平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2012年2月5日 真実に聖書に耳を傾ける

2012-03-20 21:45:37 | 2012年
ルカによる福音書16章19~31節
真実に聖書に耳を傾ける


 このたとえ話は、私たちに天国と地獄のイメージを鮮明にさせるものであると、考える人もいるでしょう。或いは、生前によい行いをしていないと地獄に落ちる、特に、貧しい人々や弱っている人々には親切にしておくことが必要だ、そう考える人もおられるでしょう。あるいは、この世で、富んでいた者、よいものを得ていた者は、地獄におち、この世では貧しかった者、よいものを得られなかった者は、天国に行けるのだ、と考える人もおられるでしょう。
 ただし、聖書は、天国、神の国について、いろいろな情報を私たちに提供してくれていますので、ここに描かれている天国と地獄の情景こそ、ほんとうに真実なのだとまとめられるものではありません。私たちは、聖書が提供してくれる情報によって、それぞれが、何となく、天国、神の国のイメージを抱いているに過ぎないのです。そして、また、誰が天に上げられるのか、誰が地に下るのか、そういったことも論じてはならない、とそう書かれてもおります。それらは、神様がお決めになられることであって、主権は神様にあり、私たちには到底わからないことであり、わからなくてよいことでもあるからです。
 イエス様は、このとき、当時の人々が抱いていた天国と地獄のイメージを用いながら、金に執着しているファリサイ派の人々に、彼らの誤りを指摘したのでした。ですから、イエス様の天国と地獄のイメージとして、イコールで結ばない方がよいかもしれないのです。しかし、これらのこともまた、天国をイメージするときの一つとしての情報、手がかりであるとは言えるわけです。
 話しを元に戻します。このたとえ話の相手は、金に執着しているファリサイ派の人々でした。ファリサイ派と言えば、律法を忠実に守って生活をしている、むしろ禁欲的な人々かと、思うのですが、そのようなファリサイ派の人々もいたということです。その彼らが、それまで、イエス様のお話を聞いていて、イエス様をあざ笑ったのでした。
 イエス様は、どのような話しをされたのかといいますと、結論の部分から申しますと、「どんな召使も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、そのどちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」というものでした。
 それを聞いていた、ファリサイ派の人々が反応したのでした。彼らは、金に執着していたのでした。そして、イエス様の話されたことを聞いて、イエス様をあざ笑ったのでした。それは、イエス様のお話が、何を言っているのだ、この男は、そう思えたからです。つまり、金に執着していたファリサイ派の人々にとって、自分たちのありようは、まさに、聖書(旧約聖書)とは矛盾しない、それどころか、聖書に適っているとおそらく信じていたからです。
 例えば、申命記の28章の1節からのところには「もし、あなたがたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、籠もこね鉢も祝福される。あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される」と書かれています。
 ファリサイ派の人々は、自分たちは、律法にとても忠実に生きている、聖書の御言葉に実によく従っている、だからこそ、たくさんの祝福を受けている、特に、金に執着して、富を築いていたファリサイ派の人は、そう思っていたことでしょう。ですから、彼らにとって、神様に仕えているからこそ、富も築くことができる、両方は彼らにとって、実に、矛盾することのない、事柄でした。当時の人々も思っていたのです。富んでいる者は、神様に祝福されているからこそ、そのようになっているのだ、と。
 こうした、自分たちのありようを後押ししてくれそうな旧約聖書の箇所は、彼らのイエス様をあざ笑った根拠となっていたことでしょう。聖書は、今の私たちのありようを励ましてくれるものではあります。慰めてくれるものでもあります。しかし、ときに、聖書は、私たちの現在に対して、それでいいのですか、といった厳しく鋭い問いを発するときもあるのです。
 イエス様がなさったのは、ある金持ちと、それとは対照的に、貧しい上に重い皮膚病に侵されて、この金持ちの門前に横たわっていたラザロという男のお話でした。ラザロは、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っておりました。しかし、それすらも、かなわなかったようです。犬もやってきて、そのできものをなめたとあります。つまり、犬でさえ、ラザロのところにやってきてできものをなめ、彼にかまい、彼を慰めようとしているのに、この金持ちは、まったく、ラザロのことを無視していたのでした。
 この金持ちは、金に執着しているファリサイ派の人です。この金持ちは、ファリサイ派の一人ですから、聖書に忠実に生きていると考えている人々です。例えば、聖書の詩編1章4節からのところに「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」と、いうような言葉があります。ラザロのような境遇になっているのは、神様の裁きを受けているといった捉え方もあったでしょう。
 だからこそ、この金持ちは、何もしなかった、あの善きサマリア人のたとえ話しに登場するレビ人や祭司たちのたように、そこに強盗に襲われて瀕死の状態になって倒れている人がいるとはわかっていたけれども、これからの祭儀をおもうと、避けて通っていたった方が無難である、むしろ、かかわってはならない、そういう考えで、見て見ぬふりをしていったレビ人や祭司と同じようなことだったかもしれません。神様がラザロを打とうとされているのだ、手出しをしてはいけない、そう考えて、何もしないということを正当化していた可能性もあります。
 このたとえ話は、このあと、ラザロは死んで天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれました。アブラハムは、ユダヤ人からすると自分たち民族の父祖であり、最高の敬意を払うべき人物だったでしょう。ある意味では、憧れの人物です。そのアブラハムのすぐそばの宴の席にラザロは、連れていかれたのでした。そして、金持ちも死んで葬られましたが、彼は、陰府(地獄)でさいなまれることになりました。そして、ふと見上げると、宴席にいるアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えたのでした。そこで、金持ちは、アブラハムに、「わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしは炎の中でもだえ苦しんでいます」と言いました。
