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迷歩録   ざいあく

2016-09-14 10:30:07 | 日記
  彼岸花  恥ずかしそうに  紅くなり  実り色づく  稲穂見つめる

                        ひのひら  ろくべえ


    人間は幼少のころ、脳が活動はじめたときから、自分に対して罪悪感を持つと考える考え方もある。

   どのように生きていようが、少なからず、これでいいのか、これでよかったのか、他者に迷惑かけた

   のではないか、人間としてどうなのか、など様々考える中で、落ち着くところは自分が悪いという罪

   悪を持つことで、物事にけじめをつける。特に自分の行動に自信がない時、欲望に押し流された時な

   どは罪悪感が強くなる傾向にあると言われている。しかしこの罪悪はどこに向かっての罪悪なのか、

   そのことが大切なキーワードとなる。つまり自分なのか、社会なのか、特定な人なのか、そのこと

   を明確にできれば、それほど罪悪感を感じることもないのではないだろうか。

    生き方についての罪悪は多くの人が持つと考えられているが、生き方というものはその社会の価

   値観や、社会風習に基づいていることが多い。例えば一夫一婦制の国社会価値観のある所では一夫

   多妻など認められるわけもなく、そのような状況になればその人は罪悪感を抱いて生きて行くこと

   になる。逆に言えばその覚悟が必要と言う事である。

    一方多妻制の文化から見れば、多妻となれないことに罪悪を感じる。自分の至らなさに罪悪を感じ

   る。しかしこの罪悪は一夫一婦の社会では理解されることもない。つまりいかなる状況であれ、自分

   がどのように生きるのかという事が、自分の行動をつくりだしているのである。

    このように、人間の深層に隠れている価値観というものは曖昧であることが、この罪悪という価値

   観からも理解できる。という事は、対人援助の場の倫理観というものも、その職場、社会、に影響を

   受けるが、最終的には個人がどのように感じているのか、どうしようとしているのか、その価値基準

   は何なのかと言ったことを、分析して、組織職場単位での勉強会、研修などを行わなければ効果を発

   揮することはできないのであろう。

    罪悪感と倫理は人間の生きざまに関する課題である。対人援助の場では時間を惜しまない議論が

   必要な課題ではないだろうか。