平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2014年10月12日 罪が緋のようでも雪のように白くなる

2014-12-31 23:43:57 | 2014年
イザヤ書1章10~20節
罪が緋のようでも雪のように白くなる

 イザヤ書の1章2節からは、南ユダへの審判が語られています。南ユダというのは、ソロモン王のあと、イスラエルの国は、南北に分裂しますが、その南の方の国です。そして、イザヤは、その南ユダの預言者として、神様の召命に与り、それに応答しました。イザヤの召命の話は、6章に出てまいりますが、この1章などは、話が前後しているのかもしれません。
 この1章に書かれていることは、神様が、育てて大きくしたイスラエルの国、その国の人々は、神様に背いたと、その罪が指摘されています。イスラエルの人々は、いったい誰が真の神様であるかを今や知らないと言います。家畜ですら、自分の主人が誰であるかを知っているのに、とあります。えらい皮肉だと思います。彼らは、罪を犯している、堕落しており、真の神様を捨て、神様を侮り、背を向けたと言います。その背きの内容は、これからとくとくと、イザヤ書の至るところで語られることになります。
 人々は、真実にはいろいろなところが痛んでいると言います。それは、神様に背いたからであって、神様の怒りを招いた結果なのだ、と理解されます。「何故、お前たちは背きを重ね、なおも打たれようとするのか」。人々だけでなく、町々も、荒廃し、田畑の実りは、他の民族に奪いとられ、ひどいありさまです。
 この5節から8節の内容は、アッシリアのセンナケリブという王が、ユダに攻めてきて、ユダの国土、ユダの人々に危害を与えたということがあったと言われていますが、そのことを具体的な内容としては指しているのではないか、ということです。神様が他国の勢力を用いて、ユダを懲らしめたということです。そして、神様がわずかの生存者を残すということがなければ、まるでソドムやゴモラのようになっていただろうと書かれています。聖書において、ソドムとゴモラは、悪徳の故に、火の雨が降り、神様に滅ぼされた町でした。
 神様は、今や、ユダの人々が、献げるいけにえ、祝う祭りや礼拝、祈りなども、受け入れないと言われます。「お前たちのささげるいけにえがわたしにとって何になろうか」、「こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか」、「むなしい献げ物を再び持ってくるな」、「お前たちの新月祭や、定められた日の祭をわたしは憎んでやまない」、「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない」。
 なぜなら、彼らは、そうやって神様を礼拝しているように見えるが、一方で、悪を行い、搾取する者を擁護し、孤児の権利を踏みにじり、やもめの訴えに耳を傾けようとしないからだ、と言われます。「洗って清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うのをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。
 ここで言われていることは、神様を一方で、拝み、宗教的な祭事を行っているけれども、一方で、ユダの社会の中に正義が行われていない、ということです。それは、単に為政者だけの問題ではなく、広く国民全体に蔓延している個々人の罪の問題でもあるということです。
 18節では、「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる」と述べられています。まず、はじめの「論じ合おうではないか」とは、いかなる意味でしょうか。
 神様は、全知全能の絶対者なる主権者ですから、罪を犯したイスラエルの人々と論じ合うなど、その必要はないのではないでしょうか。一方的にその罪を断罪すればよいでしょう。論じ合うというのは、イスラエルの人々の言い分を聞こうという、神様のお姿をみることもできます。なぜ、そうなったのかの理由です。なぜ、そのような罪を犯したのかの言い訳です。
 しかし、それを聞いて場合によっては、それを赦そうという姿勢をもった言葉かというとそうでもなさそうです。その場は、まず、彼らの罪が明らかになる場であるということではないでしょうか。そして、彼らの罪の言い訳に耳を傾けるというよりも、それを聞いて、彼らの罪がはっきりとし、彼ら自らに、その罪を認識させるということです。
 それから、悔い改め、それ以後神様に従って行こうとするならば、「お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる」と言われるのです。「罪が緋のようでも」というときの、緋というのは、「火のような、濃く明るい紅色」ということで、実に鮮やかな赤色という意味ですが、そのように罪が濃く、はっきりとしているということでしょう。それでも、悔い改めて、神様に従うならば、雪のような、つまり、真っ白になるということで、そのように罪の痕跡が取り除かれ、赦されるという意味です。
 ですから、この「論じ合おう」というのは、繰り返しになりますが、対等な立場でというよりも、この場は、罪を明らかにする法廷であって、そこに人々を出頭させる召喚(これこれの日時に裁判所に出廷せよ)の意味を表すことばと言ってよいでしょう。
 そこで、人々の罪が明らかになります。そして、そのあと、彼らがその罪の認識をはっきりと持ち、悔い改め、神様に従っていこうとすることを願っているのです。
 「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる」とは、そういう意味でしょう。
 もちろん、その前の16節からのところにも、悔い改めの具体的な内容が書かれています。「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うのをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。これらのことは、神様に従うことです。
 ですから、この箇所は、神様を礼拝し、献金し、祈るという行為と、それは、神様に従うという行為ですけれども、一方において、日ごろの生活のありよう、そこにもまた、神様に従う者の姿が、読み取れなければならない、そこらの整合性を持て、ということになります。
