平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年3月31日 いつまでも主と共にいる

2013-04-11 17:11:04 | 2013年
テサロニケ信徒への手紙一第14章13~18節
いつまでも主と共にいる

 キリスト教の教理のなかに、終末というものがあります。これは、どこの教会でも、その教会の信仰告白の最後にだいたい取り上げているもので、私たちの平尾教会にもそれに相当する項目はあります。私たちの平尾教会の信仰告白は、七項目目に「未来」という項目名で出てまいります。
 「未来-キリストは、御約束に従い、再び来られ、すべての人を義によって裁き、善にも、悪にも、報いを与え、信仰によって義とされたものを御自分のところに迎えられます。わたしたちは、これらのことを信じて、この信仰に立って、個人として、教会として、神に仕えます。」、というものです。
 パウロがイメージしているイエス様の再臨は次のようなものでした。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」
 こうしたイメージは、どこから来ているのでしょうか。それは、イエス様ご自身が、福音書の中で語っている言葉に由来していると思われます。たとえば、マタイによる福音書の24章の3節から31節の内容は、終末についてのものとなっています。弟子たちは、イエス様に「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」、と聞いています。
 それに対してイエス様は、偽メシアが現れること、戦争があること、飢饉や地震が起こること。また、キリスト者たちが迫害を受けること。不法がはびこり、人々の愛が冷えること。そして、御国のこの福音があらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられて、それから、終わりがくる、という内容でした。ちなみに、この福音が全世界に宣べ伝えられて、それから終わりがくる、というのですから、日本だけのことを考えると、まだまだ、十分に世の終わりは来ないということになります。
 また、預言者ダニエルが言っている憎むべき破壊者(おそらく、ここでは当時のネロ皇帝を指しているのではないか、と言われています)が来るとき、大きな迫害が起こるだろう、偽メシアや偽預言者たちが現れるだろう、しかし、そちらの方向に行ってはならない、とイエス様は言われました。
 今でも、独裁政治を行い、民を抑圧する暴君はあらわれますし、自称メシアは至ところにおりますので、そのような者のところへ行ってはならないのです。このような、いわゆる、前兆が起こると聖書に書かれているので、それは、今の時代ではないかと、つい考える人間がでてきて、まことしやかに、今の時代であるとか、これからか何年の後にとか、言う者がいます。しかし、これらの出来事は、いつの時代でも起こりうる話です。
 確かに、今の時代に、ぴったりとあてはまると考える方々も少なからずおられるはずです。それで、終末が間近かと考える人々がいます。しかし、これらはあくまでも、前兆でして、そして、これらの内容は、先ほども述べましたように、いつの時代にも起こっていることなので、終末を特定するなど、できるはずもないのです。
 それに、イエス様もそれがいつかは、わからないと言っております。ただ、いつ再臨のイエス様が来られてもいいように、備えはしておくように、いつ来られてもいいように、それなりの生き方、イエス様に忠実な生き方をしていなさい、というのが、聖書の述べているところだろうと思います。
 マタイによる福音書の25章の10人のおとめのたとえ話では、10人のおとめが、それぞれ灯を持って、花婿を迎えでるのですが、5人は、おろかで、5人は賢かった。花婿の到着が遅れて、花嫁たちは眠り込んでしまいました。真夜中に、花婿が来たと知らせがありました。5人は、油の用意を壺にしていたので、それを灯して出迎えることができたけれども、5人は、そうでなかったので、出迎えることができなかった、という話です。
 そして、最後にこのように締めくくられています。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」終末がいつくるかは、知らないのだ、とイエス様は言われます。前兆はありますが、それで特定はできないのです。だから、いつ、終末が来てもいいように、備えをしておくということです。
 さて、マタイによる福音書の24章の29節からのところに、このテサロニケの信徒への手紙の内容と重なるイエス様の言葉がでてまいります。「その苦難の日々の後、たちまち、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」こうした、イエス様の言葉が伝えられていて、それをまた、パウロも自分の終末理解の一つとしていたのでしょうか。
 そもそも、パウロがなぜ、テサロニケの手紙でこのような話をしたかということですが、それは、再臨のイエス様を待望している当時の教会の事情がありました。当時は、パウロもまたすぐにでも、天に挙げられたイエス様がこの地上に、再び来られるのではないかといった考えをもっておりました。パウロが宣教をしはじめた初めの頃は、ですから、そうした考えを伝えていたものと思われます。それで、なかには、仕事も手づかずになってしまって、放縦な生活をする者もでてきました。どうせ、もうじき、この世は終わるのだからと、投げ槍的になっていた者もいたでしょう。
 テサロニケの信徒への手紙一の4章の11節にも「そして、わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」とありまして、仕事も手につかずに、おまけに他人に迷惑かけている者もいたことを想像させます。
 それが、いつまでたっても再臨のイエス様は来られない、それで、イエス様を信じて死は訪れないと思っていたのに、キリスト者たちが、そのうち、ひとりまた一人と死んでいく、彼らはどうなってしまうのだろうか、という不安がキリスト者たちの間に、出てきたのでした。それで、パウロは、イエス様がかつて言われた終末について述べているこの内容をもとに、自分のイメージを語って、キリストに結ばれて死んだ者は、生き残っている者たちよりも先に復活するから、大丈夫と述べたのでした。もちろん、自分たちも、天に引き上げられてイエス様にまみえるというものでした。
