01/3/6
GISTコミュニケーション(株)依頼原稿
海保博之 筑波大学心理学系教授 認知心理学専攻
広告とアカデミズム
アカデミック・アニマル序文
第1 アカデミズムどっぷりの40年
●アカデミズムどっぷりの40年
大学に入ってすぐに睡眠脳波を1晩中とる実験をしていた研究室に出入りするようになったのがアカデミズムとの付き合いの始まりであった。それ以来、あれやこれや、関心のおもむくままに心理学のあちこちに手を出しながら、アカデミズムの世界から一歩も出ることなく、40年がたってしまった。
よほど居心地がよかったのであろう。その間、多くの日本の大学の教官がそうであるように、アカデミズムの世界からまるごと外へ出ることはまったく考えもしなかった。定年まであと5年。多分、このままの状態が続くであろう。続いてほしいという気持ちもある。
●「役に立たない研究」から「役に立つ研究」へ
アカデミズムの世界には、世間からみるとびっくり仰天するようなテーマ---「そんなことやってなんの役に立つの」というようなテーマ---に一生を捧げている研究者がごろごろいる。
自分もかつてはそんなテーマに没頭していたことがある。基礎研究とはそんなものとの思いは今でもある一方では、応用研究、実用研究に手を染めるようになって20年、心理学の基礎研究はもう少しなんとかならないかとの思いもある。
それは、さておくとして、基礎研究の自閉性志向、精密性志向がだんだん自分に合わなくなってきたことの自覚はあったのだと思う。しかし、どうしたらそこから出られるのかがわからなかった。
そんなときの転機になったのが、アメリカ留学中に知り合った加藤隆氏(現関西大学教授)からの誘いであった。取扱説明書(マニュアル)の品質評価の仕事に協力してくれないかというのである。最初はまったく何をすればよいか皆目見当がつかなかったが、話をよくよく聞いてみると、認知心理学が役立ちそうな仕事であった。
そこで、ユーザのマニュアルの読み方のくせ(認知特性)に合わせたマニュアルの設計のための指針作りに取り組むことになった。
最初は手探り状態であったが、2年目が終る頃には、我ながら見事な調査報告書を仕上げて日本IBM(株)へ納入することができた。さらに、日本IBMのご好意で、共立出版から「ユーザ読み手の心をつかむマニュアルの書き方」という本として出版させてもらうこともできた。
これがきっかけで、一気に基礎研究の現場から離れて、実用研究の世界に足を踏み入れることになった。そこには、実に多彩な解決を待つ問題があった。「わかりやすさ」をキーワードに、求められるままにそれらにそれなりの提言をしているうちに、プレゼンテーション、ドキュメント、各種表示、さらには、ヒューマン・エラーへと間口がどんどん広がって、ここ3年くらいは、恐る恐るながら、広告表現にまで手を出すようになってしまった次第である。
それにしても楽しい世界があるものである。アカデミズムの世界に閉じこもっていてはまったく想像もつかない楽しさである。
第2 広告の読まれ方
前置きが長くなった。アカデミズム---ここでは認知心理学となるが---と広告の話である。
まずは、新聞広告の読まれ方について。
新聞広告は、なかなか見てもらえないし、ましてや読んでもらうなんて夢の夢。
かつて、日経新聞の全面広告を使った調査に協力させていただいたことがある。それによると、朝刊の広告を「確かに見た」とする割合---注目率---は、平均的にほぼ30%、そのうち、「詳しく見た」「ざっと見た」割合---精読率---は、平均的にほぼ10%であった。
100人のうち、30人くらいは広告の存在に気がつき、そのうち3人くらいは内容まで読んだということである。
FAXを使って継続的に調査を行なっている日経リサーチ(株)によると、広告によって大きなばらつきはあるが、だいたい、この程度の数値らしい。
当然、この数値をもっと高められないかということになる。
広告が見て読まれるまでは、次の4段階があるように思う。
(1)誘目段階
瞬間的に(500ミリ秒程度)広告に目を向ける段階。内容の取り込みまではいかない。ただ、目を広告に引きつけるだけである。大きさ、色、ビジュアル(フォント、絵、写真、イラスト)などが、その役割をもっぱら担っている。
(2)一瞥(いちべつ)段階
広告の目につく表示の部分から情報を拾う段階。注意のおもむくままに情報を拾い、「おもしろそう」とか「すてき」とかいった感性評価を行ない、次の段階に進むかどうかの決定をする。色、ビジュアルの質や情報量が決め手となる。
(3)概読段階
読み手の興味関心に従って、2秒程度の時間で広告から必要な情報をざっと拾い出す段階。スローガンやキャッチコピーやボディコピーの見出しやビジュアルの内容が情報を提供することになる。
(4)精読段階
