■『映画芸術』(2004年夏号・季刊誌)2頁
<文・大口和久>【編集プロダクション映芸】
*FILM CRITIQUES 珈琲時光 監督:侯孝賢
「誰か」と「何か」が生きる至福の時空
〝まるでメイキングのカメラで撮られた本番の映像だけで編集されたものが『珈琲時光』という本編となり、現場にいる一青窈そのものがまんま映画の中の陽子となっているような不思議かつ複雑な捉え方がなされているのだ。……映画自体はそんな一青窈をもっと外から撮って「陽子」としているようで、だからそれは一青窈とも陽子とも断定できない「誰か」になってしまう。ここに小津映画との接点が生まれている。なぜならば小津映画の笠智衆も原節子も、本人と登場人物とも違う「誰か」として撮られているからだ〝
<<と本文で分析しているが、ちょっと難解である。>>
<文・大口和久>【編集プロダクション映芸】
*FILM CRITIQUES 珈琲時光 監督:侯孝賢
「誰か」と「何か」が生きる至福の時空
〝まるでメイキングのカメラで撮られた本番の映像だけで編集されたものが『珈琲時光』という本編となり、現場にいる一青窈そのものがまんま映画の中の陽子となっているような不思議かつ複雑な捉え方がなされているのだ。……映画自体はそんな一青窈をもっと外から撮って「陽子」としているようで、だからそれは一青窈とも陽子とも断定できない「誰か」になってしまう。ここに小津映画との接点が生まれている。なぜならば小津映画の笠智衆も原節子も、本人と登場人物とも違う「誰か」として撮られているからだ〝
<<と本文で分析しているが、ちょっと難解である。>>
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