ルツ記 3章
ナオミは、ベツレヘムへ帰る道すがら、二人の嫁に言いました。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれました。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように」(ルツ記1:8)。
また、ナオミが嫁ルツからボアズの親切について聞いたとき、言った言葉が「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」(ルツ記2:20)でした。この場合の慈しみは、「へセド」という言葉です。そして、3章の10節のボアズの言葉「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」の真心もまた、へセドという言葉が使われています。
へセドは、「誠実」とか「善」という意味です。神様が二人の嫁によいことをしてくださいますように。生きている者にも、しかし死んだような私にもまた、よいことを惜しみなくしてくださる神様が、その人を祝福してくださるように。そして、ボアズがルツに言った言葉、今あなたが義母ナオミに示したよいことは、それまでのよいことにまさっているという意味になります。
もう一度述べますと、ルツが示した真心というのは、誰に対してかというと、それはナオミに対してです。今までの真心とは、ルツが夫の死後姑を見棄てなかったこと、そして、今あなたが示した真心とは、このような大胆さをもってまでして、姑の贖い手を求めていることを指しています。
9節でルツはボアズに言っています。「・・このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」。ルツは、異邦人でしたが、夫が死んだあとも、ナオミを見棄てることをせず、ベツレヘムまでついてきました。ルツは、ナオミのすべてを受け入れ、ナオミが欲することが叶うように尽くすのです。その姿にボアズも敬意を払わずにはおれません。そして、11節「わたしの娘よ。心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている」と言いました。そして、彼はルツにあらぬ噂が立たぬように、暗いうちに家に帰すのでした。6杯の大麦をナオミへのみやげとして。
ナオミは、ルツがいかにしたら幸せになれるのか、考えておりました。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落着き先を探してきました」とナオミはルツに言いました。ナオミは、この一連の落穂ひろいを通して、ボアズの庇護のもとに落ち着くのが一番であると考えたのでした。ナオミには、ボアズが、ルツのことを気にかけてくれていることがわかりました。
今は、落穂を拾って、生活していけるけれども、この時期が終われば、再び、つらい生活が待っています。何とかそれは避けなければという思いもあったことでしょう。それに、ボアズは、ナオミの親戚筋にあたる人物で、ナオミの家を再興する権利をもっている1人でした。そこでナオミは、ルツに指示して、ルツがボアズの妻として迎えられるための作戦を練ったのでした。それは、今晩、大麦をふるい分ける作業をする麦打ち場にでかけていって、そこで作業し終え、食事を済ませたボアズが寝たあとにそっと、ボアズのところに行って、足もとに身を横たえるようにとのことでした。ルツは、「言われるとおりにいたします」と答えました。
そして、夜中、ボアズが寒気がして、手探りで覆いを捜したときに、人の存在に気づき、「お前は誰が」と問うボアズに、ルツは答えるのでした。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞ、あなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」。
こうした一連の行為は、とても破廉恥でなんということだとあきれるようなことですが、しかし、これは、当時はボアズに限らずその人物に、庇護、保護を求める行為でした。まあ、足元にひれ伏してお願いしますという、そういう意志を示しておりました。そして、ボアズ様、あなたは私の義理の母ナオミの家を絶やさない責任のあるお方ですから、と言ったのでした。
それに対してボアズは「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるようなことをしなかった」と言いました。この言葉の意味ですが、それは、ルツよ、あなたは、普通の女性であれば、若い男性だというので、それが富んでいようといまいと、その男性を追いかけるというようなことをするが、あなたはそのようなことはしなった、私であるということでこのような行為に及んだものと考えます、そういう意味だろうと思います。