ボディコピーや仕様まできちんと時間をかけて読む段階。広告の見かけより内容が問われることになる。
この段階で言うなら、注目率は、一瞥段階まで行った人の割合、精読率は概読段階と精読段階まで行った人の割合となる。
読み手をどうしたら、精読段階まで、いやせめて概読段階まで誘導するか。そこが、広告制作者の腕の見せ所となる。
第3 広告解体「心」書
GISTコミュニケーション(株)制作の一つの新聞広告を素材に、広告解体「心」書をやってみよう。なお、「心」書の「心」は、広告の読み手の心理から解剖してみるの意を込めたしゃれである。
またこの広告を選んだのは他意はない。たまたま送られてきたパンフレットの冒頭にあって目についただけのことである。
この広告の見どころは4つではないかと思う。
******NECインターナショナル
広告を入れる
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●一瞥して目に入る情報がネガティブを基調にしているところ
---概読段階への誘導
恐怖や不安を喚起する広告が一つのタイプとしてある。たとえば、事故災害の写真を使ったり、犯罪場面を使ったりするような広告である。そのものずばりを訴える場合もあるし、もっぱらアイキャッチャーとしてだけ使う場合もある。
いずれにしても、概読段階へ誘導するには効果的である。人は怖いもの、見なれないものには注意を引かれるからである。
恐怖や不安喚起広告に近いタイプとして、このNEC広告のように、ネガティブを基調にした広告のタイプもある。
キャッチコピーとして、
・禁止表現 例「---するな」「---すると危険」「----に注意」
・否定表現 例「---できない」「---でない」
ビジュアルとしては、たとえば、
・暗いイメージを与えるもの 例 うれぶれた光景 灰色系統の色
うなだれ男の裸体
ネガティブ広告も、恐怖・不安喚起広告と同じで、広告表現のなかでは数は少ない。少ないが故に概読段階へ誘導する効果はある。一種の孤立項効果である。ほかと違っている、ただそれだけで目立つ。
さらに、「怖いもの見たさ」と同じで、「なぜあえてネガティブなの」ということもある。知的好奇心の喚起である。これは、概読へと誘う。
ただ、ネガティブ広告は、きわものである。
「いそがしい人が、本当に手を出さなくなる(見てくれなくなる)」かもしれない。男のうなだれた裸体に嫌悪感を抱かれてしまうかもしれない。ネガティブなものからはできるだけ遠ざかりたいのが本音である。
となると、概読段階、精読段階へと誘導することはかなわない。
それだけに高度な表現技術が要求されるところである。以下の2つの趣向にその技術の一端を見ることができる。
●欲しい情報が概読できる---概読支援
ネガティブ表現は「しゃれ」であることをたちどころにわからせることが必要である。そうしないと、読み手に逃げられてしまうかもしれないからである。
NECの広告では、左側に、「ハマル、クセになる」「今世紀最後のパズルゲーム」の第2キャッチコピー(ボディコピーの小見だし)、さらに、実物の箱の表示「頭脳の格闘技」を配置することで、左側への視線のざっとした動きによる概読でただちに、ネガティブ表現が「しゃれ」であることに気づくようになっている。
さらに、視線をそのまま最下段まで流すことで、値段表示にまでたどりつけるようにしているところも、心にくい。
右側に配置した有名人(?)の評判情報は、精読のための情報であるから、この程度の目立ちやすさで十分である。読みたい人だけが読んで役立つ情報だからである。
●左右対称、上部余白でゆったり感、下部重視型で安定---一瞥支援
全体のレイアウトもポリシーがはっきりしている。
一つは、左右対称である。
真ん中の男の裸体の背骨が正中面になって全体を左右対称に分けている。さらに、キャッチコピーも行間が正中面と一致していること、頭を真下にうなだれているのも、正中面をそれとなく(「陰に」)見せるのに貢献している。
対称レイアウトは、シンプル感を与えるので、情報満載感がない。読んでみようかという気持ちにさせる。また、眼球の動きも安定しているので、情報の拾い出しが楽である
しかし、完璧な対称は奇抜さに欠ける。惹起力の点で弱い。その点、NEC広告は、左と右で、情報量と内容の点で「弱い」アンバランスを導入することで、完璧対称よる単調感を避けている。
NEC広告のレイアウトのもう一つの特徴は、情報を下部に重点的に配置することで、安定感の演出と余白効果をねらっているところである。これによって、ネガティブ広告の内容的な不安感を見た目の安定感と余裕感で払拭し、さらに、NECのスローガンが際立たせることにも成功している。
●物語作りができる---精読支援