 このとことは、この時代の人々にだけ、述べられていると私たちは思いません。信仰と、そこから出てくる生活スタイル、生活の姿勢は、合致していることが求められているということです。これは、古くからそうであります。熱心な祈りを献げながら、一方で孤児の権利を蹂躙したり、やもめの訴えを無視するようなことはいけない、と言っているのです。これはもっぱら為政者たちへの忠告でしょうが、16節の、「悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ」などといった言葉は、一般の人々にも向けられていることでしょう。
 ただし、信仰と日々の日常生活を整えるということは、これはとても難しいことです。つまり、信仰と行為の一致ということです。特に、これはキリスト教でも、教派によってその考え方、基準のようなものは、まちまちです。ホーリネスのような聖なる信仰生活を重んじるところもあります。アルコールはもちろん、たばこやコーヒーなどもいけないと考える教派もあります。
 電気など、文明そのものの発展を否定するキリスト教のグループもあります。人々は、馬車をいまでも使い、ランプで生活をしています。このように環境破壊が叫ばれるような世界情勢のなかでは、彼らの主張してきたことが正しかったかもしれないと思うこともあります。逆に、例えば、それらの考え方は、えらく道徳的なものの考え方であって、キリスト教は、律法的に人間の行為をがんじがらめにするものではなく、本来もっと人間を自由にし、解放してくれるものではないか、と思うようなこともあるでしょう。
 その根底にあるのは、イエス様の十字架による罪の赦しであり、罪からの自由であり、罪からの解放が語られているのです。そして、パウロは、ガラテヤの信徒への手紙5章などにも、その得られた自由は愛の実践に用いなさいと、教えています。信仰と行為の一致というのは、根本的には、その方が、聖書をどのように読んでいるかということに、なっていくのでしょう。ただし、ここでの、悪い行い、というのは、程度としては、おそらく誰の目から見ても悪い、そういうはっきりとしたものと理解できます。そういった悪い行いについての指摘ではないでしょうか。
 そして、イザヤ書1章20節に続きます。「かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される」とあります。ですから、やはり、この「論じ合おうではないか」というのは、弁解の機会を与えるというよりも、神様の前に立ち、そこで、自分の罪が明らかにされ、それを認識して、その上で、悔い改め、神様に立ち返り、神様に従うようにとの勧めであると思われます。これほどの機会を与えられながらも、それでもなおかたくなになって、神様に背くというのなら、剣の餌食になる、つまり、あなた自身が滅ぼされますよ、といった、一種の裁き、警告が述べられています。
 イザヤ書には、神様の裁きに遭い、懲らしめを受けるユダの人々が描かれていますが、一方においては、残される人々のことも記されています。「わずかでも生存者が残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう」。「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる」、「お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる」。
 神様の裁きは、私たちの命を根こそぎにすることはありません。わずかばかりであるが一抹の望み、赦しがあることが語られています。全くの絶望ではありません。ノアの方舟によって、世の滅びから免れた者たちがいたように、このイザヤの時代にもまた、残される者たちがいるのだ、とわずかな希望が語られています。
 しかし、イエス・キリスト以降、今の時代も当然ですが、この赦しは、イエス・キリストの十字架によって、わずかばかりの人ではなく、すべての者に及ぼされることになりました。
 私たちは、今日の聖書の箇所から、いったい何を学ぶべきでしょうか。一つは、信仰と生活の一致ということです。いくら、礼拝をしっかりと毎週守っていても、献げ物をなし、祈りを毎日欠かさずしていたとしても、日々の生活の中に、その信仰が生かされていないのであれば、それは、神様から喜ばれるものとはなりません。
 もう一つは、悔い改めに遅いということはない、ということです。先週は、そう簡単にお赦しにならない厳しい神様のお姿を見ましたけれども、今日の聖書の箇所からは、神様のみ前にきっちりと立ち、自分の罪を認め、悔い改めて、新たに神様に従って行こうとするのなら、神様は、その者を完璧なまでに赦し、そして、大地の実りを食べることができる、恵みを受けるようになると言われます。
 そして、三つ目は、私たちが、私たちの罪のゆえに、どのような最悪な状況になっていったとしてとも、神様は、それに対して裁きをくだすけれど、その際にもまた、まったく見捨てられるということはない、ということです。神様の憐みは、それでも注がれるのだということです。その最も象徴的な出来事こそが、イエス様の十字架の業でした。神様の独り子イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪はすべて赦されたのだと考えるとき、そのように救いの道を開いてくださった父なる神様に私たちは感謝しないではおれません。
 私たちは、救われる条件として、良い行いをしなければならないから、そうするのでなく、そういった意味では、救いの条件としては良い行いはいらないということです。救われたその恵みの応答として、神様に喜ばれる良い行いをするのです。神様の一方的な無条件の救いがまず先にあり、それへの応答として神様に喜ばれる良い行いがある、という順番です。しかしながら、改めて、私たちは、いただいた信仰とそれに基づく日ごろの行い、それは決して不問になっているのではなく問われているのだと、そして、救われたが故にこそ、そのことが問われているのだと襟を正したいと思います。
 エフェソの信徒への手紙2章8節からのところを読んでおわります。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」。


平良師

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