「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」。それは、先ほど申しましたように、今あなたが示した真心とは、義理の母ナオミに対して示した真心で、ナオミの家が再興できるように、こうした行為に及んだということでした。そして、それは、今までの真心よりまさっているとは、今までの真心は、義理の母であったナオミを見棄ててモアブの故郷の地に戻るということをしなかった、ナオミの故郷ベツレヘムまでついてきたのです。それは、逆に、故郷の父母を棄てることであり、ナオミの信じる神様を選び取った行為でもありました。そのことを指して、今までの真心といったのでした。
しかし、今度、ボアズに行った行為は、それ以上のものであり、ナオミの家の再興を考えての真心だったとボアズは受け止めておりました。「きっとあなたが言うとおりにします」とボアズは言いました。ルツが望むようにしましょう、ということでした。それからボアズは述べました。「この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている」。
立派なとは、勇士(勇敢な人)、有能な人、土地所有者と言った意味まであるようです。誰も、ルツを異邦人だからといって蔑んだりはしていない、まして、このような行為に及んだからといって、ルツを軽蔑する者などいるはずがない、あなたは、ひたすらに義理の母ナオミの家の再興を願ってのことであると、彼女ルツがこのことで自分を責めたり、卑下したりしないように、配慮したのでした。
ただし、このときわかったことは、「確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる」ということでした。しかし、ボアズは、「明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします」、とボアズは言いました。それから、ボアズは、「さあ、朝まで休みなさい」と言って、ルツは、夜が明けるまでボアズの足もとで休みました。また、ルツは、まだ人の見分けのつかない暗いうちに起きて、そこを去りました。それは、ボアズが、麦打ち場にルツが来たことを人に知られない方がよいとの配慮からでした。ボアズという人物は、なかなか誠実な人のようです。
そして、ルツに、ナオミへのみやげだというので、大麦を六杯持たせたのでした。大麦六杯という量もかなりのものでした。「この六杯の大麦は、あなたの姑のところへ手ぶらで帰すわけにはいかないとおっしゃって、あの方がくださったのです」とルツはナオミに言いましたが、それは、「わたしが責任を果たします」といった、その意志を強く表しておりました。
この3章には、神様のルツやナオミに示された慈しみとルツのナオミに対する真心とボアズのルツへの敬意が描かれています。それらはいずれもへセドという言葉で表されています。誠実、善という意味であることは、前にも説明しました。また、このへセドという意味は、「契約関係を結んだ者同士の愛」というようにも説明できるようです。ルツはナオミの民を民とし、神を神としますとまで言って、ナオミについてきました。また、ナオミは、亡き夫エリメレクの土地や家を再興する務めを負っておりました。そして、ボアズは、ナオミの土地と家を再興する責任、義務を負う立場にありました。それぞれに契約関係を結んだ、あるいは、その立場にある者同士の愛がそこには溢れていました。彼らをまた慈しみの神様が守っておりました。
ナオミは帰ってきたルツに言いました。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう」。ナオミは、先を見通すことのできる人でした。どこで、どのように動けばよいのか、大胆に動くべきか、じっとしておくべきときなのか、そうしたことをナオミはわかっておりました。また、人の心を読むこともできる賢明な女性でありました。
そのように、彼女は、多くの賜物を神様からいただいておりましたが、モアブでは、夫が死に、それから二人の息子までもが死んでしまいました。ナオミは、神様が自分を不幸にし、ひどい目に遭わせられたのだと考えました。それでも、ナオミは、真の神様から離れることをしませんでした。神様とずっと格闘をしておりました。そのことは嫁のルツにもわかっていました。ルツは、この姑にどこまでも付き従っていくつもりだったのでしょう。そして、ナオミも、この嫁を何とかして幸せにしてあげたいと思ったのでした。
ルツ記は、聖書のなかでは、とても美しい物語です。夫、妻、姑、嫁、それぞれの当時の理想形らしきものが描かれています。あくまでも当時の理想形です。当時の社会構造やものの価値観などが反映されています。今の時代に生きる私たちは、納得できないことも多く描かれていると思います。どうして、女性がこのような扱いを強いられねばならないのか、女性の人権や尊厳はどうなっているのか、などなどです。
しかし、聖書は、信仰の書ですから、そのお話自体がまず事実であったのかなかったのか、判断つかないものも多いし、今の時代の人権感覚からすると、とても受け入れられるものではないと思いたくなるものも多いのですが、一方で、そこにはいくつかの真理が隠されていたり、含まれていると信仰に生きる私たちは信じております。
