「曳き馬」です。 昔は町内を曳き歩いていたようです。



パネルの写真は、初節句を迎えた家庭の実際の模様です。




   最終日の26日は、午後3時より、
   「わら馬ちょうだい、だごびーなちょうだい」
   じゃないけど、無料配布したそうですが、
   待ちきれず、1時に帰りました。
   お粗末でした。
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