 17節の後半には、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。終末は、神の国の完成であり、救いの出来事の完成でもあるのでしょう。「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」ですから、それを私たちは待望します。マラナタ、主よ、来てください、と私たちは願うのです。
 今日、私たちは、イースター礼拝を守っています。イースター、復活祭です。終末というのは、このイースターの出来事の延長線上にあるお話です。イエス・キリストの復活を信じないでは、とても、その先にある再臨のイエス様まで、たどりつくことはできません。
 復活のイエス様は、使徒言行録の1章3節によれば「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。しかし、いつまでもおられたかというと、そうではありませんでした。40日して、天に挙げられました。弟子たちは、40日しか、復活のイエス様と一緒にいることはできませんでした。
 このテサロニケの信徒への手紙の内容で考えますと、いつまでも主と共にいることができるのは、再臨のイエス様まで待たねばならないことになります。しかし、私たちは、今もなお、イエス様は私たちと共にいてくださることを信じています。先週のガラテヤの信徒への手紙のなかでは、パウロも、十字架のイエス様を誇ると言っていたように、彼のうちには、復活のイエス様がおられました。ただし、その復活のイエス様は十字架におかかりになっているイエス様なのでしょう。そして、おそらく、そのお方は、いつまでも共におられるイエス様であったはずです。
 イエス様の復活を考えますとき、私たちは、復活のイエス様がいつも共におられることを体験することに、こしたことはありません。それはどうやってできるのか、ということです。一番の近道は、イエス様の教えられたこと、語られたことに耳をかたむけ、そのとおりにやってみることではないでしょうか。たとえば、主に仕える、奉仕をするということです、他者に仕えるということです。ですから、教会の奉仕やボランティアなどのなかに、共におられるイエス様を見いだすことのできる経験をいただくことができるかもしれません。
 ところで、マタイによる福音書の28章の最後で、復活されたイエス様は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われています。わたしたちのうちに、イエス様は、世の終わりに至るまでおられます。それから、世の終わり、終末がきて、さらにまた、ずっと共におられることになる、ですから、死ぬまえも死んでからも、共におられるのですから、もう何も心配はいらないということです。
 繰り返しますが、復活のイエス様を知ることができるのは、今、ここで働いておられる主に出会うことが一番です。先ほども申しましたように、主の御言葉にかけてみる生き方をするということが何よりも大切でしょう。
 そういった意味では、私たちは、2013年度の歩みは、まさに、主に導かれ、主が共におられるゆえに、事を成すようにと言われて、始まった宣教のさらなる第一歩だと信じています。復活のイエス様が、生きて働いておられることをきっと、これまで以上に、私たちは見たり、感じさせたりしていただけるかもしれません。聖霊のお働きとお呼びした方が正確な表現かもしれません。
 普通でしたら、100年かけても得られないであろう宣教の場を神様は私たちに与えてくださいました。これが復活の主が、あるいは、聖霊が働いておられるしるしの一つです。これはこの世的な表現で言えば奇跡なのです。ありえない事柄でした。
 それから、神様は、昨年の10月から、わたしたちの平尾バプテスト教会に多くの助け手を送ってくれています。昨年の10月には、リディア・ハンキンス協力牧師が与えられ、2015年から迎えようとしていたもう一人の専任の牧師を私たちは今年度から迎えております。先ほど、教会を代表して牧師職の委託のための按手祈祷を高木兄がしてくださいましたが、森崇牧師です。
 それから、今日からこうして、千葉からSB兄弟ご一家が、お仕事でこちらに来られるようになり、彼は、日本語がかなり上手で、アメリカでユースパスタをされていた経験もあるやに聞いていますから、いくつかのご奉仕をお手伝いしてくださることでしょう。
 そして、この一年振り返りましても、2012年度も私たちは7人の転入会者と7人のバプテスマの方々を加えていただきました。神様は、これからも多くの助け手を送ってくださるであろうと、私は信じています。なぜなら、この福岡の地に私たちは、イエス・キリストの福音の種をこれからも蒔き続けたいと願い、そのために多くの人々と関係をつくり、その中から一人でも救いに導かれることを願うからです。同時に、地域への奉仕の業もまた、展開していきたいと願っています。私たちの言う地域は広がりました。今や、平尾バプテスト教会には、大名と平尾を結ぶその線が、新たなる宣教地域として広がっているのです。
 イエス・キリストが復活なさったからこそ、弟子たちは、喜びにあふれ、イエス様の福音を宣べ伝えていきました。復活のイエス様が共におられたがゆえに、迫害をものともせずに、キリスト者たちは、イエス様にある福音の素晴らしさを語り続けていくことができました。
 そして、終末もまた喜びとして、私たちが待ち続けるのは、私たちがこの世にあったとき、そうやって共にいてくださったイエス様が、今度は、永遠に共にいてくださるようになるからです。キリスト者たちは、この主のために今を生きています。キリストの十字架によって示された神様の愛に迫られて、主のために生きています。そして、私たちキリスト者たちは、永遠の命を約束してくださってもらっているのです。


平良師

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