実際、このルツ記は、「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ」という書き出しで始まっています。それで、聖書のなかでは、士師記の次に配列してあるのです。しかし、実際は、このルツ記もバビロン捕囚の時期に書かれたものではないか、あるいは、そのバビロン捕囚が終わって書かれたものではないかと、言われています。旧約聖書では、あのバビロン捕囚の間、そして、その前後に書かれたものがかなり多いと言われています。
それは、バビロン捕囚によって、国が消滅し、イスラエル民族の意識を保ち続けるためには、民族の歴史をまとめたり、アイデンティティーを強化するために、創世記をはじめ多くのものが綴られることになったのでした。そこに一貫していたことは、イスラエル民族と神様との関係でした。しかし、ここに登場しているルツは、異邦人ですから、あまりそのことで偏狭になっているイスラエル(ユダヤ人たち)の在り方を、内側から崩そうとしているのかもしれません。これもまた神様のみ旨だと思えるのです。神様の愛や赦しは、すべての国々の者たちに及ぶということです。
さて、この3章もまた、ナオミの、ルツの、そして、ボアズの、それぞれ互いへの思いやりにあふれておりました。ナオミは、ルツに何とかして、幸せになって欲しいと願い、ルツは、ナオミの失われた家の再興を成し遂げてあげたいと思い、そして、ボアズは、そのルツのけなげな振る舞いに敬意を抱き、そして、その3人を神様の慈しみが覆っております。共通しているのはへセド、誠実、善、ということでした。
これらの人々は、ナオミの夫エリメレクの家の復興を願って、それぞれの立場で各々動いていきました。失われたものを取り戻す、買い戻す、贖う、そういう運動だったとも言えるでしょう。ナオミの夫エリメレクの土地、また、ルツ、そして、ナオミもまたと言ってよいかと思いますが、具体的にはボアズによって贖われました。そして、幸せを得ることになりました。しかし、神様が、こういう形で、ナオミを幸せにされたのでした。
私たちキリスト者もまた、一人一人、キリストによって贖われた、買い戻された者たちです。それは、罪による死の滅びから、買い戻されたのです。そして、今、新しい命に生きることが許されています。
平良憲誠 主任牧師
神の慈しみとルツの真心とボアズの敬意
ナオミは、ベツレヘムへ帰る道すがら、二人の嫁に言いました。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれました。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように」(ルツ記1:8)。
また、ナオミが嫁ルツからボアズの親切について聞いたとき、言った言葉が「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」(ルツ記2:20)でした。この場合の慈しみは、「へセド」という言葉です。そして、3章の10節のボアズの言葉「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」の真心もまた、へセドという言葉が使われています。
へセドは、「誠実」とか「善」という意味です。神様が二人の嫁によいことをしてくださいますように。生きている者にも、しかし死んだような私にもまた、よいことを惜しみなくしてくださる神様が、その人を祝福してくださるように。そして、ボアズがルツに言った言葉、今あなたが義母ナオミに示したよいことは、それまでのよいことにまさっているという意味になります。
もう一度述べますと、ルツが示した真心というのは、誰に対してかというと、それはナオミに対してです。今までの真心とは、ルツが夫の死後姑を見棄てなかったこと、そして、今あなたが示した真心とは、このような大胆さをもってまでして、姑の贖い手を求めていることを指しています。
9節でルツはボアズに言っています。「・・このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」。ルツは、異邦人でしたが、夫が死んだあとも、ナオミを見棄てることをせず、ベツレヘムまでついてきました。ルツは、ナオミのすべてを受け入れ、ナオミが欲することが叶うように尽くすのです。その姿にボアズも敬意を払わずにはおれません。そして、11節「わたしの娘よ。心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている」と言いました。そして、彼はルツにあらぬ噂が立たぬように、暗いうちに家に帰すのでした。6杯の大麦をナオミへのみやげとして。