 しかし、アブラハムは、そちらとこちらには、深い淵があって、行き来はできないのだと、いうことでした。ただ、このことをアブラハムは言う前に、「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と言っています。神様のなされる公平、正義、慰め、そういったものを言わんとしているのでしょうか。この世の帳尻は、死後の世界で合わせられることになる、ということでしょうか。
 そこで、この金持ちは、自分たちの肉の兄弟たちのことを思い出しました。彼らも自分と同じように、贅沢をし、遊んでくらしていたのでしょう。それで、この兄弟たちには、自分と同じようなことにならないように、ラザロを遣わして、彼らに言い聞かせてください、と願いました。アブラハムは、言いました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。モーセと預言者というのは、旧約聖書をさしておりました。
 その意味は、お前たちが、よく学んでいる聖書があるではないか、と、ということでした。金持ちは、お金に執着しているファリサイ派の人です。金持ちは、「いいえ、アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟たちのところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。金持ちの本音が出たところです。金に執着しているファリサイ派の本音ということでしょうか、実際のところ、彼らにとって、聖書はどうでもよいかのようです。それよりは、奇跡です。死んだラザロが生き返って彼らのところへ行くという奇跡です。
 その事柄が起これば、兄弟たちは、はっとし、恐れおののいて、悔い改めるでしょう、と金持ちは考えました。しかし、アブラハムは、言うのです。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。
 この意味は、あなたたちは、ほんとうに聖書に真実に耳を傾けようとしてきたのか、聖書には、例えば、申命記15章の7節からのところですが、「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの街に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」とあります。また、レビ記19章の9節からには「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」。そのように、旧約聖書にも、貧しい者へ手を差し伸べることへの勧めがまだ他にもいろいろなところで述べられています。
 にもかかわらず、フィリサイ派の人々は、貧しい者や病を負っている人々に対して、実に、冷たかったのでしょう。しかし、そうした自分たちの行動を聖書(旧約聖書)の御言葉で、正当化しておりました。イエス様の言われていることについても、自分たちは、自分たちの生き方について、何ら矛盾を感じることはありませんでした。それどころか、むしろ、イエス様の言われることをおかしいことを言う男だ、くらいに考えていたのです。
 ですから、イエス様に、いくらラザロのように、生き返った者が生存している者たちのところへ行ったところで、聖書そのものに真実に耳を傾けようとはしないのだから、それは無駄である、と痛烈な皮肉を言われることになってしまいました。彼らは、自分たちこそは、誰よりも、聖書を学び、それを実践している者たちであるといった自負を持っておりました。
 それが、何ら、聖書を真実には、読もうしない者たちであると、非難されたのでした。それから、「たとえ死者の中から生き返る者があったとしても」という、生き返る者というのは、ラザロをさしていますが、実際は、それはイエス様であったわけですから、いくらイエス様が復活されて、そのことを伝えたところで、聞く耳をもたないだろうと、いうような意味にもとれます。そして、それは、歴史的にそうだったわけであります。
 さて、今日は、信教の自由をおぼえての礼拝を守っております。私たちが、こうして、堂々と礼拝を守れるのも、信教の自由があるからです。戦前、それは、そうではありませんでした。私たちの先達たちは、あの時代、まず神様に捧げる礼拝の前に、現人神であると言われていた天皇がいる東の方を向いて、おじぎをしてから、礼拝に望んでいたのでした。自由思想や反戦思想を持つ牧師の教会には、いわゆる特高という人々が監視に来ていたと言われます。そして、弾圧にあい、牢獄に入れられ、拷問にあわせられた牧師たちも幾人かおられたのです。
 しかし、多くは、当時の時代状況の中で、自分たちの保身を願うあまり、国の命令するままに、ことを成していたのです。残念なことですが、ミッションスクールであり、私たちバプテストの教派神学校である西南学院もそうでした。しかし、おそらく、そうやって体制に従い、それどころか、おもねっていた人々は、現人神である天皇を拝むことと、真の神様を礼拝することの間には、何ら矛盾することはないと言い聞かせていたはずであります。そして、その根拠を聖書の中に見つけていた可能性があります。
 いかなる状況の中にあっても、聖書に真実に耳を傾けることが大切です。それは、そのときの自分には、とても耳の痛いことである、ときに命にかかわることである、そういう場合もあるでしょう。特に、色々な状況の過酷さに負けて、自分の都合のいいように考えたがるのは、弱い私たち人間の特性です。しかし、聖書は、それでいいのか、神様に従うことに真実になるのかと、厳しいことを私たちに突きつけるのです。そのときには、真実に、謙虚に、神様の御言葉に耳を傾けることです。
 「アブラハムは言った。もし、モーセや預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。前の戦争のとき、私たちの先達の多くが、聖書に、真実に耳を傾けなかったがゆえに、国家の戦争犯罪に加担していくという、大きな罪を犯しました。
 そのとき、同時に、私たちは、国家権力という大きな力だったとは言え、真の神様の前に、目に見える人間を神として拝むという、最もしてはならない誤りを犯していたのです。真実に、謙虚に、神様の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。私たちがいつまでも堂々と礼拝が守られる世が続くために、そして、アジアの方々を苦しめた、あの戦争という誤りを二度と犯さないためにも、そうしてまいりましょう。


平良師

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