衣食が足りてくると、人は物語(意味)を求めるようになってくる。自分の人生の物語を作り出したいという思いを持つようになる。もの一つ買うにも、物語を求めるようになる。
腹が満たせることよりも、満たすことの意味を
身体を隠すことよりも、隠すことの意味を
というわけである。
広告にも、消費者の物語作りを助ける役割もある。それを買うことにどんな意味があるのか、ひいてはどんな豊かな物語が作り出せるのかを示してやることもあってよい。
消費者の作る物語は自分独特のものであってはじめて人生物語にふさわしい。したがって、過度な押しつけは禁物。控え目な意味づけ、「陰に」見えてくる程度の、奥ゆかしい意味づけ情報の提供がふさわしい。
NEC広告のキャッチコピーと左側部分の第2、第3のキャッチに、アクティブな(押しつけ的?)意味づけ情報。右側部分の評判情報にパッシブな(控え目な)意味づけ情報。
いずれも、物語作りを希求している消費者には、有効な情報提供になっている。
第4 どうしてこんな広告が作れるの
●制作するタレントと評価するタレント
広告解体心「書」はいかがであったろうか。
この広告を制作した人に、前述の解体「心」書について次の3点をお聞きしたにところである。
一つは、前述のコメントのうちで、「確かに自分もそのようにはっきりと意識して制作した」のはどれかということである。
それが、制作者が共有している広告制作技術である。これに関しては、実は、筆者の知識不足が露呈しているところでもある。もっともっとたくさんの技術がこの広告には込められているはずである。文字サイズ、フォント、色調などなど、見落としはご勘弁いただくことになる。
2つは、「確かに自分では意識して使ってきた技術であるが、それが心理学的にそういう意味があるのか」と得心したのはどこかということである。
制作者は膨大な経験知を持っている。経験知の特徴は、「その場でそれを」作るのに役立つのが特徴である。これを領域固有という。
しかし、知は常に一般化・体系化の方向へ自己増殖しようとする。そのときに、アカデミズムが役立つ。
今回は、認知心理学であったが、それは広告学でもよし、デザイン学でもよい。いずれにしても、経験知の体系化を支援するのがアカデミズムである。
今回の解体「心」書が制作者の経験知を体系化するためのお役に少しでも立てればうれしい。
最後は、「なるほど、そう言われてみれば、そうだ」というようなのはどれかということである。
文章を書くときもそうであるが、一般に、何かを制作する過程で、制作者は必ずしも自分のすることをすべて意識しながらやっているわけではない。むしろ、ほとんど無意識的にやっていることのほうが多い。それが新しい創発的な試みであればあるほどそうである。
したがって、出来上がったものをみて、それは、どうしてそのようにしたのかを制作者に問いただしても、必ずしも明確な答えが得られない。
これがもの作りに関する知識を遺伝する難しさの背景にある。
それでも、それぞれの領域で、今回試みたような制作技術の抽出を行いそれを蓄積していくことで、制作技術の効率化と向上が期待できるのではないかと思う。そう思って、そうした試みをマニュアルについて、これまで20年間やってきた。
●技術か芸術か
かつて、日本のマニュアルを大きく変えるのに貢献したとてつもなく優秀なマニュアル(1985年発行)と、機種の進化に伴って改訂を続けて7年くらいたったそのマニュアルとを比較してみたことがある。
驚くことに、機種は進化したが、マニュアルは退化してしまっているのである。初版に作り込まれている素晴らしい趣向のいくつかがあっさりと消えてしまい、劣悪な表現が随所に出てきてしまうのである。
なぜなのか。
マニュアル作りにしても、そして多分広告作りにしても、「芸術家」が制作しているからではないかと思う。
「芸術家」なら、水準の高い作品が作れてなんぼの評価。作れればそれでよい。どうすればそんなに優れた作品が作れるかはむしろ秘中の秘というようなところがある。というより、自分でも実はわからないところもある。
しかし、よくよく考えるともったいない。知としての蓄積がその人の中だけにとどまってしまう。その人いなくなったら終りである。
工学技術は、物作り職人が持っていた「芸術」の部分を明示的に取り出して技術として体系化し蓄積してきた。今話題の「ものつくり大学」は、それを若い世代に効率的に遺伝していこうとの高邁な理想をかかげた教育機関である。設立の経緯が汚れてしまってのが、関係者ならずともくやしい。
広告作りも、制作者個人の中に埋もれてしまっている技術があるはず。それを明示的なものとして抽出し固定していく努力が必要である。アカデミズムはそのときの道具立てとして役立つはずである。
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