ナオミは、ルツがいかにしたら幸せになれるのか、考えておりました。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落着き先を探してきました」とナオミはルツに言いました。ナオミは、この一連の落穂ひろいを通して、ボアズの庇護のもとに落ち着くのが一番であると考えたのでした。ナオミには、ボアズが、ルツのことを気にかけてくれていることがわかりました。
今は、落穂を拾って、生活していけるけれども、この時期が終われば、再び、つらい生活が待っています。何とかそれは避けなければという思いもあったことでしょう。それに、ボアズは、ナオミの親戚筋にあたる人物で、ナオミの家を再興する権利をもっている1人でした。そこでナオミは、ルツに指示して、ルツがボアズの妻として迎えられるための作戦を練ったのでした。それは、今晩、大麦をふるい分ける作業をする麦打ち場にでかけていって、そこで作業し終え、食事を済ませたボアズが寝たあとにそっと、ボアズのところに行って、足もとに身を横たえるようにとのことでした。ルツは、「言われるとおりにいたします」と答えました。
そして、夜中、ボアズが寒気がして、手探りで覆いを捜したときに、人の存在に気づき、「お前は誰が」と問うボアズに、ルツは答えるのでした。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞ、あなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」。
こうした一連の行為は、とても破廉恥でなんということだとあきれるようなことですが、しかし、これは、当時はボアズに限らずその人物に、庇護、保護を求める行為でした。まあ、足元にひれ伏してお願いしますという、そういう意志を示しておりました。そして、ボアズ様、あなたは私の義理の母ナオミの家を絶やさない責任のあるお方ですから、と言ったのでした。
それに対してボアズは「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるようなことをしなかった」と言いました。この言葉の意味ですが、それは、ルツよ、あなたは、普通の女性であれば、若い男性だというので、それが富んでいようといまいと、その男性を追いかけるというようなことをするが、あなたはそのようなことはしなった、私であるということでこのような行為に及んだものと考えます、そういう意味だろうと思います。
「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」。それは、先ほど申しましたように、今あなたが示した真心とは、義理の母ナオミに対して示した真心で、ナオミの家が再興できるように、こうした行為に及んだということでした。そして、それは、今までの真心よりまさっているとは、今までの真心は、義理の母であったナオミを見棄ててモアブの故郷の地に戻るということをしなかった、ナオミの故郷ベツレヘムまでついてきたのです。それは、逆に、故郷の父母を棄てることであり、ナオミの信じる神様を選び取った行為でもありました。そのことを指して、今までの真心といったのでした。
しかし、今度、ボアズに行った行為は、それ以上のものであり、ナオミの家の再興を考えての真心だったとボアズは受け止めておりました。「きっとあなたが言うとおりにします」とボアズは言いました。ルツが望むようにしましょう、ということでした。それからボアズは述べました。「この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている」。
立派なとは、勇士(勇敢な人)、有能な人、土地所有者と言った意味まであるようです。誰も、ルツを異邦人だからといって蔑んだりはしていない、まして、このような行為に及んだからといって、ルツを軽蔑する者などいるはずがない、あなたは、ひたすらに義理の母ナオミの家の再興を願ってのことであると、彼女ルツがこのことで自分を責めたり、卑下したりしないように、配慮したのでした。
ただし、このときわかったことは、「確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる」ということでした。しかし、ボアズは、「明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします」、とボアズは言いました。それから、ボアズは、「さあ、朝まで休みなさい」と言って、ルツは、夜が明けるまでボアズの足もとで休みました。また、ルツは、まだ人の見分けのつかない暗いうちに起きて、そこを去りました。それは、ボアズが、麦打ち場にルツが来たことを人に知られない方がよいとの配慮からでした。ボアズという人物は、なかなか誠実な人のようです。
そして、ルツに、ナオミへのみやげだというので、大麦を六杯持たせたのでした。大麦六杯という量もかなりのものでした。「この六杯の大麦は、あなたの姑のところへ手ぶらで帰すわけにはいかないとおっしゃって、あの方がくださったのです」とルツはナオミに言いましたが、それは、「わたしが責任を果たします」といった、その意志を強く表しておりました。
この3章には、神様のルツやナオミに示された慈しみとルツのナオミに対する真心とボアズのルツへの敬意が描かれています。それらはいずれもへセドという言葉で表されています。誠実、善という意味であることは、前にも説明しました。また、このへセドという意味は、「契約関係を結んだ者同士の愛」というようにも説明できるようです。ルツはナオミの民を民とし、神を神としますとまで言って、ナオミについてきました。また、ナオミは、亡き夫エリメレクの土地や家を再興する務めを負っておりました。そして、ボアズは、ナオミの土地と家を再興する責任、義務を負う立場にありました。それぞれに契約関係を結んだ、あるいは、その立場にある者同士の愛がそこには溢れていました。彼らをまた慈しみの神様が守っておりました。
ナオミは帰ってきたルツに言いました。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう」。ナオミは、先を見通すことのできる人でした。どこで、どのように動けばよいのか、大胆に動くべきか、じっとしておくべきときなのか、そうしたことをナオミはわかっておりました。また、人の心を読むこともできる賢明な女性でありました。
そのように、彼女は、多くの賜物を神様からいただいておりましたが、モアブでは、夫が死に、それから二人の息子までもが死んでしまいました。ナオミは、神様が自分を不幸にし、ひどい目に遭わせられたのだと考えました。それでも、ナオミは、真の神様から離れることをしませんでした。神様とずっと格闘をしておりました。そのことは嫁のルツにもわかっていました。ルツは、この姑にどこまでも付き従っていくつもりだったのでしょう。そして、ナオミも、この嫁を何とかして幸せにしてあげたいと思ったのでした。
ルツ記は、聖書のなかでは、とても美しい物語です。夫、妻、姑、嫁、それぞれの当時の理想形らしきものが描かれています。あくまでも当時の理想形です。当時の社会構造やものの価値観などが反映されています。今の時代に生きる私たちは、納得できないことも多く描かれていると思います。どうして、女性がこのような扱いを強いられねばならないのか、女性の人権や尊厳はどうなっているのか、などなどです。
しかし、聖書は、信仰の書ですから、そのお話自体がまず事実であったのかなかったのか、判断つかないものも多いし、今の時代の人権感覚からすると、とても受け入れられるものではないと思いたくなるものも多いのですが、一方で、そこにはいくつかの真理が隠されていたり、含まれていると信仰に生きる私たちは信じております。
実際、このルツ記は、「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ」という書き出しで始まっています。それで、聖書のなかでは、士師記の次に配列してあるのです。しかし、実際は、このルツ記もバビロン捕囚の時期に書かれたものではないか、あるいは、そのバビロン捕囚が終わって書かれたものではないかと、言われています。旧約聖書では、あのバビロン捕囚の間、そして、その前後に書かれたものがかなり多いと言われています。
それは、バビロン捕囚によって、国が消滅し、イスラエル民族の意識を保ち続けるためには、民族の歴史をまとめたり、アイデンティティーを強化するために、創世記をはじめ多くのものが綴られることになったのでした。そこに一貫していたことは、イスラエル民族と神様との関係でした。しかし、ここに登場しているルツは、異邦人ですから、あまりそのことで偏狭になっているイスラエル(ユダヤ人たち)の在り方を、内側から崩そうとしているのかもしれません。これもまた神様のみ旨だと思えるのです。神様の愛や赦しは、すべての国々の者たちに及ぶということです。
さて、この3章もまた、ナオミの、ルツの、そして、ボアズの、それぞれ互いへの思いやりにあふれておりました。ナオミは、ルツに何とかして、幸せになって欲しいと願い、ルツは、ナオミの失われた家の再興を成し遂げてあげたいと思い、そして、ボアズは、そのルツのけなげな振る舞いに敬意を抱き、そして、その3人を神様の慈しみが覆っております。共通しているのはへセド、誠実、善、ということでした。
これらの人々は、ナオミの夫エリメレクの家の復興を願って、それぞれの立場で各々動いていきました。失われたものを取り戻す、買い戻す、贖う、そういう運動だったとも言えるでしょう。ナオミの夫エリメレクの土地、また、ルツ、そして、ナオミもまたと言ってよいかと思いますが、具体的にはボアズによって贖われました。そして、幸せを得ることになりました。しかし、神様が、こういう形で、ナオミを幸せにされたのでした。
私たちキリスト者もまた、一人一人、キリストによって贖われた、買い戻された者たちです。それは、罪による死の滅びから、買い戻されたのです。そして、今、新しい命に生きることが許されています。
平良憲誠 主任牧師